4.朱鷺を烏─1
雨だ。
芙蓉はぼんやりと寝台に近い窓から外に手を出して雨粒を受ける。
長雨の時期にはまだ早いが、意外に雨足は強かった。
蘭國の川は川幅が狭く弓なりのものが多いため、川が氾濫してもおかしくないのではないかと思った。
父は昔芙蓉に砂場を作って実践してくれたが、弓なりの川は放水路を作らなければすぐに溢れる。
こんなに父のことを思い出すのは、きっと紅鳶のせいだ。
芙蓉はすっかり冷めた花の入った茶を眺める。
嬰翔に教えて貰って、少しはましな茶を淹れられるようになったのに、彼が口にしたのは二口ほどではないだろうか。
勿体ない。さすが貴族の坊ちゃんだ。
しかし芙蓉にも事を急ぎすぎた自覚があった。
何か間違っていたのかと言われたら彼も自分も間違っていたと思う。
芙蓉は話の段階の踏み方を間違えたし、彼は身の振り方を間違っていた。いや、今もきっと間違ったままだ。
まあ、彼の兄に会ったわけではないので一概には言えない話ではあるのだが。
人様のお家事情に口を突っ込んでいる場合ではない、と彼に父を重ねてしまう自分を戒める。
「……うん、ちっとも似てません」
そう、口に出して言い聞かせた。
女にだらしない彼と違って、父は朴念仁で母を失っても後妻を取ろうとしなかった。
華美できらきらした彼と違って、父はいつも髪も伸びっぱなしで身なりに気をつかわなかった。
考えれば考えるほど似ていない。そう思うと、安心した。
それにしてもあれほどの美形に組み敷かれたというのに芙蓉にはなんの感慨もなかった。
強く打つ鼓動は胸の高鳴りではなく、殺されるかもしれないという危機感のためだ。殺気に当てられたせいでまだ寒気がする。つくづく青春を棒に振っている自覚がある。
きっと自分が葵の姫として彼と出会っていたら、違ったのだろうなと柄にもないことを思った。
時折、慶朝から貰った簪を髪に挿してみることがある。
鈴扇に負けず取らず朴念仁の父は芙蓉にこういった髪飾りを買ってくれたことがなく、身に着けるだけで心が躍った。女に戻ったような気がした。
葵家に連れ戻される前にもう一度くらい女の格好で出歩いてみたいから、汀眞に髪の結い方を教わるのも手かもしれない。
ああ、でもあの簪を身につけて朝廷に残る手もあるかと考えて思考を中断した。今は何も考えたくない。
芙蓉は寝台から立ち上がると、箪笥の奥にしまったはずの簪を手で探る。
……そう、何度も探った。
「んっ?」
おかしい。いつも置いてあるはずの場所に簪が見当たらなかった。
「あれ、何処にしまいましたっけ……?」
芙蓉は物持ちがいい方ではないが、片付けが得意な方でもない。
よって国試受験の後見人である驟雨の家にいた時はよく筆を失くしたし、資料を失くして嬰翔に怒られることもよくある。
だからこのときは、また探せばいいかと思ってしまったのだ。
※
翌日出仕すると、國府はにわかに騒がしかった。
何故か全員が変に芙蓉によそよそしい。何か小声で話していたかと思うと芙蓉に気を使ったように話をやめる。
まず門の前で國軍の兵士たちが急いで出て行ったのも気になったが、刑曹の官吏たちが出払っているのも気になった。
鈴扇に事情を聞こうと思うと彼も昼過ぎまで帰らないと言われた。何か事件が起こっているとしたら芙蓉が呼ばれないのはおかしいと思って待っていてもだれ一人呼びに来ない。
ただいつも通り処理が必要な書類が運ばれてくるばかりだ。
何かがおかしい。
そう思って官吏たちの話を柱に隠れて聞いていると、どうやら彼らは紅鳶の話をしているようだった。
「おい聞いたか、紅鳶様の話」
「聞いたよ、妓女と心中し損なったんだろ!」
「俺は殺したって聞いたけど」
紅鳶が妓女を殺した。
耳を疑ったが、全員憐れんでいるというよりはざまあみろといった表情をしており、紅鳶の馬鹿息子芝居もうまくいっているのだなと変に感心した。
しかし、そうも言ってはいられない。副官である芙蓉が國賓ともいえる紅鳶の状況を把握していないのは由々しき事態だ。
「その話、私にも詳しく教えてください」
「えっ!?莢官吏……」
声をかけられた官吏たちはそろって目を見合わせるが、芙蓉に見つめられて口を割らない官吏は國府にはいない。
お願いします、ともう一度念を押すと全員が渋々といったように口を開き始めるのであった。
※
官吏たちの話をまとめるとこうだ。
紅鳶は昨日芙蓉と別れた後、妓楼に立ち寄ったらしい。
そこで事件が起こった。
朝目覚めた紅鳶の横には死んだ妓女が横たわっていた。
死因は首を絞められたことによる縊死。茜の私兵たちが部屋の前で見張っているため、彼以外に部屋に立ち入った者はいない。
となると犯人は紅鳶しかいない、ということになったらしい。
「そんなことあると思えないんですよね」
歩きながら、芙蓉は紅鳶の性格を考えて彼が妓女を絞殺した可能性を否定した。
彼に限って、一夜を共にしただけの女を突発的に殺すわけもない。
細かい場所までは聞いていなかったが、赤髪の集団は目立つのですぐに目当ての店にたどり着いた。
芙蓉がほとんど通ったことのない歓楽街の朝の風景は独特である。多くの人間は後ろめたいことでもあるのか官服姿の芙蓉を避けて通る。芙蓉としても関わろうとは思わないので有難い話だ。
妓楼と言っても王都に店を構えている高級娼妓を抱えるような大店ではない。
地方國都、しかも発展の乏しいと言われる蘭國の妓楼らしく少し外観も古びている。おそらく普段は芙蓉には寄りつけない入り口部分に、今は官吏が出入りしているおかげで紛れて忍び込みやすい。
「莢官吏!」
「失礼します、現場はどこですか」
芙蓉に気が付いた官吏たちはハッとして止めにかかろうとするが上官を力づくで止めようとする者はいない。
何か言いたそうにするが、おとなしく芙蓉の前を歩き始める。
刑事事件を担当する刑曹の官吏がしきりに周囲の人間になにやら聞いて回っているあたり、噂は本当らしい。
「芙蓉、お前誰かから聞いたのか」
階段を少し上った部屋の前に鈴扇がいるのが見えて声をかけようとすると、その前に気が付かれて呆れた顔をされた。
芙蓉には黙っておくように言ったのは彼ではないだろうかとその勘が告げる。
「皆さんがよそよそしかったのでおかしいと思ったんです。私に気を使ってくれたんですか?」
「お前は紅鳶と親しかっただろう、見るのは辛いかと思って……待て勝手に!!」
鈴扇は止めにかかったが別に死んだのは紅鳶ではない。
芙蓉は床榻に倒れ掛かるように死んでいる女性に近づいて顔を見た。
化粧のせいかもしれないが、割に綺麗な顔の死体だ。首周りの跡やうっ血を確認していると、周りの官吏や兵士たちが気味悪そうな顔をしている。
「お医者様はいらっしゃいますか」
「今呼んでいる最中だ」
芙蓉が聞くと、鈴扇は諦めたのか答えてその横に「何かわかったか」と膝をついた。
「顔面が蒼白ですね。鈴扇様は首絞め死体か首吊り死体を見たことがありますか」
「いや、見たことはない。殺人と言ってもほとんどはかっとなって殺人に及んだ剣か拳での犯行だからな」
首絞め死体はともかく、通常自殺は國府が取り扱うことはないだろうからしょうがないかと思った。
医者が来るまで正確なことは分からないが、芙蓉は自分が分かるだけのことを述べる。
「縊死には首吊りと首絞めの二つの場合があります。前者は顔面が蒼白になり、後者は顔に血がたまって紅潮します。これは首絞めではなく首吊り死体です。うっすら縄の跡が付いていますし、縄で首を吊ったのでしょう」
通常首を絞められて死ぬと顔に血がたまって紅潮するはずの頬は白く、目が充血した様子もない。
どうやら紅鳶が妓女に首を絞めたという線はなさそうで少しだけほっとする。
そう思ってからパンと、両頬を張った。
「どうした?」
隣で鈴扇がぎょっとする。
「……いや、変なことを考えてしまいましたので」
ほっとした、確かに抱いてしまった感情に自分がまた紅鳶を父に重ねてしまったような気がして腹立たしかった。鈴扇は不思議そうな顔をするものの、会話を進める。
「首を吊った?ではなぜ横たわって死んでいるんだ?」
「そこまでは分かりません」
芙蓉は悲観するでもなく観察を続ける。女性の髪は香油でも塗りたくっているのか少しべたついている。
目を開かせて見ると、充血はしていないが元来の虹彩の色が赤かった。
「目が赤いのに髪は黒いですね」
芙蓉は妓女の目の色を覗き込んで確認する。
色で言えば、朱鷺色とでもいえば良いのだろうか。桃色に近い気もする。
とにかく薊國の色か茜國の色か芙蓉には分からなかった。
「妓女には多いらしい。混血は珍しいことではない」
混血か、と芙蓉は首を捻る。同じ国なのに妙な言い回しだなと思うことがある。
芙蓉自身母の出身を知っているわけではないが、その髪の黒さの割に薄い目の色素は混血と思われても仕方ない。
芙蓉の目は黒と白が混ざった灰色だが普通は髪と瞳にはっきりと二色が表れるのかと思った。
女性の髪色は一般的な葵國の黒だ。
考え込んでいるとふと、見覚えのある赤髪が視界を横切った。
見ると感心したように紅鳶が女性の顔を観察する芙蓉を見ていた。
何故か湯浴みを終えたようにさっぱりしているのは見間違えだろうか。
「……何してらっしゃるんです、紅鳶様」
「ああ芙蓉、驚いちゃったよ。起きたら隣で死んでたから」
朗らかに笑うその顔には罪悪感も、悲壮感も何もない。
この人は殺していないとすぐに分かったが、同時に何が起こっても動じない彼に不気味さを感じる。
「おかげで心中し損なったみたいに言われてるしいい迷惑だよね」
「違うんですか」
心配して損したような気分になって、受け流すように言うと彼は芙蓉の肩にその手を乗せた。
「違うに決まってるだろう、僕は今死ぬわけにはいかないよ」
「なんで平然としてるんです?嘘でも慌ててないと犯人だと思われますよ」
「どんな態度とっても一緒だよ、僕の横で女が死んだっていう事実は変わらない」
食事の際には必ず毒見役をつけ、常にその腰から剣を離さない。おまけに毒蛇を突き付けられたって顔色一つ変えない彼が今更人が死んだくらいで弱腰になるはずもなかった。
こういう人だったなと思いながら、芙蓉はふと紅鳶に向き直って問う。
「変なこと言っていいですか、もしかしてこれ私が変に口を出さなくても茜家の権力で握りつぶせたりします?」
昨日組み敷かれたときは本気で命の危険を感じたが、その時思ったことと同じである。彼の権力の前では一官吏の命など塵も同然。妓女ならなおさらだろう。
もしそうなら、芙蓉が余計な頭を悩ませるのは時間の無駄だ。
「残念だけどそれは無理かな、本家は僕が消えてくれたらいいなって思ってるし」
「そうなんですね」
意外だとは思ったが感情の乗らない声で言うと彼は芙蓉を見てにっこりと微笑む。
「冷たいな、昨日のことなら気にしなくていいよ。僕も頭を冷やしたし」
「……はぁ、そうですか」
聞きながら芙蓉はじっとりとした目で紅鳶を見返した。
頭を冷やしに来るのが妓楼とは芙蓉には到底理解できそうもない。
そしてさっきから鈴扇の視線が痛い気がするのは何故だろうか。
芙蓉は二人の視線から逃げるように紅鳶の腕をすり抜けると、床搨の近くにあった窓を見た。
窓というほど大層なものでもない。言ってみれば換気口のようなもので格子があって外に逃げることもできない。
近くにあった椅子に登って見ると外側には川が見えた。細い通路のようなものが見えるが梯子などを駆けられたような跡もない。
どうやらここからの侵入は難しいようだった。掃除もあまりしていない下級妓女の部屋だったのか、ほこりが鼻に入って思わず咳き込んでしまう。
そうしているとふと、格子の隅に筋のようなものが見えた。見るとその部分だけほこりが取れている。
「ここ見てください。縄が通った跡がありますよね」
上背のある鈴扇は少し背伸びをしてその跡を見る。通った後が直線ではないのはそこに通った縄が揺れた証拠だ。
「確かにそうだな。ここから首を吊ったなら足をついていない状態になるかもしれない」
「で、紅鳶様が捨てていない限り凶器も見つかっていません」
「捨ててないし、殺してもないよ」
芙蓉の問いかけに紅鳶は失礼な、という顔をする。
「これは一人の犯行ではありませんね」
その言葉に鈴扇も少しは見当がついていたのか腑に落ちた顔をする。紅鳶はというと黙ったままでこちらを見て微笑んでいる。本当に食えない男だ。
芙蓉はもう一度妓女の傍らに座り込むと、その目を再び覗き込んだ。
「あまり死体に触るなよ」
「鈴扇様は薊國の人間と茜國の人間の目の色の違いって分かりますか」
はい、と気のない返事をしてから芙蓉は鈴扇に問いかける。紅鳶に聞かないのは碌な答えが帰って来ないのを知っているからだ。
「いや、正直これだけ見ても茜國の人間か薊國の人間かちっとも分からないな」
「この人の、髪切ってお借りしてもいいですか」
ひっ、という声が周囲から上がったのが聞こえたがそんなものはどうでもいい。
正直目玉をくりぬいて持ち帰りたいと言わなかっただけ大目に見て欲しかった。
※
「まったく、なんなんですかあの人は」
あの後何かと絡まれはしたが、結局芙蓉と鈴扇が紅鳶に下した判断は事件が解決するまでの謹慎だった。
彼は容疑者であり、このまま何の証拠も出てこなければ蘭國の罪人として罰せられる。
紅鳶は茜家には願ったりかなったりだと言ってはいたが、彼の身を預かっている以上鈴扇も看過できない状況だ。
何故かそのまま芙蓉は彼の昼寝に付き合わされる羽目になり、彼の部屋を出ると正午をとっくに過ぎていた。
芙蓉の方は昨日のことがあって気まずいのに、彼は何もなかったように振舞うので妙に気疲れした。
「芙蓉さん、来られてたんですね」
そう、呑気に紅鳶の部屋の前で芙蓉に声をかけてきたのは彼の従者の一人である莫であった。
今日は食べ物を持っているわけではないが、玻璃で作られたおもちゃを鳴らしている。明らかに仕事をしているときの姿には見えない。
「主人が大変な時に優雅ですね」
芙蓉が皮肉をこめてそう言っても彼は無表情のままである。
「だって主人がいなくなればその間は休みですからね。給料の心配はありますが、緋鶯様からねだればいいですし」
「真面目にしてくださいよ、莫さん」
いつも通り隣にいた姜が白い目で彼を見ている。彼はと言えばいつも通り真面目に主人の部屋の前を真面目な顔をして守っていた。それが普通のはずなのだが、どうも莫を見ていると調子が狂う。剣の柄に掛けられた姜の手に白い布が巻かれているのを見て、芙蓉は思わず声をかける。
「どうされたんですか、それ」
「ああ、これですか」
本人が言いにくそうにしているのでどうしたのかと思っていると莫の方が答える。
「毒蛇ですよ、また仕掛けられていたんです」
「またですか!?」
こちらに来てからも紅鳶の毒見役が既に何度も毒を吐き出したのを見ていた。今まで彼がくぐってきた死線の数を考えると震える。
「お恥ずかしい話です。莫さんなら絶対に切り捨てられたのに。芙蓉さんに対処法をお聞きしていてよかった」
姜は恐縮して答えるが、莫は話に興味がないのかすぐにまた玩具遊びに戻る。
綺麗な色の玻璃の玩具はぽぺん、と間抜けな音を出した。
ここにいても埒が明かないので戻るかと思って歩き始めると芙蓉さん、と後ろから声がかかった。
見ると莫がその目を少しだけ開いてこちらを見ていた。
普段目を開けていない人間が少しでも目を開くと、こうも恐ろしいのかと少し肝が冷えた。
「逃げるなら、今のうちですよ。あの人は玩具に執着しません。せいぜい弄ばれて捨て置かれるだけです」
はあ、と芙蓉は気のない返事をする。
そう思うならその手に持った玩具を置いてのらりくらりと芙蓉の質問を躱す主人の事情聴取を変わってほしかった。
※
國府に戻った芙蓉は鈴扇に紅鳶の状況を伝えた後に汀眞に会いに行こうと思っていたが、嬰翔に用があるらしい鈴扇も着いてくることになった。
嬰翔の邸宅までの道を歩きながら、鈴扇は咳払いをして問いかけてくる。
「……その、昨日のこととはなんだ」
「昨日のこと?……ああ、紅鳶様のことですか」
一瞬、何かと思ったが紅鳶が「昨日のことは水に流す」と言ったことについてだろうと勘付く。
鈴扇は芙蓉が休んでいなかったことを気にしているのだろう。
「昨日は休みを取らせていたはずだろう」
案の定そう言われたのではぐらかすように目を泳がせてしまう。
「ああ、たまたま街で会ってしまって連れ回されてたんです。おまけに私の部屋まで来たいというので入れたのですが、少し立ち入った事情に触れてしまって怒らせてしまいました」
「……部屋に入れたのか?」
「男同士だし心配はないでしょう?」
そう言うと、鈴扇は何か言いたげな顔をしてから芙蓉から顔を背けた。
こういう間は嬰翔でないと彼の真意が分からないので困る。
「立ち入った事情、か。そう言えば、私のところに离鴇殿の容体について文が来ていた。もう本当に幾日持つか分からないということらしい」
「…そうですか」
既に一部の業務は紅鳶の兄である緋鶯に引き継がれているとは言っていたが、それでも國は大きく変わるのだろう。
面白い話ではない。彼は一度も父親が恋しいという顔は見せなかったが、本当のところは分からない。芙蓉なら一時でも多く父の傍にいたいと思うが、彼の場合は違うのだろう。
鈴扇は芙蓉の顔を伺いながら話題を変える。
「一つ気になるのが、家畜に流行り病が出たらしい」
「家畜の流行り病ですか。茜國は元が遊牧民ですものね。羊ですか。牛ですか」
農業の中でも牧畜の盛んな茜國にとって、牛や羊の流行病はひどい痛手だろう。
何個か思い浮かべるが、こういった問題で一番難しいのは信用の回復だと思い当たって険しい顔になる。
人間の病と違って牛や羊は喋らないから病の特定が難しいのだ。
「そこまでは書いていなかったが……そういうことも詳しいのか」
「そうですね、父上は最初農業の学者になりたいと思っていたみたいで、詳しかったですよ。村に住んでいた時も良く助言していましたね」
そう言うと鈴扇は首を振った。
「芙蓉、お前の話を聞いている」
芙蓉は思わず目を瞬かせて首を捻った。
「……と言っても私の知識はほとんど父譲りなので、答えはほとんど変わりませんよ」
「変わる、私は月英殿に聞いているわけではない」
「はぁ」
気のない返事にこれ以上言っても無駄だと思ったのか、鈴扇は溜息をついて話題を変えた。
「……今度から紅鳶と出かけるときは私に声をかけろ。お前が外に出られない口実ぐらいは作ってやれる」
「それは助かりますが、あの人今は謹慎中ですし。どうせあと一週間もいないんじゃないんですか」
一週間後。もしくはそれより前。离鴇が死ねば茜國は、花興は確実に変わる。
その波が、どのようにこちらに届くかが芙蓉には気がかりで仕方なかった。
※
「えっ!?汀眞殿いないんですか?」
汀眞に見てもらうためにわざわざ死人の髪を持参したというのにこれでは骨折り損である。
嬰翔は鈴扇から資料を受け取りながら、苦い顔をした。
「あー、入れ違いですね。さっき出て行きましたよ。鬼の居ぬ間になんとやらですね」
「……困りました、すぐに聞きたいことがあったのに」
「僕でよかったら伝えておきますけど」
そう言われて芙蓉は嬰翔の顔を神妙な顔で見返した。
「……嬰翔様、薊國の人と茜國の人間だけはその髪の色の違いが分かるんですよね」
「そうですね、できますよ」
「すいません、お湯と桶をお借りしてよろしいですか。汚してもいい、汚いものでいいです」
彼女らは少し戸惑う顔をしたもののすぐに準備に向かってくれる。
「ふ、芙蓉殿?それってもしかして」
嬰翔は芙蓉が取り出した紙に包まれているものを見て顔を歪ませる。彼がこういった類が苦手だと思ったから汀眞に頼もうと思ったのに、計算違いだった。けれど今は背に腹は代えられない。
「ええ、死体の髪です。汀眞殿に見ていただきたくて」
「ひぃ!なっ、なんで持って帰ってきたんですか!?あなた前から思ってましたが墓掘り起こしたり、賊相手に喧嘩吹っ掛けたりちょっと無鉄砲が過ぎますよ!」
「別に今回はそんなことしてるわけじゃないですよ。目玉持って帰って来なかっただけましだと思ってくださいよ」
芙蓉と嬰翔がそんな言い争いをしている間にも、運ばれてきたお湯を受け取ってその中に女の髪を沈めた。
「なんてことを言い出すんですか……!鈴扇も黙っていないで止めてくださいよ!」
「それが事件解決につながるなら仕方がない」
鈴扇、と嬰翔が悲痛な声を上げたところで、お湯の色がどんどんと黒く染まっていった。
それを見て彼は芙蓉を盾に取って桶から顔を背けた。
「うわぁ!!呪いですよ!!あなたが持ち帰ったりするから女の怨霊が乗り移って……」
「死人にそんなことはできません。よく見てください、染料が剥がれただけです」
芙蓉が髪を持ち上げて見ると、湯に溶けた染料の中から浮かび上がったのは彼女の瞳同様の朱鷺色であった。
「えっ……?」
「嬰翔様、薊國の人と茜國の人間だけはその髪の色の違いが分かるんですよね」
「……汀眞じゃダメなんですか?」
なおも顔を逸らす彼に、どうしてもと言わんばかりに詰め寄った。
紅鳶達に聞かなかったのは碌な答えが返ってこないと思ったからであり、嬰翔の答えに事件解決の鍵がある。
「今すぐに知りたいのです」
嬰翔は薄く目を開けながら見ると苦しそうに言葉を捻りだした。
「えぇ、うぇっ…えーと、間違いなく茜國の色ですね。え、どういうことですか?葵國民の振りをしていたってことですか?」
やはりだ、と芙蓉は合点がいって頷く。
生え際に薄く違う色が見えた気がしたのは、気のせいではなかった。
事情に詳しくない嬰翔よりもむしろ鈴扇の方が驚いているようだった。
「芙蓉、どういうことだ?」
「聞き込み対象の変更をします。彼女は妓女なんかじゃない。普通の茜國の女性なんです」
何を思ったかまでは分からない。
しかし彼女はなんらかの意味があって、朱鷺を烏に染め替えたのだ。
遅くなってすいません




