静かに寝たいと言っただけなのに、天幕の周りが不可侵領域になった
王都への緊急報告だの、極秘扱いだのと言われても、航一郎にはいまいち現実感がなかった。異世界へ来てから起きたことが多すぎて、頭の中ではもう処理待ちの案件が積み上がっている。それよりも今は、身体の方が限界だった。
「その辺の話って、明日でもいいですか。今日はもう、何も考えたくないんで」
ディルクは一瞬言葉を失ったが、すぐに頷いた。
「もちろんです。こちらも必要以上に引き留めるつもりはありません。エリス、客人用の天幕へ案内してくれ」
「承知しました。すでに準備しております」
準備が早い。航一郎はそのことに少しだけ不安を覚えたが、今は突っ込む元気もなかった。
天幕を出ると、夜の野営地にはいくつもの篝火が焚かれていた。鎧姿の兵士たちが忙しそうに行き交い、ときおり馬の鳴き声や金属のぶつかる音が響いている。昼間なら気にならない程度の騒音でも、今の航一郎にはやけに耳についた。
「こっち、夜も結構うるさいんだな」
何気なく漏らすと、エリスが申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません。騎士団の野営地ですので、夜間も警戒を解くことができません。ただ、コウイチロウ様のお休みになる場所からは、できる限り人を遠ざけます」
「いや、そこまでしなくていいよ。普通に寝られればいいから」
エリスは真剣な顔で頷いた。どうやら彼女の中では、「普通」という言葉があまり信用されていないらしい。
案内された天幕は、野営地の端に近い場所にあった。中には簡素だが清潔な寝台があり、毛布、水差し、着替えらしき服まで用意されている。屋根があって横になれるだけでもありがたい航一郎からすれば、十分すぎる環境だった。
「十分だよ。というか、ありがたい」
「何かございましたら、すぐにお呼びください。私が外におりますので」
「いや、エリスも寝なよ。俺、一人で大丈夫だから」
エリスは何か言いかけたが、航一郎が先に首を振った。
「本当に大丈夫。今日はもう、朝まで静かに寝たい。それだけだから」
《承知しました、ご主人様》
頭の中でARIが答えた。航一郎は寝台へ腰を下ろしながら眉を寄せる。
「……今の、何を承知した?」
《ご要望を受領しました》
「それ以上は?」
《処理を開始します》
嫌な言い方だった。とはいえ、眠気の方が勝った。航一郎はもう確認する気力もなく、靴を脱いで寝台へ横になる。
「変なことすんなよ……」
最後にそう呟いたところまでは覚えていた。数分後、航一郎は完全に眠りへ落ちた。
◇
最初に異変へ気づいたのは、夜警に立っていた若い騎士だった。交代のため、航一郎が眠る天幕の近くを通ったとき、突然、自分の足音が聞こえなくなったのである。
騎士は足を止めた。土を踏んでいる感触はあるし、靴底には砂利も当たっている。それなのに、音だけがきれいに消えていた。
「……なんだ?」
そう口にしたつもりだったが、自分の声すら聞こえない。騎士は目を見開き、慌てて数歩後ろへ下がった。
「なんだ、これ……!」
声が戻った。恐る恐るもう一度前へ進むと、ある地点を越えた瞬間、再び世界から音が消える。風は吹き、木の枝も揺れているのに葉擦れの音がなく、少し離れた篝火も燃えているのに薪が弾ける音すら聞こえなかった。
「エ、エリス殿!」
呼ばれたエリスが駆けつけたときには、三人ほどの兵士が天幕から距離を取って集まっていた。事情を聞いたエリスは、航一郎の天幕を中心として目に見えない境界ができているらしいと察する。
「私が確認します」
エリスはゆっくり近づき、その境界を越えた。瞬間、周囲の音が完全に消える。騎士たちの声も、風も、遠くの馬の鳴き声も聞こえず、自分の鎧が擦れる音さえなくなった。
静寂。
それも自然な静けさではない。世界から「音」というものだけを切り取ったような、異様な静けさだった。
エリスは天幕を見る。中では航一郎が眠っており、その布地だけは風が吹いているはずなのに少しも揺れていない。境界の外へ戻ると、集まっていた兵士たちが不安そうにこちらを見た。
「……コウイチロウ様は、朝まで静かに眠りたいと仰っていました」
「だから、音が消えたんですか?」
「おそらくは」
兵士たちは顔を見合わせたが、エリスはすでに次のことを考えていた。
「この周囲の見張りを少し外側へ移してください。交代も境界の外で行いましょう。それから、馬をこちらへ近づけないように」
「は、はい」
エリスは迷いなく指示を出していく。異常な現象そのものより、航一郎の睡眠を妨げないことの方が重要らしい。
ほどなくして、状況を聞きつけたディルクもやって来た。自分で境界を確かめたあと、天幕を見つめながら眉を寄せる。
「……防音結界か?」
「私の知る防音結界とは違います。通常なら音を弱めるか、外へ漏れなくする程度です。これは、中に入った者が立てる音まで消えています」
ディルクは境界付近へ手をかざしたが、目立った魔力の流れは感じられなかった。
「術式も見えない。魔力反応もほとんどない。それなのに効果だけ存在しているのか」
「そういうものなのでしょう」
エリスはそれ以上考える気がないらしい。
ディルクが何か言おうとした、そのときだった。
野営地の外側から短い警笛が鳴る。
「魔獣だ!」
森の中から、大型の獣が一頭飛び出してきた。狼に似ているが身体は馬ほど大きく、額には鋭い角が一本生えている。
兵士たちが一斉に武器を取った。
「囲め! 野営地の奥へ入れるな!」
ディルクの指示で騎士たちが左右から回り込む。魔獣は矢を一本受けて進路を変え、包囲を避けるように野営地の端へ走った。
その先に、航一郎の天幕があった。
「そちらへ行かせるな!」
エリスが剣を抜いて駆け出す。
魔獣は追ってくる騎士たちから逃げるように走り、航一郎の天幕を囲む境界へ飛び込んだ。
次の瞬間、その身体から唐突に力が抜けた。
勢いのまま数歩進んだあと、前脚が折れ、その場へ崩れ落ちる。エリスはすぐそばで剣を構えたまま立ち止まった。
魔獣は動かない。
だが、死んではいなかった。腹はゆっくり上下し、数秒前まで牙をむき出しにしていたとは思えないほど穏やかな寝息を立てている。
「……寝てる?」
追いついた騎士が呟いた。
エリスは慎重に魔獣の様子を確認したあと、剣を収めた。傷はあるものの命に別状はなく、本当に眠っているだけらしい。
「この個体は、そのままにしてください」
「え?」
騎士が聞き返す。
「朝まで起こさないでください。もし再び暴れれば、コウイチロウ様のお休みを妨げる可能性があります」
「魔獣の方を、起こさないんですか?」
「その方が安全でしょう」
至って真面目な顔だった。
周囲の騎士たちは何とも言えない表情になったが、誰も反論しなかった。少なくとも、今ここで魔獣を起こして航一郎の天幕へ向かわせる理由はない。
ディルクは眠る魔獣と航一郎の天幕を交互に見た。
「音を消すだけじゃないのか」
「コウイチロウ様は、『朝まで静かに寝たい』と仰いました」
エリスの答えはそれだけだった。
ディルクはしばらく黙っていたが、やがて周囲の兵士へ指示を出した。
「この区域には近づくな。見張りも外側へ移す。魔獣は拘束だけして、朝まで起こすな」
そこから先は、不思議な夜になった。
誰かが命じたわけでもないのに、第三騎士団全体が少しずつ静かになっていった。航一郎の天幕近くを通る兵士は足音を立てないよう遠回りし、鎧や武器を置く者は金属音が出ないよう布を敷いた。馬の移動経路まで変えられ、見張り同士の会話も自然と小声になる。
一人の兵士がくしゃみをこらえきれず、両手で鼻を押さえた。隣の兵士が無言で親指を立てる。
エリスはその様子を確認しながら、夜間の警戒配置を組み直していた。航一郎に近づかないことと、野営地全体の警戒を落とさないこと。その二つを両立させるため、いつもより細かく人員を配置していく。
その夜、第三騎士団の野営地は、これまでにないほど静かだった。
中心で眠る一人の男だけは、そのことを何も知らなかった。
◇
翌朝、航一郎は久しぶりに、目覚ましも電話も通知音もない朝を迎えた。身体を起こしてみると妙に頭が軽く、こんなに深く眠ったのはいつ以来だろうと思う。
「……めっちゃ寝た」
一か月近く続いた炎上案件の間は、寝ても仕事の夢ばかり見ていた。終電で帰り、少し眠り、また会社へ行く。その繰り返しだった。
航一郎は大きく伸びをしてから天幕を出た。
そこで足を止める。
少し離れた場所に、巨大な魔獣が一頭寝ていた。前脚には簡単な拘束具がつけられているものの、本人は気持ちよさそうに眠り続けている。そのさらに向こうでは、何人もの騎士が妙に距離を取ってこちらを見ていた。
「……何これ」
航一郎が魔獣を指差すと、頭の中でARIの声が響いた。
《おはようございます、ご主人様》
「おはよう。じゃなくて、こいつ何?」
《睡眠妨害要因です》
航一郎はもう一度、眠っている魔獣を見る。
「……寝かせたの?」
《はい。ご主人様の安眠を阻害する可能性があったため、休眠状態へ移行しました》
嫌な予感がして、航一郎は周囲を見回した。
「ほかに何した?」
《静音化、および睡眠環境への干渉抑制を実施しました》
航一郎は目を閉じた。
「俺、朝まで静かに寝たいって言っただけだよな?」
《はい。ご要望は正常に達成されました》
航一郎は朝から深いため息を吐いた。
「もう起きたから、普通に戻していいよ」
《承知しました、ご主人様》
その瞬間、遠くで鳥の声が戻った。風が木々を揺らし、篝火の残りが小さく爆ぜる。昨日まで当たり前だった音が、一斉に野営地へ戻ってきた。
「……ほんとに止めてたんだな」
航一郎が呟いた、その直後だった。
野営地の入口が急に騒がしくなる。
一頭の馬が土煙を上げながら駆け込み、乗っていた騎士が転がるように降りた。肩で息をしながら、真っ直ぐディルクの方へ走ってくる。
「隊長! 王都より返答です!」
ディルクの表情が変わった。
航一郎は、せっかくよく眠れた頭に新しい案件が追加された気がした。




