第1章 おまえはもう死んでいる その5
軽く一つ咳払いをして、彼女の隣にちょっとだけ隙間を空けて座った。
「桂木さんが死んじゃったのって、事故? それとも、自殺とか?」
聞いてから、しまったと思う。ちょっとデリカシーのない質問だった。でも、彼女はまったく気にしていない様子でポリポリと頭を掻きながら答えた。
「アホみたいな話なんやけど、それが全然思い出せへんのよ。ウケるわー。肝心の自分が死んだときの記憶がポッカリぬけ落ちてんねん」
「ええっ、そんな大事なこと忘れないだろ、フツー」
僕が驚いて声をあげると、桂木天音は濃いピンク色の唇を尖らせた。
「しゃーないやん。ウチかて死ぬのなんて初体験やったんやで。上手ういかんことかてあるわ。それに死ぬ直前の記憶は抜けやすいもんやて、ガキさんも言うとったし」
「ガキさん?」
「ああ、体育館裏にいた先輩の地縛霊や。いろんなことぎょーさん教えてくれはったけど、ウチが死んで三日もたたんうちにジョーブツしはった」
「ジョーブツ……成仏ってこと?」
「そうや。そりゃあもうごっつうキレイやったで。いきなり体が金色の光に包まれるやろ、それから体が薄くなってスーって消えていきなはった。きっとガキさんは天国行きやね、アレは」
「ふうん」
「ガキさんの話の受け売りやけど、人は死んですぐあの世に行くんやのうて、七週間くらい霊としてこの世をさまようんやて。そんで生前のいろんな未練を清算して、それから次の世界に旅立つらしいんよ」
「それじゃあ、桂木さんはいま未練を清算中ってこと」
「そゆこと。まあ、実際は未練なんてほとんどないんやけどね。もともとそない楽しい生活送ってたわけやないし。あ、しかもいま一つ清算したわ」
「えっ?」
「へへへ、授業サボってな、男子と二人、屋上で逢い引きすんのが夢やってん」
「逢い引き!」
それって、デートってこと?
思わず頬が赤らむ。
「そんなヘンな声出さんといて。ウチかてどうせやったら、C組の高木くんとかB組の汐下先生とか相手の方がええんよ。でも、この際やから妥協できるところは妥協せな」
「汐下先生?」
「うん。なんかええやんか。背ぇ高くて頼りがいがあるカンジで、やっぱ大人やし」
C組の高木佑吾はサッカー部のキャプテンでかなりのイケメンだ。桂木天音がその高木佑吾と汐下先生の名前を並べて出したのに、僕は少なからず驚いた。先生はやっぱり女子に人気があるらしい。
でも、アイツは僕を裏切った。
チクリと胸が痛む。
そして、もう一度思い出した。――僕がこの屋上に来た理由。
唇をぐっと噛み締めると、薄く血の味がした。
そんな僕の表情に気づく様子もなく、桂木天音は伸びをしたまま後ろに倒れこみながら、またまたノー天気な声を上げる。
「あーあ、あと四週間やなんて一体何したらええねん。退屈で退屈で死にそーや。って、もう死んどるっちゅうの」
鉄柵にもたれるのかと思いきや、彼女の身体は柵をすり抜けて百八十度真っ直ぐになった。それを見て、僕は彼女がホントに幽霊なんだと実感した。
幽霊のくせに桂木天音の胸は呼吸のたび上下に動いている。
その胸は薄く、僕の好みとは程遠かった。
でも彼女の言う通り、妥協ってのは必要だ。
「じゃあさ、僕がつきあおうか?」
「え?」
「残り四週間、退屈なんだろ。僕がつきあうから、それで我慢しな」
彼女は寝転んだままで僕の言葉を聞き流した。
「気持ちは嬉しいけど。幽霊ってのは夜がヒマなんよ。あ、ヘンなイミやないで。屋上にずーっと一人でおるやろ。したらな、ウチホンマに死んだんやんなーって、しみじみ実感するん。悲しいっていうか、淋しいっていうか、魂が深い深いところに落ちていく感じやな」
そう言った桂木天音の瞳は澄み切っていた。心の中で訂正した。妥協なんかじゃない。この瞳は僕のどストライク、絶好球のホームランボールだ。
「だから、夜も一緒にいればいいじゃん」
「えっ?」
「ここから飛び降りればいいんだろ。そうすりゃ僕も地縛霊になって、四週間一緒にいられるし、夜だってヒマじゃないじゃん」
「えええっ!?」
僕の発案に桂木天音は驚いて跳ね起きる。その目は真ん丸く見開かれていた。
(幽霊でも驚くんだ)そう思うと、妙に余裕が出てふきだしそうになった。
「もちろん、ヘンなイミじゃないよ」
「それ本気で言うてんの?」
「本気でって、桂木さんがヘンなイミの方が良ければ、僕はそっちでも全然オッケーだけど。でも幽霊ってそうゆうことデキんの?」
「せやない。東京モンのくせに細かいボケいらんて。下条くんがここから飛び降りるって話や。本気なん?」
桂木天音は掴みかからんばかりに体を寄せてくる。あまりの近さに思わず顔を反らして、僕は指でポリポリと頬を掻いた。
「うん、まあ、もともと、そのつもりだったし」
僕の返事を聞いて、彼女はあわててかぶりを振る。
「アカンアカン。飛び降りなんて。痛いし、死体ぐちゃぐちゃなるし、頭なんてパカーって割れんねんで」
きっと彼女は自分のために人が死ぬのを望むような子じゃないんだろう。でもそう言いながらも、その口調からは抑えきれない期待がにじんでいた。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように言った。
さっきまで僕はただ死ぬつもりだった。でもそれが誰かの役に立つのなら、こんなに嬉しいことはない。
彼女に向かってニッコリ微笑むと、立ち上がって屋上の端っこに足をそろえた。
見上げると空が青い。
吹き抜ける風が心地よく、遠くに富士山の姿が見える。
死ぬにはいい日だ。
背後から桂木天音の声がした。
「下条くん、おおきに」
「おう」
「そやけど、やっぱ下条くんにはムリやわ」
そんなことはない。そう言おうと振り返る。すると彼女は嬉しがっているのか、悲しんでいるのか、どっちともいえない微妙な顔をしていた。
僕は言い掛けた言葉を飲み込んだ。
言葉は要らない。
今日、彼女にはビックリさせられ通しだった。だから今度は、僕が彼女を驚かせる番だろう。彼女がムリだと思うなら、なおさらきっちりジャンプを決めてあっと言わせてやる。
僕は富士山の方を向き直ると、膝を軽く曲げて、体力測定の両足跳びの要領で腕を大きく後ろに回した。
――ところが、ここでもやっぱり、驚いたのは僕のほうだった。
さあ飛び降りようという瞬間に向かって発せられた桂木天音の言葉は、四階下のアスファルトに頭をぶつけたのと同じくらいの衝撃を僕に与えた。
「だって下条くん、もう、死んでるやん」