44◆Bradley
ブラッドは眩い光を感じながらゆっくりと目を開けた。
窓辺で白いベッドに寝かされている。ここはどこだろうか。
――多分、知っている。覚えがある。騎士団の医務室だ。
「ルーシャは……っ」
夢から覚めたように現実を思い出し、ブラッドは飛び起きた。けれど、背中に矢傷を受けたわりには少しも痛まなかった。
ルーシャはブラッドの隣にいた。隣のベッドに横たわっている。
「ルーシャ!」
彼女の眠りを妨げる。目を開けて、生きていると示してほしい。
ブラッドがルーシャの顔を両手でつかみ、覆いかぶさりながら覗き込むと、ルーシャはまぶたを開いた。
深い緑の瞳がブラッドに向く。以前と少しも変りない、ルーシャの色だ。
「ブラッド、体の具合は?」
ルーシャの目に涙が浮かんで、目尻から零れた。
「どこも痛くない。ルーシャは?」
「私も平気」
そう言ってルーシャはブラッドの首に腕を回し、震えを止めようとするようにしがみついてきた。
「鼓動が、聞こえる……」
「そりゃあ、生きてるから」
当たり前だ。
――けれど、本当にそうだろうか。
あの時、ブラッドは背に矢を受けて倒れた。あの痛みははっきりと覚えている。
ルーシャが、ヒクッとしゃくり上げながら言った。
「一度心臓が止まったの。でも、女神様が助けてくださって……」
まさかそんなことが、とブラッドは愕然とした。
ルーシャの腕を解き、シャツのボタンを外して自分の胸元を見た。叙任された騎士は胸に刻印を持つ。それは死と同時に消えるものなのだと言う。
今、ブラッドの胸に刻印はなかった。今のブラッドは騎士ではないらしい。
ゾッとする話だが、一度死んだというのは事実のようだ。
「ごめんねぇ。私、ブラッドにひどいこと言った。信じてあげられなかった……」
溢れる涙を拭いながら泣きじゃくるルーシャは、ブラッドの大事なルーシャのままだった。そのことがどれほど嬉しかったかを伝えたい。
「俺もルーシャのことが好きだ。ずっとそう言いたかった。ルーシャが公爵の孫で手が届かないなんて、何かの間違いだったらいいのにって俺が願ったから、それが叶ったんだとしたらごめんな」
改めてルーシャの体を抱き締めた。力加減ができなくて、ルーシャは苦しかったかもしれない。
それでも、息を詰まらせながら答えてくれた。
「私、公爵家の一員になりたかったわけじゃないの。信じていた人たちが私を騙していたってことが悲しくはあったけど……。私は、ブラッドがいてくれたら他には何も要らない」
昔、ミリアムにもそんなことを言われた。ブラッドさえいてくれたらいいと。
けれど、なんでも欲しがるミリアムだから、少しも本気ではなかった。あんなのはリップサービスで、いざとなればブラッド一人とその他とを天秤にかけることすらしないで選んだだろう。
今のルーシャは、本心からそれを願ってくれている。
比べるべくもなく、愛しさが込み上げる。
ただ二人でいられたら。
それに優る喜びはない。
ルーシャの乱れた髪を指で梳き、キスをした。
互いの気持ちを確かめ合うためにそれが必要だと思えたから。深く、長く、ずっと――そんな時が続けばよかったけれど。
「し、失礼、しますっ」
ノックもなく扉が開いた。
急に頭が切り替えられるわけがなかったけれど、ルーシャは瞬時に切り替えたらしい。突き飛ばされた。
「ナ、ナタリー……」
着ていたいドレスほど顔を赤くしてルーシャが声を上げた。
ナタリーは、ドレスではなくワンピースを着ていた。ナタリーもまた、マズいところに足を踏み入れたことに気づいたらしく、ルーシャに負けないくらい赤くなった。
「ルーシャ、ごめんね。わたしがもっとしっかりしていたら、店長はあんなことしなかった……」
言いながらも目に涙を浮かべ、けれど泣いてはいけないと自分を叱るようにかぶりを振った。
「ごめん。言い訳をしに来たわけじゃないの。これを運びに来ただけ」
それはルーシャの荷物だ。それと、もうひとつ。
「こっちはブラッドさんの」
「俺の?」
「エレイン様からよ」
姉が何かを用意してくれたらしい。それは背中を押してくれたと考えてもいいのだろうか。
ナタリーは震えていた。ルーシャからどんなことを言われても仕方がないと覚悟を決めてきたのだろうか。ナタリーも多分、何も知らなかったはずなのだ。
「二人が目を覚ましたら、いろんな人が勝手なことを言い出すのかもしれない。わたしはルーシャに今までたくさん助けてもらったから、わたしもルーシャの助けになりたいの。ここを出ていくなら今がいいって……」
放っておくにはあまりに大きな力だ。ルーシャを然るべき監視下に置くという話が出ているとしても不思議はない。
だから、チャンスは今しかない。
誰かがナタリーにそう言ったのだろう。相手が誰だかはわかっている。
「ありがとう、そうする」
ブラッドがルーシャの肩を抱いて答えると、ナタリーは目を細めて笑った。泣いているようにも見えたけれど。
「ジャックさんが外で待ってるって」
「あいつがか……」
思わずぼやいてしまいたくなるが、敵ではない。きっと。
ずっと黙っていたルーシャは、ナタリーを見据えて言った。
「おじい様とは上手くやれそう?」
ナタリーは泣き笑いのまま首をかしげた。
「わからない。でも、少しずつ頑張る」
「そう。ナタリーなら大丈夫。幸せになって」
それは建前ではなかったと思う。ルーシャはどんな時でもナタリーのことを心配していたから。
ナタリーは涙を拭いながらうなずいた。
「ありがとう。ルーシャも」
ブラッドは立ち上がると、ナタリーに向けて言った。
「幸せにする」
何をしてでも、どんな時でも。
ルーシャを見遣ると、照れたように笑っていた。ブラッド自身はすでに幸せなのかもしれない。
「ねえ、ナタリー。……店長に、ブラッドと会わせてくれてありがとうって伝えてくれる?」
――ルーシャはもっと怒っていい。
それなのに、こうして落ち着いてみると騙したレーンの心情まで思い遣ってしまう。
ルーシャは優しすぎる。だから、ブラッドがレーンのことを許してやらない。
「うん」
ほっとしたようにうなずいて、ナタリーは涙を隠した。
彼女もまた、大好きな二人の間に挟まれて苦しんだ。
ナタリーは去り、ルーシャはドレスでは目立つので、荷物の中にあった普段着に着替えた。
ブラッドも騎士の制服を脱ぎ捨てた。もう二度と、これを着ることはない。ロトのバングルもその上に放り投げた。
騎士団の宿舎の廊下に人気がないなんて、そんなはずはない。それが人っ子一人いないのは、誰の仕業なのか。
これが詫びのつもりだとしても、ブラッドには許す気はなかった。
外の暗がりの中、ジャックはまたあの黒いローブを羽織っていた。だから捜すのに手間取ってしまった。
騎士だったブラッドが使っていた、正門ではない宿舎寄りの出入り口のそばにぼうっと立っていたのだ。
「ジャックさん……」
ルーシャが怯えた目をしたのも無理はない。本当にジャックが味方なのか判別できないのだろう。
けれど、これまでもジャックがルーシャの敵だったことはないのだ。ストーカーではあったけれど。
「ルーシャさん、ご無事で何よりです」
そう言ってジャックはフードを脱いだ。今日のことはジャックにとっても衝撃が強かったのだろう。薄暗いせいもあるが、疲れた顔をしている。
「何もできなくてすみませんでした」
ジャックが消沈した様子で謝ると、ルーシャはかぶりを振った。
「私だって流されるばかりでした。でも、ジャックさんがそう言ってくれただけで少し救われたような気分です。ありがとう」
それを聞くなりジャックは泣きそうな顔をしたが、ブラッドは今まで以上に独占欲というものを経験中である。じっとりとジャックの腹の立つ顔を見た。
そうしたら、いつもなら突っかかるジャックが妙に穏やかだった。
「……あの時、無力だったのは僕もお前も同じだ。僕は竦んで動けなかったが、お前は動いた。あの瞬間、僕が口を出せることはなくなったんだ」
ルーシャを託すに値すると、ルーシャの祖母の〈ウェズリーさん〉も認めてくれるという意味なら嬉しい。
「必死だったからな。これからもルーシャが絡むとずっとそうなんだろう」
そう言ってルーシャの手を握った。ジャックは一瞬だけイラッとした顔になったけれど、ため息をついた。
「さあ、行くぞ。暗いうちにここを離れないと」
「もうウッドヴィルには戻れない?」
ルーシャにとっては故郷で、他の土地で過ごしたことなどないのだ。哀愁の想いは強いだろう。
「いずれは戻れる日も来るでしょう」
それは遠い日になる。
そうだとしても、ルーシャはその気休めが欲しかったのかもしれない。少し笑った。
そうして、ブラッドはルーシャを連れて王都を出た。誰の許可も要らなかった。
ただ二人で静かに暮らしていくことだけを優先する。
これは自分が選んだことだから、後悔はしない。




