西域を立ち去る
一
「火矢が……」
何者かがこの館を取り囲んでいるらしい。イルシとコウカスコの逐電によって状況を半ば把握していた私と李広利はさほど慌てることがなかったが、このとき李淑は目に見えて焦りの色を顔に浮かべた。
「縄をといてください。このままでは皆殺しにされてしまいます」
「誰にだ」
必死の口調の李淑に対して、李広利は冷たく問い返した。
「館を取り囲んでいるのは匈奴です。彼らは、あなた方を捕らえようと待ち構えているのです」
「それを手引きしたのは誰だ」
「イルシとコウカスコに決まっています」
「さっき貴様はあの者たちと関わり合ったことなどない、と申したではないか。なぜそのように断言できるのか」
「彼らが匈奴だということぐらいは知っています。そのくらいは容易に想像できることです」
「では、それを確認しに行こう。貴様には、軍の先頭に立ってもらうぞ」
「……………」
李広利は縛られた李淑を駆り立て、館の外へと連れ出した。すでに館には火の手が回っており、部下の兵たちは外へ退避している。
「物音を立てるな」
部下たちにそう命じると共に、李淑には猿ぐつわをした。
しかし館周辺はすでに包囲されている。私は、李広利にこの局面をどう打開するつもりなのか確認する必要があった。
「館が焼失すれば、匈奴兵が押し寄せてくるだろう。奴らの目的は、この私の捕縛だからな。しかし奴らは、我々がこうして待ち構えていることを知るまい。相手の兵数は不明だが、そもそも西域はからの状態になっていたはずだから、そう多くはないだろう。こちらの兵数が上回るようであれば迎撃して殲滅し、向こうが上回るようであれば間隙を縫って脱出する」
そのとき炎で館が覆い尽くされた。我々はその炎の光で存在を気づかれないよう身を低くし、暗がりを見つけて隠れた。
「軍正」
李広利は趙始成を呼び寄せ、短い言葉で命令を伝えた。
「李淑を殺せ」
「御意」
趙始成は、やはり経験豊かな軍人であった。このとき彼は、理由を問わず、上官の指示に疑念を表明することなく、いささかも躊躇うことなく行動に移った。縛られた李淑は趙始成の弓矢によって心臓を射貫かれ、あっけなく命を落としたのであった。
「この男の利用価値はこれから高まる……。数人で遺体を匈奴の陣営に届くよう掘り投げよ。それに続いて攻撃を加える」
李淑は見せしめとなるのであった。我々を売り飛ばそうとした行為に対しての、痛烈な罰である。
そして匈奴の陣営の前に、無残な姿と変わり果てた李淑の体が投げ込まれた。どさり、と目の前に落ちたその物体が李淑の遺体だと判明し、何事かと匈奴兵たちがざわめいた瞬間に、漢兵の突撃が開始された。
二
片腕しかない遺体が李淑のものであることは、暗がりにいる匈奴兵たちの目にも明らかであった。彼らは主導者の死に憤慨し、また驚愕したが、そのため間髪を入れずに突入した漢兵に対応することがやや遅れた。
「イルシとコウカスコを捕らえよ!」
優勢に立った李広利は大声で指示を発した。火矢によって館を焼失させたことで、有利に戦況を展開していたと踏んでいた匈奴は、総崩れとなった。
元来、匈奴は勝ちに乗じた戦いは得意だが、敗勢に立つとこらえ性がない、とされている。このときも彼らは状況を打開しようとはせず、李淑の遺体を回収することもせずに、逃げ延びることに尽力していた。しかし李広利は、イルシとコウカスコにだけはそれを許さず、捕らえて口を割らせようとしたのである。
しかし暗がりの中で見慣れない匈奴兵たちを判別するのは非常に困難である。言葉も通じなければ、彼らがどのあたりにいるかという手がかりさえもなかった。
結局匈奴は四散し、イルシとコウカスコの行方も知らぬままに終わった。取り逃がしたのである。
李広利は臍を噬んだ。
しかし私には、彼がなぜそのように悔しがるのか、理由がわからなかった。
「彼らは僮僕都尉の配下に過ぎぬ身分で、生き残ったところで我々の脅威になるような人物だとは思えません。将軍にはどうしてそのように……?」
李広利は答えて言った。
「私は李淑を殺したが、奴は最後までその胸の内の企みを口にしなかった。つまり私は状況のみで判断し、推測で奴を処断した、ということになる。概ねその判断に誤りはないと思っているのだが……。イルシとコウカスコに対しては、見つけ出して殺したいと思っているわけではない。その口から私が下した処断に対する裏付けが欲しかったのだ。私の判断が誤っていなかったか……それについての確証を得たかった」
つまり、李広利は李淑を殺したものの、その判断に関してはもやもやした気分を除けなかった、ということらしい。そこでイルシとコウカスコを捕らえ、事実を白状させてすっきりしたかった、ということだろう。
しかし、それはもう叶わないことであった。疑わしき者を除き、一見旅程は安全を確保されたものと思われたが、李広利はこのとき事態を憂慮したのである。
「できることなら、もう少し敦煌に近い場所で李淑を排除したかったのだが……奴が死んだことで、このさきの危須国や尉犁国での拠点が失われた。まだ李淑には利用価値があったのだが、奴がこの地で匈奴を招いたがために、処断を早めなければならなかった。かえすがえすも惜しい」
確かに李淑がいればこそ、各地に拠点を設け、安全に宿泊することが可能であった。いま我々は匈奴を駆逐し、人為的な危険からは免れることができたが、行く先には冬の厳しい環境が待ち構えている。そればかりではない。宿泊地を確保できないことによって、我々は食糧を得ることもできなくなったのである。
「やむを得ぬ。敦煌への帰還を強行しよう。できるだけ短い期間で帰還することによってこの問題を解決するしかあるまい」
焼失によって焉耆の館を失った我々は、その足で東行を開始した。それに先立ち李広利は、功績のあった店主を正式に軍へ迎えることを決め、彼に通訳の職を与えた。
「かつて西域を旅した博望侯張騫には、甘父という名の頼れる相棒がいたという。甘父はもと匈奴であり、通訳をする傍ら、食糧が足りなくなった際には、その得意とする狩猟の腕を発揮したと聞いている。お前は私にとっての甘父となれ。……そのためにはお前の正式な名を聞いておきたい」
店主はそれに対していつになく神妙な表情で答えた。
「私が焉耆国出身だという話は以前にお伝えしましたが、焉耆や亀茲は月氏の遺留部族が建てた国です。私の名はクジュラ・カパ。月氏の子孫です」
李広利は驚いた顔をした。意外なことに店主は大仰な姓名を持っていることに驚愕したのである。
「由緒正しい家柄なのか」
「かつてはそうであったと聞いておりますが、いまでは食い詰めてその日暮らしの身分に過ぎません。ですからこうして漢軍に迎え入れてくださったことにはたいへん感謝しています」
李広利はこの男の名に「丘就卻」という当て字をし、その後自らの身辺近くに置くことにした。
三
欣怡は太守の娘であるという高貴な身分であるにも関わらず、好んで城外へ出て散策した。いや、散策という言葉はあまり適当ではない。彼女は常に同じところへ足を運んでいたからだ。しかしその目的に合理的な理由はなく、傍目にはただなんとなく同じ場所へ足を運ぶ、という風にしか見受けられない。よって、やむを得ず「散策」という語でこれを表現するしかないのである。
彼女は城の南側に広がる砂漠地帯によく足を踏み入れた。そこは砂が堆積してできた小山が無数にあり、その頂上に立って北側を見やると城内が一望できるのである。しかし彼女が常に視線を運ぶのは、西側であった。そこには地平線の先まで砂漠が広がり、他に見えるものは何もない。玉門関や陽関でさえも、舞い上がる砂によって霞み、その存在が確認できなかった。
つまり彼女は、自分でも何を眺めているのか、よくわかっていなかった。ただぼんやりと視線を西の彼方に向け、夏には強烈な日差しに身を晒し、冬には身も凍える寒気にやはり身を晒しながら、ひたすら待っているのである。李広利の姿がその視界に入ることだけを……。
その状態が二年も続いた。不思議なことに、敦煌には彼らの情報がほとんどもたらされない。西域の隊商たちが数度にわたって敦煌を訪れたが、その際に教えてくれたことは姑師国の常盤城で大火があった、ということだけであった。しかもその原因さえはっきりせず、欣怡の心は揺さぶられるばかりであった。
——生きていらっしゃるのか、お亡くなりになったのかさえも……。
わからないのである。ましてや、彼らが大宛に勝ったか負けたかわかるはずがなかった。しかしそのようなことは、彼女にとって重要なことではない。欣怡は、李広利に伝えたいことがあるのだった。
欣怡は待ち続け、彼女の衣服は長期間にわたって日光に晒されたことにより、ぼろぼろになっていた。
※
「欣怡や。また今日も出かけるのかね。近頃はだんだん暑くなってきたようだから気をつけるのだよ」
「はい、お父様」
太守の尹慈は娘が外に出かけることを厳しく咎めたりはしなかった。たとえ娘の服が傷み、その肌が日に焼けて黒くなるようなことがあっても、彼は娘の行動を止めようとはしない。むしろ欣怡の出かける時間が遅くなると、逆に心配するのであった。
「漢の人間で、将軍のお帰りを第一にお迎えするのは、やはりお前であるべきだ。他の人物であってはならない」
「もちろんです」
欣怡は父親の言葉に力強く応じたが、父の本心がどこにあるのかはわかっている。太守である尹慈は、長安に戻る道を画策していて、娘の欣怡と李広利との縁がそれを可能にしてくれるものと信じているのだ。したがって、決して李広利のことが心配なわけではない。長安で力を得た者が娘の相手であれば、対象は誰でも構わなかったのである。
無論欣怡はそのことで父親を責めたりせず、毎日のように城外へ出かけることを認めてくれるだけでありがたいと思っていた。
砂漠には馬車に揺られながら赴く。しかし当然のことながら砂山には登れないので、自らの足で登るしかない。砂は足で踏むと低音の、まるで銅鑼を叩いたような音がする。この山の正式な名称は「神沙山」というらしいが、このため人々は「鳴沙山」と呼ぶのが通例となっていた。夏の日中は砂が熱くて登ることすら難しい山だが、欣怡はそれを二年の間欠かさず登ってきたのである。
四
李広利が敦煌を出発してから二度目の春を迎えた。欣怡はその日、朝から鳴沙山の頂きに立っていたが、夕刻近くになって地平線の先に黒い点が映ることに気づいた。
それが人影だとは限らず、鳥や獣の影かもしれない。また仮に人だとしても、それが自分の待っている人物のものだとは限らなかった。ただ、その影は一人のものではなく、次第にそれが複数のものであることが明らかとなった。そしてそれが馬に乗る人たちの姿だとわかり、やがては鎧兜に身を固めた者たちの姿だとわかった。
——軍隊だわ……。
そう確信したのち、先頭に立つ人物が李広利だとわかるまでさらに時間を要した。というのも、李広利は風体にその面影を残していたが、別人と思えるほど痩せ細っていたからである。
だが欣怡は確信した以上、余計なことを考えず砂山を走り降りた。足で砂を踏みしめる度に異様な音がこだましたが、彼女はまったく意に介しなかった。
「将軍さま!」
李広利の側には、まだ欣怡の声は届かなかった。しかし彼女が走ることによって生じる砂の音は聞こえる。
「なんの音だ」
本来であれば砂漠の静寂が広がる地帯である。林には鳥が生息し、草原には虫が多いものである。一方それらが奏でる鳴き声や羽音が一切ないのが、砂漠であった。自分たちの放つ呼吸の音以外に聞こえるものは何もない……彼らはそのような地を踏破してきたはずだった。
「誰か、放屁でもしたか」
一団に笑いが起きた。それは確かに屁のような音に聞こえたのである。しかし音は連続してこだましており、それを屁だとするには明らかに不自然であった。
「将軍、あれを」
後方に控えていた兵が指さした先に、駆け寄ってくる人影が見えた。それを認めた兵たちは一斉に武器をとり、迎撃しようと身を固めた。
「一人であるはずがない! 砂山の後ろに敵が控えているかもしれぬ。備えよ!」
李広利は号令したが、やがてそれは女の姿であることがわかった。そして耳を澄ませば、その女が放つ声がかすかに聞こえる。
「将軍さま!」
——もしや、欣怡では……?
次第に距離が縮まり、その姿がはっきりと確認できるようになった。それは明らかに自分を歓迎しようと駆け寄る欣怡の姿だったのである。
李広利は激しく後悔した。
彼は砂漠のただ中で自分を待ち続けてくれた女性を、剣を抜いた状態で出迎えてしまったのである。
「玉門関を通過したというのに……いや、外敵がいなくても山賊の類いはいるかもしれぬから、やはり警戒はしなければならない。これでいいのだ」
自分を納得させようと声に出して言った李広利だったが、欣怡を前にしてやや決まりの悪そうな表情をした。
「将軍さま、よくご無事で……」
「欣怡。長いこと待たせてしまった。すっかり……日に焼けたな」
欣怡は笑顔で彼を迎えた。それを機に軍は行進を止め、休息することとなったが、李広利はそこで驚愕の事実を知ることとなったのである。
五
「将軍さまはずいぶんお痩せになりましたね。それと……軍の方々の人数が出発の際と比べてずいぶんと少なくなったように見受けられます。お気に障ったらすみません」
欣怡の感想は、率直ではあるが的を射たものであった。このとき、李広利が引き連れていた兵は、千名に満たなかった。結局彼は、李淑を粛正したことで安定した拠点を失い、まともに冬を越すことができなかったのである。軍は飢えと寒さに苦しみ、彼自身も痩せこけた姿で帰還することとなったのだった。
「生き残ったことだけでも、奇跡だ」
李広利は自身の置かれた状況を、そのようなひとことで説明した。その表情に表れた苦々しさが、行軍の苦労を物語っていた。
「このような結果になったことは残念だが、私なりに次回の作戦に向けて布石は打ってある。急ぎ長安に赴いて皇帝陛下に復命せねばならぬ」
李広利の発言はごく自然なものだったが、意外なことに欣怡はこれを否定しようとした。彼女は、李広利を引き留めようとしたのである。
「長い行軍でお疲れになっているというのに、無理をして長安までの道を急ぐ必要はございません。まずは敦煌で体力を回復なさって……陛下へのご報告は使者を遣わしましょう。お父様に頼めば、その程度のことは簡単なことです」
「気持ちはありがたいが、私にも責任がある。できることなら直接陛下に面会して、事情を説明したいのだ」
「それは……無理でございましょう。無理だと思われます」
「無理だって? 不可能だというのか。なぜだ」
「長安の宮殿は、いま喪中にあります。ある高貴な方が亡くなったことで陛下はお嘆きになり、直接お会いになることは難しいとのことです」
「誰だ? 誰が亡くなったのか?」
欣怡は言葉を選んだようであり、やや言い淀んだ。しかし結局は伝えねばならぬことである。このとき彼女は遠回しな言い方を避け、あえて端的な言葉を選んだ。
「お亡くなりになったのは李夫人さまです。将軍さまの妹君でいらっしゃいます」
「…………!」
李広利は声も出なかった。
「死んだ……? 妹が?」
李広利は数刻に渡る沈黙のあと、ようやくその一言を発した。彼にとっては寝耳に水のことであり、その死に目にも会えなかったという思いは、これまでの彼自身の労苦を一瞬にして忘れさせるほどの衝撃があった。
「なぜ……死因はなんだ」
欣怡は答えた。
「お産のあとの経過がよくなかったようで……傾国の美人とまで言われた夫人は、病床で崩れたご自分の美貌を決して陛下に見せようとしなかったそうです。病に苦しんで化粧もできないお顔を見せてしまえば、陛下は興ざめしてしまうだろうと心配したのだそうです」
「人が生死の境を彷徨っている最中に、顔が美しいとか醜いとか……そんな心配をするより妹は自分の健康に留意するべきだったのだ。我が妹ながら、何を血迷ったのか……馬鹿なことを言って意地を張ったものだ」
「将軍さま、そうではありません。夫人は、自分の乱れたお顔を陛下にお見せして愛を失ってしまっては、将軍さまと延年さま……お二人の運命を左右してしまうことになる、そのことをご心配なさったのです。夫人が最後に残したものは、将軍さまに対する愛情です。そのことを忘れるべきではありません」
李広利はそれを聞き、悲しみに満ちた言葉を残した。
「なんだと……あいつめ……格好つけやがって……」
六
李広利の気持ちとしては、早々に長安に赴きたいところであっただろう。遠征は概して成功したとは言えないが、皇帝への復命は彼の義務でもあった。さらに妹の死を聞かされたとあっては、弔いをしたいという気持ちを抱かないはずがなかった。
「遺族であるこの私にも、陛下は会わせてくれないのか」
彼は憤っていた。妹を守ることをせず、むざむざ死に至らしめた皇帝に対して……しかし妹の死は病気が原因であることは明らかだったので、これは八つ当たりというべきである。どこにも向けようもない怒りの矛先が、皇帝に向けられただけであった。
「陛下にご不満をぶつけても、将軍さまの身が危うくなるばかりです。ご自分の気持ちが整理されるまでは、なおさらお会いするべきではございません。どうか敦煌で緩やかな日々をお過ごしください。将軍さまご自身にも養生が必要です」
欣怡は懇願するような口調でそう言った。彼女は、きっと再会をもっと楽しみたかったのだろう。しかし現実には、心から笑い合えるような状況ではなかった。このとき彼女は目に涙を浮かべていたが、李広利はそれに気付くことがなかった。
機嫌を損ねたままの李広利が立ち上がり、身を翻しかけた際に、鈴の鳴るような物音がした。欣怡はそれを聞き逃さず、音の原因を探ったが、それは間もなく明らかになった。
「将軍さま、お腰のその飾りは……前に私がお送りしたものですね。大切にしていただいて……嬉しい」
それを聞いた李広利は、どう答えるべきか迷ったようであった。
「ああ……これを身につけていることで、ときには困難な事態に巻き込まれそうになったこともあった。匈奴の手先に『それをよこせ』と強要されたこともあったのだ。だが一方で烏孫の王妃に『大事にせよ』と声をかけられたこともあった。思い返せば、剣などよりよほど重要な役割をこの耳飾りは果たしてきたように思う」
「ご迷惑だったでしょうか」
「いやいや、そんなことは決してない。これがなければ、私は挫けていただろう。これを見ると、帰還すれば欣怡が待っていてくれるだろうという気持ちが呼び起こされた。それがなかったら、私はとうに死んでいたに違いない。砂漠の中で干からびたように……」
「では、お役に立てたと考えてもよろしいのでしょうか」
「もちろんだ。残念なことに妹には再会できなかったが、私にはまだ君がいる……いや、こういう言い方をしても差し支えなければだが……君がこうして迎えてくれて私は幸せだ」
このとき李広利は烏孫公主のことを思い出していた。帰りたいと思っているのにその場所がない寂しさと不幸。かつて彼は、公主に対して幸せか否かを問いただしたことがあったが、彼はいま自分自身にその質問を発し、その答えを得たのだ。
「欣怡の言うとおり、敦煌にて養生することにしよう。陛下への使者の件は、太守へよろしくお伝えしてくれ。それと、宿舎の件も……」
「そんなに心配なさらなくても大丈夫。すべて私とお父様が取り仕切ってご準備します。将軍さまはごゆっくりなさってください」
欣怡の表情にようやく本来の屈託のなさが現れた。これにより我々は、等しく幸福感を得たのである。
かくして我々は、ついに敦煌に入城した。敦煌の風景は西域とさほど違わず、気候もたいして変わらない。しかし我々は確かに帰還したことを実感し得たのである。
李夫人を失いかけた皇帝は、その病床を何度か見舞ったが、夫人は最後まで顔を隠したという。その理由は作中にあるとおりだが、彼女は以下のような言葉を残している。
「我以容貌之好,得從微賤愛幸於上(私は顔がよいために卑賤のみから主上のご寵愛を受けることができたのです)。夫以色事人者,色衰而愛弛,愛弛則恩絕(容色で人に仕える者は、それが衰えれば愛は弛み、愛が弛めば恩は絶えます)。」
彼女は自分自身に、生き存えて年をとることも許さなかったかもしれない。