第7話 ないな!
クーラーの効いた部屋で空に絵本を読んであげる。
さっき空が「ママ」って呼んでくれたからアタシは張り切って空に言葉を教える。
アタシが言った単語を空が真似する。犬の絵を指して「ワンワン」って言えば、空も「ワンワン」熊が転んでる場面で「転んだ」って言えば空は「こりょんだ」と真似をする。
(この子、頭いいんだな~ やっぱ人間の66.6倍だから?)
ゆっくり、じっくり時間をかけて絵本を読む。出てくる言葉をひとつひとつ空にインプットしていくみたいに。
あんまりにも空の覚えがいいからアタシが夢中で本を読み聞かせてると携帯が鳴った。
(いいとこなんだけどなあ)
着信を見るとキョウコからだった。とりあえず出てみる。
『美央~ 昨日の夜はどうだった?』
キョウコは無邪気にそんなことを聞いてくる。
「や……それがね」
アタシは持田君を置いて帰ってしまったことを正直に話した。
『ふぅん。そうだったの』
キョウコはアタシの話を聞き終えると電話の向こうで軽くため息をついた。
……短い沈黙。
『あのね。美央。隠しておくの嫌だから言うね』
「どうしたの急に?」
『実はさ……見ちゃったんだよね。昨日』
「見ちゃったって、何を……」
『持田君。9時半ぐらいだったと思う』
9時半。アタシが別れてから1時間ぐらいかな…。
「で、どこで見たの?」
『モスの前。タクシー乗ってた』
「タクシー?」
『てっきり美央と一緒だと思ってたんだけど……』
キョウコが言いにくそうに続ける。
『ごめんね。さっきの話聞くまで勘違いしてた』
「ってことは……誰かと一緒だったのね?」
『……うん』
「それって、女?」
『だと思う』
それを聞いてクラッときた。ズーンと気分が落ちる。キョウコの言葉を信じないわけじゃないけど……信じられない。てか、信じたくない。
『ちょっ美央! 大丈夫?』
「……うん。だいじょうぶ」
無理に答えてみたけど頭の中では(誰? 誰と?)って疑問がグルグル巡る。
キョウコがなぐさめるように言う。
『もしかしたら誰かを送って行ってただけかもしれないし』
「誰かまでは分からないんだ……」
『ん。ちょっとそこまでは…。そうだ。本人に聞いてみよっか? それとなく』
「いや。それはダメ!」
『けどさ……』
これ以上キョウコを心配させるのは悪いと思って精一杯、明るく振舞う。
「今度、持田君に聞いてみるよ。うん。自分で解決するから」
そう言って電話を切ったものの…。
(無理だ。そんなこと聞けないよ)
はぁ……やっぱりアタシのせい?
けど……ひどくない?
よりによって同じ日に? 誰とタクシー乗ったの? その後どこに行ったの?
今のアタシじゃそんな追及できない。というより持田君とケンカになっちゃうよ。今の状態でそれは……正直きつい。そんな風にウジウジ考えてしまう自分が嫌だ。
(できれば持田君が説明してくれないかな)
―― 結局、アタシはいつも待ってばかりだ。
* * *
夕飯の準備をしてた時、大根を切ってると人差し指に激痛が走った!
「痛っ!」
切ったというより指先が扉に挟まれたような痛み。
みるみるうちに血があふれてくる。ハンパない勢いにびびった。
(やば…… 止まんない)
こういう時どうすればいいんだっけ? 冷やす? タオルで押える?
完全にパニック! それにこんな時に限って空が「ママ、ママ」って呼ぶし。
「ごめんね。ママお指が痛い痛いだから」
血が出てる人指し指を見せる。すると空はとことこ歩いてきて今度はスカートの裾を下から引っ張る。
「ないな、ないな」
(しょうがないなぁ)
かがんで空の顔をのぞきこむ。
「まだ血が出てるから……ちょっと待って」
その瞬間、なんと、空がぱくりとアタシの指をくわえてしまった。
「ちょ、ダメだって! 血が出てんのに!」
あわてて空のお口から指を引き抜く。空はちっとも悪びれた風でもなく、きょとんとした顔で言う。
「ないな、ないな」
(やば……血をなめさせちゃった)
アタシはあせった。
「もう。バッチいから『ぺッ』しないと!」
でも、空は吐き出してくれない。
「ないな。いたいたい、ないな」
(何? どういう意味?)
ちょっと考えて……ひらめいた。たぶん、空は『痛いのが無い無い』って言おうとしてるのかもしんない!
「そっか。ママの指が痛いの無くなれ~って言ってくれてるんだね?」
そうだよって感じに空の顔がぱっと明るくなる。
「ないな!」
「ありがと。空のおかげでもう痛く……え?」
……ホントに痛くない。
(あれ?)
切ったはずの箇所を見て驚いた。結構、深く切ってしまったはずなのに、それっぽい傷がまったく無い。
(傷が……ない?)
人指し指には血が着いてる。包丁でざっくりいった場面を思い出す。
(確かに切っちゃったはずなのに……)
アタシがぼぉっとしてると足元で空が「ないな」と、言った。それを見てアタシは気付いた。
「ひょっとして、空が治してくれたの?」
まさか……とは思うけど、これが夢じゃないなら…。
(そうだ。ケン兄ちゃんで試してみよう!)
「ね! ケン兄ちゃん!」
アタシが大声で呼ぶとケン兄ちゃんが眠そうな顔でキッチンに顔を出した。
「なに? 寝てたんだけど」
「あのさ。どっか痛いとことかない?」
「はぁ? 別に」
「肩でも腰でもどこでもいいんだけど」
「いや。だから別にどこも」
じゃあ、しょうがない。アタシはケン兄ちゃんの人指し指をぎゅっと握ると「えいっ!」と、適当な方向に折り曲げた。
「ぎっ!」と、ケン兄ちゃんが意味不明な叫び声。
「ででで! 折れる! 折れるって!」
こんなもんかなと思って力を抜く。
「ちょっと美央ちゃん! いきなり何すんの?」
アタシはそれを無視して空にお願いする。
「ね、空。ケン兄ちゃんが痛い痛いなんだって。治してあげて」
「は? ちょっと美央ちゃん。何を……」
「いいから。痛いところを空に見せて!」
ケン兄ちゃんはしゃがんで空に痛めた指を見せる。すると空は「ないな」と言ってその指をぱくり。
「おいおい。何やってんだ空?」
驚くケン兄ちゃんは置いといて、アタシは空のお口からケン兄ちゃんの指を引き離す。
「はい。ごくろうさま。バッチいから後でうがいしようね」
「おーい! 何だよ。もう。わけわかんね」
「で、どう? 指の痛みは?」
アタシが得意になって聞くとケン兄ちゃんは変な顔をした。で、すぐにその表情が驚きの表情に変る。
「……なんだ? え? マジかよ……?」
「ないな、ないな」
「でしょ。痛みが無くなったでしょ」
「ないな、ないな」と、足もとで空が繰り返す。
「嘘みてぇ……てか回復の呪文かよ」
「ね。これって空の能力なんじゃないかな。だとしたら、この子やっぱり『良い悪魔』だよ!」
「確かに凄ぇな」
すごい発見しちゃった! こんなことができるなんてやっぱり空は悪魔の子。でも、でも、天使なんだよきっと…。
* * *
今日は9日目。空の成長は人間でいうと一歳半ぐらい。
昨日の夜、ケン兄ちゃんがカレンダーに年表みたいなのを書いてくれた。日付の下に空が来て何日目、それを66.6倍したら何ヶ月になるかが書いてある。これを見れば空が今何歳ぐらいなのかが分かるスグレモノ。
一歳半っていえばしゃべり始める頃。だから、きのうあたりから空はいくつかの単語を繋げられるようになっていた。
「ママ、しゅき(好き)」
「ママ、いっちょ(一緒)」なんてかわいいことを言ってくれるし「そら、ねんねしゅる」みたいに自分のやりたいことも少しずつ言えるようになった。おまけにアタシがふざけて教えた事までそのまま口にする。
「ケンたん、むちょく!(無職)」
空にいきなりそう言われたケン兄ちゃんはびっくりして5秒ぐらいフリーズしちゃったけど。
「おいおい。何てこと教えるんだよ。それに『ケンたん』って何だよ」
「だって『ケン兄ちゃん』って言いにくいんだよ」
「そうじゃなくって。普通は『パパ』だろ?」
「無理。似合わないって」
「ひでぇなあ」
ちょっとヘコむケン兄ちゃんを見て、空がとことこと側まで歩いていく。そしてケン兄ちゃんンの頭をなでてあげる。
「ケンたん、むちょく。ケンたん、むちょく」
「サンキュ、空。けど……フォローになってねえぞ」
空は純粋になぐさめてあげようとしたらしい。それを見てたアタシは大爆笑。
―― 子供ってホント、面白い。
* * *
お昼前にご飯の材料を買いに行こうと思ってベビーカーでお出かけ。
マンションを出たところでちょうどお隣のハマドとアシムに会った。
「オ~ 空チャン元気デスカ~」と、ハマド。
「オ出カケ、デスカ~」
そう言うアシムは腕に包帯を巻いてる。
「どうしたの? アシム」
「ソレガ仕事デ……ハッスル、ハッスル、シチャッタノヨ~」
「そうなんだ。大変そうだね」
ハマドが空の顔をのぞきこむ。
「今日ハ、パパト一緒ジャナインダネ~」
すると空は無邪気に反応する。
「ケンたん、ムチョク! ケンたん、ムチョク!」
(やば……そこで使うかぁ? 使い方は間違ってないけど)
幸い2人には意味が通じていない。
アシムが空の頭をなでる。
「空チャンハ、ホント可愛イネ~ 食ベチャウ位、可愛イ~」
その横でハマドがニタニタ笑いながら「モゲ~!」って言う。
「モゲ?」
アタシが変な顔で聞き返すとハマドはまた怪しい顔つきで言う。
「空チャン、モゲ~!」
……ハマドを除いて妙な沈黙。
「兄チャン……ソレハ『萌エ~』ジャナイノ?」
アシムに間違いを指摘されてハマドがはっとする。
「モ、モェー……」
本人は言い直したつもりらしいけど機嫌の悪いヤギの鳴き声みたいに聞こえる。
アタシとアシムが爆笑してると空がアシムの包帯に興味をもったらしい。
空が「アチム、アチム」と、手を伸ばそうとする。
「ウワォ! 空チャン、僕ノ名前、覚エテクレテタノ~」
アシムはとっても嬉しそう。それを見てハマドが割り込んでくる。
「ネ、ネ、空チャン! 私ハ、誰デショウ?」
(私は誰でしょうって、アンタは記憶喪失の人かい)
ハマドはワクワクしながら空の反応を待ってる。けど……空は(こいつ誰だっけ?)みたいな顔をして固まってる。
ちょうどその時、犬の散歩をしてる人が横を通り過ぎた。すると空の興味はそっちに移ってしまった。
「ワンワン!」と、嬉しそうに犬を指差す空。
完全にスルーされたハマドは半べそ。それを見てアシムが大笑い。
「アハハ、兄チャンハ『犬』以下ネ~」
「オ前ハ、同情サレテルダケヨ! ケガシテルカラ」
「違ウヨ! 兄チャンノ『キャラ』ガ、薄インダヨ!」
「ナ、ナンダト!」
兄弟ゲンカに巻き込まれないようにアタシは慌てて移動する。
「それじゃ。またね~」
ヤバイヤバイ。こんなところでケンカされたら空の教育に良くないって!
* * *
スーパーでお買い物した帰りにドラッグストアに寄った。
「紙おむつ、どうしよっかな……」
トイレ・トレーニングのことを考えたら、紙おむつはもう買わない方がいいかも。けど、夜はまだ『おねしょ』しちゃうだろうし…。
(買ったとしても小さいのでいいよね)
そんな事を考えながら店内を歩いてると思わぬ人に出くわした。てか、発見してしまった。見覚えのある横顔に思わず足が止まる。
(持田君……)
こんなところで会っちゃうなんて…。
(あれ? 部活休み?)
そうだ。昨日の夜は結局、電話もメールも無かった。
(おとといの花火大会の日、アタシと別れて誰と会ってたんだろ?)
できればそれを聞きたかった。なのに自分から連絡できないアタシ。それにこうやってコソコソ隠れてしまう自分が悲しい。
(誰かと一緒?)
そっと家庭用品のコーナーをのぞいてみる。
(あ! 女の子と一緒だ! けど誰?)
心臓がバクバクしてる。見ちゃいけないものを見てしまったみたいな感じ。でも気になる。
「オレ、バリバリ湿布臭いッスよ」
「大丈夫よ。これ匂い取れるんでしょ」
「いや、マジで。堀川先輩、絶対引くって!」
持田君たちの会話を盗み聞きしてあぜんとした。
(先輩? ……堀川先輩?)
そこでハッとした。そういえばサッカー部のマネージャー。確かそんな名前の先輩がいるって聞いたことがある。
(まさか……花火の時もこの人と?)
2人はとっても楽しそう。誰が見ても付き合ってる風にしか見えない。この2人やっぱり…。
(ダメだ、ダメだ、ダメだ。そんな風に考えちゃダメだ)
感情を抑えきれない。どうしようもない痛みが胸をえぐる。
あのマネージャーが憎い……
「マ~マ?」
その声でハッと我に返る。
「空?」
「マ~マ?」
ベビーカーからアタシの顔を見上げる空と目が合った。
(そうだ。この子の前でそんなこと考えちゃダメなんだ)
自分に言い聞かせるようにアタシはしゃがんで空の顔をのぞきこんだ。
「心配ないよ。アタシはだいじょうぶだから」
空を安心させようとアタシは笑ったつもりだった。けど、自分が泣いてるのはすぐ分かった。声を出さないように、空を心配させないように、アタシは涙をこらえた。なのにこういう時にかぎって涙って止まらない。
「だいじょうぶ。だいじょうぶなんだから」
空のほっぺに自分のほっぺをくっつける。やわらかくてスベスベした感触。
(あったかい……)
そう思った時、もっと温かいぬくもりが目の下をなでた。ペロリって感じで…。
ビックリして空の顔を見る。
そこには空の心配そうな顔。
「ないな」と、空は言った。
ベビーカーから身を乗り出そうとする空を見てアタシは呆然とした。
「ないな、ないな、いたいの、ないな」
空は一生懸命、そう訴えた。
(アタシの痛みを治そうとしてるのかな?)
そう思うと余計に涙が出てくる。空はじっとアタシの顔を見つめて「ないな、ないな」を連呼してる。
(けど……ごめんね。空。この痛みは……)
「ないな、ないなよ。ないないよ?」
いつの間にか空の目に涙がたまってる。必死にアタシの痛みを止めようとしてくれてるんだ。
「ママ、いたいの、ないな。いたいいたいのないな!」
いとおしい…。
アタシは空の頭をそっと抱きしめた。小さな、小さな空の必死な願い。とっても、とっても嬉しいよ。今のアタシにとっては…。




