第一話 目覚め
液体の中にいた。
温かく、粘度があった。目を開けると光がある。歪んだ光だ。曲面ガラスの向こうで、白い照明が点滅している。
息ができない。
いや、している。鼻ではない。首の横、そこに何かが刺さっていて、そこから空気が出入りしている。引き抜こうとした。動かない。腕が重い。全身が重い。生まれたての仔馬がこんな感覚だろうか、と、どうでもいいことを考えた。
直前まで、自分は会社にいた。
終電を逃して、タクシーも掴まらなくて、歩いて帰ろうとして、それから——記憶がそこで切れている。横断歩道の白い光。タイヤの軋む音。それきりだ。
死んだ、という言葉が、妙に静かに胸に落ちた。
パネルが光った。
槽の外側、手の届かない位置に操作盤がある。緑のランプが点滅して、何かが動き始める音がした。低い、機械の声だ。
『観察対象、覚醒を確認。形態変化、完了。』
日本語ではなかった。
なのに、なぜか意味がわかった。
液体が抜けていく。床に流れる音。空気が入ってくる。肺が——どのくらいぶりなのか見当もつかない——空気を吸った。むせた。咳が止まらない間も、ジモンはガラス越しに部屋を見渡していた。
広い。無人だ。
電気は生きている。人間はいない。
立てるようになるまで、三分かかった。
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槽の扉は、内側から押すと開いた。
濡れた足で床に降りる。冷たい。裸だった。
「寒……なんだここは?」
体を抱くようにして、あたりを見回す。寒い。まず、何か着るものがいる。震える足で、槽の周りを探した。台の上、棚の中、床に積まれた箱。見つかったのは、薄い肌着のような布と、その上に羽織る、ガウンに似た一枚きりだった。患者にでも着せるためのものか。とにかく裸よりはましだ。袖を通すと、生地は柔らかく、肌に馴染んだ。だが、これで森でも歩けるかと言われれば、心許ない。薄すぎる。
「……まあ、ないよりは、ましか」
呟いて、ジモンは、震える肩を一度すくめた。
部屋を出る。
廊下は白かった。等間隔に照明。足音だけが響く。来た道を覚えながら、ジモンは歩いた。サラリーマンの習い性だ。知らない建物に入ったら、まず非常口を確認する。
そして、腹が減っていた。喉も渇いている。
「……なんだか、腹が減ったな」
声に出すと、急に空腹が現実味を帯びた。死んで、わけのわからん槽から這い出て、早々に腹が鳴るとは。我ながら、現金なものだ。何年眠っていたのか知らないが、体は正直だった。水と、食えるものを探す。それが先決だった。
扉を、片端から開けていった。
最初の部屋は、倉庫だった。棚に容器が並んでいる。ラベルは読めない。文字の形が、知っているどの言語とも違った。蓋を一つ開けてみたが、中身は乾いた粉のようなもので、食えるのかどうか見当もつかず、戻した。
二つ目の部屋には、水があった。
壁の管から、捻ると、透明な水が出た。手で受けて、匂いを嗅ぐ。無臭だった。少し舐めて、待って、何も起きないのを確かめてから、飲んだ。冷たかった。生き返る心地がした。長く打ち捨てられていたはずの設備の、どこかが、まだ水を送り続けている。
その部屋には、ほかにも、使えそうなものがあった。布の袋。水を入れられそうな、密閉できる小さな容器。刃物——調理用か何かか、掌に収まる短い金属の刃。ジモンは、それらを袋に放り込んだ。先のことは何もわからないが、手ぶらで出るよりはましだ。
食料らしいものは、結局、見つからなかった。あるいは、長い年月のうちに、とうに尽きていたのかもしれない。
三つ目の扉を開けると、部屋の中央に台座があった。
台座の上に、球体。
直径三十センチほど。表面が鈍く光っている。近づくと、球体が、ひとりでに動いた。
音が出た。言葉ではない、何かだ。なのに、また意味がわかった。
『観察対象の接近を確認。応答モードに移行。』
ジモンは少し考えてから、口を開いた。声が出るかどうか、試してみたかった。
「……誰か、いないのか」
掠れた声が出た。久しぶりに使う喉だった。返事はない。当然か、と思いながら、続けた。
「ここは、どこだ」
球体が、一拍置いた。
『座標の開示権限、なし。施設管理者の認証を要求。』
「人は。お前のほかに、誰か、いるのか」
『施設内、生体反応、お前のみ。管理者、長期不在。最終確認、四百三十二年前。』
四百年。
数字が頭の中で転がった。実感はない。ただ、長い、と思った。
「俺がいたあの機械は何だ?」
『観察対象。育成槽番号一。形態、人型。それ以上の記録、なし。』
よくわからない。確かなのは、この機械が自分を「観察対象」としか認識していないことだ。
迂闊に、何もかも明かすのは、得策ではない気がした。相手が機械でも、ここがどこかもわからないうちは。
「俺のことは、ジモンと呼べ。それでいい」
『了解した。呼称、ジモン。記録する。』
「この施設は、何だ。俺は、なんでここにいる」
『当施設は、リサーチャー・ヴェルムの研究施設。専門、未知物体の解析。お前は、解析対象の一つとして、当槽で観察されていた。』
「解析対象」
『そのように記録されている。詳細記録は、管理者権限で封鎖。開示不可。』
ジモンは、台座の横の床に座った。立っているのが、面倒になった。
つまり自分は、四百年以上前に誰かが始めた研究の対象で、その誰かはもういなくて、自分が何なのかは、肝心の記録に鍵がかかっていて読めない、ということになる。
「……わけが、わからないな」と、声に出してみた。
ジモンは天井を見上げた。照明が一つ、微妙に点滅している。電力系統のどこかに、不具合があるのだろう。四百年、誰にも直されていない。
聞くべきことは、山ほどあった。だが、何より、これからどうするかだ。
「外は、どうなってる」
『施設外周、森林。地形、起伏あり。気候、温帯。』
「人の住む街は、あるのか」
『記録は古いが——施設より下る方角に、複数の集落の痕跡。最も近いもので、徒歩圏内と推定。』
「そこまで、たどり着けるか。……このなりじゃ、無理だな」
ジモンは、薄いガウンの胸元を、つまんで見せた。これでは、森を抜ける前に凍えるか、魔物の餌になるかだ。
『観察対象の野外活動を、補助する権限は、サポート系統に委譲済み。被服を、生成する。』
「被服?」
返事の代わりに、台座の脇の、壁の一部が開いた。
中から、細い光の糸のようなものが、空中に滲み出す。糸は、見る間に編まれ、形を成していった。音もなく、ほんの数秒で。
落ちてきたのは、一着の衣服だった。灰色がかった、丈夫そうな上下。それに、外套と、履物。手に取ると、まだほのかに温かかった。たった今、無から織り上げられたばかりの温度だった。
服が、一瞬で、できた。
元の世界では、ありえないことだ。だが——と、ジモンは思う。自分自身が、培養槽から生えてきたような身の上だ。今さら、服の一着くらいで、驚いていられない。
薄いガウンを脱ぎ、新しい衣服に、袖を通した。今度のは、暖かかった。そして、なぜか、寸分の狂いもなく、体に合った。それについては、深く考えないことにした。
「街があるなら、何か知ってる奴もいるかもしれないな」ジモンは、半分は自分に言い聞かせるように呟いた。「……なあ、そこの連中はどうやって暮らしてる? 金は何を使うんだ。スマホとか電子マネーは、通じるのか」
口にしながら、ジモンは、漠然とそう期待していた。
この研究所の技術は、明らかに、自分のいた世界を超えている。服が一瞬で編み上がり、四百年も無人で稼働し続ける施設。これほどの文明が築いたものなら、外の世界も、さぞ進んでいるに違いない。スマホどころか、もっと便利な何かがあってもおかしくない。そう、思っていた。
球体は、しばらく沈黙した。
『該当する語の登録、なし。』
「ない?」
『施設周辺、原住民の集落について、観測記録あり。彼らの社会は、原始的な貨幣経済を営む。金属貨幣、ないし物品の交換による。電子的決済の痕跡は、確認されない。』
ジモンは、虚を突かれた。
外は、進んでいるどころではなかった。むしろ、逆だ。原始的な貨幣経済——硬貨か、物々交換か。この研究所の中だけが、異様に進んでいて、一歩外に出れば、何百年も昔の暮らしが広がっている。
「……なんだ、それ」
施設の中と外で、文明が、まるで噛み合っていない。なぜそんなことになっているのか、ジモンには見当もつかなかった。ただ、一つだけ、はっきりしたことがある。
「金属の貨幣ってことは……金とか銀とか、そういうのが値打ちになるのか」
『高い蓋然性で、然り。』
「この施設に、そういう金属は、あるか」
『当施設は、構造材および装飾に、複数の貴金属を使用。微量であれば、運用に支障なく分離可能。』
球体が、また、光を強めた。
台座の脇の壁が、再び開いた。今度は、先ほどの光の糸ではなく、どろりとした、輝く液体が、小さな鋳型へと流れ込んでいく。冷えて、固まる。ほんの数秒だった。
転がり出てきたのは、小さな、黄金色の塊だった。指先ほどの大きさのものが、いくつか。手に取ると、ずしりと重い。本物の、金の重さだった。
『携行を考慮し、小片に加工した。当該地域の交換経済において、価値を持つと推定する。』
ジモンは、掌の上の金を、しばらく見つめた。
四百年無人の研究所が、最後に手向けてくれた、餞別のようなものだった。
「もう一つ、いいか」ジモンは、顔を上げた。丸腰で出るのは、無謀だ。「何か武器はないか。身を守るくらいの」
『銃火器の持ち出しは、禁止。』
球体は、即座に答えた。だが、続けた。
『単分子刃物、一振りのみ、許可する。低殺傷、かつ携行に適すると判断。』
また、壁が開いた。
差し出されたのは、一本のナイフだった。柄も刃も、継ぎ目のない、つや消しの黒。刃渡りは、掌より少し長い程度。手に取ると、驚くほど軽い。そして、刃の縁が、まるで光を吸い込むように、薄く、見えなくなっていた。
試しに、傍らにあった金属の棒に、そっと当ててみる。
抵抗もなく、棒が、すうっと、断たれた。
切った、という感触すらなかった。あまりの切れ味に、ジモンは、思わず手を止めた。
「……物騒だな、これは」
『取り扱いに、注意を要する。』
ジモンは、ナイフを布に包み、袋に収めた。金と、ナイフ。それが、この研究所がくれた、すべてだった。
立ち上がった。
「外への、行き方は」
『案内可能。ただし、一点。』
「なんだ」
『この施設は、隠蔽フィールドで覆われている。外に出れば、境界を越える。再侵入には、管理者認証が必要。』
「戻れなくなる、ってことか」
『条件付きで、はい。』
ジモンは球体を見た。球体に目はない。それでも、見た。
四百年動き続けてきた機械。誰にも顧みられず、ただ観察対象の覚醒を待っていた機械。
「お前も、来るか」
『このユニットは、携行不可。ただし——』
部屋の隅で、何かが動いた。
小さかった。手のひらに乗るくらい。羽があった。文鳥に似ている。だが、羽毛に見えるそれは、よく見ると細い繊維で、わずかに金属の光を帯びていた。目だけが、本物の生き物のように、丸く濡れて光っていた。
『サポートユニット。以降の対応は、こちらが行う。』
小さな鳥型の機械が、ジモンの足元まで歩いてきて、止まった。見上げてくる。
ジモンは、しゃがんで、それと目を合わせた。
「名前は」
鳥は答えなかった。球体が、代わりに言った。
『記録に、なし。』
「ムニンだ」ジモンは言った。「今からお前の呼称はムニン。いいな」
その瞬間、だった。
ごく短く、ムニンの体を覆う繊維の光が、ふっと、強さを増した。瞬きほどの間。ジモンの声が、ただの音ではない何かを乗せて、鳥型の機械に触れた——ように、見えた。
だが、ジモンは気づかなかった。しゃがんで、見上げてくる鳥と、目を合わせていただけだった。
ムニンは、動かなかった。三秒ほど、ただそこに立っていた。
それから、一度だけ、頭を下げた。
それが、登録された呼称への、形式的な応答なのか。それとも、別の何かなのか。ムニン自身にも、その時は、判然としていなかった。
プログラムなのか、それとも別の何かなのか、ジモンには判断できなかった。考えもしなかった。
立ち上がる。ムニンが、足元についてくる。出口へ向かいながら、ジモンは一度だけ振り返った。
球体は、もう光っていなかった。
扉を開けると、森の匂いがした。
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外は、森だった。
背の高い木々が、空を覆っている。木漏れ日が斑に落ちて、地面を揺れる模様にしていた。空気が濃い。土と、葉と、何か甘い花の匂いが混じっている。会社のビルの、乾いた空調の空気とは、何もかも違った。
振り返ると、研究所はなかった。
たった今出てきたはずの扉も、壁も、ない。あるのは、苔むした岩肌だけだった。岩が、そこに「ある」というより、岩の形をした何かが、扉を呑み込んで閉じた、という感じだった。隠蔽フィールド、と機械は言った。なるほど、と思う。戻れない、というのは本当らしい。
「さて」
ジモンは、独り言を言った。
行く当てはない。金もない。この世界のことを、何も知らない。
足元のムニンを見た。ムニンは、黒い目で、ジモンを見上げていた。何を考えているのか、わからない。
「お前、しゃべれるか」
『可能。』
頭の中に、直接、声が届いた。球体と同じ、平坦な声だった。
ジモンは少し驚いたが、顔には出さなかった。一度死んで、培養槽で目覚めて、四百年がどうとか聞かされた後だ。鳥がしゃべるくらいで、いちいち驚いていられない。
「便利だな」
『なんでも聞け。』
「俺は、これからどうすればいい」
『知らん。好きにしろ。』
「冷たいな、お前」
ムニンは、答えなかった。
ジモンは、息を吐いた。とりあえず、歩くしかない。森には方向がある。木々の傾き、光の差す向き。低い方へ、水のある方へ降りていけば、人の住む場所に出る。それくらいの常識は、元の世界の知識でも通用するだろう、と思った。
歩き出して、すぐだった。
藪が、揺れた。
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それは、犬のようで、犬ではなかった。
体高は、大型犬ほど。だが、口が裂けすぎていた。耳の下まで割れた口に、不揃いの牙が並んでいる。目が四つあった。前肢の関節が、人のそれとは逆に曲がっていた。
低い唸りが、喉の奥から漏れている。
ジモンは、足を止めた。
こんな生き物を、見たことがない。図鑑でも、動物園でも、どこでも。四つの目も、逆向きの関節も、地球の理屈から外れている。培養槽だの、四百年だの、言葉だけでは半信半疑だったものが、この一匹を前にして、ようやく実感に変わった。
ここは、もう、あの世界ではない。
頭では、危険だと理解している。あんな口に噛まれたら、ただでは済まない。逃げるべきだ。そう思う。
なのに、心臓が、うるさくならない。
それが、自分でも不思議だった。
「ムニン」と、小声で言った。「あれは」
『魔物。種別、グナー・ハウンド。脅威度、下位。一般的な等級ではEからD相当。群れを成すが、これは単独の個体。』
ムニンの声は、平坦だった。情報を読み上げているだけで、警告という感じはしない。
『特徴。四眼による広い視野。前肢の逆関節による跳躍。顎の咬合力が高い。弱点、視覚に依存するため、視界を奪えば行動が乱れる。生命に対する敵対傾向、高。』
「どうすればいい?」
『撤退を推奨。』
「逃げ切れるか?」
『高難度。』
「マジか?」
魔物が、跳んだ。
速い。慌てて、身を投げ出すように、横へ躱した。牙が、さっきまで首のあった空間を、空振りする。生臭い風が、頬を撫でた。
だが、体勢は崩れていた。受け身も取れず、ジモンは、地面に尻餅をついた。
無様だった。心臓が、ようやく早鐘を打ち始める。
その、手のひらの下に。
石が、あった。
握りこぶしほどの、ただの石。倒れた拍子に、たまたま、手がそれに触れていた。
着地した魔物が、反転する。また来る。今度は、躱せる体勢ではない。
考える時間は、なかった。
ジモンは、その石を握り、腕を振りかぶる間もなく——指の力だけで、魔物に向かって、弾いた。
なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからない。投げる、のではなく、弾く。そんな芸当が、できるはずもない。
なのに。
石は、見えない速さで、飛んだ。
跳びかかってきた魔物の、四つある目の、その一つに、吸い込まれるように当たった。
魔物が、悲鳴を上げた。跳躍の勢いが、削がれる。狙いを失って、ジモンの脇を、無様に転がっていった。
ジモンは、尻餅をついたまま、自分の手を見た。
ただの石を、ただ、指で弾いただけだ。なのに、ろくに狙ってもいない目に、正確に当たった。まぐれ、にしては——当たりすぎている。
考えている暇は、なかった。
魔物が、起き上がる。片目を潰されて、なお殺気は衰えない。ジモンは、慌てて立ち上がろうとした。間に合わない。
そのときだった。
「伏せろッ!」
声が、飛んだ。
ジモンは、反射で、また身を低くした。
頭の上を、何かが通り過ぎた。風を切る音。短い棒のようなもの——投擲された槍だ。それが、魔物の、開いた口の奥へ、深々と突き刺さった。
魔物が、痙攣し、倒れた。動かなくなった。
森が、静かになった。
ジモンは、身を低くしたまま、声のした方を見た。
木立の間から、老人が、歩いてきた。
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歳は、六十は越えているだろう。だが、背は曲がっていない。古びた革の上着。腰に、空になった投擲帯。さっきの槍は、ここから投げたのだ。距離は、二十歩はあった。あの歳で、あの距離を、一投で。
老人は、倒れた魔物を一瞥し、それからジモンを見た。
値踏みするような目だった。だが、敵意はなかった。
「無事か、若いの」
「……ああ」とジモンは答えた。「助かった」
「礼にゃ及ばん」老人は、魔物に歩み寄り、口から槍を引き抜いた。慣れた手つきだった。「それより、あんた、見ない顔だな。こんな森の奥に、丸腰で、何しに来た」
ジモンは、言葉に詰まった。
培養槽で目覚めた、とは言えない。四百年、とも言えない。
「道に……迷ってな」
我ながら、苦しい言い訳だった。
老人は、片眉を上げた。だが、それ以上は突っ込まなかった。代わりに、ジモンの足元に目をやった。
ムニンが、いた。いつのまにか、ジモンの足元に戻ってきて、じっと老人を見上げている。
「妙な鳥を、連れてるな」
「ああ。よく、なつくんだ」
ムニンは、なつく、という言葉に、わずかに身じろぎした気がした。だが、何も言わなかった。頭の中にも、声は届かなかった。
老人は、しばらくジモンを見ていた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
一瞬、目を細める。何かを見透かすような、それでいて、咎めない目だった。
「……まあ、いいじゃろ」老人は、魔物の死骸を、足で軽く小突いた。「だが、この辺りは、こいつらが出る。丸腰で歩くような場所じゃない。村まで、送ってやる。来な」
「村」
「すぐそこだ。あんたみたいな流れ者でも、一晩くらいは、置いてくれる」老人は、背を向けて歩き出した。「わしはナギだ。あんたは」
「ジモン」
「ジモン、ね」ナギは、振り返らずに言った。「変わった名だ」
ジモンは、その背中を、追った。
ムニンが、足元についてくる。一度だけ、ジモンは、倒れた魔物を振り返った。四つの目のうち、潰れていない三つが、虚ろに空を映していた。
なぜ、自分はあの石を、当てられたのか。
考えても、答えは出なかった。
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森を抜けるのに、半刻もかからなかった。
木々が途切れると、ゆるい斜面が開けて、その下に、村があった。
小さな村だ。藁葺きの屋根が、二十か、三十。畑が、斜面に沿って段になっている。中央に、井戸らしきものと、広場。そして広場の奥に——
ジモンは、足を止めた。
黒い、何かが、立っていた。
巨大だった。家の三つ分はある。黒い金属に覆われた、人とも獣ともつかない形。動いてはいない。苔がむし、蔦が絡んでいる。ずっと、そこに在り続けたのだ、とわかる佇まいだった。
なのに、ジモンは、目を離せなかった。
理由は、わからない。ただ、あれを見ていると、胸の奥で、何かが、かすかに、響く気がした。
「ああ、あれか」
ナギの声で、我に返った。
「あれは、青目様だ」ナギは、その黒い影を見上げて言った。声に、奇妙な平坦さがあった。崇めるでもなく、恐れるでもない。「この村の、守り神様さ。百年、村を守ってくださってる——ってことに、なっている」
「なっている?」
ナギは、答えなかった。代わりに、別のことを言った。
「この村にゃ、名前もない。皆、『青目村』と呼んどる。あの、青目様から、取ってな」老人は、顎で黒い影をしゃくった。「本当の名は、別にあるらしい。だが、知っとるのは、村長くらいのもんだ。わしら流れ者は、もちろん、村のほとんどの連中も、知らん。知ろうともせん。守り神様の村、それで、事足りるからな」
その口ぶりには、やはり、どこか醒めたものがあった。
ジモンは、もう一度、黒い影を見上げた。青目様、と村人が呼ぶ、家三つ分の巨体。なぜ、自分はこれを見ていると、胸の奥が、かすかに、ざわつくのか。理由は、わからないままだった。
代わりに、斜面の下から、声が上がった。
「ナギ爺ちゃん!」
若い娘が、畑の間を、駆け上がってくる。
歳は、十七、八といったところか。短く切った髪。動きやすそうな革の装束。腰に、短剣を提げている。日に焼けた顔に、人懐っこい目があった。
「遅いから心配したじゃない。また森の奥まで行ってたの? あんな所、魔物が——」
娘は、そこで、ジモンに気づいた。
足を止め、ジモンと、その足元のムニンを、まじまじと見た。
「……誰?」
「拾った」ナギが言った。まるで、犬猫のように。「森で魔物に襲われてた。丸腰でな」
「丸腰で森に? 死にに来たようなもんじゃない」娘は、呆れた顔をした。それから、ジモンに向き直り、ぺこりと頭を下げた。「えっと、ミラ。ナギ爺ちゃんの、娘です。あなたは?」
「ジモン」
「ジモンさん、ね」ミラは、首をかしげた。「聞かない響き。どこの出身?」
ジモンは、また、言葉に詰まった。
どこの出身、と聞かれて、答えられる場所が、この世界には、ない。
「……遠くだ」
それだけ、言った。
だが、ミラの興味は、もう別のところに移っていた。彼女の目は、ジモンの服に、釘付けになっていた。
「ねえ、それ、何の生地? 見たことない」ミラは、ずいと一歩、距離を詰めてきた。「染めてもないのに、そんな色が出るの? 縫い目、どこ? ……ない? 嘘でしょ、どうやって作るの。そっちの外套も、すごく軽そう。雨は弾く? どこで買ったの? 遠くって、どこ? 海の向こう? その向こうって、どんな所なの。やっぱり、こんな辺鄙な村とは、全然違うんでしょ?」
矢継ぎ早だった。
ジモンは、たじろいだ。一つ答える前に、次が三つ飛んでくる。村しか知らない娘には、ジモンの一切が——見慣れない服も、聞いたこともない出身も——珍しくて、たまらないらしい。目が、きらきらと輝いていた。
「い、いや。これは、その」
縫い目がないのは、光の糸で一瞬で編まれたからだ、などと言えるはずもない。ジモンが、しどろもどろになっていると——
「ミラ」
ナギの、低い声が、割って入った。
「外で会ったばかりの相手を、質問で潰す奴があるか。この男は、森で死にかけて、くたびれてる。話なら、家で、飯でも食わせてから聞け」
「……はあい」
ミラは、不満げに、口を尖らせた。だが、素直に引き下がった。ナギには、頭が上がらないらしい。
ジモンは、内心で、老人に手を合わせた。助かった、と思った。
それでも、ミラの好奇心は、収まりきっていなかった。今度は、ジモンの足元を覗き込む。
「……じゃあ、せめて、これだけ。うわ、何この鳥。すっごい綺麗。金属みたいに光ってる。見たことない種類だ」
ムニンは、じっと、ミラを見上げた。
ミラが、手を伸ばす。
「触っても——」
『不可。』
頭の中で、ムニンの声がした。ジモンにしか、聞こえていない。
ジモンは、とっさに口を開いた。
「悪い。人見知りなんだ、こいつ」
「あ、そうなんだ。残念」ミラは、素直に手を引っ込めた。それから、にっと笑った。「ジモンさん、行く当てないんでしょ? なら、うちにおいでよ。狭いけど。ね、爺ちゃん、いいよね?」
ナギは、肩をすくめた。
「お前が決めることだ」
「決めた」ミラは、もう歩き出していた。「こっち。足元、段差あるから気をつけて」
ジモンは、その後ろを、歩いた。
斜面を下りながら、もう一度だけ、振り返った。
広場の奥で、黒い「青目様」が、夕日を背に、黙って立っていた。
その頭部に、横一文字の、暗い線がある。
今は、何の光もない、ただの黒い線だった。




