第1話 元社畜おじさん 8時間労働するだけで無双する
「お願い……! 止めてください! これ以上無理をし続けたら……小路さんが……小路さんが死んじゃいますよ!」
涙ながら俺を気遣う言葉を掛けてくれるのは後輩社員の水飼早紀。
「止めないでくれ。必ずやり遂げなければいけない仕事なんだ。ちょっくら頑張ってくるだけさ」
「駄目です! そんなに無理して何になると言うのですか!? もっと自分を大切にしてくださいよ!」
「……ありがとう。そんな優しい言葉を掛けてくれたのはキミが初めてだ。その言葉だけで、俺はどこまでも頑張れる」
「小路さぁぁぁぁぁぁぁん!」
背中で泣き続ける水飼を振り切って、俺は仕事場へと向かう。
「さぁ~て。ちゃっちゃと終わらせてくるかな」
首をコキコキと鳴らしながら俺は指定席へ着く。
そしてモニターへ向き合って無言でキーボードの操作を開始した。
「どうして……どうしてそんなに……頑張れるの?」
「ふっ。俺の故郷ではこれくらい普通さ」
キーボード操作の合間に水飼に向けて親指をビッと立てる。
「うそ……嘘ですよ……だって……だって……っ!」
涙を浮かべた瞳で信じられないものを見るように視線を送ってくる水飼。
ああ——分かっているさ。
この世界ではこれが普通でないことくらい。
でもな、嘘じゃないんだ。
俺の故郷では……当たり前のことなんだよ。
「1日に8時間も労働するなんて……どう考えても異常じゃないですかっ!!」
「…………」
俺、小路山治はタイムリープ者である。
気が付いたら若い頃に戻されており……
そしてここはブラック企業が絶滅した世界みたいである。
◆ ◆
『す、すげぇ。小路さん前職では1日に8時間も労働していたらしいぞ』
『う、うそでしょ? なんてひどい会社だったの!? 人間の尊厳を損なう行為だわ!』
『お、俺なんて3時間勤務するだけで倒れそうになったのに。小路さんの強靱な精神力はどこから湧いてきているんだ!?』
『8時間も働くなんて……もはやそれは狂人よ。人間をやめているんだわ』
オフィス内の彼方此方からヒソヒソ話が聞こえてくる。
なんか物凄く称えられているのは分かるけど、そんなに騒ぐこと?
まぁ、この世界では俺は異常なんだろうな。
泣き散らしながら心配してくる水飼の顔を見ればさすがにそれくらい察することはできた。
「あのな水飼。心配してくれるのは本当に嬉しいのだが、たかが4時間残業するくらいでそんな大泣きしなくてもいいだろ?」
「よ、4時間ですよ!? フルタイムの2倍働くって……そんなの身体を壊すに決まっているじゃないですか!」
タイムリープしたこの世界は日本であることは間違いないのだが、労働環境だけが元の世界とは完全に異なっていた。
完全週休3日制が一般的であり、その環境も見直しされそうで来年度から完全週休4日制が適用される。
そして正社員に課せられた所定労働時間は1日4時間。
しかも残業は月に10時間までと条例で決められている。
「心配するな」
「で、でもぉ……」
「ちゃんとタイムカードは切ってある。今の俺は退勤済扱いだ。よーし。これで心置きなく仕事に集中できるぞ」
「馬鹿の極みじゃないですか!! 正気ですか!? 頭大丈夫ですか!?」
「えっ!? これ普通のことじゃないの?」
前の世界線はむしろこれを強制的にやらされていたのだけど。
『小路。この資料今日中にデータ化しておけよ。あっ、それと、もう定時だからお前のタイムカードは切っておいたぞ。んじゃあとはよろしく』って言っていた課長は向こうの世界で元気してるかな?
「はぁ……しょうがないですね。私も手伝います」
「えっ!? そんなの悪いよ! 俺が残した仕事だし」
「いいから。二人でやった方が早いですし、効率も良いですので」
良いやつだな水飼。残業という罪を一緒にかぶってくれるとは。
俺のこと本気で心配してくれたし……
も、もしかして、ちょっといい雰囲気だったりする?
「ありがとう水飼。そうだ。仕事終わったら何かおごるよ。飲みにでもいくか?」
「え……アルハラ!?」
「えっ? あ、しまった……!」
飲みに行こうと誘っただけで思いっきり引きつった表情を浮かべてくる水飼。
そうだ。この世界では『飲み会』というのは悪逆非道行為に当たるのだ。
給与は出ない。時間を拘束される。そして楽しくない。
行きたくもない飲み会というのは開催されること自体罪なのだ。
「ち、違うぞ!? 独り言……そう独り言だ! お、俺がそんな悪の道に逸れるわけないじゃないか! やだなぁ」
はっはっはっと冷や汗垂らしながら自嘲的に笑う。
「……この残業行為自体が悪の道まっしぐらですけどね」
「ごもっとも……」
ジト目で突き刺すような視線を投げられる。
良かった。通報されずに済んだ。残業過労法って妙に罰金高いからなぁ。水飼が心の広い奴で良かったなぁ。
「……残業があと30分で終われば飲みに行ってもいいです」
「うぇ!?」
「ちょ、ちょっとだけですからね! 一応同意の上での飲み会です」
「あ、ありがとう。嬉しいよ」
「か、勘違いしないでくださいね。同意の上とはいえ、ラストオーダーまで居座らせるような犯罪行為に走ったら通報しますから!」
「も、もちろんだ!」
モチベがグンッと上がった俺はマッハで仕事にとりかかった。
俺の仕事っぷりを横目でチラッと眺めていた水飼は少しだけ嬉しそうに口角をあげていた。




