第26話:視界を汚す赤いタコと、瑞樹の甘い囁き
白亜のガゼボに、今日もまたあの甘く、鼓膜を撫でるような声が響いた。
「すずめちゃんのタコさんウインナー、今日も完璧な赤色だね。なんだか毎日見ていると、僕まで夢に出てきそうだよ」
私立住菱初等部の中庭。
夏目瑞樹は、大理石のテーブルに肘をつき、長い睫毛に縁取られた瞳を細めて雀のお弁当箱を覗き込んでいた。
その距離は、住菱伊織が設定した「案山子の防波堤」の境界線を完全に無視している。瑞樹が纏う上品なアールグレイの香りが、雀の放つ「お日様の熱と土の匂い」に混じり合い、伊織の鼻腔を容赦なくかすめていく。
「えへへー! 今日のタコさんはね、足がいつもよりくるんってなってるの! パパの自信作なんだって!」
「へえ、すごいな。伊織がこの間あんなに怒らなければ、僕もその自信作の味を知ることができたのに。……本当に、残念で仕方がないよ」
瑞樹は、殊更に悲しげな溜息をつきながら、流し目でチラリと伊織の方を見た。
「…………」
伊織は、洋書のページに視線を落としたまま、氷像のようにピクリとも動かない。
しかし、その滑らかな指先は、ページの端を今にも引きちぎらんばかりに強く握りしめられていた。
「ねえ、すずめちゃん」
瑞樹が、さらに身を乗り出し、雀の泥だらけの短い髪に顔を近づけた。
その瞬間、ガゼボの外周を取り囲む紺碧の制服の群れから、悲鳴にも似た嗚咽が漏れた。
「……う、嘘でしょう、瑞樹様があんな泥娘に甘いお声を……っ」
「き、きっとあの毒々しいお弁当に、瑞樹様の正気を奪う卑しい薬でも盛っているに違いありませんわ!」
令嬢たちは、純白のレースのハンカチをギリィッと噛み千切らんばかりに睨みつけている。彼女たちの嫉妬と絶望が入り混じった熱気は、薔薇やジャスミンの甘ったるいハンドクリームの淀みをさらに毒々しく変質させ、ガゼボの結界を押し潰そうとゆらゆらと揺らしていた。
「伊織はあんなに嫌がって、君のお弁当を『視界を汚す』なんて言うけれど。……僕は、すずめちゃんが好きなもの、全部知りたいな」
瑞樹の甘い囁き。
それは、令嬢たちであれば一瞬で魂を抜かれてしまうほどの、猛毒を帯びた誘惑だった。
『伊織の冷酷なルール』に縛られている雀に対し、瑞樹は『君のすべてを受け入れる』という甘い逃げ道を、優雅な手つきで提示しているのだ。
「え? 瑞樹くん、私の好きなもの知りたいの? えっとね、タコさんでしょ、ハンバーグでしょ、あとはね……」
鈍感な案山子は、その腹黒い思惑など微塵も察することなく、ただ純粋に嬉しそうに指折り数え始める。
バサッ。
その時、伊織が乱暴に洋書を閉じた。
「……瑞樹」
地を這うような、絶対零度の低い声。
伊織の漆黒の瞳が、殺気を帯びて瑞樹を射抜く。
「僕の領域で、勝手に僕の案山子に話しかけるな。……お前のその軽薄な戯言は、僕の思索の時間を著しく阻害している。非常に目障りだ」
伊織のその冷酷な怒声を聞いて、外周の令嬢たちの顔がパァッと明るく輝いた。
「ああ、ご覧なさい! 伊織様が、あの泥娘の図々しさにとうとうお怒りですわ!」
「ええ! 瑞樹様の清らかなお心を穢そうとする泥ザルを、伊織様が自ら排除してくださるのね……っ! さすがは我らが氷の王子ですわ!」
彼女たちの盛大な勘違いの声が、初夏の風に乗ってガゼボまで微かに届く。
伊織は内心で(違う。僕が排除したいのは瑞樹、お前だ)とギリッと奥歯を噛み締めたが、もはや訂正する余裕すらなかった。
「怖い怖い。ただのお弁当の話をしているだけなのに」
瑞樹は、両手を軽く上げて降参のポーズをとりながらも、その唇の端には嗜虐的な笑みを隠しきれていなかった。
「伊織が『見たくない』って言うから、僕が代わりにすずめちゃんのお弁当を見て、褒めてあげているんじゃないか。……君の『虫除け』の機嫌を損ねないための、僕なりの思いやりだよ」
「……黙れ。僕の案山子の管理は、僕がする」
伊織は、忌々しげに吐き捨てた。
瑞樹に褒められる雀の笑顔。二人の間を取り持つ、あの忌まわしい赤いタコさん。
そのすべてが、伊織の完璧だった理性の城壁を、内側からハンマーで叩き壊していくように錯覚させられる。
(あの不快な赤い色彩が……あの男の視界に入るのが、極めて不愉快だ。いっそ僕が、あの粗悪品をこの場から完全に『消去』してしまえば……)
伊織の天才的な頭脳が、ついに「タコさんウインナーを自らの手で排除(捕食)する」という、狂気じみた極端な防衛策を弾き出し始める。
氷の王子の分厚い仮面の下で、剥き出しの独占欲が、ゆっくりと、しかし確実に、その理性を喰い破ろうとしていた。




