乾坤一擲の入社式(前編)
入社式という戦地を前に、俺は手洗い場の鏡と向き合っていた。
鏡の俺に自問自答する。
——よう、俺。随分と情けない面だな。
——もう一人の俺!?
——そうだ。裕翔。お前はもう、今、トイレに来た時点で決心してたんじゃないか?
——……まあな。
——異世界転生するよりも、今のお前には大事な使命があるだろう。どうせ死ぬなら戦地で、だろ?
——ああ。そうだったな。ありがとう。もう一人の俺。
——裕翔、大人になったな……。
もう一人の俺と拳を合わせ、トイレを出た。
「おお。ユウ。随分ゆっくりだったな」
「う、うん。ちょっとだけ……時間、かかりました」
席へ座り、あたりを見渡す。
窓際、壇上脇、挙句には扉前にまで刺客が出揃っている。
なんと律儀で仰々しいことだ。
もう、逃す気はないらしいな。
だが、壇上にだけはまだいない。
どうやら、まだお披露目するほどでもないみたいだ。
随分と慎重だな。
いや、違うな。
出る幕でもないというわけか……。
舐められたものだな。
——キーン
突如、マイクが悲鳴を上げる。
時計の針は8時を指していた。
「えー。それではですね。20XX年新入社員入社式を行います。一同、ご起立ください」
——ガタッ
まるで軍隊のように、新卒たちが一斉に立ち上がる。
「社訓唱和!新入社員一同は前の掲示をご覧ください!」
「我が社はッ!やりがいが全てであるッ!」
堰を切ったように、司会を務める社員が叫ぶ。
それに続き、新卒たちも叫ぶ。
ば、馬鹿な……。
社員のたった一声。鶴、いやライオンの一声だけで、新卒たちは洗脳されてしまったというのか。
おいおいおい。
ラスボスすら来てない段階だぞ。
ありえないだろ!?
——これが、大人の社会……。
この日、俺は身に沁みて知った。
大人社会に蔓延る底知れない悪を。
せっかく、俺と出喜流だけが犠牲になる道を選んだというのに。
くそっ!
こんなんになるならトイレから帰ってこなければよかった。
「わ、我が社は……やりがいが、全てである……」
とはいえ、ここは様子見だ。俺も洗脳されたふりをして、申し訳程度に口を動かした。
「我々はッ!積極的に動くことにより、海外事業でも前年度比およそ二倍の業績を達成しております!これからも積極的な活動を通し、積極的に……」
司会を務める正社員は死んだ瞳をしていた。
それなのに声だけは明るく、会社のビジョンについて随分とお気楽な話を続ける。
それに賛同するように頷く新卒たち。
俺は絶望した。
もう、誰も救えないのか……。
そう思い、出喜流のほうへ振り向く。
出喜流はメモ帳を開けて何かを殴り書きしていた。
な、なるほど……。
その手があったか!
メモ帳に文字を書くことに集中し、洗脳から身を守っているのだ。
さすが出喜流だ。
——やがて、長きにわたる司会のスピーチは幕を閉じた。
質問は一度たりとも投げかけられなかった。
安堵も束の間。
何か引っかかる気がした。
小一時間は過ぎたというのに、一度たりとも質問を投げてこないだと……?
いや……。
俺は気がついてしまった。
違和感の正体を突き止めた途端、寒気が走った。
——俺たちの戦いはまだ、始まってすらいなかったのだ。
長いスピーチで肝心なことを忘れさせ、俺たちを油断させるつもりだったのだ。
まんまと嵌められた。
そう。
——壇上の中央には、まだ誰も立っていない。
くそっ。盲点だった。
まだ、ラスボスが来てないじゃないか!
「それでは、新入社員へのご挨拶をお願いいたします。稲井社長」
——社長。
その言葉が静まり返った会場に響き渡った。




