第1話 こんにちは赤ちゃん!
『月500万。養育費として支払おう』
そう言って悪魔のように美しい男は天使みたいに笑った。
(ご、500……万?)
ありえない。ベビー・シッターのバイトで1ヵ月500万?
確かに条件は揃ってる。高額な報酬、イケメンの依頼主、そして、そして……可愛い赤ちゃん! 生まれて2週間の赤ちゃんは依頼人の膝の上ですやすや眠ってる。ちっちゃい。かわいい。超触りたい!
(アタシ一人っ子だし、赤ちゃんと触れ合うチャンスがなかったんだよね。だからちょっと嬉しいな)
いやいや冷静にならなくちゃ! よーく考えよう。……うん。やっぱ問題アリだよ!
(アタシが赤ちゃんを育てる? そんなの絶対無理。夏休み潰れちゃうし。てか何でアタシ?)
そんなアタシの迷いなんか関係ないって感じで悪魔のように美しい依頼主はソファにふんぞり返った。
『どうした。何を迷っている?』
改めて威厳のある人だなあと思う。ひょっとしたらその王子様みたいなドレスシャツのせいかも?
(例えるなら……なんだろ。『黒髪の貴公子?』『マントを脱いだ吸血鬼?』)
美しい依頼主は、まるで古いお城の主が豪勢な部屋でワインを楽しむように紅茶を飲んだ。そして黙ってるアタシとお母さんを交互に眺めながら念をおす。
『異論がないならこの条件で良いのだな?』
笑みを浮かべてはいるけど目は笑ってない。冷たい微笑。でも嫌な感じじゃない。というよりその涼しげな眼で見つめられると魂を持っていかれそう…。
(あれ?)
ふと鼻の下に違和感。で、ぽたって何か垂れた。
(へ? 鼻血? やだっ!)
膝の上に乗せてた契約書に血が着いちゃった。
アタシがパニくってるところに美しき依頼主の笑い声…。
(何よ? 人があせってるのに! でも何で急に鼻血?)
依頼主が笑みを浮かべたまま言う。
『これで契約成立だな。言っておくが途中で解約することは出来ないぞ』
その言葉には静かな威圧感がある。
(そんな強引な……でもまあ、お母さんもいることだし。1ヵ月ぐらいなら何とかなるかも)
そうそう。お母さんだって16年前は赤ちゃんだったアタシの世話をしてたんだから。
「たぶん大丈夫だよね?」と、隣のお母さんを見る。けどお母さんは相変わらず放心状態。
(もう、まだ見とれてんの?)
呆れた。お母さんてば依頼主をガン見してるし…。
「ね、お母さんも手伝ってくれるんでしょ?」
「え? あ、まあね」
そんなアタシたちの会話を依頼主が遮る。
『それは駄目だ』
思わぬ言葉に驚いた。
「え! だって、お母さんに教えてもらわなきゃ……」
すると美しき依頼主は静かに首を振る。
『ここでは駄目だ。環境が良くない』
(はっきり言うなぁ。そりゃ部屋は狭いしゴチャゴチャしてるし、押入れの中はカオスだし、お父さんは服脱ぎっぱなしだし、赤ちゃんが泣いたら隣にも迷惑だろうけど)
アタシが困っていると依頼主は冷静に理由を告げる。
『私が望むのは一般的な環境だ。例えば新婚家庭のような。そういった環境でこの子を預かってもらいたい』
「だったら、なおさらアタシじゃないような……」
『いいや。お前を選んだことに意味がある』
依頼主はそう言うけど選ばれる理由がマジでわかんない。アタシはごくごく普通の高校生なんですけど…。
「じゃあアタシは赤ちゃんと、どこでどうやって生活すれば?」
『住む場所なら既に手配してある。それとパートナーもこちらで用意しておいた』
「パートナー?」
それも意味が分からない。それってアタシとそのパートナーの2人だけで赤ちゃんの面倒をみろってこと?
アタシが戸惑っているとお母さんが言った。
「大丈夫よ。ケン太君がお手伝いしてくれるそうだから」
「ケン太って誰?」
「あら。忘れちゃったの? ミツコおばさんのトコのケン太君よ」
「ああ……」
思い出した。そういえばそういう『いとこ』がいたなあ。確かアタシより10こぐらい上じゃなかったっけ? カッコ良かったんだよなぁ。憧れのケン兄ちゃんか……久々に会いたいな。でも、もう5、6年は会ってないかも。きっと今でもイケメンなんだろうなあ。
(ええっ? でもケン兄ちゃんとふたりで新婚みたいな生活って何か……)
やだ。想像したら顔が赤くなってきちゃった!
ふと依頼主の視線に気付く。依頼主はニヤニヤしながらアタシの様子を伺っている。
『どうやら、やる気が出てきたようだな』
まるで心の中を見透かされたようでぎょっとした。
(ゲ! アタシそんな嬉しそうな顔してた?)
しかしスゴイ事になってきた。明日の夏休み初日から1ヵ月間、あこがれのケン兄ちゃんと一緒に新しいお家で赤ちゃんを育てる。ちょっとありえないシチュエーションだよね…。
「あ、そうだ!」
大切なことを忘れてた。
「ところでこの子の名前は?」
アタシの質問になぜか依頼主が不思議そうな顔をする。
『名前? 名前はまだ無い』
(酷っ! 猫じゃないんだから……)
『そうか。お前たちの間では必要なのだな。だったら任せる』
「お前たち? って、そんな大事なことアタシが決めていいの?」
『ああ。構わん。適当に決めて差し支えない』
(ウソでしょ? 赤ちゃんの名前を適当に決めろって……)
男の子というのは聞いてる。けど、急に名前を決めろと言われても何も浮かばないって!
「困ったな。でも、ちゃんと考えてあげないと」
美しき依頼主はアタシの言葉を無視してすっと立ち上がった。そしてアタシに赤ちゃんを抱くよう促す。
(落っことしたら大変!)
恐る恐る手を伸ばす。
タオルケットに包まれた赤ちゃん。軽いような重いような不思議な感覚。
「超ちっちゃい……」
なんだか胸の奥がじんじんする。守ってあげなきゃって気持ちが自然とこみあげてくる。
(うわ~ ぜんぜん動かないよぉ。だいじょうぶかなぁ)
初めて抱く赤ちゃん。ハラハラしてるアタシに向かって依頼主がすっと顔を寄せて囁く。
『成功報酬として何でも望みを叶えてやる。ただしひとつだけだ』
「はい!?」
(望みを叶える? この人、なに言ってんだろ?)
赤ちゃんを抱いたままアタシが首をひねっていると依頼主は帰るようなそぶりをみせた。
『それでは……後は任せたぞ』
(え? もう帰っちゃうの? ちょっと無責任すぎない?)
スタスタと部屋を出て行く依頼主。こっちはまだまだ聞きたいことはあるのに! でも赤ちゃんを抱いているので追うこともできない。
「ちょっとお母さん! ホントにいいの? こんなんで」
「……いいのよ」
お母さんてば……まだ「ぽぉ~っ」としてる。
(こんなにあっさり引き受けちゃって……だいじょうぶ? ホントに)
不安はある。というより……不安だらけだよ~っ!
* * *
(わ~い! 思ってたよか新しい!)
美しき依頼主が用意してくれたのは結構、立派なマンションだった。
(やっぱあの人、お金持ちなのかな~?)
お母さんが入り口の脇にあった看板を見つけた。
「あら。『モデルルーム公開中』ってことはまだ全部埋まってないのねえ」
「じゃあ新築なんだ」
築ウン十年のうちの団地とはえらい違いだ。それだけでもドキドキする。
「美央は赤ちゃんをお願いね。荷物はわたしが持つから」
タクシーを降りて部屋に向かう。
* * *
13階の666号室。
(13階なのに666って変な番号のつけかただなぁ)
そんな突っ込みもソコソコに中に入ってビックリ!
「凄っ! 超きれい!」
「あらまあ。どこかの三ツ星ホテルみたいねえ。泊まったことないけど」
確かにお母さんの言う通りだ。新聞のチラシなんかで見る広告のように一通りの家具は揃ってる。もしかしたらこの部屋がモデルルームなんじゃないかと思った。
「ねえお母さん。ホントにここに住んでいいのかな?」
「いいんじゃない。1ヶ月間だけだし」
お洒落な感じの内装は、まるで初めてのパーティの為に『おめかし』した人みたいに見える。きれいなんだけど、どこかよそよそしいというか…。
そんなことを考えながらリビングを眺めていると隣の部屋から誰かがひょっこりと顔を出した。
「おばさん。こんにちは」
(誰? もしかしてケン兄ちゃん?)
お母さんが声の主をみとめて目を細める。
「あらケンちゃんお久しぶり。先に来てたのね」
「ええ。午前中に荷物持ってきちゃいました。で、そっちが例の赤ちゃんッスか?」
(何っ! アタシはスルーかよっ!)
淡い期待が軽い敵意に変わる。
(それに何よその無精ひげ! 髪も無意味に長いし。なんか前よか『劣化』してない?)
ケン兄ちゃんはアタシが抱いてる赤ちゃんに顔を近づけて「よろしくな」と、笑った。で、その次にアタシの顔を見る。
「やあ。美央ちゃん。大きくなったね」
心なしかその視線が胸のトコに集中してるような気がするんですけど…。
そんなケン兄ちゃんのことをお母さんはすっかり信頼してるらしい。
「ケンちゃん、よろしくお願いね。よそ様の大事な赤ちゃんだから、おばさん美央だけじゃ心配で……」
(この人、娘の心配はしないのかしらん? いくら『いとこ』でも同じ部屋に住むんだよ!)
「任せてくださいよ。しっかりサポートしますから!」
そう言ったケン兄ちゃんの目がキラーンと輝いたように見えた。その張り切りぶりが妙にエッチっぽい。
お母さんがケン兄ちゃんに尋ねる。
「ところでケンちゃん。お仕事は大丈夫なの?」
「はい。それは平気です。『自宅警備員』ですから」
(何それ? 自宅警備員? どんな仕事?)
「まあ。そうなの。感心だわ~」
そんな具合でお母さんとケン兄ちゃんが話している間、アタシは改めてケン兄ちゃんの顔を眺めた。ヒゲと長髪は気になったけど相変わらず色白ですっきりした顔をしてる。前より目つきが鋭くなった気もするけど、もとが涼しげな二重なのでそこだけ見る分にはまぁカッコイイ。ただ最後に会ったのはアタシが小学生のときだからその時のイメージとはだいぶ違う。
(もっとサッパリすればイケてると思うんだけどなぁ)
何か少し残念。ドキドキ感もレベルダウンしちゃった感じ。
「さあ。それじゃ皆で買い物に行きましょうか」
お母さんの提案で赤ちゃんの為の買い物に行くことになった。どうしてかっていうと、あの悪魔のように美しい依頼主は赤ちゃんだけ連れてきて何も置いていかなかったから。お金だけはたくさん置いていったけど…。
「ね、お母さん。服とかベビーカーとかはどうするの?」
「それなら国道沿いに赤ちゃん用品のショップがあったわね」
「じゃ、先にそっちにしない? ずっとこの子抱いてると手が自由にならないし」
「そうね。じゃあそうしましょうか」
依頼主は前金で500万円をお母さんに渡してくれたのでお金は十分ある。
(可愛い服とかいっぱい買ってあげよっと)
そう思って自分の胸元を見る。赤ちゃんはアタシの胸に頭をちょこんとくっつけて眠っている。本当に良く寝る子だな。起きてたのはさっき家を出る前にミルクを飲んだ時ぐらい。赤ちゃんって四六時中泣いてるものだと思ってたからちょっと意外。
(今のところは順調、順調。これならいけるかも)
――でも、その考えは甘すぎた。それを思い知らされるのはもうちょっと後のことだけど…。
* * *
お母さんが「多い方がいい」っていうから肌着は10着も買った。おむつカバーもたっぷり用意した。それと『つなぎ』みたいな服を何枚か。それ以外にも買わなければならない物がいっぱいあって、お母さんとケン兄ちゃんの両手がふさがってしまうぐらい買い物したんだけど、それでもまだ足りない。
いったんマンションに戻る為にアタシたち3人と赤ちゃんでのんびり歩いて帰る。
(晴れてるのはいいんだけど。日差しが強いなぁ)
まぶしい青空を見上げる。7月の太陽が『上から目線』でアタシたちを見下してるみたいだ。こうもジリジリ照りつけられるとベビーカーを押す手のひらにまで熱が伝わってくる気がした。風があるからまだ救われるんだけど。
(赤ちゃんって肌弱いだろうから直射日光は避けないとね)
ベビーカーの屋根を広げてるから大丈夫だとは思うけど念のために立ち止まって赤ちゃんの顔を覗き込む。
「あれ? この子、目開いてる? なんだか空を見てるみたい」
アタシが驚いてるとお母さんが呆れたように言う。
「まさか。見えるようになるのは生後三ヵ月後ぐらいからよ」
「そうなの? でも空を見て笑ってるような気がする」
見上げるとクリアな青が果てしなく拡がっている。地表に追いやられた入道雲は遠方に並ぶビルの背後でこぢんまりと背中を丸めている。
(そうだ!)
急にひらめいた。
「この子の名前『空』にしようっと!」
アタシがそう宣言するとお母さんがぽかんとした顔で呟く。
「……『ソラ』まあ、悪くはないけど。どうしたの急に?」
ケン兄ちゃんも呆れ顔で口をひらく。
「また安直な。ひねりがないな」
「そんなことないよ!」
確かに思い付きだけどさ……アタシは急いでそれらしい理由を考えた。で、反論する。
「ほら。今日みたいな青空っていいじゃない! この子には青空みたいに明るくて広くてさわやかな男の子になってもらいたいから」
お母さんは空を見上げながら頷いた。
「そうね。素敵な名前じゃない。美央にしてはよく考えたわね」
「でしょ? うん。『空』っていい名前!」
「自分で言うなよ。まあ凝りすぎて読めない名前よりはマシだけどな」
(よりはマシって何で素直にほめないかなぁ?)
そう思って軽く睨んだつもりがケン兄ちゃんはぎょっとしたように身を引いた。
「そ、そんな睨むなよ……」
「別にぃ。さてと。じゃケン兄ちゃんには罰としてもう1回買い物行ってもらおっか」
「な、罰って何だよ?」
「こんなにいい名前なのに文句言った罰」
「ちょっ、別に文句言ったわけじゃ……」
結局、ケン兄ちゃんには組み立て式のベビーベッドを買いに行ってもらうことにした。
* * *
部屋に戻ってもホッとしてる余裕はない。
空が起きているうちにミルクを飲ませてお風呂にも入れなくちゃならないから結構、忙しい。それに初めてのことばかりで覚えるのも大変。おかげで夕方にはクタクタになってしまった。
ケン兄ちゃんが買出しに何往復もしてくれたおかげで、とりあえず今晩からは何とかなりそうな状態にはなった。
夕飯はお寿司。お母さんが奮発して一番高いのを出前でとってくれた。
「ケンちゃんも遠慮なく食べてね。引越し祝いよ」
真新しいダイニングテーブルで早めの夕食。にしても、この部屋どうも落ち着かない。
(何でだろ? キレイすぎるのかな)
こういうお洒落な部屋ってドラマなんかで見てる分には素敵だなぁとは思うけど、実際住むとなるとイマイチかもしれない。
(あれ?)
そういえばお母さんに聞かなくっちゃと思ってたことがあったような…。
「あ、そうだ!」
アタシが急に大きな声を出したからお母さんが箸を止める。
「どうしたの?」
「依頼主の人。あの人ってお母さんの知り合い?」
「あら? ……どうだったかしら?」
そう言ってお母さんが首を傾げる。
「は? アタシが学校から帰ってきた時にはもうあの人居たでしょ。だからてっきりお母さんの知り合いだと思ってたんだけど」
お母さんは箸を置いてしばらく考え込む。で、出した答えが、
「ごめん。やっぱり覚えてないわ」というもの。
(がっくし。本気で言ってる? ならケン兄ちゃんは?)
そう思ってケン兄ちゃんにも聞いてみる。
「ね。ケン兄ちゃんはあの人知ってるの?」
「いや。全然」
(がくっ。こっちもかいっ!)
変なの。2人ともあの依頼主のことをよく知らないなんて!
(そんなんでよく引き受ける気になったなぁ……)
アタシは大げさにため息をついて2人の顔を交互に見た。
「2人とも怪しいと思わなかったの? だって全然、知らない人の赤ちゃん預かるなんて普通じゃないでしょ?」
それでもお母さんは大して気にも留めていないらしい。
「まあ、いいんじゃない。お礼は十分頂いてるんだし」
ケン兄ちゃんはお寿司のネタをはがしてワサビを取り除きながら他人事みたいに言う。
「別にいいんじゃね?」
「もうっ! 2人とも真面目に考えてよ!」
だんだんハラが立ってきた。みんな無責任! お母さんもケン兄ちゃんもあの依頼主も。
「だいたい何よ。2人とも変だと思わないの? あのドラキュラみたいな怪しい依頼主の正体を」
2人ともアタシの質問には答えずにお口をモゴモゴさせている。
(まったく、もう……)と、情けなく思った瞬間だった。
『誰が出来損ないの吸血鬼だ?』
急に誰かが話に割り込んできたのでビックリした!
(え?)と、振り返ると……「い、いつの間に!」
アタシは唖然とした。
なんとなんと! あの依頼主がダイニングの入り口に立ってる!
『クライアントに対して随分な言い方だな』
「や、で、出来損ないとは言ってないけど」
アタシの言い訳に対して美しき依頼主は『フン』と、鼻で笑う。そしてテーブルのお寿司が入った桶を眺めながら言った。
『余計な詮索は無用。黙って契約に従いたまえ』
依頼主の言葉にお母さんとケン兄ちゃんがウンウンと同じリズムで大きく頷く。まるで催眠術にかかった人たちみたいだ。
(なんか変なの。2人とも人形みたいに首振っちゃって……)
美しき依頼主はアタシの顔をじっと見て言う。
『それから。この契約のことは他言無用だ。つまり誰にも言うなということだ』
その鋭い目つき……背筋がぞっとする。この人には何かある。逆らえないような何かが。
『用件はそれだけだ。それでは』
そう言い残すと依頼主はまたしてもスタスタと足早に立ち去ろうとする。
「あ!」
アタシは赤ちゃんの名前を『空』にしたことを伝えようとそれを追った。けど……アタシが玄関に出た時にはもう扉が閉まりかけていた。
(もう居ないし……てか、早すぎ)
やっぱ怪しい。そもそもどうやって入ってきたの? それはまあここの持ち主だから合鍵ぐらいは持ってるのかもしんない。それにしても……何かよく分かんない人だ。
* * *
8時を廻ったところでお母さんが帰ることになった。
「それじゃね。美央。がんばってね」
「うん。わかんないことがあったら電話する」
「もしかしたら夜泣きするかもしれないけど。空ちゃんはぐっすり寝る子みたいだから大丈夫じゃないかしら」
「だといいけど。それじゃ帰り気をつけてねお母さん」
するとお母さんはアタシの耳元に顔を近づけてささやいた。
「あなたもね」
「へ? な、なにを?」
「ふふ。これは練習なんだからね。本当に赤ちゃん育てるにはまだ早いわよ」
「ちょっ、ヤダ! お母さんたら!」
やっと言ってる意味が分かった。
(冗談じゃないっ! アタシにはれっきとした彼氏がいるんだから! ケン兄ちゃんとは……何もないと思う。たぶん)
その時なぜか依頼主の『新婚のような』という言葉が浮かんだ。
(いやいやいや……何もないって。だってアタシにその気がないんだから)
アタシがブンブン首を振ったのでお母さんが笑う。
「まあ。そんなに張り切らなくても」
「ちがーう! ってか、何考えてんのよ。もう」
どこまで本気なんだか…。
とにかく、そんなお母さんを送り出してアタシは空の様子を見に部屋に戻る。
(空の面倒を見るためなんだからね!)と、自分に言い聞かせる。『新婚』なんて甘い単語は頭からスポーンと放り出す!
(だってアタシには持田君という彼氏が居るんだから。間違ってもケン兄ちゃんと変なことには……ならないよね? たぶん)
今日一日で色んなことがありすぎて、さすがのアタシも疲れてる。でも、まだまだ。これからが大変なんだから!
――でも、「子育ての大変さ」はアタシの想像をはるかに超えていた。おまけに後でとんでもないことが判明する。それは……空が普通の赤ちゃんではないってことだった…。




