花火が札幌に行った理由
第一章
花火は、これはどこにでもある普通の家族の昼食会なのだと自分に言い聞かせようとした。けれど、その日はどこかおかしかった。ほんの二十分のあいだに、ありえないほど青かった空が灰色の雲に覆われてしまったせいかもしれない。それなのに、雨は一滴も落ちてこない。
まあ、ここはマンチェスターだ。しかも九月のマンチェスター。それ以外に何を期待しろというのだろう。
そう、雲くらいどうということはない。
『雨は降らないと思います。予定どおり、庭のテーブルのセッティングを続けてください』
今日のために手配したケータリング業者の二人に、花火は凛とした声で告げた。
『かしこまりました、お嬢様』
二人は声をそろえて答え、緑の芝生が広がる庭の中央に置かれた長方形のテーブルに、銀食器とピンク色の磁器の皿を並べていった。花火の母はかなりの財産を持っていたが、豪邸を欲しがったことは一度もない。家族が集まれるだけの庭がある、中くらいの家。それで十分だと言っていた。
でも、ここにもう一つ、おかしなことがある。
九月。祝日でもなんでもない。それなのに……
「花ちゃん、人に指図するくらいなら、少しは手伝ったらどうだ?」
双子の兄の、あのろくでなしが、日本語でそう言った。
花火は目を回して振り返った。カーキ色のセットアップ――花火に言わせればとんでもなくダサい――に身を包んだ兄が、キッチンと庭をつなぐ白いガラス戸を閉めているところだった。
「飲み物の買い出しも、料理選びも、メニューも、全部私がやったの。ティラミスまで作ったんだから。で、そっちは?……ああ、そうだった。何もしてないんだっけ」
春樹は口をパクパクさせて彼女の口真似をしてみせ、花火も負けじともう一度目を回した。
「ぐぬぬ……。祝日でもないのに、なんで来たのよ」
「ママに頼まれたんだ」
「……頼まれた、だけ?」
やっぱり、妙だ。
「いつかは会わなきゃいけないだろ、ママの恋人に。人柄を見定めるのに、俺ほどの適任がいるか? おまえは頭が空っぽで、何の役にも立たないしな」
「半年も顔を見せなかったくせに。夏休みにも来なかったじゃない。兄さんに口を出す権利なんてないわ」
「同じ腹から生まれて、しかも俺のほうが八秒早い。口を出す権利は大ありだ」
春樹はそう言いながら芝生を踏んで離れていった。きちんとしたカーキのセットアップを着ているくせに、足元は白いスリッパだ。
花火はつい吹き出してしまった。
(ここは札幌じゃないのに。うちに来るたび、家の中で靴を履くのにいつまで経っても慣れないんだから)
兄が庭の二本の大木のあいだにイルミネーションを吊るす手伝いを始めたのを見て、もう離れてもいいと判断した。
今日に潜んでいる「何か」。胸の奥の妙な息苦しさがそう告げているのに、石像みたいにここに突っ立っていても、その正体はわからない。
キッチンを通り抜けるとき、視界の端に、リビングのソファでテレビのアニメか何かを見ている、巻き毛の幼い少女が二人映った。そのそばには四十代くらいの男性。少女たちの巻き毛は彼ゆずりだ。
『ハーイ!』
通りかかった花火に、そのうちの一人が声をかけた。
『ハーイ!』
花火も挨拶を返した。
気づけば小さなため息をつきながら、応接間にたどり着いていた。年下のほうのローレルは、何度そばを通っても、通るたびに必ず「ハーイ!」と声をかけてくるのだ。
『お昼ごはん、もうできたの?』
『まだよ、おばあちゃん。でももうすぐ』
花火は祖母の前にかがんで答えた。祖母は花柄のソファと同じくらい茶色のスーツを着て座っている。その膝の上のワイン色のウールのブランケットを、きれいに整えてあげた。
『サラがあなたのカメラを置いていってくれたわよ、ほら、そこに。写真を撮っていらっしゃい、ふふっ』
祖母の笑い声につられて、花火も小さく笑った。けれど、胸の痛みを思い出させるには十分なほど、弱々しい笑いだった。
『今日はあんまり撮る気になれないの、おばあちゃん』
『あら、どうして? あなた、庭のパーティーが大好きじゃない』
花火は肩をすくめ、部屋を横切って、写真立てがずらりと並ぶ小さなテーブルへ向かった。どれも自分で撮った写真だ。その脇から、愛用のキヤノンAE-1を手に取る。八歳の誕生日にもらった、宝物だった。
あれが、両親そろっての祝福だったのか、それとも離婚と、それに伴う家族の分断への埋め合わせだったのか。花火は今でもわからない。
サラ・マクギルが日本に留学し、恋に落ち、結婚して、八年も日本に住み続けた――それは傍目には映画のような物語だった。けれど家の中では、どんな夫婦も向き合うことになる意思疎通のずれ――同じ言葉を話していても、同じ文化に生きていても避けられないもの――が、二人を取り返しのつかないところまで追い詰めたのだ。
最初は深く愛し合っていた二人。結婚してわずか一年で、自分たちよりも愛おしい二つの命を授かるほどに。けれど、わかり合えないことが、少しずつ夫婦の愛を殺していった。その結果、赤みがかった髪の少女は、故郷マンチェスターに戻った赤毛の母と暮らし、もともとは妹と同じ赤みがかった髪をしていた少年は、父に似せるために髪を黒く染め、父の故郷である札幌に残ることになった。
花火は写真立てを見つめた。巨大なイルミネーションツリーが立つ書店で、父とクリスマスを過ごす自分。そのとなりの、彼女が撮ったのではない一枚には、マンチェスターのクリスマスマーケットで母と並ぶ春樹が写っている。
そうして何年ものあいだ、母も父も、本当に望むもの――二人の子どもがいつも一緒にいること――を百パーセント手にできないまま、引き裂かれている姿を見てきた。
『ママが最初のお店を開いたの、何年前だっけ?』
祖母に聞こえるよう、声に出して尋ねた。
『六年前だったと思うわよ』
そう、六年。サラがデザイナーという夢を、本物のオートクチュールの事業にしてから六年。わずか数年で、街の小さなブティックの店主から、世界にその名を知られ、尊敬されるデザイナーへと駆け上がった。
『ときどき思うの……。もしママがパパと一緒にいたら、札幌に残っていたら、デザイナーになれたのかなって。今の「サラ・マクギル帝国」を築けたのかなって。……それで、もしなれなかったら、ママは幸せだったのかなって』
花火は、母が初めての作品の隣に立っている写真を手に取った。ホログラムのように、陽の光を浴びていろんな色にきらめく白いドレス。蝶がちりばめられている。名前は「花火」。彼女と同じ名前だ。
『今日はどうしたの、あなた?』
祖母がソファの上で向き直る気配がした。花火も視線を返す。
『どうしてそんなに、あれこれ考えるの? 人生はなるようにしかならないのよ』
『おばあちゃんは、ママは幸せだと思う? 特に今は。仕事だけじゃなくて、いろんなことで満たされてないって感じてる今……。その、ジャックと、あの子たちがいて』
スーザンは目を細めた。
『まさか、やきもちじゃないでしょうね?』
『違うよ、全然!』
花火は慌てて否定した。そう、それじゃない。でも、何かではあった。
そう、何かがある。今日という日に、何かがあるように。
そして、何事も自分で把握しておきたい花火にとって、わからないということは、死ぬほど苦しかった。
『じゃあ、ジャックもローレルもソフィーも、嫌いなの?』
『ううん! みんないい人たちよ……たぶん』
『たぶん?』
『まだ半年しか知らないんだもの。何もかも急だったの。ママが紹介してくれたのも、特にあの子たちは、すごく急で。ある日顔合わせをしたと思ったら、それから二か月は、毎週末来るようになって』
自分でも驚くほど、たくさん話していた。この思いをどれだけ長くしまい込んでいたのか、気づいていなかったのだ。喉につかえていた重いものを、吐き出すようだった。半年。ちょうど半年だ。
『やきもちでも、反対でもないなら、何なの?』
祖母の問いに、壁際まで追い詰められた。最後通牒を突きつけられたような気分だった。
単純な質問だ。こんなに難しいはずがない。それなのに、どうして私は部屋じゅうに視線をさまよわせて、祖母の目から逃げて、両腕を宙に振り回して、結局ただ肩をすくめているのだろう?
『えっと、わかんない! 少なくとも、うまく言えないの。ごめんなさい』
スーザンはため息をついた。
『誰かに話してごらんなさい。誰でもいいけど、ママ以外にね。あの子は今幸せだけれど、あなたに少しでもためらいがあると感じたら、迷わずさっと身を引いてしまうわよ』
『そんなの、望んでない!』
『私だって、あなたが何だかわからないものを飲み込み続けるのは望んでないわ。あなたは怒っているのを隠すのが本当に下手なんだから。それだけじゃなくて、お腹にも溜まって便秘になるでしょう。それが一気に出たら、神様、もう……』
『おばあちゃん!』
『言ってるだけよ。私は、娘にも孫にも、幸せでいてほしいの。ちゃんと話し合いなさい』
花火はごくりと唾を飲み込み、祖母の言うとおりだと頭を下げた。
『……はい、おばあちゃん』
* * *
庭に戻ると、パーティーはすでに幕を開けていた。少女たちはテーブルの左側に座り、年上のソフィーのスマホで何かを見て笑い合っている。TikTokが好きなのだ。花火は同じ十八歳だけれど、そういう習慣はなかった。
画面をスクロールするたびに、終わりのない迷路に閉じ込められて、気づけば外の一日が終わっている――そんな気がしてならない。使い方を制限するよりも、そもそも避けることにしていた。けれど、それは彼女たちにとってほぼ唯一の娯楽でもあって、三人のあいだに本当に話せる話題を見つけるのは難しかった。
春樹が用意したスピーカーから、グー・グー・ドールズの「Iris」が流れ出した。
「パパ、この曲大好きなのよね」
いつの間にか兄が飲み物のテーブルの隣に来ていたことにも気づかず、花火は思わず声に出していた。
「二〇年代から九〇年代まで、何でも好きだからな、パパは」
花火は笑ってうなずいた。
「なんでかわからないけど、この曲を聴くと、私の人生で一番好きなドラマを思い出すの。ドラマで流れたことは、実際は一度もないんだけどね」
「うげっ! おまえ、まだヴァンパイア・ダイアリーズ観てるのか? 最初に気づいたときにパパに告げ口しとくべきだった。あれは破廉恥の塊だぞ」
春樹は上唇をゆがめて、嫌悪の表情を浮かべた。
「堅いこと言わないでよ。ただの西洋のティーン向けドラマじゃない、ほかのと同じ」
「いい影響を受けたのがよくわかるよ」
「私のどこが悪いのよ? 庭のパーティーにスリッパで来てるのは私じゃないでしょ!」
「スリッパで砂糖ゼロの炭酸を飲んでるほうが、ブランドもののヒールを履いて、家族の前でシャンパンを飲んでるよりずっとましだ!」彼は妹の手元を指さした。「……しかも、子どもの前でな!」春樹は声をひそめ、さらに芝居がかった調子で言った。
「堅いこと言わないで。スパークリングワインを一杯、大人と一緒に飲んでるだけでしょ。違法でも何でもないわ。少なくとも、イギリスではね。それに私はイギリス人よ」
「札幌の産院生まれのな!」彼は声を張り上げた。「それに、なんで酒なんか要るんだよ。素面でもポンコツなのに、酔ったらどうなるんだ」
言い返す代わりに、花火はグラスの中身をほとんど飲み干すほどの大きな一口をあおった。
その様子が春樹の目を引いた。彼は背筋を伸ばし、妹をじっと見つめた。
「何か、俺の知らない問題でもあるのか?」
花火は一瞬だけ兄を見た。猫とネズミのように喧嘩ばかりしていても、二人は兄妹だった。互いを自分のもう半分だと思っている――良くも悪くも。この庭にいる誰かに、胸のこの苦しみを少しでも打ち明けるとしたら、それは彼だった。疑いようもなく。
「特におかしいことはないの。ジャックも、あの子たちも、何も悪いことはしてない。ただ、何もかもが急だっただけ。ママのことは嬉しいの。でも、消化しきれないくらい多すぎるのよ。兄さんは知らないでしょうけど、離婚に慣れるまで、旅ばかりの生活と、休みのたびに親を行き来する生活で、二年もかかったの。それなのに、つきあって四か月の恋人を紹介されて、その娘たちまで来て、そのうえ二か月も毎週末、あの人たちの影の中で暮らしてるのよ?」
花火のささやきが、これほど雄弁だったことはなかった。春樹は空いている手をズボンのポケットに突っ込み、スリッパに目を落とした。
「……複雑だな、控えめに言っても。でも、ママの人生だ。わかってるだろ」
「そう、そうよね。口を出すつもりはないの」
「でも、おまえには、受け止めるのがきついんだな」
春樹は、解決策を示せないときに慰めるのが得意な人間ではなかった。要するに、相手の愚痴の一部をそのまま繰り返し、それが相手の痛みを肯定する手段になると思っているのだ。
いつもなら、花火はそれが癇に障った。けれど今は、解決策をもらうことより、ようやく話せる相手ができたことのほうが大切だった。慰めなら、彼がそこにいてくれるだけで十分だった。
『みんな、座りましょう! 皆さんにお知らせしたいことがあるの!』
二人の母が、曇天の一日を照らすような輝く声で言った。
少女たちはすぐにスマホをしまった。ジャックはテーブルの反対の端からサラの隣に来て、立った。花火は祖母の隣に、春樹は妹の隣に腰を下ろした。
『まず最初に、集まってくれて本当にありがとう。特に春樹、ママの呼びかけに、あんなに遠くから来てくれて』
『俺って、やっぱり最高の息子だろ?』
彼は花火をからかった。花火は彼を蹴った。
春樹は声にならない悲鳴を上げ、目をむいた。危うく叫ぶところだった。
サラは、二人にはもう慣れっこだとばかりに首を振り、話を続けた。
『さて、皆さんご存じのとおり、神様のお導きで、私はジャックと再会しました。彼が最近買い取ったマンチェスターのアートギャラリーの展覧会で。子どものころの同級生だったのよ、また会える日が来るなんて、誰が思ったかしら?』
彼女が笑うと、ジャックの照れくさそうな笑いも重なった。彼が続ける。
『それで、人生のチャンスは大切にしなきゃいけないと思い出したんです。だからこそ、一週間前に、彼女にプロポーズしました』
来た。
これだ。
何かがおかしいという感覚。自分の鼻先で、何かが起きていた。耳元で叫んでいた。花火はようやく、それが聞こえた。
春樹がその瞬間、彼女を見つめた。祖母も同じように。サラの親友を自称する彼女が、何か予想していたのではないかと、二人は疑っているようだった。
でも、違う。
神に誓って、違った。
『そして、私は受けたの!』
サラは小さく歓声を上げ、恋人――いや、婚約者を横から抱きしめた。
ソフィーは感動して泣き出し、ローレルは、意味をよくわからないまま笑っていた。ただ嬉しかったのだ。
不意に、全員が立ち上がり、サラが感じているのと同じだけの感動で、二人を祝福し始めた。彼女は輝いていて、誰もがその光の中に身を浸したくなるような人だった。
けれど、花火は、呆然としていた。
もう一度言う。母のことを悲しんでいるわけではない。
けれど、これは多すぎた。
あまりにも、多すぎた。
昨日までの自分は、離婚した女性の娘――私生活の不幸を、仕事で埋め合わせてばかりいた女性の娘――だった。それが今日は、「ママの恋人」と呼べる人がいて、「ママの恋人の娘たち」と呼べる子たちがいて、そして今から……「継父」。さらにその先には、「姉妹」まで。
花火はふらつく足で何歩か進み、深く息を吸ってから、笑みを作った。自然に見せるのにあまりに力が要って、まるで顔に粘土が詰まっていて、何かを表情にするのに苦労しているみたいだった。
『ジャック、ママ……おめでとう!』
『ありがとう、花火! これでもっと家族らしくなれるね』
『ありがとう、私の娘! 素敵でしょう? 家がにぎやかになるわ、長いことなかったくらいに!』
花火は無理に笑顔を作った。
『……もちろん! 素敵』
* * *
ああ、もう。多すぎる。
花火は白っぽい自分の部屋の中を、ぐるぐると歩き回っていた。ここにあるものはすべて、完璧な秩序のなかにあった。ベッドの横の壁に飾られた写真から、向かいの壁の本棚に色のグラデーション順に並べられた本まで。
「時間が必要なの」
歩いているうちに、廊下を挟んで春樹の部屋の向かいにある、自分の部屋のドアの前を通りかかった。少し開いた兄の部屋のドアの隙間から、スーツケースが床に放り出されているのが見えた。開けっ放しで、服が散らばっている。
ふだんなら、文句を言うだけだっただろう。けれど、これがアニメなら、彼女の頭の上に電球がぱっと灯っていたに違いない。
「そうよ。ただ走り出して、叫びたいだけ。本当にそうしちゃおうかな」
花火は、スパークリングワイン一杯で酔うほど弱いとは思っていなかった。三杯目くらいからなら、そうかもしれない。でも、飲んだのは一杯だけだった。
次に起きたことを、アルコールのせいにはできない。絶望のせいでもない。実のところ、これほど「優等生」な人間が、十八歳になってようやく人生初の衝動的な決断をするなんて、遅すぎるくらいだった。
窓の下の机から白い木の椅子を引き、そこから夜明けまで続く作業が始まった。
「日本のカリキュラムを調べないと。それに、念のため何人かの先生にメールしなきゃ。推薦状は、いくらあっても困らないから」
彼女は声に出して考え始めた。
衝動的な決断のなかでさえ、自分が何をしているのかは、わかっていた。
「成績証明書、修了証、単位の互換……それから、もちろん、飛行機のチケット」
* * *
翌朝、朝食のあと、全員が春樹を見送る準備をしていた。けれど、その前に起きたことは、サラにはとうてい予想できなかっただろう。娘が、前日にパーティーを開いたのと同じ庭に、彼女を呼び出したのだ。
『ママ、パパが恋しいの。春樹のことも。高校は札幌で卒業したい。うちの家族の学校で』
サラはむせて、何度かまばたきをした。冗談だと思い込めたかもしれない――娘の計算高い性格がなければ、そして濃い茶色の瞳に宿った、決意に満ちた眼差しがなければ。切れ長の目元は日本人の父譲りで、母方のイギリスの血も流れている。けれど彼女が一緒にいたいと望んだのは、その父のそばだった。
日常の外。計画の外。ただ、突然言い出したのだ。
『そ、それって、結婚の発表と関係があるの?』
サラは娘の白い手を握った。
『ううん、全然』
今度は、花火の自然な笑みは、完璧に訓練されていた。
『春樹が帰るのに合わせて行きたいだけ。ひとりで旅するのは嫌いだって、知ってるでしょ? それに、日本の高校生活を体験するのも、楽しそうだし』
『楽しい? あなたのお兄ちゃんがどれだけ必死に勉強してるか見てごらんなさい! それにあなたはここでもうちゃんと進路が決まってるじゃない。すごく大変になるし、それに……』
『ママ、私が全部準備してないと思う?』
その問いは、完全に修辞だった。
もちろん、花火・マクギル・山本は、すべて計画済みだった。
『山本家は春樹の学校のオーナーなのよ。正確には、パパが。名門の私立だし、急に転入するのは私だけじゃない。マンチェスターの学校にもすでにメールしたわ。みんながお祝いしてるあいだに、全部整えておいたの。信じて』
十八歳の少女を信じろと母親に頼むのは難しいことだっただろう――それが花火でなければ。
これまでの人生、彼女は、裕福で影響力のある母の名前も、札幌で最高の私立校を所有する裕福な父の名前も、一度も使ったことがなかった。この瞬間こそが、それを使う唯一の正当な理由に思えた。サラでさえ、それを悟った。
二人はおそらく、さらに十分ほど言い合った。反対されるたびに、花火は答えを持っていた。
『なんなら、今パパに電話するわ。もう話はついてるの』
花火はジーンズのポケットからスマホを取り出した。
『パパが全部説明してくれる』
『ううん。いいの、いいの。パパとちゃんと話がついてるなら、それでいいわ』
元夫に電話するという切り札は、ほかのどのカードよりも効いた。意外なことに。
サラはしばらく娘を見つめていた。
『ああ、神様。寂しくなるわ』
そして母は、窒息しそうになるほどの力で娘を抱きしめた。
彼女は、連合王国じゅうのイギリス人のなかで、いちばん感情豊かなイギリス人だった。
『毎日電話するから、心配しないで。夏休みが二倍になるだけよ』
『わかったわ。空港まで送りましょうか?』
『ううん、大丈夫。ママが私に付き添ったら、春樹が泣いちゃうもの。春樹はいつもひとりで行くのに』
『でも、ひとりで行きたいって言うのは、いつもあの子のほうよ!』
『知ってる。でも、お兄ちゃんは大げさだから』
二人は同意して笑い合った。
『ああ、もう』
サラは舌を鳴らし、もう一度娘を抱きしめた。今度は、何も言わずに、数秒のあいだそのままでいた。
花火は、旅の前にいつもそうするように、母のシナモンの香りを記憶に刻み込んだ。今度こそ、出発までの時間と同じだけ、その香りが持ちますようにと願いながら。
『行かなきゃ。春樹が私を置いていく前に』
『そうね……急だったけど、まあ、うまくいくことを願ってるわ。それから、作った書類と表は全部送ってちょうだい。ゆっくり全部読みたいの』
『うん、送る』
花火は少しずつ離れていき、台所のドアの金色のノブに手を伸ばした。これ以上ぐずぐずしていたら、自分が計画した無茶を諦めてしまう。それがわかっていた。
『ねえ……』
『なに?』
『本当に、これでいいの?』
花火は、無理に笑った。
よくなんてなかった。けれど、時間が必要だとわかっていた。空間が。何千キロも離れた場所で、叫んで、泣いて、駄々をこねても、もう誰のことも気にしなくていい場所が。
それ以上に、あらゆる意味で自分自身を理解する必要があった。なぜなら、あの瞬間、誰かに母の結婚について、ジャックについて、あの子たちについて聞かれたら……そう、それらが全部いっぺんに起きて、自分が本当はどれほど何も知らないかを悟ったからだ。もしかしたら、自分だけの時間を手に入れれば、わかるようになるかもしれない。
『すごくしたいの、ママ』
『わかった。愛してるわよ』
『私も、愛してる』
* * *
花火は、朝食のあいだ応接間に隠しておいたスーツケースを、タクシーのトランクに積んだ。運転手は、すでに春樹の分を積み終えていて、手伝ってくれた。その春樹は先に車に乗り込んでいて、花火が家から出てくるところをまだ見ていなかった。
「十九時間の旅の準備はいい?」
彼女は元気よくそう言って、車に乗り込んだ。
「うわあああああああっ!」
春樹は、魂が抜け出たかのように絶叫した。
その瞬間、彼女は首から下げたカメラを構え、彼を撮った。
「おまえ、ここで何してるんだ!? まだクリスマスじゃないだろ!」
「知ってる。でも、この週末で全部手配したの。高校は日本で卒業するわ。もしかしたら、同じクラスになれるかもね。……ううん、よく考えたら、それって運が悪いってことかしら?」
彼は深く息を吸い、目を閉じてから、もう一度妹を見た。
「頼む、酔った勢いでこんな決断をしたって言わないでくれ」
「まさか。人生でこんなに素面だったことはないわ。ママの新しい状況を全部理解するのに半年かかった。今度は、自分のペースで、半年かけて消化するの」
春樹は、昨日、妹が胸の内を打ち明けたとき、慰めではなく解決策を示してやらなかったことを、心の底から後悔した。
「日本で高校を終えるだけよ。何が悪いの?」
彼女は笑った。
「何か悪いことでも起こると思う?」




