17・クリストフ様の不在
クリストフ様は全力で駆けてきて、そのまま神官たちに鼻突きをしたらしい。『頭突きでなかっただけ冷静だろう!』とコンラートに誇らしげに語っていたけど、神官はふたりとも全身が骨折だらけでかろうじて生きている状態だった。
「……私が怖いか」
しっぽを下げたクリストフ様が弱気な声で私に尋ねる。
私は怪我の有無を医師に確認してもらったあと、大広間で状況を訊かれた。メンバーはお勤めに行く前と同じで、魔王様たちもいる。
そして窓が一か所、粉々に割れていた。クリストフ様が開ける時間も惜しみ、突撃したらしい。フェンリルの聴覚は人間の何倍もあって、それで私の悲鳴を聞きつけたのだそうだ。
「怖くなどありません。頼もしいです」
「そうか!」と言うクリストフ様のしっぽがピンと立って、それからゆらゆらと揺れた。
「話は終わったか」と、魔王様が割って入って来た。「もう行くぞ」
「ああ」とクリストフ様がため息のような声を漏らして、私を見る。「実は少しだけ、魔の国に行くことになった」
思わず息をのむ。
「仕事だ!」とクリストフ様。
「そう」と陛下がうなずく。「クリストフには、あちらの関係者の話を聞き、状況を確認してきてもらう。ほかに行ける者がいないのだ」
そうか。魔の国には瘴気がある。でもクリストフ様は魔獣だから悪影響は受けない。
「こんなときにエヴリーヌ嬢にもふらせてあげられなくて、すまない」とお優しいクリストフ様が謝まる。
「私なら大丈夫です」と答えて、微笑む。
聖女はいつだっておおらかに構えていないといけないから。
――でも、心細い。
「だけどお留守の間のぶんも今、もふもふさせてもらっても、いいですか」
『どうぞ』とのお許しをもらい、あごの下をもふもふさせてもらう。
それからぽすんと顔を埋めた。
「やっぱり、はやく帰ってきてほしいです」
小さく呟く。クリストフ様に聞こえてほしいような、そうでないような。
『わふん』
今のはお返事なのだろうか。
クリストフ様のお顔を見上げると、緑色の瞳と視線があった。
「エヴリーヌ嬢。帰ってきたら、伝えたいことがある」
とても真剣な声だった。
「わかりました」
そう答えて、もう一度クリストフ様のもふもふに顔を埋めた。
◇◇
陛下によると、クリストフ様が魔の国へ行ったのは、嘘を見分ける能力も買われてのことらしい。魔族に通じるかどうかは不明とのことだけど。そして明日の朝には帰ってくる予定なのだそうだ。
でも魔の国がどんなところかわからないし、とても不安だ。魔王様はクリストフ様をとても気に入っていたもの。彼が言っていた『伝えたいこと』も、もしかしたらあちらへの移住を決めたということかもしれない。でなければ、わざわざ宣言なんてしないと思う。
陛下にクリストフ様との結婚を提案されて、そのときは自分がどうしたいのかよくわからなかった。だけど今はわかる。
彼と一緒にいられる条件が結婚ならば、私は結婚したい。
◇◇
翌朝、起きてもまだクリストフ様は戻っていなかった。私はきのうの事件を受けて、しばらくの間は王宮で暮らすことが決まっている。彼の帰還がすぐわかるという点でも、とても助かる。
早くお顔をみたい気持ちでいっぱいで、とてもではないけれど落ち着かない。
そんなときに、陛下によるオーバンの聴取が急遽決まった。オーバンが『神官が捕まったのならもうおしまいだから、すべてを父上に話したい』と主張したらしい。陛下はクリストフ様を待ちたかったみたいだけど、オーバンが『今すぐ聞いてくれないなら自死する』と騒いだので、すぐに聴取することになったようだ。
そして、当事者のひとりでもある私にも声がかかった。場所は、またしても大広間。クリストフ様が帰ってきたら、参加できるようにとの配慮だろう。
玉座に陛下、そのとなりに王妃様。おふたりを挟むように大臣たちがずらりと並び、オーバンは彼らからかなり離れた場所に、ひとりで立たされている。ほかに近衛兵たちが、たくさん。陛下の警護というより、オーバンの監視のためのようだった。
私は誰からも少し距離をおいた広間の隅で、コンラートと護衛に守られて立っている。
『なぜコンラート?』と思ったけれど、クリストフ様の命令だそうだ。私のことをとても案じていてくれるらしい。
「クリストフ様は」と聴取会の前にコンラートがにっこりした。「あなたがもふもふすることに癒されているのと同様に、されることに癒されているのです。その証拠に、きのう魔王になでられていたとき、一度も『わふん』と言わなかったでしょう?」
そう言われてみれば、『わふん』を聞かなかった気がした。あんなにもふられていたのに。
なんだかむず痒いような、嬉しいような気分だった。
「それで、お前の言い分はどうなのだ」と陛下がオーバンに声をかけた。
「無論」とオーバンが力強い声で言う。「私のイザベルが本物の聖女で、エヴリーヌは偽物です。私の言葉が正しい」
あまりに確信に満ちた言葉と態度だった。
陛下夫妻も大臣たちも私も戸惑い、オーバンを見つめることしかできない。
彼はおかしくなってしまったのだろうか。
オーバンは微笑みを浮かべながら、懐に手を入れた。出てきた時にはこぶし大の水晶を持っていた。
「父上母上、皆の者。私の判断が正しいのです!!」
オーバンが叫んで水晶を陛下に向けて投げつけた。近衛兵が飛び出したけれど、それに届く前に水晶は床に落ちて割れた。
その瞬間にぐにゃりと視界がゆがむ。
鼻をつく、不快な匂い。
突風が起きる。
「どうした! なにが起きている」
誰かの叫び声が上がる。コンラートが私の前に、かばうようかに立ち、
「急いで広間を出ましょう!」と叫んだ。
「オーバン。お前はなにをしたんだ」
立ち上がった陛下がきつく問う。
「ですから、私が正しいのです!」
オーバンが叫んだとき、ウオォォ――――ンッという咆哮がどこからともなく聞こえ、水晶が落ちたあたりから突如として、見たことのない巨大で恐ろしい獣が現れた。
一頭、二頭と、どんどん増えていく。
「魔獣だ……」
コンラートの呟く声が聞こえた。




