第十章 ザマ
セリアは帝国本星に帰還し、元老院に反攻作戦の許可を求めた。
作戦名「ザマ」。
カルタージュ本星系への直接攻撃。
元老院は満場一致で承認した。
十六年の戦争。
帝国はすでに百万人以上の死者を出していた。
セリアは二百隻の新造艦を与えられた。最新の量子遮蔽システム。改良された通信網。全てが、アニカの戦術を研究し尽くした上で設計された「対アニカ・バール専用」の刃だった。
出撃の前夜。旗艦〈ヴィルトゥス〉の自室。
セリアは端末を開いた。暗号通信。これが、戦場に出る前の最後の対話になる予感があった。
〈アニカ〉
返信は早かった。まるで、ずっと画面の前で待っていたかのように。
〈セリアか〉
〈明日、戦争を終わらせに行きます〉
〈知っている。二百隻の新造艦だろう。情報は入っている。こちらは百二十隻。燃料は六割、弾薬は七割だ〉
アニカは自らの窮状を隠さなかった。十六年間、命の削り合いをしてきた相手に、いまさら虚勢を張る意味などなかった。
〈和平を提案することもできます。カルタージュの独立を帝国に認めさせる。そのために私が——〉
〈無駄だ。評議会は受け入れない。彼らが求めているのは、私が帝国を屈服させるか、さもなくば私が死ぬことだ。……セリア、もういいんだ〉
〈よくありません!〉
セリアの指が、激しくキーを叩いた。
〈あなたは祖国に見捨てられた。これ以上、戦う理由はないはずです〉
〈私には父との誓いがある。そして——私を信じて死んでいった者たちがいる。私はもう、引き返せない〉
数秒の沈黙。暗号通信の画面に、カーソルの点滅だけが冷たく映っていた。
〈セリア〉
〈はい〉
〈十六年間、私の前に立ち塞がり続けてくれたのが、あなたでよかった。明日、もし私が負けるなら、引導を渡すのはあなたであってほしい〉
それは、誇り高き将軍が初めて見せた、敗北への受容であり、ある種の「救済」の願いだった。
セリアの視界が歪んだ。彼女は奥歯を噛み締め、涙を堪えて打鍵した。
〈私が終わらせます。あなたの戦争を。あなたの苦しみを。……明日、決着をつけましょう〉
〈ああ。星の海で待っている〉
通信が切れた。
セリアは端末を閉じた。
自室の照明が暗すぎることに気づいた。
調光を上げようとして、やめた。
暗いほうがいい。
今だけは、その方が。
◆
二八六一年十月。ザマの戦い。
カルタージュ本星系の外縁部。
アニカの艦隊百二十隻。長い逃亡と補給不足で、装甲は焼け焦げ、エンジンからは不整な熱放射が漏れていた。
対するセリアの新造艦隊二百隻。銀白色に輝く、傷一つない帝国の威容。
戦闘が始まったとき、アニカは戦術スクリーンに『カンナエ』のパターンを展開した。
中央を薄くし、両翼を厚くする。わざと陣形を乱して敵を誘い込み、包囲する罠。十六年前、パウルス提督の百五十隻を葬り去った、彼女の代名詞とも言える陣形。
(セリア……お前ならわかるだろう。これが罠だと。私が同じ手を使うはずがないと、お前は疑うはずだ)
アニカは司令官席で、冷や汗を流しながら思考した。
(だが、いまの私にはこれしかないのだ)
燃料も弾薬もない。兵士たちは疲労困憊し、高度な変則機動に耐えられない。彼らが唯一、目を閉じていても完璧に実行できるのは、体に染み付いた「カンナエの包囲」だけだった。
アニカは、自らの手札が完全に読まれていると知りながら、それでも刃を振るうしかなかった。薄氷を踏むような、悲壮な機動。
セリアの旗艦〈ヴィルトゥス〉の艦橋。
戦術スクリーンに映し出されるアニカの陣形を見て、セリアは息を呑んだ。
「……アニカ」
セリアには、痛いほどわかった。
一見すると完璧に見えるその陣形が、悲鳴を上げているのが。エンジンの出力低下を補うために無理な慣性移動を強いられている艦。弾薬を節約するために、威嚇射撃のタイミングを僅かに遅らせている艦。
(あなたは、無理をしている。限界を超えた兵士たちを束ねるために、自分自身の脳神経をすり減らして、必死に陣形を保っている)
副官が叫んだ。
「敵中央が後退します! 両翼が展開——包囲されます! 提督、全艦一時後退を!」
「いいえ。前進しなさい」
セリアの声は氷のように澄んでいた。
セリアの理解は、すでにアニカの思考の底を突いていた。
アニカが包囲網を閉じる瞬間。それは、両翼が最も伸びきり、中央の「膜」が最も薄くなる、ほんの〇・一秒の絶対的な隙だ。かつての帝国艦隊はそれに気づかずパニックに陥ったが、セリアは違った。
(アニカ、私はあなたの『呼吸』を知っている。あなたが息を吸い込み、網を閉じようとする、その瞬間の筋肉の弛緩まで——!)
「全艦、機関最大! 中央の一点に全火力を集中! 突き破りなさい!」
二百隻の帝国艦隊が、一つの巨大な楔となった。
アニカの両翼が包囲の網を閉じる直前、セリアの艦隊は、わざと薄くされていたカルタージュ艦隊の中央部を、圧倒的な運動エネルギーで粉砕した。
衝撃。
アニカの旗艦〈アドニス〉が激しく揺れた。
アニカは自分の胸を物理的に貫かれたような錯覚に陥り、血を吐いた。
「通信妨害を受けています! 左翼との連絡が途絶!」
「中央艦隊、崩壊!」
戦術スクリーンの中で、カルタージュ艦隊が二つに分断されていく。
アニカは目を見開いた。
セリアは、罠だと知って飛び込んできたのではない。アニカがこの陣形しか取れないという限界を見抜き、包囲が完成する寸前の最も脆弱なタイミングを、神がかり的な精度で撃ち抜いたのだ。
(……セリア。お前は今、私を完全に超えた)
アニカの唇に、血に染まった凄絶な笑みが浮かんだ。
恐怖はなかった。ただ、十六年間追いかけられ続けた背中を、ついに追い越されたことへの、澄み切った清々しさがあった。
六時間の戦闘。
アニカの艦隊は完全に崩壊した。反撃の余力はない。
「全艦に撤退命令。各個に本星へ帰還せよ」
アニカは司令席から立ち上がった。
「私が殿を務める。〈アドニス〉、反転。敵の真正面に立て」
せめて自分を犠牲にして、残りの艦を逃がす。それが、敗軍の将に残された最後の義務だった。
セリアの旗艦〈ヴィルトゥス〉の艦橋。
「敵旗艦が反転しました。殿戦です」
副官が血走った目で振り返った。
「司令官! 今なら全滅させられます。敵将アニカ・バールの首を取る絶好の——」
「追撃するな!」
セリアの鋭い声が、艦橋の空気を切り裂いた。
「しかし、司令官!」
「これ以上……彼女を傷つけるな!」
セリアは司令席から身を乗り出し、声を荒げた。それは、常に冷静沈着な「ザマの英雄」が初めて見せた、生々しい感情の爆発だった。
副官は言葉を失い、口を閉じた。
セリアはスクリーンに映る、傷だらけの〈アドニス〉を見つめていた。
アニカは死のうとしている。祖国のために、あるいは自分自身の罪悪感に決着をつけるために。
(させない。私はあなたを殺すためにここに来たのではない。あなたを『将軍の呪縛』から解放するために、この完璧な敗北を用意したのだから)
セリアはまた冷徹な司令官の仮面をかぶった。
「戦争は終わったのです。これ以上の殺戮は不要です」
セリアは静かに、しかし断固として告げた。
「全艦、攻撃停止。カルタージュ本星および、残存艦隊に対し、開放周波数で停戦の呼びかけを」
アニカは、旗艦の後方スクリーンを見ていた。
セリアの艦隊が、追ってこない。
二百隻が主砲の火を止め、宇宙空間に静止している。追撃すればカルタージュ艦隊は全滅し、自分も死ねたはずなのに。
アニカはスクリーンを見つめたまま、静かに目を閉じた。
追撃しない理由を、彼女は知っていた。
セリアが、自分の「死に場所」すら奪い去り、生きることを強要したのだと。
通信士が、震える声で報告した。
「帝国艦隊から……停戦の呼びかけです」
アニカは長く、深い息を吐いた。
十六年に及ぶ二人の戦争が、静寂の中で終わりを告げた瞬間だった。




