63
綿貫ゆかは、母が大好きだった。
寛大だが厳しい所には厳しい。礼儀作法というよりも、倫理や道徳感などを重んじる人だった。
それで愛情は惜しげもなく注ぎ、家族の時間をとにかく大切にしていた。
休みの日は一緒に遊び、イベントもこれでもかとたくさん行ってくれた。こと誕生日はゆかが引くほどに豪勢に行っていた。
「あなたが生まれてきてくれて、それだけでママは世界一の幸せ者なんだから」
にっこりと笑顔を向けて来る母だった。
父との記憶はない。祖父母もゆかたちにはまるで興味がないという様子で、顔を思い出そうとしても全く出てこないありさまだった。
幼稚園では薫と出会い、家も隣合うので当然のように仲良くなった。
薫の家は仕事の関係で両親が家にいないので、それでよくゆかの家で夕食を摂ったり、泊まったりもしていた。
父という概念がない生活が当たり前だったゆかにとって、毎日が楽しく幸福だった。
その時は知らなかったが、祖父母からの執拗な嫌がらせや、父の不貞行為など、母を煩わせる現実があったのだが、それをおくびにも見せない生活だった。
そんな毎日の中で、突然父が現れた。
「なんの役にも立たないと思ってたが、お前たちにもやっと役目ができたぞ」
ゆかが9歳の誕生日を迎える数日前の日だった。
父は愛妾を家に連れて来た。大きく出た腹部には、綿貫家念願の男子がいるという。
そこから緩やかに地獄への転落が始まった。
母はまるで奴隷のように扱われた。数日後だったゆかの誕生会は取りやめになり、母は愛妾の世話を焼かされた。精神が不安定になりやすい性分だったらしく、呼吸ひとつでも目障りだと愛妾は母に暴力を振るうようになった。
しかし母は「誰であろうと、子供は未来だから」と言ってやり返す事はなく、むしろストレスは胎児に悪いからと、八つ当たりを甘んじて受けて自分を捨てた男が連れ込んだ女の胎児のためにサンドバッグになっていた。
最初こそは母だけだった攻撃の対処はいつしかゆかにまで向くようになった。
露骨な暴力は、母の居ぬ間に起きた。
母を折檻するのに使っていた木の棒で背中や腹を叩かれた。反撃してやろうかとも思ったが、母の教えを守り、止めた。
しかしある日、ついに青あざができているのを母に見られてしまった。
母は泣いてどうか娘だけはと、懇願した。土下座を強要され、躊躇せず頭を下げた。
それを見てゆかは泣いて母を止めた。母の尊厳を踏みにじられるくらいなら、暴力なぞ甘んじて受けようと思った。大好きな母が頭を地べたにこすりつける姿なんて、見たくなかった。
しかし気でも触れたような愛妾は、狂笑を上げながら母の頭を踏んでいた。
神様。どうか、この人を止めてください。
踏みにじり、鼻から血を吹き出した母の顔を見て、ゆかは必死に神に願った。
そこで運命は少しだけゆかに力を貸してくれた。
笑っていた愛妾は突然苦しみはじめると、一気に破水した。大きく動いた事で陣痛が来たのだ。
それに気付いた母は、けがを負わされた相手だというのを忘れたのか、大慌てで救急車を手配し自分を踏みつけた相手を励ました。
無事に子供が生まれると、今度は愛妾が疑心暗鬼にとらわれたのだ。
我が子は愛おしい。しかし、自分は動けない。では自分が踏みにじり暴力を振るった相手は今はどうだ。
半狂乱になる愛妾に、父は「子供は生まれた。お前に用はない」と興味の欠片もない目で見て、どこか知らない田舎へ放逐した。
災厄が去ったと一安心していたゆか。母は気付かなくてごめんと何度も詫びて来た。幸い大した怪我もなかったので、ゆかは平気だと笑った。
一方で母は何度も頭を踏みつけれたせいで、青あざだらけになっていた。鼻は折れ、歯はかけていた。
しかし災難はまだ続いた。
妾に子を産ませたとなっては、現代社会では風当たりがよくない。父は愛妾との子を母との子だと宣い、母を外へ連れ出すようになった。顔は見てくれが悪いとすぐさま優秀な整形外科へ連れて行った。
そんな地獄が続き、10歳の誕生日。ゆかは高熱に倒れた。




