失意の逃避行
一
撤退を決めた我々の目に映るものは郁成城の中央に掲げられた炎であった。それが彼らにとって「善」の象徴であるという事実は、我々にとっては嫌味にしか思えなかった。
「本当に、あの火を消してやりたい……そう思うのは、ただの私の身勝手だろうか。大宛や郁成に生きる人々からすれば、我々は汗血馬欲しさに戦争までする強欲な民族であるに違いない。しかし、私からすれば大宛の人々は狭量だ。汗血馬は国の宝とも言える代物であるに違いないが……しょせん馬に過ぎない」
平和な交流が実現したはずなのに、足もとを見て出し渋り、結局は使者を殺すという暴挙に出たのは大宛の側であった。しかし事実はそうであったとしても、李広利の言い分には負け惜しみの要素が多く含まれているように感じた。
「漢側の使者の質にも問題があったのでしょう。彼らが皇帝陛下の意を正確に伝えることができたかどうか、私には疑問です」
「それは確かにそうだ。陛下は汗血馬を欲していたと言うが、権力の印としてご自分が乗り回そうと思っていたわけではなく、匈奴に対抗する手段として強馬を軍に取り入れたいとお思いになったのだ。それを使者が正しく伝えることができたかどうか……そういったことには大いに疑問が残る。しかし……」
李広利はそこで言葉を区切り、自分の考えを整理するようにため息をついた。
「今となっては何を言っても後の祭りだ。私が……我が軍が撃退されたことは紛れもない。この上もない恥を感じるが、恥のかきついでだ。本国に援軍と食糧の確保を改めて要請しよう。それで罰せられるとしたら、それまでだ」
幸いにも郁成は漢を追撃することをせず、我々が退却する様子を傍観していた。援軍があることを警戒していたのだろう。
しかし実のところ我々に援軍はなく、郁成は我々を撃滅する機会をみすみす失ったと言える。
「我々を撃退した大宛に匈奴がすり寄って、変な同盟関係などが生まれないうちに復讐したい。そうでなければ漢は西域の覇権を失い、内地は再び匈奴に侵食される恐れがある。西域も匈奴による支配ではいつまでも発展しない。彼らは、そのことをわかっていないのだ」
李広利は、将軍としては未だ経験不足であったが、自分たちの軍事活動が残す意義にかけては深い洞察がある。つまり、我々がなんのために人の命を犠牲にしてまで戦い、その結果どのような世界が構築されるのか、見極めようとしていたのであった。
「とにかく、やる以上は最終的に勝たなければ、何も結果はもたらされぬ。このような状況では撤退もやむなしだ」
しかし彼の境遇には将来の懸念がある。現場での撤退の決断は正当性があり、何ら文句の付けようがない事実であるが、問題は帝室がそれを理解するかどうかである。
「将軍の妹君や、兄君の処遇はどうなりましょうか」
「もちろん心配ではあるが……王恢どの、そのことは言わないでほしい。私がこの地でどう頭を悩ませても解決できる問題ではない。仮に私の肉親が罰を受けることになったとしても、それはすべて私の落ち度として受け入れるしかないわけだし……罪を減免していただくにしても、長安に帰還してからでなくてはどうにもならない」
確かに私の発した質問は不毛であった。そのような懸念があるにしても、よもやこの段階で撤退を中止するわけにもいかない上に、将軍個人の都合で作戦全体を左右するわけにもいかないだろう。過去にそのような将軍がいなかったわけではないが、李広利はそのような性格を持ち合わせていなかった。
「しかしせっかくここまで来て……という思いは私にもあることは確かだ。郁成の左手には葱嶺の山影が見える。あの山を越えさえすればどうにかなったものを……とな。かえすがえす、残念でならない」
しかしその気持ちを抑えられない人物がひとりいた。別働隊として郁成城の水源を破壊した李哆である。
その日の夕刻になって、未だ本隊との合流を果たせずにいた李哆は、伝令を迎えることでその事実を知らされた。開口一番、彼は言ったという。
「私は、無駄骨を折らされたというわけか。急ぎ本隊に合流し、将軍の口から事情を聞かねばならぬ」
彼は李広利を詰問するつもりだったのだろう。はやる気持ちを抑えられない以前の姿に、彼は戻りつつあった。
二
李哆にしても苦労がなかったわけではない。結果的にそれが無駄に終わったことも頭では理解できているようであった。にもかかわらず、彼は撤退に反対の意を表したのである。
「ここで長安に帰還する決定をなさるとは、意外なことでございます。西域に漢の威を示すことを目的とした遠征であったはずが、これではまったく逆効果です。ここで撤退してしまっては、西域は漢を軽侮して、以後は統治できなくなりましょう」
面と向かって軍の方針を批判する李哆の態度に、一同は驚愕した。趙始成は、年長者として李哆の態度を戒めるように言う。
「貴公は会戦の場にいなかったから、そのように言えるのだ。不在であったことは貴公の罪ではないが、たとえあの場に貴公がいたとしても、現在の結果は変わらぬ」
趙始成は李哆に対して、暗に立場をわきまえろと伝えたつもりであった。しかし李哆は引き下がらない。
「康居の援軍が来襲したとのことですが、彼らが追ってこないのであれば、我々はここに駐屯するべきです。捲土重来を期すべきでしょう」
「駐屯だと? なんの作物も実らぬこの草原で、どうやって食を確保するつもりだ。我々がこの地にとどまったとして、失われた兵が戻ることはない。それに対して向こうは増える可能性が大いにあるのだ」
始成はついに李哆を叱りつけた。我々は今度は彼が李哆を罰するのではないか、と気を揉んだが、李哆はそれに構わず、視線を李広利に向けた。
「将軍ご自身のお考えを伺いたく思います」
李広利はそれまでだるそうな態度で話を聞いていたが、自身に意見を求められると強く言い放った。
「捲土重来を期すには、最初からやり直さなければ駄目だ。我々は、最初からつまずいた。長安を出て間もなく蝗害に遭い、食糧の多くを失った。楼蘭からは人質を受け入れているにも関わらず、何の協力も得られなかった。烏孫も同じだ。しかし大宛は康居から援軍を得た。大宛にあって、我々に足りないものは何か? それは味方であり、それを作る政治だ!」
「政治ですと? 大宛に打ち勝つことにこそ政治的意義があるのではないかと私には思えるのですが」
「結局は、一つ一つのことが政治的積み重ねで世の中は成り立っているのだ。漢に距離も近い楼蘭や姑師さえも味方に引き入れることもできないで、一足飛びに大宛を打ち負かすことはできない。結局我々は孤軍であり、軍略をもとにした行動ができなかった」
「では、将軍は先に楼蘭や姑師を征伐して、完全に漢に臣従させてから大宛を討つおつもりなのですか。それができれば最善ではありましょうが、あまりにも迂遠すぎます」
「もちろんだ。そんなつもりはない。私は、陛下に要請して軍を少なくとも三倍、いや四倍程度の規模にしてもらい、そのうえでしっかりとした兵站輸送の手段を確保してもらう。敵地のただ中を行軍するには、そのくらいの軍威を見せつけるしか方法はない。……よいか李哆、軍事の極みというものは、戦わずしていかに相手を屈服させるかだ。私が見るに、君はこの視点に欠けている」
李哆は納得がいかない様子で、李広利をにらみつけた。そして言うのである。
「たとえそうだとしても、皇帝陛下がそれを認めるでしょうか。おそらく陛下は言うでしょう。『敵に倍する軍勢を持てば、囲んで殲滅せよ』と。これは孫子も言っていることです」
李広利はしかし意見を覆さない。
「たとえ孫子がそう言ったとしても、現実を見るのだ。我々はすでに敵に倍する兵力を有していない。そして、仮に無傷だったとしても……いま明らかになったことは、西域全体が敵であった、ということだ。我々は彼らに包囲され、いま現実に殲滅されつつある」
そして一呼吸置くと、それに付け加えた。
「このような状況で君ひとりが撤退に反対し、それを行動に移すことは許さぬ。よって君には、新たに任務を与えよう。こちらに来るのだ」
そう言って李広利は李哆を引き連れ、その場をあとにした。
三
「私を追い払うのですね。任務にかこつけて都合よく厄介払いをしようと言うのですか」
李哆の言い分はすでに身分の違いを乗り越えており、これを理由に李広利は彼を処罰しても問題はなかった。しかし彼はそれを行おうとはせず、苦笑いを浮かべただけだった。
「おおよそ、その通りだ。だが、考えてもみよ……。郁成まで来たものの、その城さえ陥れることができないとあっては、大宛の都城にまでたどり着くことは難しい。どうにもなるまい」
「そこで、私に何をせよというのですか」
「うむ。ひとことで言うと、道の確保だ。次に我々が大宛を討伐する際は、諸国を平定しながら進む必要がある。そのための地ならしをしてもらいたい。……今回我々は亀茲国の手前から北上し、烏孫に渡った。そこでは比較的道は安全であったが、結論から言うと烏孫は駄目だ。味方としてはまったく当てにならない」
李広利は吐き捨てるように烏孫への嫌悪を口にした。昆彌の皺だらけの顔を思いだしたのであろうか、実際に彼は地面に唾を吐いた。
「烏孫が駄目な以上は、やはり我々に残された道は砂漠しかない。しかし、王恢どのの知識の多くは楼蘭まででとどまっている。そこで……君には亀茲国以西の道を調べてもらいたい。実際に行程にどのくらいの日数を要し、どのくらいの食糧が必要なのか、葱嶺を越えるには装備として何が必要か……調べてもらう項目は多岐に渡る」
「もっと……例えば敵の城に忍び込んで要人を密かに斬るなどという……劇的な任務はないのですか。私は、軍功をあげたいのです」
「短兵急に結果を求めるな。私は、我々に足りないものは政治であり、軍略であると言った。いまここで、たとえば郁成王を斬ったところでなんになる。そのような方法で郁成を抜けたとしても、我々のいまの兵力では絶対に弐師城を陥れられない。無駄なことだ。何が君にそのように功を焦らせるのか」
「私は、功を焦ってなどいません」
「いけしゃあしゃあと言う奴だ。本来であれば、将軍である私の決定に従わないことなど許されないのだぞ。それにさえも気づかぬとは、功を焦っている以外にないであろう。自分で気づいていないとしたら、ゆっくりその原因を考えてみるがいい」
「…………」
「君が今回の遠征で全体的に欲求不満だったことは理解できる。私だって、任を受けた以上はよい結果を得たいさ。だが、それはより多くの敵を殺すことに相違ないし、そもそも私は西域の人々になんの恨みもないのだ。そのような場でいたずらに成功を望むと、自分自身の死期を早める。人生半ばにして、無念にも命を落とした者が我が軍には多すぎた。だからこそ私は……次の戦いにむけて盤石の態勢を整えたいのだ」
李広利はそう言ってその場をあとにした。取り残された李哆の前にあったものは、安置された呂仁栄の遺体であった。それが、彼の見せたいものであったのだろう。
※
死体が何かを語りかけてくるということはなかった。そもそも李哆は軍人であったし、人の死には何度も遭遇している。生前の呂仁栄とはさほどの交流もなかった上に、実際に彼が死んだ場面には李哆はその場にいなかった。よって、仁栄がどれほどの激闘を繰り広げた上で命を落としたのかはわからない。
だから、彼は無神経になろうとした。
しかし遺体の喉元に大きく開いた穴は、やはり李哆の精神に訴えてくる何かがあったのである。
今回の戦闘では、敗れたとはいえ、郁成落城までほんの少しのところに迫ったという。それが仁栄の奮戦によるものであることが大きい、とは聞いていた。よって、仁栄は少なくとも李広利の軍の中では英雄扱いされている。
だが、それがなんになる? 仁栄はすでに死んでいるのだ。死して英雄になったところで功名は得られず、自尊心も満たされない。まして李哆は自分自身に、仁栄のような強烈な武勇を期待できなかった。
「軍功は死と隣り合わせ、か。将軍の言うことは正しいが……。私はどうやって父の汚名を晴らせばよいのか。しかし確かに私自身が死んでしまってはどうにもならぬ」
李哆は誰にも聞こえぬ位の声で、そう呟いた。彼の父は、過去に匈奴と戦う中で亡命し、それによって残された家族は不遇の運命を背負っていたのである。
四
撤退の道は考えていたよりも、ずっと難しいものであった。士気の低下は著しく、目的を失った兵にすでに規律はない。任務を完遂できなかった指揮官に対する態度もぞんざいなものとなり、逃亡する者も相次いだ。おそらくその者たちは、烏孫へ亡命するつもりなのだろう。あるいは寝返って大宛に保護を頼むかもしれない。だが、李広利は彼らを追わなかった。
「李哆はどうしたのですか」
軍の中に、彼の姿はなかった。よもや校尉である李哆までもが逃亡したか、と勘ぐる者もいた中で、李広利は李哆を西域西部の偵察に派遣した、と説明した。
「莎車国、疏勒国にいたるまでの道を確認させている。これは、この作戦に次があることの証だ。我々は、まだ終わらないぞ」
それが、李広利の狙いであったのだろう。実務的な調査の意味合いのほか、次に向けて手を打っていることを兵たちに示すことで、造反や離脱を防ごうとしたのである。
この施策は確かに効果をあげた。それ以降、兵の離脱は減少して、軍は粛然とした行軍の姿を取り戻し、少数ではあるが、忠誠心のある者を中心とした部隊が形成された。李広利は残りの軍糧を鑑みて、兵をふるいにかけたのであった。
そして我々は再びあの赤谷城へと赴いたのである。
目的は呂仁栄を公主のもとに戻し、葬るためである。斬馬剣と共に……。
しかし、当然のことながら公主の前に敗残の姿を晒すことには、気が滅入った。我々は皆、まるで降伏するかのような気持ちで入城せざるを得ず、実際に公主にまみえた際にも全くその気持ちが晴れることはなかった。
「とにかく、あなた方だけでもご無事で何よりでした。私には戦の勝敗は関係ありません。どうかこの地でくつろいでください。何も気になさる必要はございません」
そう言いながら、公主は涙を流した。確実にこの婦人は、最初に出会った頃より涙もろくなっている。その原因は、我々にあった。同胞を見ることで、我慢していた郷愁が駆り立てられるのであろう。
「……公主さまからは戦の勝敗は関係ないとのありがたいお言葉をいただきましたが……大変申し上げにくいことではありますが……お伝えしなければなりません。我々は郁成との戦闘の中で、呂仁栄を失いました。いま、ここに彼の遺体を……。公主さまに仁栄をお返しします」
すると公主は仁栄の遺体に駆け寄り、それにすがって泣いた。それまでしとやかに涙を流していた公主が、子供のように、声を上げて泣いたのである。
「公主さま、申し訳ございません。……仁栄は、本物の勇者でした。自らの命を省みず雄々しく戦い、敵の武将三名を斬り、指揮官をあと一歩のところまで追い詰めました。我々は皆、彼を英雄として崇めているのです」
公主はやがて涙を拭くと、仁栄の頬を撫でた。その仕草一つで彼女は落ち着きを取り戻したように、我々に向けて言った。
「苦しんだのでしょうか。喉に大きな傷がありますが……」
李広利は答えて言った。
「仁栄は敵の指揮官である煎靡という人物と一騎打ちし、終始優勢に立っていました。ところが煎靡を落馬させ、とどめを刺す寸前に、汗血馬によってそれを阻まれました。その一瞬の隙を狙われ、命を落としたのです。……即死でした。苦しむことはなかったかと思います」
公主は深い嘆きの表情を見せつつ、どこか自嘲気味な述懐を始めた。
「仁栄は、この私の傍に常にありながら……いつも理想の死に場所を探していたような人でした。私がどれだけ頼りにしてきたか、その気持ちをわかろうとせず……。今回あなた方の軍に仁栄を同行させたのは、あの人がどうしても行きたいと訴えてきたからです。私は傍にいてくれるだけでいいと思い、あの人に武勲など無用と思っていたのですが……男の人というものはそれがないと満足できないのでしょうか。思いが通じず、結局仁栄は死んでしまいました。私が素直にここにいてほしいと言えば、それも防げたかもしれませんが……」
「言えなかったのですか?」
「相手が異民族とはいえ、私はもう人の妻です。貞節の意識がそれを妨げました」
「そのような気遣いを……。昆彌は匈奴妻の家に入り浸っているというのに。しかし、そのことについては申し上げますまい。私が申し上げたいのは……仁栄は西域を恨んでいた、ということです。その理由は、西域の存在自体が公主さまの運命を狂わせたからだと、彼自身が話してくれました」
「仁栄がそのようなことを……。ですが、なにも自分が死ぬことはないでしょうに。しかも……私だけを残して」
「仁栄は、どうあっても公主さまとは結ばれぬ運命をひそかに嘆いていたのでしょう。武人とて人の子です。満たされぬ愛に絶望することもありましょう。ただ、彼は武人らしく公主さまの悪運の元をその剣で断とうとしました。非常に……果敢で、男らしい死に方だったと思います。どうか、公主さまのお住まいの傍に葬ってやってください」
「もちろんそういたします。この烏孫では、人を葬るということはせず、遺体を野に晒して鳥がその肉をついばむのに任せるのが慣わしらしいのですが、仁栄には絶対にそのような扱いはさせません。断固として現地の風習に逆らいます」
烏孫は葱嶺以西の国々と、その点において同じ風習を持っているらしかった。鳥葬や風葬と呼ばれるその慣わしを頭から否定するつもりはなくても、いざ自分が死後にそのような扱いを受けると思うと抵抗を覚える。まして、野に晒されるのが自分が愛した人物だと思えばなおさらであった。
「そして、この剣を公主さまにお渡しします」
李広利はおもむろに布に包まれた斬馬剣を公主に差し出した。彼女がその存在を知っていたかどうかは定かではなかったので、彼女の反応は我々の注目を誘った。驚くのか、悲しむのか……。
「その包みは始終仁栄が大事に抱えていた印象があります。やはり中身は剣だったのですね」
そう言いながら公主はそれを手にして持ち上げようとした。が、重すぎて持ち上げることができず、彼女は苦笑いしたのである。その様子に場が和んだ。
「とても重いでしょう。これと同じ剣が我が皇帝陛下のもとにあると聞いております。権力の象徴としてですが、仁栄はこれを実戦で見事使いこなした唯一の人物です。これを彼の遺品として、公主さまには大事にしていただきたいと存じます」
李広利は言いながら、包みを開けて中身を示した。そこにはぎらぎらと銀光りする、圧倒的な存在感を誇る斬馬剣が、未だ変わらぬ勇姿を保っていた。
「触るだけで血が出そうな……魔除けになりそうな剣です。仁栄の魂がこれに込められていると思うと、この私をも守ってくれそうな気がします。この宮殿に祭壇を設けて飾っておきましょう」
そして、彼女は再び涙に暮れた。
五
我々は赤谷城を後にして、再び天山を越えようとしていた。敗残の身には旅程も苦しく感じられる。往路も苦しいものであったが、敗れて帰るとなると目的意識も失われ、復路は一層苦しい。李広利も行軍を休み休み進め、急がなかった。
「公主の涙は、我ながらつらいものがあったよ。仁栄は公主のために自らの命をかけたわけだが、結局はその死によって彼女の心に悲しい思い出をひとつ刻んでしまった。私がその手助けをしたようで……いや、実際その通りなのだろうが……あの二人には本当に申し訳なく思っている」
しかしそのことを私に言われても、今更どうしようもないことだった。李広利もそれをわかっていながら、思いを口にするしかできなかったのだろう。仁栄を前面に出して戦うことは戦略上避けられない事実だったので、結局彼は結果を甘受することしかできなかった。将軍の判断が人の運命を左右する典型的な例であったというべきだろう。
「復路は往路と同じ道を行くおつもりですか」
私は意識して話題を転じた。つらい思い出を心に抱えながら行くには過酷な道である。集中して臨まなければ命を失いかねない。李広利には、将軍として心に残るわだかまりを忘れてほしかった。
「いまの我々は、軍隊としては取るに足らないような小集団だ。無理に他国を刺激しなければ、無難に各国の領域を通過することもできるだろう。天山を抜けて砂漠地帯に入ったら、烏塁や焉耆を抜けて、まっすぐに塩沢を抜ける。わざわざ楼蘭に立ち寄らなければ、白龍堆を通過することもないだろう。塩沢を通過して、玉門関を抜けて敦煌市内に入ることにする」
しかしそれには多くの日数が費やされるだろう。無難に各国の領域を通過するというが、それには危険が伴う。我々が取るに足らない軍隊だと知れれば、逆に危害を加えられる可能性が高いからだ。野盗にも注意しなければならない。
「仕方ないさ」
李広利は、それらの進言を受けても、そのように言うだけであった。あるいは勢力を失った漢軍が存在していることを知り、匈奴が攻めてくる可能性もあるだろうが、それを気にしていては先に進めない。
しかし、実際問題として対策は必要である。結局李広利は、各自軍装を解き、都市に溶け込むようにして旅程を進める方法を選んだ。軍を数隊に分け、行商人や旅人のふりをして先に進むのである。人数が減ったからこそ取り得る手法であった。
集合地点と日時を決めたうえで、数名の単位で行動する。天山を越えて亀茲国の輪台城に我々は入った。
静かな城内に響く弦の音。我々が到着したのは早朝であったが、すでに空は晴れ渡っている。弦の音は次第にその数を増し、半刻も過ぎると耳を覆うばかりの大音響が城内に鳴り響いた。
「市場が開かれたようです」
「……なんという騒々しさだ。しかし、人々は生活のためにこれほど陽気になれるものなのか。生き延びるためだというのに、彼らの表情には全く悲壮感がない。楽しんでいるのであろうか」
「悲壮な顔をした主人がいる店には、客は集まらないものです。実際、彼らは楽しんでいるのでしょう。それを証明するかどうかはわかりませんが、西域諸国の一般市民は漢の農民に比べて長命だとのことです」
店には、この地域の特産だと思われる品々が棚から溢れんばかりに積まれている。葡萄や瓜などの作物ばかりでなく、金属で作られた装飾品なども多数売られていた。
「この地方は鉛が産出するようです。また、隣の姑墨国では銅や鉄が多く産出されますので、それらを加工する技術も優れています」
私は説明したが、結局は眺めることしかできない。我々は、この地に流通する貨幣を持っていなかったのである。
だが、市場を前にしてただぶらぶらとその様子を眺めているのは不自然でもある。店の主人たちに不審な目で見られることは避けねばならなかった。
「雰囲気を味わいたいが、ここは人の目が多すぎる。早々に立ち去るべきだろう」
李広利はそう言って一同に先を急がせた。が、間が悪いことに李広利自身が客引きに捕まってしまった。
「旦那」
驚いたことに、この客引きは漢の言葉を操る。
「何か、買っていきなよ」
「私が、漢人だとわかるのか。それに、漢の言葉が喋れるのか」
「私、前に漢の使節の人を相手にしたことあるから、言葉わかる。だから、何か買っていきなよ」
厄介なことになった。騒ぎが広がって注目が集まるのは困る。
「私は君たちの貨幣を持っていないから、何も買うことはできないよ」
「物同士の交換もしているから。ほら、この葡萄酒なんか、漢の人は飲んだことないだろう? 高価な物だよ。二十年物だ。旦那のその腰に下げてある飾りと交換でいいよ」
李広利は慌ててそれを手の中に隠した。
「これは駄目だ。私にとって大事な物で、交換はできない」
「でも、それは玉だから、いいものと交換できるよ。悪い話じゃないぞ」
「替えられない価値のあるものなのだ。悪いが、買い物をする気はない。そろそろ行かせてもらうぞ」
しかしその商人は執拗に追いすがり、なかなか放してくれない。
「いい加減にしろ!」
李広利がそう言い放ったあたりから周囲が騒然となった。弦楽器の音に変わり、人々の怒号が辻に響き渡るようになった。
——まずい。
私がそう思ったのは、このような形で住民と揉めると、往々にして望ましくない結果を迎えることになるからである。
このとき、新たに騒ぎの中心に向けて駆け寄ってくる騎馬武者の姿が目に映った。
六
騎馬武者は二人組で、やや早駆けでこちらに寄ってきていた。それをただの野次馬と見るか、それとも危険の予兆と見るかは当時の心境による。私は、このとき非常に切羽詰まった思いをしていたことから、これを危険だと見なした。それも尋常でないものと。
私は、急いで李広利に駆け寄り、注進した。
「将軍、急いで逃げましょう! あれを見てください。僮僕都尉です!」
「なんだと!」
迫り来る二人は兜をかぶっていたため、はっきりとそれが匈奴とは確認できなかった。しかし襟足から見える編んだ後ろ髪を「辮髪」だと判断することは難しくなく、彼らが匈奴であることは間違いなさそうであった。
「ちっ」
李広利は舌を鳴らし、しつこい商人の手を振りほどいて走り出した。馬を止めていた場所にまでたどり着くと、荷を積んだままの状態でそれに騎乗し、一目散に走り出す。
「城門が閉ざされるかもしれぬ。急げ!」
このとき我々の集団はあわせて五騎であった。そのような小集団でありながらも匈奴は目を光らせている。集団の一つ一つをしらみつぶしに捕らえていくのは匈奴にとっても途方もない作業だが、我々が捕らえられてしまっては軍は瓦解するのである。いや、我々はまだよいとして、李広利自身はたとえどのような恥をさらしても、捕まるわけにはいかなかった。
一般的に城門とは、昼間は開放されているものである。夜間や戦時には固く閉ざされるが、通常時に通過することは難しくない。事態を知った門番が、急に門を閉ざすことがなければ、都市を脱出することは可能であった。
問題なのは、追っ手もこれを楽に通過できるということである。つまり、門を抜けても決して安全は保証されないのであった。
しかし幸いなことに、門を出ると我々を追捕しようとする輩の姿は見えなくなった。
「助かった。だが、なぜ追ってこないのだろう」
李広利は息を弾ませながら、安堵と懸念を同時に表現した。
「おそらく、城外に部隊を待機させていると判断したのでしょう。しかし、城内に入ったのは失敗だったかもしれません。市場でどうにか軍糧の足しになるようなものを手に入れられると思ったのですが、これでは不可能です」
「うむ。……私が思うに……あの商人め。奴は匈奴の息がかかった男だ。あるいは匈奴そのものかもしれぬ」
「どうして、そう思うのです?」
「どうしてと言われても困るが、感じるのだ。奴は、我々の他にも通行人は大勢いたのにも関わらず、私にだけしつこくつきまとった。そして私が漢人であると一目で見抜き、出し抜けに漢語を操って……」
「考えすぎではないでしょうか。輪台の住民の姿は、漢人に似ているとはいえ、若干違います。あの商人も将軍のお姿が地元の住民のそれとは違うと思い、声をかけたのでしょう。……そうではないのでしょうか?」
李広利は乱れた髪を整えながら、答えて言った。
「王恢どのは私などより、こちらの事情には明るいと思っていたがな。あれは確実に匈奴の息のかかった者だ。たまたま漢語ができて、たまたま私が通りかかったから声をかけた、そんなはずがあるまい。しかも騒ぎが起こるとほぼ同時に僮僕都尉が現れるなど、不自然だ。不自然すぎる。おそらく、住民の多くは匈奴に通じていて、匈奴は彼らに対して指令を放っていたのだと思う。大宛に敗れた我々が通過したら、極力引き留めておき、その間に通報せよ、と」
「では、輪台の住民は実に従順だということになります。匈奴は、この地で愛されているのでしょうか。誰もがその支配を快く受け入れている、と?」
「いや、推測だが、そんなことはないと思う。ただ、権力者にへつらえば褒美がもらえるし、その後重要な役割を与えられてひと財産築けるかもしれない、その程度の希望を抱いているだけだろう。快く思っていない人物は必ずいるに違いない」
「探しますか? そのような人物を。それにしてもどうやって……」
「やはり、我々が姿を晒すしかないだろう。そのたびに今回のような騒動が沸き起こり、我々は危機に瀕する。しかし、そのようなときこそ救ってくれる者が現れるかもしれない」
「迂遠な話ですな。しかも実現しない可能性が高い」
実際のところ、我々には現地に味方が必要であった。そこでこの計画を実行することに決めたのだが、それは確かに苦難を伴うことになったのである。
亀茲国の輪台城は現在のブグル県。東にコルラ市、西にクチャ県があり、この地区一帯は「アクス地区」と総称される。作中の時代よりあとに仏教が伝来し、その中心的な存在となったが、この時代では単にタクラマカン砂漠の北側出発点以外の意義は少ない。これはしかし、全く意義のない都市であったというわけではなく、後世に伝わる記録が漢によるもの以外に存在しないので、その意義が正確に伝わっていない、と言えるだろう。残念ながら伝わらずに終わっている歴史というものは、往々にして存在するのである。