関外追放
一
敦煌は心の安まるところだった。太守の尹慈は我々のことを快く出迎え、厚いもてなしで長旅の疲れを癒やした。欣怡は李広利だけでなく、兵卒のひとりひとりに気を遣い、かいがいしく世話をした。怪我をしている者や、体調を崩している者もいたが、このときの我が軍は明るく幸福な光に包まれていたと言える。
「唯一の気がかりは、皇帝陛下がどのように我々を迎えてくださるか……そのことだけだ」
今回の遠征は失敗と言って差し支えなかったが、李広利には言い分がある。次の遠征があることを前提に李哆を偵察のために残しているうえに、自分自身が得た経験も貴重なものである。次の機会には必ずや成功させる自信が彼にはあった。
また妹の李夫人が死んだことは、残念なことには違いないが、彼には有利なことでもある。そのような不幸が起きたあとでは、遺族である李広利を厳しく弾劾しようとは皇帝も考えまい。
——妹は、死ぬ間際に私と延年の栄達を陛下に頼んだというではないか。陛下の妹に対する愛が深かったとしたら、きっと邪険には扱わないはずだ。
そう考えた李広利は、あれこれと気を回すことをやめて、極力緩やかな日々を送ろうとしていた。砂漠の過酷な環境に晒された自らの体を癒やし、春のまだ穏やかな日の光を浴びて、健康的に日々を過ごそうとしていた。
「将軍さま」
宿舎の庭を眺めながらぼんやりと時を過ごしていた李広利の背後から、呼びかける声がした。振り向いた李広利は欣怡の姿を見つけ、思わず驚きの声を上げた。彼女の髪の毛が肩までの長さしか無くなっていたのである。
「欣怡。どうしたのだ、その髪は」
問われた欣怡は恥ずかしそうな笑みを浮かべ、もじもじとしながら説明した。
「その……日差しですっかり髪の毛が傷んでしまって……縮れてしまったので、思いきって切ってしまったのです。お気に召しませぬか?」
そのように問われると、否定的な返答はしづらいものである。しかし、返答を迷う必要も無かった。もともと彼女は明るく快活的な性格であったので、実のところ李広利は、短い髪が欣怡にはよく似合うと思ったという。
だが彼は、人生でこのような短い髪型の女性に出会ったことがなかった。大人の女性は髪を伸ばし、それを美しく編んで纏め上げるものである。欣怡の行為は、常識から大きく外れていた。
「異国風だな。かといって西域の女性にもそれほど髪の毛を短くしている者はいなかったが……正直驚いたが、美しいぞ。実に素敵だ」
欣怡は顔を赤らめた。
「あら、そんな。恥ずかしい……でもよかった。怒られたらどうしようと思っていたのです」
「お父上は何も仰っていなかったか。いや、きっと太守は君のことを目に入れても痛くないほど愛しているだろうから、文句を言わないだろうな」
欣怡は声を上げて笑った。その様子を見ると、どうやらひとしきり太守から小言を言われたようである。李広利も笑った。
「お父様からは叱られましたが、将軍さまが褒めてくださったので安心しました。お父様ったら、ひどいのですよ。そんなおかしな髪型では誰もが愛想を尽かす、なんてことを言うんです」
「いずれ髪はまた伸びるというのに、お父上も厳しいことを言うものだな。だが、少なくとも私はその髪型を認めている。目新しくて、前よりもいい印象だ」
欣怡は安心したように微笑み、李広利の隣に座った。そして言う。
「将軍さま、西域での出来事を詳しくお教えください」
李広利はやや戸惑ったようであった。
「君がそれを聞いても楽しくはなかろう。なぜ聞きたいと思うのだ」
そのとき欣怡は、急に表情を深刻なものに変えた。彼女はひどく彼にとって厳しい現実を伝えなければならなかったのだ。
「……今朝ほど、お父様のもとに皇帝陛下からの使者が参りました。それによると……将軍さまは敦煌を立ち去らなければなりません。陛下はひどくお怒りのようで、将軍さまのことを玉門関から西へ追い出せと……だから私は西域で何があったのかを知りたいのです」
二
「敦煌を立ち去れだと? ……陛下は……無慈悲だな」
それきり李広利は考え込むように黙ってしまった。言葉が出てこず、頭を抱える。彼にとってこれは想定外の仕打ちだった。敗戦の罪を問われるとすれば、長安へ赴いたときに皇帝から直接罰を言い渡されるものと思っていたが、自分には帰還さえも許されないという。玉門関の外へ出て行けということは、事実上彼は追放されたも同然の処置を受けたということであった。
「なんとか釈明をすることはできないのでしょうか。戦いに敗れたことが罪になるというのなら、軍人を志す者はこの世にいなくなりましょう。死力を尽くしたことを陛下にご説明できれば……」
欣怡は励ますような口調で李広利を慰めた。しかし、それに対して李広利は、
「無駄さ。無駄だよ」
と言って取り合わない。すでに彼の表情には諦めの色が浮かんでいた。
「君が傷んだ髪を切ったことでお父上に叱られたのと同じようなことだ。私の行為は状況を考えれば仕方の無いことであったが、結果としては負けたことしか残らない。死力を尽くしたが負けた……そのような結果より、怠けていたが運良く勝った、その方が陛下はお喜びになるのだ」
「そんな……」
「もとより私の軍の兵たちは、私個人が所有しているものではない。陛下からお預かりしているものだと考えれば、その多くを失った責めを負わなければならない。その覚悟はしていたつもりだが……」
「ですが、夫人さまの件もあります。情状酌量の余地はあるように思うのですが……」
「その件に関しては、私の認識が甘かったと言わざるを得ない。陛下は妹が死んで、もはや愛などの感情は失せたのだろう。もとより私や延年を重用したとしても、妹が生き返るわけではない。国の重大な決断事項を一身に任されているお方だ。そのような個人的感情で人を優遇したりするわけにはいかないだろう」
驚くことに、李広利は皇帝の処置に理解を示した。物わかりのよい態度を示したと言えばそれまでだが、まったく不満がなかったと言えば嘘になるだろう。彼は欣怡に対して次のような言葉を付け足した。
「これでも温情的措置がなされているのかもしれぬ。本来であれば有無を言わさず首をはねられていてもおかしくなかった。妹がむざむざ死んでいくのを救えなかった陛下に対しては、正直なところ……恨んでいるが、それとこれとは話が別だ」
では彼は関外の地で野垂れ死ぬつもりなのか……。それを聞きたく思った欣怡は、問い詰めるような口調になることを抑えることができなかった。
「おわかりのことだと思いますが、玉門関から西は化外の民が住む場所です。そんなところでどうやって一生を暮らすおつもりですか。そのまま漢には戻らずに、西域で一生を終えるおつもりなのですか」
問い詰められたところで李広利には将来のことなどわからない。ただ、情勢が変化することを待つだけであった。希望が持てる点としては、皇帝がただ一度の失敗で西域の覇権を諦めることはないだろう、ということだけである。
「……いつか、この私が得た経験と知識が、皇帝陛下に必要となる時期が来るだろう。そのときが来るまで待つしかない」
「そんなぁ……本当にそれでいいの?」
欣怡は思わず李広利の腕を掴み、そのような声をあげた。
三
「将軍、私の口からは申し上げにくいことですが……ここから立ち去っていただかねばなりません」
太守の尹慈は申し訳なさそうな口ぶりで告げた。我々は等しく落胆していたが、公には不満を表すことができない立場である。敦煌退去が皇帝の勅令であるならば、従うより他に道はなかった。
「つきましては、玉門を出た僅かの距離に塞(長城)がございます。ご一行はそちらを目指していただき、そちらに起居していただくのが良策かと存じます。新設の塞でありますので、清潔で安らかに過ごせましょう。食糧などは可能な限りこちらから供給いたします」
「ありがたい。太守どの、感謝申し上げます」
長城にまともな寝所などあるのだろうか……無ければ作るしかないし、食糧に関しても供給を受けるとはいえ、それにすがってばかりいることも好ましくない。種や苗などを仕入れて屯田することも考えなければならないだろう。しかし、玉門周辺は砂漠のただ中である。そのような土地で作物が育つのかどうかも不安であった。
「娘の欣怡を定期的に赴かせます。女官も同行させますので、その際には身の回りの世話をお申し付けください。そして……くれぐれもお諦めなさらぬよう……復権の機会はいずれ必ず訪れます」
「うむ……そう願おう。それがいつの日になることやら見当もつかぬが」
このときの李広利には尹慈の励ましに力強く応える余裕がなかった。妹の弔いも済ませていないうえに、彼に向けられた仕打ちはあまりにも非情な「入国拒否」である。
「無理もなかろう」
尹慈は娘を相手にそう呟いた。欣怡もそれに対して、
「はい」
とだけ返した。快活な彼女も、いまや言葉少なげであった。
「我々が支えて差し上げねばならぬ。欣怡よ、特にお前がだ」
「私に……何ができましょう」
「男というものは、自分を頼ってくれる女が好きな生き物だ。あの方に甘えろ。そうすることであの方は生き甲斐を見出すことができる。お前のために名誉回復のための努力をなさるだろう。よいな、甘えるのだ」
父親の言ったことが理解できない欣怡ではなかった。しかし甘えるとはいったいどういうことか。彼女の頭には具体的な方策が思い浮かばなかった。
「お父様は、ご自分の敦煌を出たいという願望のために、そのようなことを仰っているのだわ。私を利用して……」
欣怡の口調はやや反抗的なものであった。見通しが立たない今後の展開に彼女は苛立ち、それを抑えきれなかったのだろう。
「では、お前はあのお方を見捨てるのか」
「そんなことはありません」
「では、お前にできることが他にあるというのか……お前にできることは、名誉が回復されるまであのお方の心が折れぬよう、支えてやることだ。関外の地で生きる希望を失えば、あのお方だって匈奴へ亡命しようと思うかもしれぬ。皇帝の怒りを買い、妹君を失ったあのお方にとって、漢への帰属意識を持つ理由は……いまやお前の存在しかないのだ。あのお方の将来を案じるのであれば、愛される存在となれ」
尹慈の言うことは、いちいち正しかった。欣怡は何をどうすればよいのかわからなかったが、その言葉に従う意思を表示するしかなかった。
「将軍さまとよくお話をして……その求めるところを得たいと思います」
四
尹慈の言うことは至極もっともなことのように欣怡には思えたが、よくよく考えてみると腑に落ちない。要するに父である尹慈は、娘の欣怡に対して「自ら帯の紐を解いてみせろ」と言っているのである。
彼女は李広利のことを愛していたので、その必要があればそうすることに抵抗はなかった。しかしいま彼に必要なことは、そのようなものではないような気がしたのである。
結果、彼女は李広利に西域の話をねだった。失意の李広利は言葉少なであったが、次第にその思いを吐露し始めたのである。
「……楼蘭は小国であり、武力で支配しようとすればたやすいことだろう。しかし我々の任務は大宛討伐にあったので、必要以上に彼らを追い込むことができなかった。その結果、彼らは心服せずに……漢の文化の優位性を理解することもせず、匈奴を選んだ。結局彼らには努力して自分たちの生活を向上させようという気持ちがない。匈奴の強権的な支配が非文明的なものであるとわかっているにも関わらず、それを自ら覆そうとする意識を持たぬのだ」
「姑師国を攻めた際に、私は正直なところ勝てると思っていなかった。だがその一方で、あるいは勝てるかもしれない、とも思っていたのだ。しかし彼らは意外にも戦い慣れていた。地勢を利用し、裏をかこうとした我々のさらに裏をかいた戦いぶりで、結果的に我々は撃退されたのだ。我々は飢えてもいたので、兵たちも充分にその能力を発揮できたとは言えないが……相手と同等の兵力では地勢を知り抜いている方が有利であることは明らかだ。我々が西域の城を陥落させるためには、少なくとも倍以上の兵力を以て臨まなければならない」
「姑師国での敗北によって堂々と行軍できなくなった我々は、亀茲や焉耆の城を避けて砂漠を流浪せねばならなくなった。そこで険しい天山山脈を越えて烏孫を頼ろうとしたのだが、その行程はあまりにも過酷で、数千の死傷者を出してしまった。やむを得ないことだとは自分でも思うが、兵を失うのであれば……どうせなら戦いの場で失いたいと思うことは事実だ。砂漠の乾きや高山の冷気でそれを失うことは、私にとっては単なる損耗でしかない。しかしこれはひどく冷酷な考え方だと我ながら思う。兵にとっては命を落とすことに変わりは無いのに、将軍という立場にたつと、それが有益であったか否かを考えてしまうのだ」
「烏孫は草原の国で、寒々としていた。その空気が人の性格にも影響を及ぼすのかと思われるほど、人々は我々に冷たかった。しかし烏孫はかつて博望侯張騫どのが友好の礎を築いた相手で、本来であれば我々を援助すべき存在だ。にもかかわらず……彼らは冷酷で無関心を装う。両国友好の象徴として贈られた江都国の公主が……その存在がないがしろにされている。私は決して烏孫を許さぬ。公主は王に嫁いだにも関わらず、王は匈奴の女の家に入り浸っている。しかも烏孫王はまるで捨てるような扱いで公主を孫に譲った。漢が求めているのは公主を王后として迎えることであって、孫に降嫁させることではない。烏孫は公主ばかりでなく、国家としての漢をも軽んじているのだ」
「郁成を攻略する際にも烏孫は兵を出してくれなかった。我々は単独でこれを攻略せねばならず、苦慮していたが……公主がご自身の配下を兵として贈ってくれた。呂仁栄という剛勇の士だ。彼自身の武勇もすさまじいが、それ以上に彼が携えていた剣が我々を圧倒した。彼のほかには皇帝陛下しか持つ者がないとされている『斬馬剣』……。彼がそれを持つことで、私は千人の援軍を得たような心強さを感じた。ああ、仁栄……彼を失ったことで私は心に大きな傷を負った。この苦しみ、どうしてくれよう」
「郁成には煎靡なる指揮官がいたが、仁栄はそれを追い詰め、我々は勝利を手にしようとしていた。しかしそれを覆したのが一頭の汗血馬であり、我々は皆一様にその事実に驚いたものだった。馬がその身を捨ててまで主人を助けようとするなどと……考えられない話だ。だが、汗血馬は習性としてそのようなところがあるのだという。なるほど、陛下が欲しがるわけだと思わざるを得ない」
李広利の口調は淡々としていて、表情に悔しさを表したりはしなかった。にもかかわらず、欣怡には彼の苦悩が目に見えるようにわかったという。なぜなら彼女には、彼が感情を失っているように思えたからだった。
五
「郁成を攻略できずに撤退を決めたが、帰途も困難なものだった。亀茲や烏塁には匈奴の仕掛けた罠の網が張り巡らされていて、我々は何度も危機に瀕した。それを計画していたのが李淑という男だったのだが、私がやりきれない思いを抱いたのは、彼が漢人であったことだった。同胞だったのだ。過去に匈奴との戦いに敗れ、片腕を失って捕虜となった彼は、口では我々と共に漢に帰還したいと言った。しかしその本意は新興国の烏塁の支配者となることであり、我々を滅ぼすことによって匈奴にそれを認めさせようというものであった。私は苦労しながら匈奴の囲みを突破し、李淑を粛清した」
「李淑を殺すには勇気が必要だった。私は不確定な推測によってしか、彼を断罪できなかったのだ。しかも彼にはまだ利用価値があった。結局彼を殺すことによって我々のその後の旅程は苦しみに満ちたものとなった。なんと言えばいいのだろう……私にもう少し度量があれば、もっと楽な道を行くことができたと思う。しかし……どうしても許せなかったのだ」
「通訳を命じた現地の商人は軽薄な印象の男であったが、実は月氏の名家の子孫なのだという。西域というところには、そんなところにも歴史の影響が残っていて、非常に奥深いところがある。だがその影には敗れ滅びた民族や国の姿があって、私は自分の行為の正当性を疑わざるを得ない。なぜなら、私のやろうとしていることは国を滅ぼすことであり、流浪の民族を生み出すことだからだ。しかし……それを思ってみても仕方が無い。どちらにしても私は、失敗したのだから」
このお方は、任務に成功しても失敗しても……いずれにしても苦しむ運命にある、と欣怡は感じた。
「将軍さまが責任を一人で背負う事項ではありません。たとえどこかの国が滅びるようなことがあっても、それは時代の流れというものでしょう。これまでにもあったことですし、これから先もあり得ることです」
欣怡は李広利を励まそうとそのようなことを言ったのだが、あまり効果はなかったようだ。
「そうわかっていても、いい気分にはならないな。もともと私は、楽士の家に生まれて歌ったり作曲したりしていた男だ。その能力はあいにく開花することはなかったが……。それでも私はそのような環境に育ったので、無意識のうちに何事もそれを基準に考えてしまうのだ」
「どのような基準ですか?」
李広利は答えた。
「素晴らしい歌というものは、人の心を打つものだし、素晴らしい曲というものは人を感動させる詩があってこそのものだ。つまり、人の心を忖度せずにはいっこうに受け入れられるものではない。だから私には、自分が何かしらの行動を起こす際に、それによって他人がどのように影響されるかを真っ先に考える癖があるのさ」
「…………」
「そのような私だから、軍人として人の命を奪うことが苦しい。しかも一国を滅ぼさねばならぬとあれば、その苦しみは一層深まる。確かに国の興亡は時代の流れに従うものではあるが、だからといって私の苦しみが癒やされるものではない。……そのような私が陛下の意志に従って行動した理由は、妹があのお方の寵愛を受けていたからに過ぎなかった。私が従わなければ妹が陛下によって害されるかもしれない、と思ってのことだ。しかし、その妹が死んでしまった今となっては……」
やはり李広利は感性の細やかな、優しい人物であった。そのような男が軍の指揮を任されることの苦労は想像に難くない。しかしその立場が覆されることはなく、彼は立ち向かわねばならないのであった。
「お心を強くお持ちになることです。幸いここにいる間は、不必要に人を殺める必要がございません。鋭気を養ってください」
欣怡の言葉は特に気の利いたものではなかったが、それだけに彼に対する強い思いが込められているかのようであった。だが、李広利はこれに対して意外な答えを返したのである。
「確かに君の言うとおりだ。しかし心配することはない。私は大丈夫だ。妹がむざむざ死んだという事実が、逆に私を生かしているのだ。私は……陛下を許すことはないであろう。いつの日か、必ず復讐する……その日が来るまで、私は生き延びねばならない」
六
我々は、およそ半年の間、その塞で過ごした。欣怡はその間足繁く李広利を訪問し、話し相手をした。彼にとって退屈な毎日を、彼女が彩ってくれたことは確かであろう。李広利はそれに感謝の意を示し、あるとき次のように言ったという。
「君のことを抱きたいのだが」
塞の中での退屈を紛らわすためのかなり欲望に満ちた言葉のように聞こえるが、実のところそうではない。これは「貴女をを正式に妻として迎えたい」という求婚の意なのである。
しかし欣怡はそれに応じなかった。
「私を抱いてくださるのは、将軍さまの名誉が回復してからになさってください」
本来ならば、欣怡は李広利の申し出を断る立場になかった。しかしあえてそれをしたのは、李広利の将来を信じたからであり、それがために現状に満足すべきではないと判断したからであろう。
「私はいつまでも将軍さまの傍らにいて、生涯にわたって支えるつもりでいます。ですが……」
「わかっている。皆まで言うな」
李広利は遮り、理解を示した。彼としても現状に満足しているわけでは決してない。それだけに安易な方法で満足を得ることは自分にとって害でしかなかった。彼女にそれを教えられた形となった自分が恥ずかしかった。
「忘れてくれとは言わぬ。君を抱きたいと言ったのは、間違いなくそれが私の本心だからだ。しかし欲望をかなえるには時期尚早であった。私は、君を抱くのに相応しい功績を挙げなければならない。しかし不思議なものだ……私は陛下への復讐を考えている一方で、功績を挙げることも望んでいる。これらのことは相反する事実だというのに」
「まずは陛下を見返して、これまでのご仕打ちを反省していただくことが先決かと」
「うむ。しかしそれは反省ではなく、後悔という言葉が相応しいだろう。実を言うと、そろそろ朝廷に動きがありそうなのだ。いや、朝廷が動くかどうかはまだわからぬが、西域の情勢に大きな変化が起きようとしている。李哆が帰ってきて情勢を報告してくれたのだ」
「まあ……どのようなご報告を?」
「受降城が陥落寸前、とのことだ。匈奴は左大都尉の勢力を一掃し、趙破奴は敗れ、その行方もわからないという」
しかしこのことが西域の情勢に影響するかどうかは未だよくわからない。あるいは自分は趙破奴の替わりに匈奴と戦うよう、命じられるかもしれない。
だが一度命を受けている以上、任務は達成したいという思いがあることは間違いなかった。彼は北の地で匈奴と戦うより、やはり西域を活躍の舞台としたかったのである。
なぜなら、彼に与えられた名は「弐師将軍」であったからだ。
受降城は匈奴によって攻撃されたが、その年に児単于が病死したため陥落の憂き目を避けることができた。これが太初三年の出来事である。趙破奴は匈奴兵八万騎によって包囲され、夜間に飲み水を求めてしばしの間外出したところを生け捕りにされたという。大将を失った漢の軍吏たちは責めを恐れて奮戦することができず、全員が匈奴の地で没した。
しかしこのことが結果的に李広利の復権へとつながるのである。まったく人の運命というものは人の犠牲によって成り立っているものであると言わざるを得ない。




