第3話「ただいま禁止令」
「ただいま」
その一言で、壁が“増えた”。
俺は腹じゃなく、胃を押さえた。
追手の声が近づいてくる。
松明の光が、石壁を赤く染め上げていた。
俺はどうやってこの窮地を脱するか、必死に思考を回転させていた。
逃げる場所はない。
このダンジョンは、まだ入口から続く一本道と、この少し開けた空間しかないのだ。
罠もなければ、戦ってくれる魔物もいない。
「どうする……隠れる場所なんて……」
焦る俺をよそに、セレナはまるで散歩でもするような足取りで、ダンジョンの入口付近へと歩いていく。
「ちょっと、何してるんだ! 見つかるぞ!」
俺の制止も聞かず、彼女は入口の空間に立ち止まった。
そして、壁に向かって深く一礼し、口を開いた。
「ただいま」
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴッ!!
鼓膜を揺るがすような地鳴りが響いた。
地震か?
俺は慌てて姿勢を低くする。
だが、揺れているのは地面だけではなかった。
周囲の石壁が、まるで生き物のように蠢き始めたのだ。
光の粒子が宙を舞い、壁の表面を縫うように走る。
それはまるで、見えない巨大な針と糸が、空間そのものを縫い直しているかのようだった。
「な、なんだこれ……!?」
俺の目の前で、ただの岩肌だった壁が平らに削られ、そこに木製の立派な扉が『生えて』きた。
足元の土は敷石に変わり、ご丁寧に靴を脱ぐための上がり框まで形成されていく。
システムウィンドウが、警告音とともに目の前にポップアップした。
《ホーム指数が上昇しました》
《設備『玄関』が増築されました》
「げ、玄関……!?」
俺は絶句した。
ダンジョンとは、魔物の死気や侵入者の絶望を養分にして成長するものだと記憶している。
だが、この迷宮は今、聖女の「ただいま」という一言で成長したのだ。
「玄関は家の顔ですからね。靴、揃えてください」
セレナは満足そうにうなずき、振り返って俺に微笑んだ。
「いや、そういう問題じゃない! 壁が増えたぞ!? どういう原理だ!?」
「実家が広くなるのは当然ですよね?」
「どんな理屈だよ!」
俺が叫んでいる間にも、追手の足音がすぐそこまで迫っていた。
「見つけたぞ! この奥だ!」
鎧を鳴らして、数人の兵士が真新しい玄関の前に殺到する。
彼らは剣を抜き放ち、俺たちを睨みつけた。
「貴様、聖女様をたぶらかす悪しき迷宮の主だな! 覚悟しろ!」
俺は両手を上げて降参のポーズをとろうとした。
しかし、セレナがすっと前に出る。
「泥靴で上がらないでください」
彼女の声は、冷たかった。
先ほどの柔らかな笑顔は消え失せ、絶対零度の圧力が空間を支配する。
「帰る場所を汚す人、嫌いです(にこ)」
最後につけられた笑顔が、一番怖かった。
バタンッ!!
兵士たちが一歩踏み出そうとした瞬間、見えない壁に弾き飛ばされるようにして、真新しい玄関の扉が勢いよく閉まった。
外から扉を叩く音が響くが、ビクともしない。
「……え?」
「これで安心ですね。さて、荷物をほどきましょうか」
セレナは何事もなかったかのように、奥へと歩き出す。
俺は閉ざされた扉と、彼女の背中を交互に見比べた。
この聖女、ヤバすぎる。
俺は震える手で、システム画面のメモ機能を開いた。
『ただいま禁止(増築事故防止)』
明日はこれを絶対に貼り出そう。俺はそう心に誓った。




