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天使のパレット  作者: 五月悠助
12/20

大切な記憶

 12


「……んで、センシティブな夜を経験したと」

「んなわけあるか」

 僕は消しゴムを投げた。何か大きなものが台無しになったような気がする。

「いだっ。それにしても羨ましいですね、女子とお泊り」

 僕は会計に買ってきたお土産のクッキーに手を伸ばし、休まず書類に目を通していく。文化祭まで一ヶ月、仕事は増す一方だ。

「まあ、軽率だったとは思ってるよ。男友達と同じような行動っていうのは、控えるべきかもしれない」

 会計はわざとらしくため息をついた。

「それで、南さんはどうなったんです?」

僕は首を傾げる。

「だから、転校するって話でしたよね。もう学校にはいないんですか?」

 なぜ会計がそれを気にするのかは分からなかったが、

「ああ、補習で最後。二学期からはここの生徒じゃないから、文化祭には参加しない」

「よかったですね」

「なにが」

 会計は僕に消しゴムを投げ返した。

「だから、周りのことですよ。前田さんは知らないと思いますけど、ああいうワイワイしたイベントの中でひとりぼっち、ていうのは結構キツイんですよ」

 妙にリアリティのある苦笑いを見て、僕は理解する。

「ウサギですらひとりぼっちだと死ぬんですよ。況んや俺をや」

「強く生きろよ」

「ひとりぼっちは、寂しいもんな……」

「その台詞はいろんな意味で危ない」

 僕はエアコンの設定温度を下げ、身体を伸ばした。

「それではここで『こんな生徒はいやだ』シリーズ第六弾」

「それいいよもう。あんまり面白くないし」

「きっつ……。俺が豆腐のハートじゃなければ即死でした」

「お前が豆腐なのはメンタルだと思うんだけど」

 豆腐のハートって何だろう。

「柔軟に罵倒を避けるってことですよ」

「豆腐ってすぐ崩れるけど」

「授業をシカトして別の問題集をしている生徒に先生が『授業を聞け』と言った時の返し」

やるのか。

「お前なら何て返すんですか」

「『聞きたくなるような授業をして下さい』」

 こいつは授業を聞いていないので定期テストはゴミだけれど、模擬試験はそこそこの順位を取れる。確かにこんな奴がいればいやだろう。

「無言はやめてと何度言ったら分」

 それからしばらく特に中身のない話を広げていて、生暖かく時間が過ぎていった。僕は疲れた脳のフィルターを全部洗って窓際に干し、言葉を垂れ流す。

 手が疲れてきた頃、ようやく仕事は終わった。

「知的に時事ネタの話でもしましょうよ」

「時事ネタ? 汚職事件とかか」

「それ一ヶ月前ですよ。時事ネタって言わないんじゃ」

 僕はあまりニュースなんかを見ない。

「そうだ会計、お前も横領とかするの?」

「ものすごいフリですねそれ」

「僕は政治家なんてなくなればいいと思うんだよ。政治家になろうなんて人間は金と裏の世界にしか興味ないでしょ。だから日本人は汚職追求する暇があったら、高性能な人工知能を開発して政治をさせればいいと思う」

「消されますよあなた」

「半分冗談だけど」

「じゃ右半身が消されます」

「それならいっそ全身消してくれ」

 まあほぼ全部冗談で、言ってみたかっただけだ。僕は政治を知らないしあまり興味ない。

「そんなことより政治の腐敗って言葉、意味深ですよね。男同士の熱い争い的な意味で」

「腐ってるのはお前のシナプスだよ」

「あそうそうこれが言いたかったんですよ。不倫がどうとか世間じゃうるさいじゃないですか。それより未婚率をどうにかしろよと。不倫する芸能人よりも結婚も就職すらしないニーツの方が問題でしょう、話題性はともかく。俺みたいな一生童貞の奴からすれば不倫ってすごいですよ、俺なんか一人すら出来ないのに二人以上と付き合うなんて」

「まあ世間からしたらその二つは全く別ベクトルの問題だろうからな。比較すらしない。不倫は悪でもニートは犯罪ではないし、議論の俎上に上げられない感はあるな。犯罪でないなら逃げられる」

「この面接が終わったら俺、結婚するんだっ……」

「まずは結婚相手を探さないとな」

 せめて面接には受かってほしい。

 僕は熱心に温まる外気が揺れて見え目を細めた。外から聞こえてくる運動部の声が、熱にでも振動数を変えられたのか苦しげに聞こえてくる。

「ここで生活しようかな……」

「悪くない案ですね。せめて食べ物と飲み物と寝袋とWi-Fiがあれば言うことがないんですが」

「自堕落な生活を送りそうだな、僕ら」

そういえば、と会計は僕の方を向いた。

「シナリオ、出来たんですか?」

「まあな。明日脚本係で集まって見せるつもりだ」

「見せてください」

 僕は鞄から三枚のA4の紙を取り出し、会計に渡した。骨格だけのざっくりとしたあらすじだ。


ある少年が、迷い込んだ森の中で美しい女性と出会う。その人間を超えた美しさに魅了され、また女性の方も、少しづつ少年に心を開いていく。

少年は昔から感情を表に出さなかった。周囲の人からはよく誤解され、よく機械のようだと罵られていた。

しばらくし、少年は女性が人間ではない、人間を食べる「怪物」であることを知る。少年の恋人はそれを知ると、少年に森に近づかないことを強く求める。しかし少年は、選べなかった。恋人と怪物、どちらかを選べないくらい、二人を好きになっていた。少年はそれに、絶望した。

「怪物」には殺人衝動があった。女性は少年に癒され、人間だった頃の心を取り戻しつつあった。怪物化は呪いで、人を殺したことのある人間への罰だった。

恋人は少年の後をつけて森へ入った。女性の殺人衝動の抑えは、限界に達していた。自分に絶望した少年は、女性のために死にたいと命を差し出そうとした。その時恋人が身代わりとなり、少年を庇って命を落とす。

「怪物」。恋人を殺した女性に、少年はその好意が偽物であったことに気づく。女性はその憎しみを、少年が初めて露わにした人間的な感情に全てを悟り、女性は自分の命を引き換えにして少年の恋人を生き返らせた。悲しみを知り、憎しみを知り、恋心を知った。少年はそれから、人間的になっていった。


「シナリオ名は、『I'm eat you』で『アイミートユー』。ちょっとシリアスかもしれないけど」

「へえ、前田さんらしく上手く引っ掛けましたね」

会計はもう一度紙に目を下ろすと、

「察するに、この『大切な記憶は、失っても忘れない』っていうのがテーマなんですかね」

死者蘇生の代償は記憶である。これはロガシーに被せた設定だが、同じというわけではない。主人公と恋人は時間とともに記憶を失い、怪物のことを忘れる。最後に『思い出す』中で、主人公は成長していく。

「無責任に面白いとは言いませんけど。悪くないんじゃないですか? あらすじ読んだだけで面白い作品なんてのはないと思いますし」

ただ、そう会計は手探りするように言う。

「なにか物足りないと言いますか……」

「物足りない、か」

僕はまだ霧の中だ。トンネルというよりは迷路に近い暗闇を、僕は彷徨っていた。

僕らは荷物を持って生徒会室を出ると、蒸し暑さがのし掛かってくる。廊下から見える運動部は、とても強く逞しい存在に見えていた。大袈裟でも皮肉的意味でもなく、そう思った。

「僕は無力だな……」

僕は内履きスリッパを蹴り投げる。コテンコテンと転がって、それは力なく裏返った。

「僕は何もしてない。周りの力に、頼ってばかりだ」

アポイントの件だってそうだ。結局は垣谷さん頼み。僕はコネクションに頼っているだけだ。

でも。僕は考え直した。

「これが、僕なんだよな。身の程を知ったわけじゃない。世界を知ったんだ。周りを知ったんだ。頼りになる世界に、身の程知らずに手を伸ばすんだ」

僕は歩き出す。迷ってなどいられなかった。

「俺はあれこれ言えませんけど」

会計は軽く笑った。

「シナリオのこと、考えてみましょうよ。昼食にラーメンでもどうです?」

僕が会計と外食したのは、これが初めてだった。



柚月のことを、考えていた。

シナリオに悩んで、自分に悩む。それでいいのだろうか。考えれば考えるほど自分が何もできないことに気がついて、一緒に戦おうなんて言ったことが無責任に思えてくる。僕はわがままで強欲な子供だ。夢見がちで、カッコつけ。一日に何度も薬を飲む姿を見たり、些細なことで苦しそうにする姿を見るたびに、僕は目を逸らしてしまう。

肩をたたかれ、僕は顔を上げる。居眠りしていたようで、外はもう暗い。父親はレトルトカレーを僕の前に置いた。

「……お父さんは、なにか食べたんですか?」

言い終わり、僕は気づいた。シナリオの紙がない。

父親はああとだけ返すと、棚の上に手を伸ばす。

「これはなんだ?」

ドキッとなり、というか恥ずかしくなり、僕は席を立つ。

「野外劇の、シナリオ案です。学校の」

心なし、父親はいつもと違う目をしていた。なんというか良い意味で、父親らしくない。

「言わせてもらっていいか」

「え、あ、はい」

困惑する僕を置いて、父親はもう一度紙に目を落とす。

「素人と考えれば、骨格は良く出来ている。言いたいことの一貫性は合格点だ。三十分での分量としても、ちょうど良いだろう」

ただし、父親は続けた。

「これは、良く出来た素人の、高校生の作品だ。独学でここまで来たなら大したものだが。もう一歩進むためのテーマは『ドラマ』と『魅力』だ」

ドラマ。魅力。

僕は困惑しつつも、聞き逃さないように集中していた。

「ドラマとは、葛藤だ。ストーリーを止め、ジレンマに陥らせる。困って苦しむシーンにこそ、人は感情移入するんだ。そのドラマが、このシナリオには薄い。怪物と恋人、どちらを選ぶかというシーンでも、ドラマとしてはテンプレートでもあり物足りない。……そして感情移入すると、魅力が生まれる。魅力というのは、人を惹きつける力だ。多くの人に見てもらうためには、他のシナリオよりも優れる必要がある。基本的には相対論だからな。ストーリーは完結させれば良いわけではなく、見る人の興味を引くことが重要だ」

待ってくれているのを見て、僕は深く考えた。

ドラマを作る。

僕が今まで意識したことのない課題だった。どれくらいの時間が経ったのかは分からないけれど、僕は頭から溢れる考えを言葉にする。

「主人公は怪物に家族を殺されていて、憎み続けて怪物のハンターになった。信念を曲げない強情な性格で……怪物に遭遇したのはこれが初めてだった。そんな怪物と知らずに女性を好きになって……」

僕は父親を見上げた。父親は何も言わなかった。

「ありがとう、ございます」

「……カレー、冷めるぞ」

リビングから出て行こうとする父親を、引いた椅子の足をガタガタと擦らせて立ち上がり、僕は呼び止めた。

「お父さんは、何者なんですか……?」

失礼だろうか。そんなことはいい。

謎に包まれたあの人に、僕は初めて本当に興味を持った。

「シナリオライターだ」

一本の糸が通った。雷に打たれたような気持ちになる。

前田斗真。旧姓若山。

裕太、そして僕の姉は貴音。

ユータ。アカネ。

「若山、マウト……」

若き天才、ローリンレガシーの生みの親。

僕が憧れ続けた人間が、目の前に立っていた。



「セミは僕も苦手なんだけど」

冷静を装うがやはり逃げ腰で、僕は遠くからその生死を確認する。どうやら死んでいるらしいことが分かると、箒で庭の方へ掃いた。

柚月はえへへと笑いながら家のドアから出てくると、

「昔、死んでると思ったセミを箒で掃いて、ミミミッて飛びつかれたことがあるんだ」

「トラウマになったのか」

夏らしい快晴の中、僕は汗を垂らしながら何をしているのか。柚月からヘルプのメッセージが来て慌てて駆けつけると、死んだセミが玄関でお出迎えしてくれた。

「日傘は?」

「忘れてたっ」

バタバタと帰ってくると、僕らは学校近くのレストランに歩き出した。約束の時間には結構ギリギリで、熱気にも急かされて急ぎ歩く。

「裕太くんも入る?」

「遠慮しとくよ」

日光に当たり続けるとあまり良くないようで、柚月は安っぽい日傘をいつも持っていた。東京ではずっと曇り気味だったので必要なかったが、こんな日には僕含め溶けてしまうだろう。

「昨日ね、面白いクイズ見つけたの」

「どんな?」

「……高さ1メートルの柱の頂上に、長さ2メートルの縄がつけられて、それをライオンの首輪に繋いでいます。何メートルの範囲の草を食べることができるでしょう?」

いたずらっぽい柚月の笑みを見て、僕は閃いて即答した。

「ゼロメートル。ライオンは草を食べない」

「そんなあっさり……」

不満そうな彼女に、僕は堪えきれずに笑った。

「引っ掛け問題だ、って顔に書いてあった」

「ポーカーフェイスは苦手だよ……」

押しボタン式の信号機の前で赤信号を眺めていると、目の前をトラックが通り抜ける。むわっとした熱気は執拗に顔に吹き付け、シャツを扇がせた。背が丸まっていくのが分かる。

四月には桜が咲き誇る校庭横の歩道は、この季節には地獄に変わるらしい。騒がしくセミが飛び交い、その度に柚月は過剰に警戒レベルを上げていた。

「銀杏ロードになる方がマシだな」

「どういうこと?」

僕の方が首を傾げる。そしてしばらくし、失言に気づく。

「ほら、踏むと足の裏がネチャネチャになるからだよ」

柚月には嗅覚がない。臭いという概念自体、彼女には過去のものなのだ。僕は人生で鍛え続けたポーカーフェイスで誤魔化し歩く。

と、柚月のスマートフォンが鳴った。

「明里ちゃんから。もう着いてるって」

集合時間三分前だった。ここから徒歩で五分くらいだろうか、どちらにせよ走る気力はなかった。

「連絡取ってるんだ、あいつと」

柚月は少し照れたように笑うと、

「うん。すっごく優しくしてくれるんだよ」

「その調子で友達増えるといいな」

彼女は昔から、誰にでも優しかった。馴れ初めについて語るのはもう蛇足に思えるが、彼女は当時悪魔と呼ばれながら一人に肩入れしていた僕と対照的だった。そんな彼女に惹かれたのかもしれない。今の僕は彼女を踏襲しているというわけではないが。

「漫画のこと」

そう話題を逸らしたのは、レストランが見え始めた頃だった。柚月はやっと話題になったと言うように僕の方を見た。

「もう少し待ってくれるか。思うところがあってさ」

彼女は首を傾げかけ、笑って頷いた。

ラストシーン手前、僕は心の整理、というか決意や結論を整理したかった。結論を決定するには、少し準備不足だとでも言うのだろうか。

やがて到着したそこで二人と合流し、シナリオについて話し合った。三人からはそこそこの好感触が得られ、僕としては胸を撫で下ろす気分だった。

かなり具体的に、実質的な議論をして互いに満足いく手応えが得られた。なんだかこれも中学時代の彼女との会話を思い出し、僕は一人懐かしがっていた。

そんな彼女、中山明里だからこそ、僕は少しだけ不安だった。言葉に出ていないとしても、垣間見えるクラスのやる気のなさ。それに対し、取り繕うことをしない彼女のリーダーとしてのあり方は、起こりうるトラブルを予想するのが彼女をよく知っている僕にとって、容易にできてしまうのだった。


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