第29話 百万石の誘惑
「戦功第二、小早川秀秋殿!」
「はっ!」
三成に名前を呼ばれ、俺は背筋をぴんと伸ばした。
言ってみれば、ここは俺が思い描いていた理想の小早川秀秋の集大成の場だ。
油断すれば、思わず顔がにやけそうになるのを堪え、必死に格好よさを保った。
「美濃一国を与える!」
「ありがたく頂戴いたします!」
両手をつき、秀頼に頭を深々と下げる。
事前会議に少し参加した際に内示を受けていたため、驚きはなかった。
しかし、美濃は55万石の肥沃な地だ。
小早川秀秋が持つ筑前、筑後の35万石と合わせれば、合計90万石になる。
この上となると、豊臣家を除けば、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝の三人しかいない。
当然、大評定の間はざわめきに包まれ、一瞬の静寂もなかった。
『美濃となると、飛び地になりますが……。
秀秋様に東海道と中山道を守っていただければ、我らは心強いのです』
事前会議で告げられた三成の意図は明白だった。
つまり、来たるべき徳川家康との再決戦、あるいは侵攻に備え、それまで盾として立つ、ということだ。
俺は短い間だったが、岐阜城の城主を務めた。
愛着も少しあったし、雪の故郷でもある。断る理由もなかったため、引き受けた。
ただし、条件をつけた。
戦功第一として推薦した真田昌幸への褒美だ。
『戦功第二の俺に美濃をくれるというのなら……。
戦功第一の真田殿が北信濃だけでは、様にならない。
信濃そのものと、甲斐の二国。それでこそ、戦功第一に相応しい』
皆は、新たな大大名の誕生に多少の迷いを見せたが、俺が強く推す真田昌幸なら、と納得してくれた。
俺は心の中でニヤリと笑った。
本当の目的は、美濃へ至る中山道を真田昌幸が守ってくれれば、俺は楽が出来るからだ。
なにしろ、真田昌幸は三千の兵で、徳川秀忠が率いる三万五千の兵を苦しめた。
その真田昌幸が大領を得て、大きな兵力を動かせるようになれば、これほど心強いことはない。
唯一の懸念は裏切りだ。
俺の知る歴史において、真田昌幸は『表裏比興の者』と讃えられた人物だ。
その意味は要するに『長いものには巻かれろ』に長けた人物ということになる。
しかし、俺は真田昌幸が旧主『武田信玄』の熱心な信奉者であることも知っている。
真田昌幸が、かつて武田信玄が支配していた信濃と甲斐を手に入れたら、必死になって守るだろうと考えた。
それに、真田昌幸の息子は現代では『幸村』の名で知られる『真田信繁』だ。
絶対に起こさせない大阪夏の陣で、徳川家康から『日ノ本一の兵』と讃えられている。
つまり、真田昌幸と真田信繁の二段構えがあれば、俺は岐阜城で安心して高いびきをかけられるというわけだ。
きっと中山道だけでなく、甲斐と信濃に隣接する東海道も守ってくれるに違いない。
俺の未来は明るい。
誰にも見られる心配のない下げた頭の奥で、俺はニヤリと笑った。
「そして!」
「……えっ!?」
ところが、もう終わりだと思った三成の言葉が、さらに続いた。
俺は思わず目を見開き、体をビクッと震わせた。
「新年を待って、官位『権大納言』が帝より下賜される予定になってます!」
「ななっ!?」
そして、明かされた衝撃のサプライズプレゼント。
俺が頭を跳ね上げ、上半身も仰け反ると、三成は嬉しそうにニコニコ笑い、秀頼もまたニコニコと笑っていた。
こいつら、俺が本気で喜ぶと思ってやがる。
思わず『お前ら、アホか!』と叫びたくなるのを堪え、周囲のどよめきを無視して、頭を勢いよく再び下げた。
「謹んで、ご辞退させていただきます」
「ど、どうしてっ!?」
秀頼が叫び、立ち上がる気配があった。
『いや、秀頼君……。ちょっと待って? よく考えてみよう?
今の君の官位は『権大納言』で、俺が貰おうとしてるのも『権大納言』だよ?』
『多分、俺の任官に合わせて君の官位も上がるんだろうけど……。
一時的にでも、君主と家臣が同じ官位ってのは、さすがにマズいでしょ?』
今すぐ秀頼にズイッと歩み寄り、両肩をグイッと掴んで諭したかったが、さすがに場をわきまえた。
もっとも、まだ七歳の子どもだ。
多分、自分と同じになって嬉しいな、くらいの感覚なのだろう。
「所領の獲得は武士の本懐。
関ヶ原で共に戦った家臣たちに報いるためにも、ありがたくお受けいたしました」
「ならっ!」
「しかし、すでに過分なる名誉を賜っております。これ以上は、恐れながら不要にございます」
「でも……。」
俺はそれっぽい理由を並べて取り繕ったが、秀頼の声には不服さがありありと滲んでいた。
残された時間はわずか。
俺は頭を必死に巡らせた。
自分の性格はよく分かっている。
代官を立てて所領を任せっきりなんて芸当はできるわけがない。
間違いなく、筑前・筑後・美濃を駆け回る、慌ただしい日々になるだろう。
豊臣家の幹部として大坂にも顔を出さねばならない。
淀の方をからかうのが最近の生きがいだから、一年の半分は滞在していたい。
この上、京都で宮中行事にも顔を出せだと。ブラックにもほどがある。
筑前、筑後、美濃の三国を合わせて、90万石。
ここまできたら、100万石の響きに憧れはあるが、手一杯だ。
そう思った瞬間、頭の中に天啓が舞い降りた。
「ぁっ……。」
いつの間にか、大評定の間は静まり返っていた。
思わず小さく漏れてしまった声を聞こえなかっただろうか。
そう、『100万石』というフレーズ。
憧れの漫画で見た、褒美の『100万石』を辞退する名場面。
人生で一度は口にしてみたい、あのセリフ。
この場面でも、きっと通用するはずだ。
さあ、見て驚け。魂を震わせて感動しろ。
この大評定の間を、感動で満たしてやる。
「そんなものより……。」
「そんなものより?」
俺はすっと頭を上げ、爽やかな笑みを浮かべた。
三成の背後には書記官が控えており、誰の発言も一字一句もらさず筆を走らせている。
当然、これから俺が放つ、格好いい決めセリフも、きっちり記録に残るというわけだ。
もしかしたら、後世の誰かがこの記録を読んで感動し、逸話として語り継ぐかもしれない。
「秀頼様が酒を飲めるようになった暁には……。」
よし、歴史に残る準備は整った。
俺は早鐘のように打つ胸の鼓動を感じた。
喜びのあまり、全回転してしまいそうなほど痺れる。
一呼吸置き、最高の決めセリフを放った。
「一献くれまいか」
数え切れないほどの息を呑む音が、大評定の間に響いた。
見開かれたであろう数多の視線をビンビンに集うのを感じる。
俺は最高の達成感に包まれ、口がニマニマと緩んでしまうのを必死に堪え、爽やかな微笑みを何とか維持した。
今、言った最高に痺れる言葉には、三つのポイントがある。
一つ目は、単純に『権大納言』の官位は要らないという点。
二つ目は、『権大納言』の官位より、秀頼から酒を一杯もらうほうが俺にとっては嬉しいという点。
三つ目は、特に重要な点『秀頼様が酒を飲めるようになった暁には』だ。
まとめると、『大人になったら、酒を一緒に酌み交わす仲になりましょう』という意味になる。
つまり、雅にシャレを効かせつつ、秀頼に生涯の忠誠を誓い、俺に野心がないことを明確に伝えているのだ。
「うん! 約束だよ!」
そこまで、7歳の秀頼が理解したかは分からない。
だが、『ずっと一緒にいたい』という思いは、確かに伝わったのだろう。
秀頼は目を輝かせ、嬉しそうに俺の元まで駆け寄り、抱きついてきた。
「ええ、約束です」
俺は思わず笑顔でウンウンと頷き、秀頼の背中をポンポンと優しく叩いた。
横目でチラリと窺うと、三成が涙をハラハラとこぼしていた。
その相変わらずの涙もろさに、笑顔を苦笑に変えようとして、はたと気づく。
近ごろの俺は、食欲を整え、味わいを深めるために、食前に一口だけ酒を口にしている。
それを、いつも秀頼は妙に熱心な眼差しを見つめていた。
もしや、俺と酒を飲むために、酒を覚えようとするつもりではなかろうか。
なにしろ、小早川秀秋という、あまりにも悪い前例がある。
奇しくも同じ7歳で元服した小早川秀秋は、大名たちとの接待で、酒を飲まされるようになった。
だから、自分まで大丈夫だと思い込まないよう、あらかじめ釘を刺しておく必要がある。
「あっ!? まだ子どもなのに、俺みたいに飲んじゃ駄目ですよ?
未成年の飲酒、駄目、絶対! お酒は大人になってから! 15歳になってからね!」
「うん……。美味しくないしね」
「こらっ! 変に大人の真似しないの!」
「はーーい」
すでにやらかしているようだが、これで大丈夫だろう。
素直に元気よく返事をする秀頼を見て、俺の胸はほっと温かくなった。




