第32話 対超人Ⅱ
(……これは)
八郎の前蹴りは股間を完全に捉えていた。
格闘技素人の愛聖が骨掛けのような、琉球空手の技法を知っているはずもなく、普通なら睾丸が破裂し立つこともできなくなるはずであった。
しかし八郎は違和感を覚えていた。
なぜなら蹴り上げた右足に何を潰した感触もなかったからだ。
(まずい……やられた)
八郎が気付いたときにはもう遅かった。
グリズリーも絞め落とす脚部からケンカキックが繰り出され、砲弾のごとく腹部に突き刺さったのだ。
肺の空気が残らず押し出され口から血と一緒に吐き出された。
数秒呼吸が困難になる。
骨がきしみ重く狂いそうな鈍痛が全身を支配した。
暗転しそうになる意識を必死で支え八郎は、右正拳突きで鼻の下、左鉤突きで耳の裏を打った。
どちらも人体の急所だ。
そのままコンテナを掴みバンッと天井部へ上がった。
愛聖の反応を観察している時間はなかった。
とにかく一刻も早く場所を移りたかったのだ。
腹部に手を当て肩で息をする。
(アバラにヒビが入ったな……くそ……)
愛聖はすぐにコンテナの上へ上ってきた。
やはり急所攻撃も効果がないようであった。
八郎との距離は五、六メートルほどであろうか。
じわりじわりと間合いを詰めていく。
「はぁはぁ……愛聖お前……ないのか」
「そうだよパパに去勢されたからね」
真路愛聖には睾丸がなかった。
急所を一つでも潰すために手術で取り除いているのだ。
そのことに豪聖はなんの躊躇もなくゴーサインを出していた。
もともと薬物による操作で子孫を残すことはできなかったが、非情なおこないであった。
八郎の胸に怒りがこみ上げてきたが、義憤にかられている状況ではなかった。
愛聖がここでケリをつけようと向かってきたからだ。
約六メートルのコンテナ上では逃げ場がない。
ちらりと横を見たが、隣に飛び移るのも実戦では難しいだろう。
(……迎え撃つしかない)
空手の構えを取り、そこへ愛聖が飛びかかってきた。
ガンマンが拳銃を抜くように、拳と拳が互いに撃ちだされた。
先の先を制したのは八郎である。
長い足をいかし上段回し蹴りから中段逆突き、双手突き、肘当て、内手刀打ち、正拳突き、上げ突き、中段回し蹴り、最後に頭部を両手で掴んでの上段膝蹴り。
一打一打魂をこめた息もつかせぬ連打であった。
戦意を根こそぎ刈り取る打撃だ。
特に最後に一撃はアゴを粉砕するために放った、破城槌めいた技である。
戦意を根こそぎ刈り取る打撃だ。
しかし愛聖は冷静に右足を八郎の左足に絡めた。
そのまま体重を前にかけ押し倒す。
連打で息を乱している八郎に耐える力は残っていなかった。
コンテナの波打つ金属板へ背中をぶつけた。
『これはピンチだ! 南八郎マウントを取られてしまった~!』
すぐさま身体を起こそうとするが上手くいかない。
愛聖の両足がマジックハンドめいてしがみつき、下半身の自由を奪っていたからだ。
「くっ」
「ダメだよ八郎。ちゃんと寝てなきゃ」
身動きの取れない八郎に愛聖のパウンドが襲い掛かる。
硬く握った拳がスコールのように降り注ぎ、顔面を叩き潰した。
腰の入っていない手打ちだが愛聖の腕力ならば、手打ちでもかなりの威力だ、
見る見るうちに八郎の顔面が赤く染まっていく。
通常マウントへの対応はまず両膝を立て、両手で相手の腰を持ち上げ、迅速に左膝を引きつける。
さらに左膝を床につけて左手で腕を掴み相手の身体を回転させる。
右手で相手の身体を押し、右足を内側から相手の左足に絡め上げて、最後に右足を抜きマウントを取り返すというものであるが、その当たり前ができない。
愛聖の筋力が強靭すぎてとっかかりの両膝を立てることができないからである。
他の手段を考えようにも激しいパウンドが思考を奪う、
まともな試合ならレフェリーからTKOを宣言されるだろうが、この甲板上には二人以外の人間はいない。
時間が経過してもラウンドが終わることはない。
意識がだんだんと遠くなりはじめた。
(………………)
ぼやけた八郎の視界には飛び散る血と何か白いものが見えた。
ぼんやりと眺めていると、転がるそれは自分の前歯であることがわかった。
ついに歯が折れ始めたのだ。
それから歯が飛び鼻が折れ、まぶたから頬から唇から泥のような出血があった。
生暖かい液体を皮膚に感じながら、八郎の記憶はそこで途切れた。
◆
「――ぼく――は……ね」
気が付いたのは甲板の上でだった。
意識を失っていたのは一分か二分か。
自分の身体がズリズリと引きずられているのがわかる。
手錠をかけられた感触はなく、まだ勝負はついていないようであった。
いやもうすぐ勝負はつくのだ。
かすんだ目の先に鎖の巻かれた台座が見えた。
距離は十メートルくらいだろうか。
頭が回らず距離感がつかめない。
このまま何もしなければ自分は死に闘龍試合は真路製薬の勝利で幕を降ろすだろう。
戦意を奮い立たせようとする八郎に、愛聖の言葉が子守唄のように染み込んでいった。
何やら語りかけているようである。
「知ってた? ぼくには人の顔が自分と同じに見えるんだよ。八郎以外はね」
「……」
「はじめて会った時は驚いたなあ。理由はわからないけどキミのだけは違って見えるんだもん。運命の出会いだって思ったよ。八郎は運命って信じる?」
「……」
「ぼくは信じているんだ。いつかそんな人が現れてぼくを殺してくれないかってね。パパがいるから自殺はできないけど、闘龍試合で全力を出し切って殺されるなら仕方ないもんね。ぼくを苦痛から解き放ってくれる人をずっと探していたんだよ」
「……」
「それが他の人と違うキミだと思ったんだけど残念だな。また別の人を探すことにするよ」
「……」
「バイバイ八郎。次は地獄で会おうね」
鎖の冷たい感触が肌にあった。
愛聖が手錠を掴み持ち上げようとしているのが見えた。
だが体は動かない。
気力がなくなってしまったのか。
「八郎! 立って! 立ちなさい!」
観客席から立ち上がりながら凛子は吠えた。
千年原重工の人間はみな座ってはおれず、拳を握りながら応援している。
全員から熱が放射され必死の形相でスクリーンを見つめた。
中にはあきらめ涙を流している者もいた。
「ぶはははは! これで終わりですな! 婚姻届けは用意しているぞ!」
豪聖は白い紙きれをペラペラと振った。
満面の笑みで口からはよだれを垂らしていた。
真路製薬の人間は同じように喜色満面であった。
百億まであと一歩だ。
『南八郎ピクリとも動かない! このまま決着してしまうのか!』
ハディソンが今日一番声を張り上げるのと愛聖が手錠をかけるのは同時であった。
ガチャリと右腕が固定されロックがかかった。
観客席に喜怒哀楽すべての感情が渦巻き、愛聖が腕を天に突き上げ勝利のポーズをとった。
そしてハディソンが大声で、
『試合終了! 闘龍試合最終戦決着! 勝ったのは――』
そのとき愛聖の背後で動くものがあった。
顔面を真っ赤に染め上げ阿修羅の形相で立ち上がる南八郎の姿であった。
右腕の手錠は外されていた。
セパードの骨の欠片を使って開錠したのだ。
貧民街出身の手癖の悪さがここで活きた。
「おい
八郎は声をかけ愛聖が反応して振り向いた。
その無防備な顔面に二本貫手突き、目突きがアイスピックめいて突き刺さった。
右目は辛うじて避けていたが左目に中指がぞぶりと入った。
粘着質の耳障りな音がした。
数瞬後、愛聖の口から美形に似合わぬ絶叫が発せられた。
はじめて聞く苦悶の声であった。
八郎は指を引き抜くと道着でぬぐい、
「こい。まだまだいけるだろう」
「あはっはははは! やっぱりキミが運命の人だ! 次は死体にして繋いであげる!」
「問題ない。こちらのセリフだ」
二人は悪鬼のごとく笑った。
凶暴な笑みであった。




