搬送
遠くから救急車のサイレンが聞こえたが、徐々に何も聞こえなくなり、未散はこのまま自分は目覚めないのだと……いや、目覚めたくないと思っていた。
でも……。
「目、覚めましたか?」
どこからか声がしたので、未散は自分が死んでいない事を知った。
「……私……落ちた?」
ひとり言のように呟いて、目をゆっくりと開けた。
「ベランダで転倒して頭を打った事、覚えてます?」
「……6階から……落ちたんじゃ……」
「落ちなかったようですよ。よかったですね」
ベテランっぽい看護師の口調がやたらと優しい。
「着ていた洋服とバッグはベッドの横の台に、靴はベッドの下に置いておきました。明日の午後にはもう家に戻って大丈夫ですから、あとは外来で……」
そう説明すると、腕時計を見ながら点滴を調節し始めた。
未散はゆっくりと落ちてゆく点滴を見つめ、そのままぐるりと辺りを見渡す。
病室はカーテンで覆われている。
二十年間生きてきて、病気もケガもしたこともない未散にとって初めての場所だった。慣れない枕も布団もどこか冷たく感じて、居心地が悪くて落ち着かない。
その時「入ります」と透の声がし、そっとカーテンから顔を出した。
「それでは、気分が悪くなったら、これ押して下さいね」
と枕元に呼出しボタンを置くと、軽く会釈をして出て行く看護師に透は「ありがとうございました」と頭を下げた。
そして、気まずそうに未散の顔を覗き込む。
「あ……集団食中毒があったんだって……それで救急搬送された人がたくさんいて……だからベッドがいっぱいだったらしくて……そ、それでここ、婦人科の病棟なんだって……」
グダグダと話し続ける透から目を逸らし、未散は背中を向けた。
「……ごめん……未散……大丈夫か?」
「……大丈夫に見える?」
二人ともそれ以上の言葉は出て来ないようで、カーテンの中は沈黙に包まれた。
小さく息を吐いて、透が再び未散の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、とりあえず帰るな……で、明日、迎えに来るから……」
とカーテンから出て行こうとすると……。
「真衣のとこに行くの?」
その問いに怒りはなかった。
「行かないよ。こんな事があったのに行く訳ないだろ? そこまで無神経じゃないよ」
「無神経じゃん……」
その呟きはとても悲し気で、透は返す言葉がなく、そのまま出て行った。
未散は透が出て行った後のカーテンをじっと見つめて……。
「……最悪……最低……」
ギュッと目を閉じると、涙が頬を伝った。
未散は今日の出来事で、見た事のない透の顔をたくさん見て打ちのめされていた。
驚いた顔。焦った顔。険しい顔。怒った顔。
十カ月付き合ってきて、透の色々な顔を見て来たが、どれも今日見た顔とは違う。
いつも落ち着いていて穏やかで優しい。でも今日の透は慌てていて焦っていて、最終的には自分を突き飛ばした。
そして……「一緒にいたいのは真衣……」と言ったのだ。
完全に終わった……。
顔を両手で覆い、「うううっ……」と未散は咽び泣く。
そしてそのまま少し眠ったが、額に痛みを感じて目覚めた。
その時、頭に包帯が巻かれていることに気付くと、ベッドの横に手を伸ばし、バッグの中から小さな手鏡を出して自分の姿を確認した。
額から後頭部に掛けて巻かれた包帯が痛々しかったが、それよりも化粧が醜く崩れ、青白い顔が未散を余計惨めな気持ちにさせたのだ。
再び、顔を両手で覆った。
その時……。
「……あの……ちょっと……お隣さん……」
どこからか声がする。
その声は隣のベッドから聞こえたが、未散は聞こえないフリをして布団を被った。




