フィリア5 (2)
ルースの電話から幾日か過ぎた。それでもランドルからは何の音沙汰もなかった。
彼に話が通っているのか。いや、そもそも兄を名乗った男性が、本当に彼とつながりを持っている者なのか、確かめるすべは何もなかった。
それでも私は今夜もまた街へ出かけるのだ。ランドルを捜して――
どれくらいの日にち続いただろう。数えることをやめて久しい。
いつもの捜索をやめて、部屋へ戻ろうとしていた。そんな時、マンションの入り口で人影を見つけた。瞬間、心臓が跳ね上がるのを感じた。
背の高い男性の影。こちらを見つめる彼の視線。私の足は完全に止まってしまった。
壁に寄りかかっていた彼は、こちらに気づいているだろうに、じっとしたまま動こうとしなかった。
「ランドル……」
呼びかけた言葉は、ちゃんと声として発せられていただろうか。私には分からなかった。それでも彼はようやく体を起こし、優雅にも見える足取りで、こちらにやって来た。
薄手のグレーのコートに身を包んだランドル。彼がゆっくりと近づいてくる。それだけで私の心はひるんでしまいそうだった。
「久しぶりだな、……フィリア」
耳に心地良い彼の声。その声を聞いただけで心に細波が立つ。
彼は私の目の前で立ち止まった。
「少し痩せたか?」
濃いブルーの瞳にとらえられ、私は無防備な子供のように彼を見上げるだけだ。
街灯の光が辛うじて届く薄闇に立つ彼は、なんと優しげに見えることだろう。まるで、私を案じてくれているかのような錯覚を起こさせる。だからだろう、続く言葉に失望を隠せなかったのは。
「何の用だ? 話があると聞いたから来たんだ」
その声はそれまで聞いたことのない、冷ややかな響きを持っていた。
「ランドル……」
名前を呼んで、言葉に詰まる。
その時の私はどんな顔をしていたのだろう。彼は顔を背けた。道路を挟んだ向こうの歩道を一組の男女が歩いていた。
「悪いが、わたしも暇ではないんだ。用件を言ってくれ。あまりここには長居したくはないのでね 」
肩を寄り添わせている二人に目をやりながら、ランドルは言った
「ランドル、私……」
どうして、こうも言葉が出てこないのだろう。彼に会えたら、話したいことは山ほどあったはずなのに。自分が震えているのが分かった。
「あの男とはうまくいっているのか?」
彼は、カップルが通り過ぎた風景を見ながら聞いた。こちらを振り返ることなく。その変わらない横顔を見ながら、私は首を横に振るだけで精一杯だった。
彼は私を見た。その顔には何の表情も浮かんではいなかった。ただ、瞳だけが心を映す窓のように、光を帯びていた。
「それが用件か」
吐き捨てるような呟き。
「あの男の居場所は何処だ?」
彼の顔に表情が戻った。その苛立ちは傍にいる私にも伝わった。圧倒されて、私は一歩後退りした。
「わたしがあいつと話をつける。それが君の望みなんだろう。君を託したわたしの責任でもあるわけだしな」
その怒りの矛先が、本来向かうべき私ではなく、クレバー・ストロークに向けられているのは明らかだった。ほとばしり、溢れてくる感情。端正な唇は歪められ、白い牙が覗いて見える。
「ち……違うの……」
私は首を振りながら、呻くように言った。怒りの凝縮された瞳に捕まりながら、やっとの思いでつむぎだした言葉だった。
ランドルは燃えるような瞳で、私を見据えた。それでも、ここで口を閉ざすわけにはいかなかった。それはクレバーに危険が及ぶからという理由だけではなかった。
「私が駄目だったの。いけないのは私なのよ」
彼に向かって足を踏み出す。青い瞳が力を吸い取っているかのようだった。ほんの僅かな歩みだというのに、今にも崩れてしまいそうだった。
「ランドル、私は……!」
さらに近寄ろうとしたが、足がもつれて倒れそうになった。それを彼に助けられる。
腕に抱きとめられ、その顔を目の前にして私は再び言葉を失った。その瞬間、彼の瞳に浮かんでいたのは怒りではなかった。そこにあったのは……。
だが、それを確かめることはできなかった。体を起こし、私を立たせてくれると、彼はすぐに身を引いた。手を伸ばせば届きそうな距離であったのに、ずっと遠くに感じられた。
「そんなにあの男が大切か」
彼は呪いのように呟いて、それから天を仰いだ。雲がほとんどない今夜の空には、欠けるもののない月がかかっていた。それを見上げる彼の姿。それは最初の出会い――キルティンを親元に届けた後の時を彷彿とさせる光景だった。
彼は背を向けた。私から離れていく……。一歩一歩、遠ざかっていく。
これが最後なのだ。彼が私と会うことはもうないだろう。その姿が霞んだのは、溢れてきた涙のせいだった。
「ランドル!」
私は声を上げ、駆け寄っていた。涙が弾けて消えていった。彼の背中を抱きしめる。
「行かないで。お願い」
それは懇願であり、叫びでもあった。彼は足を止め、驚いたように振り返った。
「フィリア……?」
困惑と懐疑の入り混じった声。私の手を解いて、こちらに向き直る。彼の瞳に自分の姿を映し出されるのが耐えられなくて、顔を見ることができなかった。声さえ震えていたかもしれない。
「私、あなたのことが……。ずっと捜していたのよ、あなたを」
「しかし、君は……」
彼が動揺しているのが分かった。
「何を言っているのか分かっているのか? 君は……」
そう私は彼を拒んだ。
砕けた写真立てから全てが吹き出した夜。私が思いたけを打ち明けたあの夜……。
あれは彼が引き出したというよりは、私が彼に聞いてもらいたかったのだ。彼は何もかもを知り、それでも私に向き合ってくれた。
それを受け入れることができなかったのは、私が臆病だったからだ。再び失うかもしれないという恐怖に耐え切れなかったから。だが、今は違う。
「何者であってもいい。あなたに傍にいてもらいたいの」
そこに彼の正体は関係ないことだった。私が望んでいるのは、ランドルそのものだった。彼が毎夜のごとく人の生き血を貪っていたとしても。そのことが私の思いを止めることなどできはしなかった。彼を形作っているものがヴァンパイアであるとするなら、私はそれを受け入れるだろう。
彼は黙ったままだった。続く沈黙に不安になり、恐る恐る顔を上げようとしたときだった。ものすごい力で抱き寄せられ、胸に押し付けられた。
「わたしは……」
彼は呻くように言った。
このとき、その胸の内はどれほどざわめいていたのだろう。彼の思いを拒絶した私。それでも彼は私を愛している、幸せになってほしいと言ってくれた。
それでも、私は今まで自分の気持ちに正直になれなかった。それが彼をどれほど苦しめていたのか。
息苦しさに、めまいを覚えていた。気が遠くなりそうになって、ようやく彼は腕の力を緩めてくれた。
「フィリア……」
そんな私の様子に、彼は心配そうに覗き込む。
私は彼の腕を頼りながら、左手でニットの上着の襟を引っ張り、首を反らした。彼の目の前で首筋をさらしている。そして、その視線を熱いほどに感じて私は目を伏せた。
「あなたが望むなら、いいのよ。飲んでも」
それが私にできる最大の信頼の証だと思った。体の震えが伝わらなければいいと心から思った。
吐息が首筋にかかる。熱く、湿った吐息。近付いてきた唇が押し付けられる感触。その感覚に思わず身をすくめそうになる。
私はまぶたをぎゅっと閉じた。やがて、牙が私の首を傷つけるだろう。そうなっても決して悲鳴は上げない。そう心に決めて唇をかみしめた。
だが、彼は牙をたてることはなかった。強く首筋を吸っただけだった。
「ランドル……?」
彼が体を起こすのを感じて、私は目を開けた。穏やかな微笑みを浮かべる彼の姿がそこにあった。
「これで十分だ。わたしには」
「あっ……」
慌てて首を押さえる。もちろん、それでは分からなかったが、そこに赤い跡が残っていることは容易に想像できた。それは、借金取りが来た夜に付けられたのと同じもの。
そういう意味だったのかと、私は一人顔を赤らめた。そんな様子を彼が微笑みながら覗き込む。私は照れ隠しとばかりに、うらめしく彼を見上げた。
「またハイネックを着なきゃ」
「そうだろうな」
溜め息をつく私の顎を彼の手が持ち上げた。そして、彼は私にキスをした。優しく甘い恋人同士のキスを……。
ほのかな光をたたえる月が優しく照らし出すこの夜に、私たちの想いはひとつになった。
暗い影を落とす家々の狭間を知らないわけではなかったが、彼が見ているのは天にかかる月だけだった。その光を浴びながら、彼は柔らかい微笑みを浮かべるのだ。
その笑みに誘われて、私もまた天を仰ぐ。
美しく、円を描くその月は金色に輝いていた。私たちは、二人そろって、いつまでもそれを見つめ続けた。
== FIN ==