愛しい人は眠り続ける 【完】
――まるで時が止まってしまっているかのようだった。
その部屋には、真っ白なシーツの上で微動だにしない女がひとり。そんな彼女を一心に見つめる男は明らかに憔悴していた。
「ミラ…………」
ベッドの上で眠り姫のように夢を見続ける妻。エドモンは、その最も尊い名を知らず知らずのうちに口に出していた。深い悲しみの感情に彩られた声色は、今にも消えて無くなりそうだ。
普段からそびえ立つ二人の間にある壁は、このとき既に無くなっていた。
エドモンはもう、感情を露わにすることに対し抵抗を覚えることはない。深い後悔と、やりきれぬ悲しみが男の心を大きく変えたのである。
ようやく夫は、妻の絶望を理解するにあたった。ミラの人生まるごと犠牲にしたことによって――。
エドモンの妻であるミラは、とある晩、近くの湖で入水自殺を図った。
今にも泡となって消えてしまいそうな妻。そんな彼女を見つけた夫は、なんとか陸へと引き上げる。だが、最悪な事態に絶望を覚えずにはいられなかった。
――そのとき、ミラは息をしていなかったのだ。
妻の遺書を見つけたあと、エドモンは嫌な予感を覚え、近くに住まう医者にその大事を伝えた。それが幸いしてか、ミラを湖から助け出したあと、その医者が到着する。
適切な処置のおかげか、ミラは奇跡のようにその息を吹き返すこととなる。それはまるで、まだ死んではならぬという神からの思し召しのようでもあった。その出来事は、絶望の中に照らされた一筋の光とも言えた。
だが、幸運はそう続くものでもない。
ミラはその瞳を開くことがなかった。
一週間すれば目を覚ますだろうと言う医者の言葉に相反し、彼女は一向に目を覚ますことがなかった。既に1ヶ月は経過しているはずなのに。
ミラはまるで眠り姫のように意識を奥深くまで沈め、ただひたすらに小さな呼吸を繰り返し続けている。
だがエドモンにとっては、それでも神に感謝せずにはいられなかった。
ミラの口や鼻元に手をやれば、呼吸を感じ取ることが出来る。
ミラの柔らかな手を握ることで、温かい生命を感じることが出来る。
妻の命の灯火は消えていない。
それだけがエドモンの救いであり、生きる上での希望とも言えた。眠り続けるミラを永遠に守り続ける役目こそ、エドモンに与えられた最幸の試練なのだ。
エドモンはサイドテーブルにある宝石箱を手に取る。その中には妻から貰った初めての手紙が入っていた。
『さよなら私の愛しい人』
初めて貰った文には悲しすぎる愛の言葉。正直に言えば、こんな形で知りたくなかった。
だが、どれもこれも互いにすれ違い続けてしまったからだ。意思疎通が足りなさ過ぎたのだ。エドモン自身の責任は大きく、計り知れない。
もし、エドモンが素直に自分の思いを認め、伝えることが出来ていれば。夜、眠りにつく前に何度考えたことだろう。
だが、エドモンは全てに絶望したわけではない。彼は信じているのだ。自分の愛しい妻が長い眠りから解き放たれ、いつか互いに微笑み合うことのできる未来を。二人で歩むことのできる幸せを噛み締め、守り続けたい。
エドモンはもう後悔しないよう、自らの心を口に出していこうと思う。そしてミラに優しく微笑みかけてやるつもりだ。
だからその第一歩として、まずは目覚めた君にこの言葉を贈ろう――。
『おかえり俺の愛しい人』
――愛の祝福を捧げるために。