主遣い
その夜、黒井は足を引きずるようにして、庭園が見える廊下へ赴いた。夜の廊下は湿った空気が流れ、黒井の背に重くのしかかった。廊下に到着すると、徳兵衛の主遣いが煙草を吸っていた。黒井は一度止まり、生唾を飲み込んだ。
「おはようございます」
「おはようございます。黒井さん」
「……」
「……」
風が廊下に吹きさらし、主遣いが吐いた煙が黒井のところに漂った。瓦から雫がぽたぽたと落ちて、主遣いの肩を濡らした。ライトアップされた庭園は、黒井の心を見透かしているようだった。
「この間、忘れておりません、って言っておりましたね」
「はい」
主遣いは、踏石の上に立ち、黒井に「もう少し近くに」と合図を送った。黒井が恐る恐る近づくと、素早く黒井の左頬を叩いた。
「目を覚ましなさい。あなたがどこの一門にいて何を遣っているのかはっきりなさい」
「……はい」
「それに、あの時私が水差しを落とさなかったらあなたは飲み込まれていたでしょう」
「……はい」
「私たち一門は、過去にあった出来事から教訓を得て掟を守っているのですよ。それなのに、あんなふしだらな……」
「……」
主遣いから、煙草の匂いがほのかにした。黒井は唇を噛みしめ、叱責を黙って聞いていた。
「なぜ、金持さんを呼ばなかったか、あなたには分かりますか」
「申し訳ございません。……分かりません」
主遣いは、大きくため息をついたあと、再び煙草を吸い始めた。
「あなたと金持さんは不倫関係ですよ……」
「……」
黒井は黙って、廊下の赤いじゅうたんを見ていた。そこには、瓶ビールが二本置かれていた。
「……金持さんには奥さんがおります。あなたはそれを分かったうえで、金持さんと関係を結んでいるのですね。なぜ、金持さんとの関係を絶たないのですか」
「……金持が甘えてくると僕は満たされる気分になれるんです」
「……それだけで?」
「はい」
主遣いはまた、大きなため息をついた。煙草を灰皿で潰したあと、廊下に座りビールの口を開けた。
「明日は巡業が休みの日です。ここで頭を冷やしてお考えなさい」
主遣いがそう言うと、片手にコップを持った。黒井は急いで、瓶ビールをコップに注いだ。「しばらく、私はここにおります。良ければどうぞ」と言って、黒井を隣に座らせた。
湿気と煙草の匂いが黒井の肺に溜まる。しばらく、二人は黙って庭園を見つめていた。庭園を訪れた客が「きれいだね」、「いい景色だ」、と言っていたが、黒井には、暗く淀んだ未来が見えていた。
「……あの二人の出来事は、私の胸にもこたえるんですよ」
主遣いは、ビールを二口含んだあと、口を開いた。
「あの足遣いと私は同い年でした。突然のことでした。……あの主遣いと深い関係だったのは薄々感じていたのですが……」
黒井はもう一度主遣いのコップにビールを注いだ。しかし、瓶は空になっていた。
「……心中は、だめですよ……」
主遣いは二本目のビールを持って、黒井に注いだ。
「そこまでは、考えておりません」
黒井は口ではそう言ったが、腹の底では一瞬よぎっていた。甘えてくる金持を自分の中に引き込むことができたら、その時は……。
「足遣いは私の想い人でした。あなた以外誰もこの気持ちを知りません」
「えっ、どうして私に……」
「あなたがいなくなると、この一門が困るのです。あなたは主遣いになれる」
「無理心中をしたと聞いて、私は、あの主遣いを心底恨みました。足遣いにとって、私はただの同胞だったのです。その事実がただ憎かった」
主遣いは、酔っているのか、胸の内が零れ落ちるように話していた。
「今は掟があるから人々の思いが守られている。あなたたち以外は。」
「……」
黒井は二本目のビールを取り、主遣いの空のコップにビールを注いだ。
「間違わないで」
黒井がビールを注いだ瞬間、主遣いはそうはっきりと言った。




