第10話 先行作との距離感
AI時代の創作論。これは後書きであり、次の企画書でもある。
『描線眼鏡』は、想像力で眼鏡を通して見えないものを見つめ、創造力でペンによって世界に線を刻む物語です。
この編集後記では、完結した物語の裏側で、どのように設定が生まれ、キャラクターが動き、現実の災害や科学史、漫画史、そしてAI時代の創作論と結びついていったのかを振り返っていきます。
第9話では、眼鏡越しの世界や魔、描線武器をどう見せ、どこを曖昧に残すのかについて書きました。
それは『描線眼鏡』をビジュアル化する上で避けて通れない整理でした。
一方で眼鏡をかけることで見えない層を見る物語には、先行する作品がありました。
今回は、その先行作との距離感について書いてみたいと思います。
少し話を戻します。
私が最初にChatGPTとの対話を始めた時、この物語にはかなり独自性があると感じていました。
それでも類似作は気になり、まずは「創作で武器を生み出す」「描いた武器を現実化して戦う」作品を探しました。
多少近い要素はあったものの、世界観が重なるように感じる作品は見当たりませんでした。
今にして思えば、検索条件の入口が狭く、当時のAIモデルの影響もあり文脈的な近さを拾いきれなかったのだと思います。
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しばらく書き進め、眼鏡やスマートグラスに関する表現を調べていくうちに、『電脳コイル』という作品に行き当たりました。
2007年にアニメーター・アニメ監督の磯光雄師により手掛けられ、NHK教育テレビで放映された作品です。
『電脳コイル』は、眼鏡によって世界の見え方が変わり、現実の上にもう一つの情報層が重なる作品です。AR的な世界が日常に入り込み、眼鏡が生活や記憶や感情と結びついている。
それは、この時点までに自分が漕ぎ着けていた構造とかなり近いものでした。
自分の中で考えていた『描線眼鏡』の根本は、眼鏡という道具に、文化的な意味とSF的な機能を重ねることです。
眼鏡は視力を補う道具であり、知性や観察や思索の記号でもある。その眼鏡を、見えない現実に焦点を合わせる装置として捉える。
ここに、自分なりの手応えがありました。
だからこそ、『電脳コイル』を知った時、私はかなり落ち込みました。自分が掘り当てたと思っていた鉱脈に、二十年近く前、すでに深く潜っていた作品があったからです。
もちろん、似ている作品があること自体は、本来なら驚くべきことではありません。
創作は、完全な無から生まれるわけではありません。
多くの作品は、それ以前の作品や文化や技術や時代の空気の上に立っています。
ニュートンが自分の業績を評して使ったことなどで知られる、「巨人の肩に立つ」という言葉があります。
新しい成果は、それ以前の成果の上に積み重なり、またその上に次の仕事が積み重なっていく。
創作も、科学も、技術も、おそらくそのように進んできたのだと思います。
けれど、自分がようやく見つけたと思った道に、すでに偉大な先行者がいたと気づくことは、やはり簡単なことではありませんでした。
特に『電脳コイル』は、単に眼鏡が出てくる作品ではなく『描線眼鏡』で私が考えていた根本と、かなり近い場所にあります。
だから、衝撃が大きかったのだと思います。
ただ、時間を置いて考えると、似ていることは終わりではありませんでした。
むしろ、自分の作品がどこで似ていて、どこから違うのかを考える入口になりました。
『電脳コイル』は、眼鏡で現実に重なる情報層を見る物語です。そこは『描線眼鏡』と非常に近い。
けれど、『描線眼鏡』で私が描きたかったのは、見えるようになることだけではありませんでした。
見えたものに、線を引くこと。
その線によって、世界への関わり方を変えること。
眼鏡で捉え、ペンで刻む。
魔を見るだけではなく、描線によって干渉する。
そして、その行為を漫画家や創作者の営みと重ねる。
ここに『電脳コイル』との距離感があるのだと今は考えています。
『描線眼鏡』における眼鏡は、世界を見るための装置です。けれど、それだけでは完結しません。
隣にはペンがあり、見えてしまったものにどう関わるのかという問いがあります。
見るだけでは世界は変わらない。
描くだけでも世界は変わらない。
見えないものを見て、そこに線を引くことで、初めて世界は変わる。
この考え方が、『描線眼鏡』の中心にあるのだと思っています。
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『電脳コイル』が、自分の登ろうとしていた山道に先駆者がいた感覚だとすれば、『ゼイリブ』は別の道から同じ山へ向かっていた作品のように感じます。
1988年にアメリカで公開された映画で、ジョン・カーペンター監督、主演にプロレスラー、ロディ・パイパーを配したSF映画です。
『ゼイリブ』にも、眼鏡によって隠された現実を見るという強い近さがあります。
ただ、私が『描線眼鏡』で最初に考えていた眼鏡の意味とは、少し違う場所にある近さでした。
『ゼイリブ』における眼鏡は、社会の裏側を暴くSF的なレンズです。
隠された支配構造や、日常の裏側にある別の現実を可視化する。
その意味では近い。
けれどそれは、文化的な眼鏡というより、社会を暴くガジェットとしての眼鏡だったのだと思います。
そういった意味で『描線眼鏡』の根本的な独自性を考えてみると、『ゼイリブ』との重なりはそこまで強く感じていませんでした。
後に物語を重ね、第5話で書いた「魔は怪物ではなく観測像である」という考えや、第9話で書いた「見えないものをどう絵にするのか」という問題が具体化されていくうちに、社会風刺的な側面ではかなり近い作品だと感じるようになりました。
『描線眼鏡』の魔も、人間の負の感情や社会の歪みが像を結んだものです。眼鏡は、その歪みを見えるものとして捉える。
そう考えると、『ゼイリブ』と『描線眼鏡』は、隠された現実を見て、見えてしまったものにどう向き合うのかという点で、別の場所から似た問いに向かっていたのだと思います。
ただし、『描線眼鏡』では、そこにペンが加わります。社会を暴くだけではなく、見えたものに線を引くための眼鏡。
見るための装置であると同時に、描くための前提としての眼鏡。
ここにも、距離感があるのだと思います。
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最近の作品では、『呪術廻戦』も無視できない比較対象です。
普通の人には見えない存在、負の感情と結びつく敵性存在、それを見るための能力や補助具、組織的な戦闘。
そうした点では、『描線眼鏡』と近い部分があります。特に、不可視の怪異と眼鏡の取り合わせは連想されやすいかもしれません。
ただ、その近さは呪術や怪異の文脈にあります。
『描線眼鏡』で考えていたのは、眼鏡をSF的な視界拡張装置として扱い、ペンによる創作行為と接続することでした。
近いけれど、近さの質は違う。
生物の収斂進化のような近さだと整理しています。
ほかにも、描くことで力を使う作品や、描いたものが現実化する作品はいくつかあります。
ただ、それらは主に「描く」側の近さでした。
今回考えたかったのは、眼鏡、つまり想像力で何を見て、見えたものにどう関わるのかという距離感です。
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AI時代には、こうした距離感の問題が以前より厳しく問われるのだと思います。
かつては、何を参照し、どこから影響を受けたのかという「過程」が主に語られてきました。
けれど今後は、結果として何に似て見えるのか、読者がどの先行作を連想するのかまで問われるようになる。
本人が知らなかったとしても、結果として似て見えることはある。
AIに聞いても、問いの立て方が違えば、見つかるものと見つからないものがある。
だからこそ、先行作との距離を考えることは避けて通れませんでした。
似ていることは、作品を終わらせる理由ではありません。
ただし、そこから目を逸らすこともできない。
どこが似ていて、どこから違うのか。
どの線を引き継ぎ、どこに自分の線を引くのか。
それを考えることが、創作を続けるために必要でした。
『描線眼鏡』の独自性は、単一の設定にあるのではないのだと思っています。
眼鏡で見て、ペンで描き、魔という観測像に向き合い、描線武器として記憶や感情を形にする。
漫画家という創作者が、社会の歪みに線を引く。
その構造に、『描線眼鏡』らしさがあるのだと思います。
先行作は、巨人の肩です。
その肩の上に立つことは、恥ずかしいことではない。
けれど、立っている場所を自覚しないまま、自分だけが最初に見つけた風景だと思い込むのは危うい。
だから私は、先行作との距離を測り直す必要がありました。
似ている作品があることは、終わりではありませんでした。
むしろ、自分の線をどこに引くのかを考える理由になりました。
そして、その線の多くは、AIとの対話の中で言葉になっていきました。
次は、AIとともに作ってきた制作工程について書いてみたいと思います。
眼鏡をかけることで、普通は見えないものが見える。 隠された現実や、別の情報層に気づく。
そうした発想には先行する作品がありました。
今回は、『電脳コイル』『ゼイリブ』など、眼鏡や不可視の現実を扱う作品との距離感について書きました。
似ているところがある。 影響を受けたところもある。 けれど、『描線眼鏡』で最終的に描きたかったのは、見えないものを見ることだけではありませんでした。
眼鏡で見えないものを捉える。 ペンでそこへ線を引く。 創作行為として、世界へ干渉する。
その構造こそが、『描線眼鏡』の中心にあるものだったのだと思います。
編集後記も終盤に入ってきました。 次回以降は、AIとの共創を通じてこの作品がどう整理され、新しい構想へどうつなげていくのかについて書いていく予定です。




