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桜狩り

連作短編集にするため、連載にして再投稿しました。

山裾に広がる淡い桜色に心が弾む。もう半刻で別荘に着くというときに、牛車が止まった。


唯輔(ただすけ)が牛車から飛び出てきた。少し疲れた様子で、衣も乱れ、肩で息をしている。


続いて牛車の中から文を持つ手がすっとでてきたかと思うと、主の声が響いた。

「頼む!読んでくれ」


唯輔が眉を顰めながらも諦めたように文を受け取り、やがて牛車が再び動き出す。


文をしばらく眺めてから袂にしまうと、彼は私の脇を歩き始めた。


「直道(なおみち)、久しいな」


──最後に二人きりで言葉を交わしたのは、去年の秋、観月の宴の夜だった。


宴の喧騒を抜け出し、月明かりの下で二人密かに酒を飲み交わしたあの日。


疲れからか酒の回った唯輔が私の肩に身を預けてきて、その熱に耐えかねて……互いの衣を乱した。


翌朝、お互いに気まずさから目を合わせられぬまま別れて以来の再会だ。


『お前といると、息が通う……。何とも、心安い……』


あの夜、私の腕の中で解けるように囁いた唯輔の声を、私は片時も忘れたことがない。


それなのに今、主君の牛車から衣を乱して出てきた彼の姿に、胸の奥が不躾にざわついてしまう。


◇


もうまもなく別荘に着くというところで、突然に雨が降り出した。


花見の宴に来たというのに、向かぬ日であったか。


供の者たちが雨を避けて慌ただしく館へと身を寄せる中、唯輔だけが真向かいの、満開の桜の下へと歩み寄った。


馬を降りて後を追った私は、言葉を失う。


濡れそぼった桜を、美しい男がひとり憂いを帯びた顔で見上げていた。


「……館へ行かぬのか」


「このままでよい。どうせ濡れるのであれば、桜から滴り落ちる雫を眺めていたい」


そう言って雨の中に佇む彼は怪しいほどに美しく、裾を絞る仕草が色香を放っていた。


濡れた細い指先。そこから零れる水滴を追うように視線を上げれば、濡れそぼった黒髪から、また一筋の雫が伝い落ちていた。


ごくりと唾を呑み込み、思わず一歩を踏み出す。


その瞬間、ちらりとこちらを流し見る彼と目が合った。私が見惚れていることに気づいた彼は、挑発するように妖しく目を細める。


魅入られていると、再び桜から零れた雫が、彼の唇を伝い、白い首筋へ──。


衣に吸い取られて消えてゆくのが惜しくて、気がつけばその肌へ唇を押し当てていた。


──冷ややかな雨の味と、熱い肌の感触。


彼は驚く素振りも見せず、濡れた袖の陰でくすりと喉を鳴らした。


こちらの焦りを嘲笑うように、彼は逃げるどころか、吐息を漏らして私の頭を優しく抱き寄せる。


濡れた髪から覗く瞳が、愉しげに揺れていた。


──仕掛けたのは私のはずだった。それなのに、彼の手が私の頭を抱き寄せた瞬間、主導権はあっけなく奪い去られる。


「……その気になったか」

耳元で囁かれた掠れ声に、背中がぞくぞくと跳ねた。


甘い吐息を耳孔へ吹き込まれ、雨雫ごと舌先で深くなぞられる。


頭の中に雨滴の音が直接響き、焦れるほど丁寧に食まれる。


「……ん、あ……」

普段は見せない甘い声を漏らしてしまった。


耳から頬へと丁寧になぞり上げられ、柔らかいものが唇に触れる。


誘われるままに、口を微かに開く。


互いの体温が雨を忘れさせるほどに跳ね上がり、欲望が完全に弾け飛ぶ──その、瞬間だった。


「──雨が上がりましたぞ! 主様がお呼びです!」


遠くから届いた従者の声に、弾かれたように体が離れる。


彼は乱れた衣を優しく整えると、何事もなかったかのようにすっと桜の下を離れた。


すれ違いざま、彼の濡れた指先が私の胸元をそっと撫で下りる。


「……続きは夜に」


取り残された私に残ったのは、首筋を伝う雨の冷たさと、今夜を待ちきれない酷い焦燥感だけだった。


◇


人目を忍び、静まり返った旅所の部屋で息を潜めて待つこと刻余り。


「……来ないのか」


諦めかけたその時、引き戸が静かに開き、暗闇の中へ影が滑り込んできた。


唯輔の衣の襟はわずかに崩れ、ほんのりと甘い酒の香りが漂ってくる。


「……待たせたな」

かすれ声でそう言うなり、彼は私の膝元へ力なく倒れ込んできた。


昼間の壮絶な色香は影を潜め、今はただ疲弊したひとりの男が、私の胸元に顔を埋めている。


「ああ、息が通う……」


「主様が酔い潰れるまで解放してくださらなくてね……。断れば怪しまれるし、散々飲まされた」


胸元から響く声はどこか幼く、少しだけ不満げだ。


背中を優しく撫でてやると、気持ち良さそうに「ん……」と体を預けてくる。


酒のせいで熱を持った彼の吐息が、肌へと直に伝わる。


「……本当に、来ているとは思わなかった」


ふっと顔を上げた彼の瞳は、ほろ酔いのせいでとろりと潤っていた。


昼間、雨の桜の下で私を翻弄した男が、今は腕の中で甘えるように首を寄せてくる。


「……来いと言ったのはお前だろう」


「そうか。そうだったな。……待たされた仕置きが、あるのか」


見上げてくる瞳の、どこか期待を孕んだ熱に胸が詰まり、私は腕に力を込めて彼を強く抱き寄せた。


「ああ、待ちに待った。焦がれて身を焼き尽くすすんでに、捕まえたぞ。雨の降る中、桜の陰で私を惑わせた妖をな」


「……濡れてもよいと言ったろう。最初から、お前に捉えられるつもりで桜の下にいた」


顔を寄せ、微笑むその姿があまりに美しく、嫉妬と愛おしさで胸が潰れそうになる。


こんな表情を、まさか主君や他の者に見せたのではあるまいな──そんな嫉妬を振り払うように、私は彼の言葉を追う。


「文を。文を読んだのか」


「……文?ああ、昼間のか」


くすりと笑って、彼は答える。


「姉への文の、添削を頼まれたのだ。もう長いこと求婚中だが、色良い返事がもらえぬらしい。再々呼ばれては、泣き言恨み言を言われ、姉の好みを聞き出そうとされておるのだ」


「そうだったのか」

杞憂であったかと、胸の奥から安堵の息が漏れた。


「妬いたか?」

「……」


「私は妬いたぞ。春の若菜摘みの折、女房らに囲まれて笑っていたお前に……」


唯輔の手が私の頬を優しく包み込み、顔をぐいと引き寄せる。


とろりと揺れるその瞳には、昼間の妖しさでも酒の酔いでもなく、ただ私への強い執着だけが宿っていた。


「この身も、心も、お前以外の誰にもやらぬ」


たまらず、骨がきしむほど強くその体を抱きしめた。


外ではまた降り出した気まぐれな雨がいつの間にか上がり、しんと静かな夜が深まってゆく。


昼間に濡れた桜の雫が乾く暇もないまま、私たちは互いの熱の中に、どこまでも深く沈んでいった。

第一話『桜狩り』の外伝として、半年前の出会い話をpixiv/ムーンライトノベルズに投稿しました。


作品名【『桜狩り』外伝・出会いの秋──和歌で解く二人の恋】もしくは作者名【きびだんご】で検索してください。

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