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空白の記憶  作者: 望月夏


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10/12

揺れる車窓と初めての旅立ち

ピクニックからしばらくの日が過ぎた。

あの日作った大きさの違う花冠は、すっかりと乾いてリビングの壁にふたつ並べて飾られている。

見るたびにお父さんへの罪悪感と美代への優越感で気持ちがぐちゃぐちゃになるが、それでも最後にはこれでよかったのだと自分で自分を納得させている。

こんな感情を抱えている私は、目覚めた頃の自分と比べて汚くなったけど、お父さんはあの日から全く変わっていない。

汚れた私に気づいていないのか、そんな私も大切にしているのかは正直なところ分からない。

ただできることなら、お父さんには汚い私を知らないでこれかも過ごして欲しいと願っている。

ちらりと隣に立つお父さんの顔を椅子に座ったまま覗く。

何を考えているのか分からない横顔をみていると、不安は大きくなり1人でやきもきしてしまう。

お父さんの表情が変わりにくいのはいつもの事だけど、今日はひときわそうだった。


朝食後にお皿を洗っているお父さんの隣でお皿の水滴を拭き取って重ねていく。

これが最近私の日課になっている。

例に漏れず今日も椅子に座り、お皿を拭いていた。

東の窓から日が差し込んできて、時折風でレースカーテンが揺れそこから強い光が壁や床を照らしている。

その反射が私の視界でチラチラと揺れるため作業に集中したいのに気が散ってしまう。

まぁ気が散ったからといってお皿を拭いているだけだから害はない。

害はないけど、わずかな鬱陶しさで徐々にイライラとしてきているのは確かだ。

いつもならお父さんが早めに気づいて窓を少し閉めてくれるのだけど、お父さんは朝から何か様子がおかしい。

どこかぼんやりとしていて上の空だ。

こんなこと私が目覚めてから1度もなかったのに…

昨日まではいつも通りだったから、私が寝てから起きるまでの間に何かあったのかもしれない。

ぐるぐると1人で考えていても、らちが明かないため声をかけた。

「何かあったの?」

私の声にはっと顔を上げてこちらを見つめてくる。

切れ長の透き通った煉瓦色が不安そうに揺れている。

「私に話せることならなんでも聞くよ。もし言いにくいことなら、無理しなくてもいいから…」

お父さんがこういう顔をしている時は、大体が美代の記憶関係だった。

こんな顔するぐらいなら昔のことなんて全て捨ててしまえばいいと思うのに、お父さんはそうしない。

お父さんにとって、それほど大事なものなんだろう。

「少し困ったことになってね…」

水を止めて手を拭きながらそう言い放つ。

今にもため息が聞こえてきそうだ。

意を決したようにこちらを見据え、ゆっくりと口を開いた。

「僕のお父さんに会いに行こうと思ってるんだけど、美代を一人残して行くのは不安なんだ。だから、…一緒に行かないかい?」

お父さんの父親ということは、私の祖父にあたる。

お父さんが私の親族について話すのはこれが初めてだった。

「私が会ってもいいの?」

話さないと言うことは知られたくないことなんだと思っていた。

現にお父さんの言いぶりも、置いていくことができないから仕方なく連れていくと聞こえる。

私の心配をよそにお父さんはふわりと微笑んだ。

「もちろんだよ。」

ただ、とお父さんは続ける。

「僕は君が外に出ることが不安なんだ…。何がきっかけになって、嫌なことを思い出してしまうか分からないからね。」

もしかして大井川美代はあまり祖父と関わりがなかったのかもしれない。

祖父に会うことよりも外に出ることの方が記憶に関わるということはそういうことなんだろう。

お父さんが恐れているところ申し訳ないが、私は美代の知らないお父さんの父親を知れるかもしれないと考えると、大きく胸が高鳴った。

「私、会ってみたい!」

どんな人なんだろう。

お父さんに似て穏やかで優しいといいな。

親子である祖父のことが分かるとお父さんのことももっと理解できると思うし、目覚めてから初めての外との交流にワクワクとしてくる。

今なら何でも出来そうな高揚感が胸を満たした。



「外に出るから帽子をかぶろうか」

服を着替えた私に広いつばの帽子をお父さんが差し出した。

いつも外に出る時は帽子をかぶっているけど、今日の帽子はいつもとは違っていた。

不思議に思いつつもお父さんから受け取り、かぶってみる。

やっぱりそれは大きくて、広いつばが私から視界の半分を奪った。

せっかく外に出るのだから風景も楽しみたいと思うのは普通だ。

「これじゃなくて、いつもの帽子がいいな」

帽子を外しお父さんを見つめるとううんと考え込んでしまった。

ややあって「ごめんね…君を守るためにも必要だから」と困った様に微笑むお父さんに対してそれ以上わがままを言うのははばかられ口をつぐんだ。

お父さんはきっと美代の記憶が戻る可能性をできるだけ無くしたいのだろう。

私も美代の記憶は戻って欲しくないからお父さんの言葉に素直に従い帽子を深々とかぶる。

家の外に出ると上着を着ているのにも関わらず、冷たい風が全身を撫で付けた。

日中には気温が上がるが朝晩の冷え込みが厳しい。

山の上となるとそれは格別で、山のあちらこちらで葉っぱが紅葉してきているのがその証拠だ。

「靴は、キツくないかな?」

お父さんが鍵をかけながら心配そうに私の足を見下ろした。

あの日履いた靴が足を飾っている。

「今のところ大丈夫そうだよ。」

「足が痛くなったらすぐに伝えて欲しい。」

目を見て念押ししてくるお父さんの顔は少し固い。

こくりと私が頷くと固かった顔はするりと解けて私の手を引いて歩き出した。

心配し過ぎだとお父さんを笑いたいが笑えないのには理由がある。

前にひとりで山を歩いたその日の夜、靴下を脱ぐと足のあちこちに靴擦れができていた。

それに気づいたお父さんは治るまで私を家の中さえも歩かせてはくれなかった。

1度だけ読んでいた本を取り替えようとお父さんに黙ってベッドから降りようとしたが、足を下ろす前にバレてしまい窘められた。

同じことをしたらお父さんが泣き出してしまいそうだったから、その後は用事がある度にベルを鳴らしてお父さんを呼ぶようになった。

全く自分で立てないというのは少し辛かった。

目が覚めて少しの間はお父さんに抱っこされることも気に入っていたし一緒にいられるだけで良かったのに、今はお父さんの隣で対等になりたいと思ってしまう。

そうじゃないとお父さんの心の傷に触ることはできないから…

お父さんは私のことならなんでもわかると言ったけど、きっとこう考えていることには気がついてないのだろう。

もし気がついていたとしても、お父さんはいい顔をしないと思う。

自分の弱さを子供にみせて笑ってられるほどお父さんは図太くない。

気が付かないお父さんをみていて寂しく感じるが、お父さんが幸せそうならそれでいいような複雑な気持ちだ。

まぁ、なんにせよ自分のことは自分でして少しずつ自律していかなくてはいけない。

だからまた靴擦れができて歩けなくなるのはすごく困ってしまう。

隣を盗み見るとお父さんと目が合った。

「お父さんは優しいから大丈夫だよ」

お父さんの発言に一瞬戸惑ったが、すぐに祖父の話をしているのだと分かった。

噛み合っている様で微妙に噛み合っていないお父さんとの会話に少し慣れてきた。

私はそんなに不安そうな顔をしていたのかと思うと少しおかしくなってくる。

花が綻ぶような微笑みを向けられ、繋がれた手から温かさが流れてきた。

結局のところ、お父さんが一緒なら私は何が起こっても大丈夫だと思える。

私を傷つけるのもそれを癒すのもきっとお父さんだけなんだ。

わりと本気でそう考えてしまう。


山を降りて少し歩くと小さな駅に着いた。

無人駅のようでホームと小さな待合室が線路沿いにぽつんと並んでいる。

私たち以外に電車を待つ人は誰もいなかった。

「ここからどのぐらいかかるの?」

切符の販売機の前に立つお父さんを見上げる。

「そうだね、だいたい1時間23分程で到着するよ。」

やけに細かい時間を言われてしまった。

手馴れた様子で切符を購入しているお父さんは電車に乗りなれているのかもしれない。

私が目覚めてからは、1度も山から降りたことがなかったから意外だ。

「もしかして電車によく乗ってた?」

「たまに乗るぐらいだよ」

乗っていたではなく、乗るということは最近も乗っているのだろうか。

でも私と離れることなんて目覚めてから一度もなかったから、考えすぎなのかな。

お父さんのことになるとついつい深読みしてしまう。

私の悪い癖だ。

階段を登ると屋根がなく細い歩道橋が続いていた。

周りは畑や田んぼが広がって、空はとても高くときおり大きな鳥が円を描きながらゆっくりと飛んでいる。

階段を降りる際にカンカンと足音が鳴りなんだか楽しくなる。

ホームの真ん中に置かれたベンチへと腰を下ろすと陽でポカポカに温まっていた。

少し冷えた風が心地よく感じる。

目を閉じれば眠ってしまいそうだ。

すぐ隣に座るお父さんをみると「もうすぐくるよ」と優しく微笑まれた。

初めての遠出なのに寝てしまったらもったいない。

何か話そうと思考を巡らせる。

「そういえば、一度も買い物に行ったことないのに食材はどうしてたの?」

口から出た音が私の耳に届いた瞬間、まずいと感じた。

お父さんは隠し事が多い。

これは特に巧妙に隠されていたから、聞いてはいけないことなのだろう。

案の定お父さんは困った顔をしている。

「山で野菜を育てているんだよ。今度一緒に取りに行こうか。」

少し間を空けて空を見上げながらお父さんはつぶやく。

やはりこれ以上は聞いて欲しくなさそうだ。

「うん」

私もそれ以上の言葉が見つからなかった。

結局電車がくるまで話すことはなかったが、私が眠くなることもなかった。


ホームに電車がつく少し前にお父さんは私の帽子をより深く被るように勧めた。

言われた通りにするとガタゴトと大きな音を立てて電車が入ってきた。

目の前でキキーッと金属同士が当たる音が聞こえて思わず耳を塞いだ。

初めて聞く大きすぎる音に乗っても本当に大丈夫なんだろうかと不安になってくる。

プシューっと音が鳴りドアが開いた。

お父さんはふふっと笑うと私に手を差し出してきた。

「大丈夫だよ、さぁ乗ろうか」

私が手を繋ぐと私の歩みに合わせて電車へと乗り込んだ。

中に入ると暖房が効いていて、少し暑いぐらいだった。

どこまでも横に伸びる電車をみて端っこがどうなっているのか気になってくる。

「お父さん」

「あんまり歩くと危ないから、少しだけだよ」

ただ呼んだだけなのにお父さんは私の要望を理解したらしい。

困った様に微笑んで手を引きながら歩き出した。

人があまりいなくて静かなのに、どこか賑やか空間で、時間を忘れてお父さんを質問責めにしていた。

「少し、座ろうね」

お父さんは丁寧に私の質問に答えていたが、急に私の手を引きふかふかの椅子に座った。

まだ気になる所がたくさんあるのに…


「お願いがあるんだ…」

私の顔をみてあの時の苦しそうな顔をみせる。

その顔を見て、息が苦しくなった。

「なに?」

「トンネルの中では目を閉じていてほしい。僕がいいと言うまで開けないで…お願いだ。」

それは震えるような声で、お父さんは大人で人よりもなんでもできるのにとても小さく見えた。


「うん…」

きっと美代に関することなんだろう。

彼女の知らないことを知れると思ったのに、また簡単に私を1人にさせる。

でもお父さんのことを困らせたくはないし、美代のことを思い出したくもないから従わないという選択肢はない。

目を閉じるとお父さんが息をついた気がした。

「ありがとう」

それだけ呟くと、お父さんは私の体を軽くお父さんへと傾けた。

私を深く沈める椅子は、足にまとわりつくようで身動きがとりづらい。

足元から熱い風が吹いて、大きな音がなりながら時々大きく揺れる。

乗った時はあんなに楽しかったのに…

これがいつまでも続いてしまう気がした。

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