第2話 異変?
部屋割りは簡単に決まった。ケン兄ちゃんは「畳がいい」って言うからリビングとふすまで仕切られた和室。アタシと空は寝室で寝ることになった。一応、アタシたちの寝室にケン兄ちゃんは「立ち入り禁止!」って言っておいたので、まぁ変なことにはならないと思う。
(さてと。お母さんも帰っちゃったし。これからが本番よね)
まだ夜は始まったばかり。空が夜泣きする子なのかどうかはまだ分からない。お母さんの予想通りよく寝てくれる子ならいいけど…。
空にミルクを飲ませた後で『オムツ』の様子を伺う。
(う~ん。これって汗? なんか微妙……)
昼間は布のおむつ、夜は紙おむつということに決めたので、いったん脱がせて紙おむつにチェンジすることに。お母さんが言うにはずっと紙おむつだと『おしっこ』した後でもサラサラで気持ち悪くならないから赤ちゃんがおしっこを教えてくれないんだって。だから『おむつ離れ』が遅くなるらしい。
「さ、おむつ替えるわね」
ペリペリっとオムツカバーをはがして布を解放。なんか空のオチンチン周りがちょっと赤くなってる。
(ベビーパウダー塗らなきゃね)
その時、空の可愛い足がひくひくっと小さく突っ張ったように見えた。それと同時につぼみから黄色い『しぶき』が噴水みたいに飛び出す!
「ぎゃー!」
せめて床に拡がらないように反射的に手で押える。けど止まるワケもなく温かい液体は容赦ない。
(早く止まれ~! てか長いよう。赤ちゃんなのに!)
手のひらに感じる圧力。もうカンベンしてくださいって感じ。とほほ…。
* * *
空の場合、寝つきが良いのはとっても助かる。赤ちゃんは『添乳』といってオッパイがないと眠れない子が多いらしい。もしも空がそうだったとしたら……さすがに困る。だから正直ほっとした。
とりあえず空が寝てくれたのでやっと一息つける。
(なんか大変な一日だったなぁ)
つくづくそう思う。朝は学校で終業式。家に帰ったら見知らぬ人に赤ちゃんを押し付けられて、その後はずっとドタバタ続き。
(なんなんだろ? アタシ、完全に流されてないか?)
時計を見ると9時半をすぎていた。特に観るTVもないし、マナーモードにしてた携帯をいじりながらのんびり過ごすことにした。
ユッ子とキョウコにメールを返していると携帯に着信。
(持田君からだ!)
空を起こしちゃいけないと思って部屋を移る。
玄関に一番近い部屋は子供部屋になっているのでそこならケン兄ちゃんにも聞かれないはず。
「もしもし」
『おー、美央。今平気?』
「うん。だいじょうぶだよ」
子供用の小さなベッドに腰掛けながら明るく答える。ホントは疲れてるんだけど…。
『いやぁ参ったよ。初日からこれかよって感じでサ。マジやばいって』
「練習おつかれさま」
『いやホント。ずっと走りっぱなしだぜ。足とか超パンパン』
「午後からずっと練習してたの?」
『まあな。てか暑いしマジ死ぬって』
持田君はサッカー部。うちの学校では力が入ってる部なので練習はかなり厳しいみたい。
『ゴメンな。美央に会いたいけど当分無理そうなんだ。日曜も休みじゃねえんだって……』
「そうなんだ……アタシも会いたいよ。でも仕方ないよね」
持田君は2年でもレギュラーだから練習がキツイのは仕方がないと思う。ただ練習を見に行くぐらいならできるとは思う。
(さすがに空は連れては行けないよね……)
そう思って持田君にバイトの話をした。一応、あの悪魔のように美しい依頼主との約束があるので親戚の子を家で預かってると嘘の説明をした。
『マジで? けっこう大変そうじゃん。で、幾らぐらい貰えんの?』
「ん……1ヵ月で5万ぐらいかな」
ちょっと嘘ついた。さすがにホントのことは言えないから。
『すげーじゃん。オレなんてバイト出来ねぇから羨ましい!』
しばらくおしゃべりを続けてから電話を切った。
電話を切ってからしみじみと幸せをかみしめる。持田君と付き合い始めたのは7月の中頃。だからデートらしいデートもまだ2回しかしてない。告ってきたのは持田君から。持田君は2年でも目立ってたし、全然、予想もしてなかったから、まだアタシの気持ちが追いついてない感じ。だから今でもアタシの中では「持田君」。まだ下の名前で呼ぶのが照れくさい。
持田君の部活が忙しいのは分かってたし、それを承知でOKしたのはアタシだから「会えないのは嫌だ」なんて言えない。今でも幸せすぎるぐらいなんだ。「持田君の彼女」ってポジション。それを狙ってた子は多いはずだから。正直今はまだ(持田君が好きで好きでたまらない!)ってほどではないと思う。こうやって電話をくれたりすると嬉しい。ていうかアタシは「持田君の彼女なんだなぁ」って考えるだけでじんわりと幸せな気持ちになる状態。だからこの夏休みにどうなるかはまだ分からない…。
* * *
(……何? 何の音? 声? てか誰? 泣いてる? ……そうだ! 赤ちゃん!)
がばっと起きて時計を見る。0時10分!?
(え、と、最後にミルクあげたのが……やばっ! 急いで作らなきゃ)
赤ちゃんのミルクは作り置きができない。なので空を抱き上げてキッチンに直行。お湯を沸かしながら哺乳瓶に粉ミルクを計量スプーンてんこ盛りで入れる。
(片手じゃやりにくいな~ ちょっと多めだけど、ま、いっか)
味が薄いよりは濃い分にはコクがあっておいしいかも。
その間も空はずっと泣いてる。相当お腹が空いてるんだろうな。お湯が沸くまでがもどかしい。
(母乳の人がうらやまし~!)
お湯が沸いたのでそこに粉ミルクをとかす。でもそれを冷ますのが一苦労。熱々の哺乳瓶をシンクに転がして水をガンガンかける。ビンの表面が冷めても中味はまだ熱い。自分の腕に垂らして熱くないとこまで冷まさないと。
(めんどくさいよう! マジで母乳出したいっ!)
ようやくミルクの準備ができて空の口元に哺乳瓶の吸い口を差し込む。泣いていた空は一瞬、顔を背ける。でも、ミルクの匂いが分かったのか勢い良くそれを吸い始めた。
(ゴメンね空。やっぱお腹空いてたんだね……)
空にミルクをあげてると急に眠気がおそってきた。
(いやいや、まだ寝れない)
飲ませた後はゲップさせなきゃなんないから。けど赤ちゃんのゲップって微妙すぎて分かりにくいんだよね。音が小っちゃいから聞き逃しちゃう。
結局、ミルクを作って飲ませてまた寝かせるまでに1時間以上かかっちゃった。
(うぇ~ これをまた2時間後にやるのかぁ)
赤ちゃんにミルクを与える間隔は2,3時間ごと。てことは空に待たせないようにするには30分ぐらい前に起きて準備しないと。
(いくらも寝れないなあ)
アタシは目覚まし時計を2時半にセットしてベッドに横になった。
* * *
ピピピピ……
(目覚ましの音。……もう時間? 今寝たばっかなのに……あれ? 空が泣いてる!)
時計を見ると2時半。予定の時間には間に合ってるはずなのに…。
慌てて空を抱き上げてキッチンへ向かう。これからさっきの繰り返しだ。途中で小さなショウジョウバエが飛んできてまとわりつく。
(どっから入ってきたのよ! やだもう。この忙しい時に!)
哺乳瓶の吸い口にバイキンでもついたら大変! まったく余裕なし。バタバタだよ。まったく。で、何だかんだいって、ミルクを飲ませて寝かしつけるまでにやっぱり1時間近くかかってしまった。
(これは思ったよか重労働だ!)
今さらだけど事の重大さに気付く。これはとんでもないことを引き受けてしまった。
(にしても……アタシがこんなに苦労してんのに)
ふとケン兄ちゃんの存在を思い出した。空が泣いてるのに全然部屋から出てきやしない。
文句のひとつも言ってやろうとリビングのふすまを開けた。
和室の真ん中にふとんが敷いてあってケン兄ちゃんはグウグウ寝てる。その側にはテーブル。で、その上に並ぶビールの空き缶、マンガ、PC、ゲーム……ってゲーム?
(人が苦労してんのに、のん気にゲームですか。マジで使えない!)
何だかムカついてきたので、ずいっと部屋の中に入って足の指で軽くわき腹を突いてやった。
でもまったく起きない。おまけに寝言。
「無理だぁ……プリンちゃん!」
(はぁ? どんな夢みてんのよっ!)
むかっとして思わずそばにあったクッションを投げつけた。
(どこがパートナーなんだか。まったく先が思いやられるなぁ。もう)
長い夜になりそう…。
* * *
明け方に1回、朝にもう1回、まったく同じことの繰り返し。ちっとも寝た気がしない。
(学校休みでよかった……夏休みでなきゃ無理だわ)
もうろうとする頭で次にミルクをあげる時刻を計算する。それまでにもう1回寝るかどうか、ちょっと迷った。今横になってもたぶん寝られないだろうし…。
その時、ピンポーンとインタフォンが鳴ってお母さんが来てくれた。
「おはよう美央。どう空ちゃんは?」
「おかぁさ~ん! 助かったぁ」
マジでこのときばかりはお母さんが仏様に見えた。
「その様子じゃあんまり寝てないみたいね。いいわよ。しばらく寝てなさい」
「ありがと。マジ助かる」
お母さんにバトンタッチしてアタシは寝室のベッドに倒れこんだ。
* * *
目が覚めると、いつの間にかお昼をすぎていた。
アタシが寝てる間にお母さんは空の面倒をみながら掃除に洗濯、それからお昼ご飯の準備までしてくれていた。さすが…。
お昼ごはんを食べながら気がついた。
「そういやケン兄ちゃんは?」
「10頃に起きてきて出かけたわよ」
「仕事?」
「どうかしら。仕事とは言ってなかったわね。夕方には帰ってくるらしいけど」
「ふーん」
仕事じゃないんだ。っていうかホントに仕事してんのかなぁ。昨日は何とか警備員って言ってたような気がする。
「ところで美央。空ちゃんのことなんだけど」
急にお母さんが真面目な顔をするのでアタシはぽかんとした。
「何? 空がどうかした?」
「空ちゃんて今月生まれたばかりって言ってたわよね?」
「ん。確かそう聞いたけど」
「そう。私の気のせいかもしれないけど……」
お母さんは何か言いたそうにアタシの顔を見る。けど、結局その話を打ち切った。
(何か空のことで気になることでもあるのかな?)
――その時は軽く考えていた。お母さんが気付いた異変。そのことにアタシが気付くのはもう少し後のこと…。
2日目はお母さんのおかげで何とか乗り切れた。てか、やっぱお母さんってスゴイと思う。ウチの家事をやってからこっちに来て、こっちの面倒までみてくれるんだからホントに大活躍って感じ。それに比べてパートナーの役に立たないこと…。
3日目の朝、お母さんが来る前にケン兄ちゃんに聞いてみた。
「ケン兄ちゃんってホントに仕事してる?」
「い!? ま、まぁ、そのぅ適当に」と、口ごもるケン兄ちゃんは明らかに挙動不審。
「前に自宅警備員とか言ってなかったっけ?」
「そ、そうだよ」
「それってさ。友達に聞いたんだけどニートってことじゃないの?」
「うっ! ま、まあ……そうとも言う」
「やっぱり! だったら何で空の面倒みてくれないの?」
「いや。そのオレはオレなりにやることが」
「ってゲームでしょ! 一応、ケン兄ちゃんもアルバイト代貰ってんでしょ?」
「うん。一応」
「だったらその分働いてよ。もう」
「す、スマソ」
「すまそ? 何それ?」
「いや。だから申し訳ない。……美央ちゃん乙」
「おつ? 何それ? ふざけてんの?」
「だから悪かったって。その、次からは手伝うよ。散歩とかなら喜んで」
「あのね。犬の世話じゃないんだからね。やることはいっぱいあるんだよ! 散歩だけとか少なすぎ」
毎日、昼間にどこに行っているかは知らないけど、だいたい想像はつく。アタシがケン兄ちゃんを責めてると急に空の泣き声が聞こえた。
「あれ? もう起きちゃった?」
慌てて寝室に行って空を抱き上げる。
「なんかいつもより大泣きしてない?」
なんとなくだけど空の泣き方が激しい気がする。いつもなら抱っこして軽く揺すってやるかアタシの心臓の音を聞かせてあげれば収まるんだけど。
(空がこんなに泣くなんて初めてだよ。どっか痛いとかなのかな?)
ちっとも泣き止まない空を見てると、だんだん焦ってきた。
「ね! ケン兄ちゃん! お母さんに連絡してくんない?」
「え? もうちょっとしたら来るんじゃね?」
「何のん気なこと言ってんのよ! もうっ!」
アタシがキレそうになったせいで空がさらに大きな声で泣く。それが一層、大きくなってついには「ぎゃぁー!」と、ピークに達したような一声!
思わず目を閉じる。でも……
(あれ?)
急に静かになったみたい。目を開けて空の顔を見る。一瞬、空と目が合う。きょとんとしたような空の顔。
(あれえ? 今までのは何だったの?)
空は目をぱちくり。そしてゆっくりとまぶたを落とす。
(ね、寝ちゃうの? ひょっとして泣き疲れ?)
可愛いとは思うけどなんか納得できない。「じゃあ何で泣いたのよ?」って感じ。
アタシが空の寝顔を眺めてると今度はリビングの方でケン兄ちゃんが変な声を出す。
「何じゃこりゃあ~!」
やれやれと思って空をベビーベッドにそっと下ろす。で、仕方なく様子を見に行く。
(……まったく、なに騒いでんだか)
ケン兄ちゃんは和室で立ち尽くしてる。
「どうしたの?」
アタシの言葉にケン兄ちゃんが情けない顔で振り返る。
「オ、オレのゲームが……」
「ゲーム?」
室内を覗き込んで驚いた。
「わっ!」
ケン兄ちゃんが驚くのも分かる。
「ば、爆発してる?!」
ひと目見てそう思った。だって、そうとしか言いようがない。なんせゲーム機が真っ黒こげで周りの畳にもこげた跡がくっきり。液晶テレビも画面の半分ぐらいが被害を受けてる。
「ケン兄ちゃんが壊したの?」
「違うって! 別に変なことはしてねえよ。スイッチもちゃんと切ったし」
「不良品なんじゃない?」
「それは有りえね。だって新品だぜ」
「変ね。どう見ても機械が爆発したようにしか……」
「どうなっちゃってんだよ」と、ケン兄ちゃんはしばらく真剣な顔でゲーム機の周りを点検した。で、腕組みしながら呟く。
「無料補償、利くかな?」
(おいおい。そっちの心配かい)
普通は火事にならなくて良かっただとか、電気屋さんに調べてもらおうだとか、もっと他に考えることがあるんじゃないかなぁ。
とりあえず後始末はケン兄ちゃんに任せてアタシは空のお着替えをすることにした。
(あれだけ泣いたんだから汗かいてるよね。たぶん)
寝室に戻って空の肌着が湿ってないか確認する。
(やっぱ濡れてる。危ない。危ない。このままじゃ風邪ひいちゃう)
空を起こさないようにそっと肌着を脱がせる。ゆっくりと慎重に。洗濯済みの肌着を先に広げてそこに空を乗せる。で、肌着で身体を包む。
(あれ? 気のせいかな? なんかこの肌着、ちょっと小さくない?)
確か買った時は全部同じサイズだったと思うけど。この肌着だけ縮んだ?
(いや。そんなはずは……)
そこではっとした。そして気付いてしまった。
(そんな急に大きくなったりするものなの?)
そんな疑問がわいてきた。というより昨日の夜にも似たようなことを考えてた。
(まさか……でもそんな急に)
昨日の夜に空を抱っこした時に(あれ? こんなに重かったっけ?)と、一瞬だけ思った。あれって気のせいだと思ってたけど改めてじっくり空の身体を観察してみると……
(足……太くなってるよね。髪の毛も……増えた? てか増毛?)
分かんない! 赤ちゃんって日に日に大きくなるもの? お母さんに聞いてみる? いやいやいや。怖くて聞けないよ~!
(どうしよ……アタシの気のせいならいいんだけど)
ダメだ! 頭が混乱してる。
ふと気がつくと空が目をあけてる。
(また起きちゃったか)
しばらく空と見つめあう。何気なしに空の顔の前に手をかざしてみる。で、そっと手を右に動かす。すると……空がそれを目で追った! 偶然かもしれないと思って今度は手を左に動かす。するとやっぱり空はそれを目で追いかける。
「見えてる? そんな……」
確か見えるようになるのは3ヵ月とかじゃなかったっけ?
アタシはケン兄ちゃんを呼んで急いで頼んだ。
「ちょっとネットで調べてくれる?」
「へ? 何を?」
「赤ちゃんの成長。1カ月でどれぐらい体重が増えるとか、いつから目が見えるようになるとか」
「なんでまた? マンドくせ」
「いいから早くっ!」
「わ、分かったよ。すぐググってみるよ」
ケン兄ちゃんにインターネットで調べてもらって確信した。
やっぱこの子成長早すぎ! 首もすわってるし! 目も見えてるし! まるっきり生後3ヵ月の赤ちゃんと同じだよ!
* * *
お母さんが来てくれたのは夕方だった。なんでも他に用があったみたいで昼間は来れなかったそう。
2人で洗濯物を片付けて空をお風呂に入れる。ホントはすぐにでも空の異変のこと相談したかったけど何となく話を切り出せない。本当に大事なことって意外と口に出せないものなのかも。その問題に触れることなくお母さんは空をあやしたり、おしめを替えたり、普通に接している。
(おかしいなあ? お母さんが気付かないなんて)
アタシが口にしなくても子育て経験のあるお母さんなら気付いてくれると思ってた。
(やっぱお母さん気付いてないのかな。だとしたらショックだよね)
いつも通りに空を可愛がるお母さんを見てると「空が異常だ」なんて言えっこない。それに今でも心のどこかではアタシの勘違いであって欲しいと願ってる。あるいはもしかしたら、あの悪魔のように美しい依頼主がの方が勘違いしていてウチに来たときにすでに3ヵ月経ってたのかもしれないし。
2人で夕飯の準備をしている時に目の前をハエが横切った。
(やだ。またハエが……)
アタシがそれを手で払うとお母さんが呆れたように言った。
「あら。ここ13階なのにハエが出るの?」
「ん。たまに小っちゃいのが」
「普通、上の階までは上がって来ないんだけど」
「そんなことないみたいよ。結構、見るもん」
「そうなの。それじゃ蚊も気をつけないと。空ちゃんが刺されたら大変だもの」
ちょうどその時にケン兄ちゃんが帰ってきた。そこで空が寝ている間に3人で夕食をとる。今日はやけに静かな食卓になってしまった。何となく会話がよそよそしいっていうかぎこちない感じ。もしかしたらケン兄ちゃんが空の異常な成長の話をふってくれるかなって期待してたけど、それもなかった。
結局、お母さんが帰り支度をはじめるまでその話題が出ることはなかった。
「さ、それじゃ私は帰るわね」
「え? お母さん帰っちゃうの?」
「ええ。お父さんが帰ってくるから」
「そっか……」
言わなくちゃならないことをずっと言いそびれてると何だか申し訳ないような気持ちになってしまう。
「ねえ美央。途中まで送って頂戴」
「え? なんで?」
「いいから。じゃケン太君、しばらく空ちゃんをお願いね」
「あ、はい。良いですよ」
「それじゃ行きましょ」
お母さんに促されてアタシも一緒に外に出ることにした。
エレベーターで一階に降りながら空のことを切り出そうとしたけど、やっぱりうまく言い出せない。エントランスを抜け、マンションを出てからも会話は無い。お母さんは無言で足早に歩く。
(なんかケンカした時みたいだな……)
こういう時のお母さんって何か言いたいことがある時なんだ。それは分かってる。
(何か怒ってるように見えるのはアタシが隠し事をしてるからなんだよね。たぶん)
しょうがない。思い切って言ってみよう…。
「あのね。お母さ……」
「分かってるわよ」
「え?」
「空ちゃんの成長。あり得ないスピードだわね」
「……うん」
「あんたが不安そうな顔をしちゃ駄目!」
お母さんは立ち止まって強い口調で言った。そして諭すように続ける。
「子供は敏感だから、たとえ不安があったとしても母親は絶対に子供の前でそれを見せちゃ駄目なの。この子は変じゃないかとか、普通の子と比べてどうだとか、そんなこと全部だまって受け入れなくちゃならないの」
「お母さん……」
「母親ってそういうものよ」
そう言ってにっこり笑うお母さんを見てると純粋に(すごいな)って思う。
「大丈夫よ。美央。ちょっとぐらい成長が早いからって全然心配することないわよ」
「うん……そだね」
「言わなかったけど私だって昔あんたのことで凄く心配してたのよ」
「へぇ、どんなことで?」
「小学3年になってもおねしょが直らなくて……」
(お~いっ!)
せっかくお母さんを尊敬しかけていたのに。まあお母さんらしいといえばらしいけど。
「じゃ、美央。明日からがんばってね。私は海外行っちゃうけど」
「うん……え? 今なんて?」
「あら。言ってなかったっけ? 明日からお父さんとローマに行くの」
「き、き、聞いてないよぉ~! てかマジで? マジで行っちゃうの?」
「そうよ。なんせ美央が500万も稼いでくれるんだもの。最高の親孝行じゃない!」
「そ、そ、そんな……」
めまいがしてきた。あり得ない。明日からはお母さん抜き? ひとりで空を育てるなんて無理!
(どーしよ……ピンチだ。やばすぎるって!)
まるで地獄行きのバスに乗せられたような気持ちになって、アタシは深いため息をついた。




