9◇Lucia
昨日知り合ったばかりの男性とひとつ屋根の下で過ごしてしまった。
もちろん、疚しいところは何もないが。
なんというのか、ブラッドは最初に構えたよりも案外物が言いやすい相手だった。
向こうがどう思っているのかは知らない。ただ、ブラッドの物言いが遠慮なくなってきたような気もする。
――防犯意識が低いとは。
そうなのだろうか。初めてそれを意識したルーシャだった。
「おはようございます」
カラン、とドアベルを鳴らして店に入る。まだ開店していないから、当然客はいない。ショーウインドーのトルソーが着ている服も昨日のままだ。
「おはよう、ルーシャ」
窓辺でコーヒーを飲みながらくつろぐレーンの髪色は、紫に変わっていた。よく見ると、毛先にかけてグレーになっていて、微妙なグラデーションがある。
いつものことなのでそれには触れない。
レーンはルーシャの背後を見て顔を曇らせた。
「ブラッドは送ってくれなかったの?」
「朝から変質者は出ません。断りました」
そもそも、本当に変質者なんていたのか自信がない。気のせいだったのかもしれない。
それでも、レーンはそう考えていないようだった。
「油断しちゃ駄目よ。明日からはちゃんとブラッドに送り迎えしてもらいなさいね」
「帰りは来てくれますから」
渋々言うと、レーンは苦笑しながら髪をかき上げた。
「昨日は喧嘩しなかった?」
「してませんよ」
多分。していない。
悪い人ではないと思い始めている。
「それならいいけど。いい子なのよ」
「ええ、そうですね」
そこは否定しない。相性はわからないけれど。
ルーシャが否定しなかったことで、レーンが意外そうな顔をしたのは心外だ。
「昨日、変わったことはなかった? 変質者は?」
「何もなかったし、誰もいませんでした。……ちなみに、この生活はいつまで続くんでしょう?」
ルーシャが一人暮らしでなくなるか引っ越すまでだとしたら、そんなものはいつになるのかわからない。ブラッドの契約はどうなっているのだろう。
「そうねえ、一ヶ月様子を見て、それからどうするか決めましょう」
「一ヶ月ですか……」
長いな、と思った。それとも、この一ヶ月はあっという間に終えるのだろうか。
ルーシャが二階に上がると、ナタリーがモスリンのドレスに鏝を当てて皺を伸ばしていた。ルーシャに輝くような笑顔を向けてくれる。
「おはよう、ルーシャ」
「おはよう、ナタリー」
ルーシャは興味津々のナタリーに、昨日のことを少しだけ話した。もちろん、手はちゃんと動かす。
ナタリーはほんのりと頬を染めつつ話を聞いている。
「そうなの。いい人みたいでよかったね」
「まあ、店長の知り合いだしね」
そのうちに店が開店し、下の階では売り子が接客している声が聞こえてくる。
ルーシャとナタリーは製造担当だが、人手が足りないとルーシャも接客を手伝うこともある。その場で服を売るというより、注文を受けるのだ。
ただしナタリーは人見知りがひどいので接客は不向きだから、ほぼこの二階で手を動かしている。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
またルーシャだけ一階へ呼ばれ、接客した婦人を玄関先まで見送りに出た時、店先のショーウインドーに張りついているメイドを見つけた。
「お客様、よろしかったら中へお入りください」
メイドは薄給だからこの店の服は贅沢品かもしれない。それでも、ものによってはまったく手が届かないということもないだろう。買えないとしても、見ていきたいのなら見ていってくれたらいい。
ルーシャが声をかけたら、メイドが振り返った。眼鏡に茶色の三つ編みといった風体の少女だ。
「あ、え、い、いえ、素敵だなと思って見ていたけど、似合うわけじゃないし」
「そんなことはありませんよ。女性は誰だってお洒落をしたいと思えばするべきです」
メイドが見ていたのは、ピンクのふんわりとしたワンピースだった。自分で言っておいてなんだが、ルーシャは似合わないタイプの服だなと思った。ルーシャよりはこのメイドの方が小柄だし、まだ似合う。
メイドはルーシャを眼鏡の奥からじっと見つめた。そこに嘘がないか探るように。
「……仕事中なの。また、見に来てもいい?」
「ええ、いつでも」
そう答えると、メイドは嬉しそうに三つ編みを揺らして去っていった。
ルーシャと同じ年頃だろうか。可愛いものに憧れる女の子は可愛らしい。
やっと接客が終わり、二階の作業室へ戻る。
今日の作業は儀礼用のドレスだった。ルーシャとナタリーは新人なので、今のところ任されている作業はフリルをつけたりビーズをつけたり、最終的な装飾部分であることが多い。裁断などはまだまだ任せてもらえない。
それでも途中でレーンにチェックしてもらって、縫合の許可が下りたらせっせと縫い始める。
ちなみに、別の部屋では別の針子が違う注文を手掛けている。さすがに二人でこの店の服を仕上げるのは無理だ。
せっせと作業を進め、キリのいいところで、ふぅ、とひと息ついた。
「そろそろお昼にしようか」
気がつくと、とっくに昼を過ぎていた。ナタリーもうなずく。
「うん!」
ルーシャはバスケットに入れてあったお手製のサンドイッチを取り出す。
卵とチーズを挟んであって、黒胡椒とマスタードがアクセントだ。ブラッドにはさらに多めに、ベイクドポテトとベーコンを挟んだものも用意しておいた。あれで足りているといいけれど。
そんなことを考えながらサンドイッチを呑み込んだ。
――夕方。五つの鐘が鳴った。
迎えが来ると思うとなんだか落ち着かない。
店は閉店し、売り子たちも先に帰って一階にはレーンと住み込みのナタリーしかいない。なんとなく、ここにブラッドが来るのは気まずいような気がして、ルーシャは荷物のバスケットを握り、そうっと扉の方に向かった。
「ルーシャ?」
レーンのいつもより少し低い声が背中にかかる。
「まだブラッドが来てないでしょう?」
「外で待ってます」
「先に帰るつもりじゃない?」
「……ちょっと食材の買い出しもしたくて」
「一緒に買い物しなさい」
嫌だ。そんな新婚夫婦みたいなの。
「だ、だって、男の人ってそういうの嫌いじゃないですかっ?」
「ブラッドが嫌いかどうかわからないでしょ」
そんなやり取りをしていると、遠慮なく扉が開いた。
「俺が何を嫌いだって?」
来た。しかもそこだけ切り取ったように聞いてるとかやめてほしい。
ルーシャは焦ったけれど、レーンは楽しそうだった。ちなみにナタリーはまたどこかに隠れた。
「遅かったわね。ルーシャが食材の買い出しに行きたいんですって」
すると、ブラッドはうなずいた。
「わかった。行こう」
ルーシャは、グッとうめいた。新婚夫婦みたいに買わなくてはいけなくなってしまった。明日は休みなのだから、こんなことなら明日ゆっくり買い物をすればよかったのだ。
レーンはウフフと笑いながら二人を送り出した。あれは面白がっている。
「買い物って、どこに行きたいんだ?」
「えっと、パン屋と、雑貨屋と、八百屋」
「全部同じ並びだろ。すぐそこだな」
そう、すぐそこだから顔見知りばかりである。ルーシャは常連なのだ。男っ気のなかったルーシャが男連れで新婚夫婦のように食材を買う――変な噂が立ちそうだ。