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十二灯館は、誰の罪を照らすのか  作者: 綾見 恋太郎


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第十六章 灯が消えたあと

 夜明け前の湖は、黒ではなかった。

 濃い藍色をしていた。

 十二灯館の窓から見える水面は、夜のあいだずっと、何かを隠すために黒く沈んでいた。人影を映し、灯を揺らし、死体が沈んだように見せ、名前を別の名前へ変えてきた。

 だが、夜明けが近づくと、湖は少しずつ色を取り戻した。

 黒い水の底から、青が戻ってくる。

 それは美しいというより、残酷だった。

 どれほど人が死んでも、どれほど名前が奪われても、朝は来る。

 湖はそれを知っているように、静かに凪いでいた。

     *

 通信が回復したのは、午前四時を少し過ぎた頃だった。

 鳳恭介と二階堂壮也が管理室の裏で切断された外線を見つけ、氷室圭吾が震える手で予備の中継盤の位置を示した。二階堂は鳳の指示を復唱し、鳳は一つずつ配線を確認した。

 ふたりとも満身創痍だった。

 鳳は左肩を押さえ、足首をかばっていた。床下の穴に落とされかけたときの打撲がひどい。動くたびに顔色が悪くなる。それでも、建物を見ないわけにはいかなかった。

 二階堂は声が掠れていた。

 自分の声を切り取られ、放送され、命令に変えられた男は、それでも最後まで言葉を使った。今ではもう、何かを言うたびに一拍置く。誰かが聞いているか。誰かが口元を見ているか。記録に残るか。それを確認してから喋る癖がついてしまっていた。

 それでも、二階堂は電話を繋いだ。

「こちら十二灯館。負傷者多数。死者三名。意識障害、薬物中毒疑い、外傷、監禁被害あり。救急と警察、至急お願いします」

 声は震えなかった。

 切り取られていない、生きた声だった。

 通報を終えると、二階堂は受話器を置き、少しだけ壁に額を寄せた。

「……やっと、外に言えた」

 鳳が隣で静かに頷いた。

「ええ」

「鳳さん」

「はい」

「建物って、外と繋がってるだけでだいぶ違いますね」

 鳳はほんの少し笑った。

「本来は、そういうものです」

「閉じ込めるためじゃなくて?」

「人を入れて、出すためです」

 二階堂は息を吐いた。

「いいですね、それ」

 鳳は管理室の壁を見た。

 古い図面。

 切断された線。

 開けられた金庫。

 誰かが触れた跡。

「この館は、たぶん長い間、出られなかったんです」

「館が?」

「はい」

 鳳は静かに言った。

「人も、記録も、名前も」

     *

 救急が到着するまでの時間は、長かった。

 真壁彰は玄関広間に残っていた。

 鳴海栞は、壁際に座っている。両手は布で拘束されていた。抵抗しなかった。視線は床に落ちている。十二灯館の灯がすべて消えたあと、彼女の中で張り詰めていたものも切れたようだった。

 御子柴瑠璃子は、床下保管庫から救出され、毛布に包まれていた。

 意識はまだ朦朧としている。脱水と低体温が強い。長時間暗い場所に閉じ込められていたこともあり、目を開けてもすぐに閉じてしまう。

 神楽坂小夜子は、その手を握っていた。

 声はまだ戻らない。

 だが、彼女は瑠璃子の指先を握り、何度も頷いていた。まるで、声の代わりに自分の存在を伝えているようだった。

 九条雅紀は、壁にもたれて座っていた。

 視界はまだ揺れているらしい。目を開けると気分が悪くなるのか、ほとんど閉じている。顔色も悪い。だが、意識は保っている。瑠璃子の呼吸、烏丸鏡花の状態、氷室の傷、小夜子の失声、鳴海の薬物反応。すべてに耳を向けていた。

「九条」

 真壁が呼ぶと、九条は目を開けずに返事をした。

「何」

「気分は」

「最悪」

「それは見ればわかる」

「じゃあ訊くな」

「吐き気は」

「ある」

「視界は」

「お前が二人になった」

「さっき三人だった」

「減った」

「よかった」

「よくない」

 その短いやりとりを聞いて、小夜子が涙の残る顔で少しだけ笑った。

 声は出ない。

 でも笑った。

 それだけで、真壁は胸の奥がわずかに緩むのを感じた。

 九条は、目を閉じたまま言った。

「烏丸さん」

「呼吸は安定してる。救急が来たら最優先で搬送」

「氷室さん」

「意識あり。煙を吸ってる。傷は押さえてる」

「瑠璃子さん」

「意識は薄いが反応あり」

「小夜子さん」

「声はまだ戻らない。だが筆談はできる」

「鳴海さん」

 真壁は少しだけ沈黙した。

「拘束済み」

 九条は小さく息を吐いた。

「死なせるなよ」

「わかってる」

「殺人犯でも、患者だ」

「ああ」

 九条はそれ以上言わなかった。

 死体を読む者が、最後に生きている犯人の命を気にしている。

 それが九条らしかった。

 真壁は鳴海を見た。

 鳴海は顔を上げない。

 床に落ちた赤いモニターの光はもうない。画面は黒く消え、彼女の顔からも、犯人としての輪郭が剥がれていた。

 そこにいるのは、殺人を犯した人間だった。

 そして、ひとつの名前に囚われ続けた人間だった。

 その二つは、混ぜてはいけない。

 だが、切り離しすぎてもいけない。

 真壁はそう思った。

     *

 救急隊と警察が到着したのは、空が白み始める少し前だった。

 湖の向こうから、エンジン音が近づいた。

 その音を聞いた瞬間、玄関広間にいた者たちは一斉に顔を上げた。

 外の音。

 館の中の録音ではない。

 スピーカーでもない。

 モニターでもない。

 反響でもない。

 本物の外から来た音だった。

 小夜子が泣き出した。

 声は出ない。

 けれど、身体が震えていた。

 二階堂が玄関へ向かい、そこで一度だけ振り返った。

「開けます」

 真壁が頷く。

「全員確認。二階堂が玄関を開ける。犯人の指示ではない。外部救助のため」

 鳳が小さく笑った。

「まだ続けるんですね」

 二階堂は扉に手をかけながら言った。

「たぶん、しばらく癖になります」

「悪い癖ではありません」

「鳳さんに言われると、ちょっと安心しますね」

「建物の確認にも似ています」

 二階堂は扉を開けた。

 冷たい朝の空気が、玄関広間に流れ込んだ。

 十二灯館の中に、外の風が入った。

 それだけで、館の呪いの半分がほどけたように感じた。

     *

 搬送は慌ただしかった。

 烏丸鏡花が最優先だった。

 頸椎損傷の可能性があるため、慎重に固定される。救急隊員が声をかけると、烏丸は一度だけ薄く目を開けた。

「……私、ですか」

 掠れた声だった。

 九条が、担架のそばで答えた。

「烏丸鏡花さんです」

 烏丸の目に、涙が浮かんだ。

「私……なんですね」

「はい」

 九条は淡々と言った。

「あなたは、烏丸鏡花さんです」

 その言葉で、烏丸は安心したように目を閉じた。

 名前を戻す。

 それは大げさな儀式だけではない。

 こういう小さな確認でもあった。

 次に、御子柴瑠璃子。

 脱水と低体温、軽い外傷。救急隊員が毛布で包み、酸素を当てる。小夜子は離れようとしなかった。

 二階堂が彼女の前にしゃがむ。

「小夜子さん。瑠璃子さんは搬送されます。一緒に行きたいですか」

 小夜子は強く頷いた。

「声は出なくても大丈夫です。メモを持って。救急隊の人に見せれば伝わります」

 小夜子はパンフレットの余白に震える字で書いた。

 ――一緒に行きたいです。

 二階堂は救急隊員にそれを見せた。

「神楽坂小夜子さんです。失声症状があります。御子柴瑠璃子さんの付き添いを希望しています」

 救急隊員は頷いた。

「わかりました」

 小夜子は何度も頭を下げた。

 声のない礼だった。

 瑠璃子が担架で運ばれるとき、小夜子はその手を握ったままついていった。

 その背中を、鳴海が見ていた。

 泣いてはいなかった。

 涙はもう尽きたようだった。

 ただ、見ていた。

 自分が名前を戻そうとした相手たちが、自分の手ではなく、他人の手によって救い出されていくのを。

 氷室圭吾も搬送された。

 煙を吸った喉、額と腕の傷、肋骨の痛み。担架に乗せられる直前、彼は鳳を呼んだ。

「鳳さん」

「はい」

「館の図面を……」

「書き直します」

 鳳は答えた。

「消されていた場所を、消されたままにはしません」

 氷室の目に涙が浮かんだ。

「お願いします」

「はい」

「私は……守っていたつもりでした」

 鳳は少しだけ沈黙した。

「守ることと、隠すことは似ています」

 氷室は目を閉じた。

「ええ」

「これからは、分けましょう」

 氷室は、深く頷いた。

 鳳は、搬送される氷室を見送ったあと、しばらく玄関広間の柱を見ていた。

 真壁は隣に立った。

「鳳さんも搬送された方がいい」

「そうですね」

「返事が軽い」

「歩けます」

「それは九条と同じで信用できない」

 鳳は苦笑した。

「九条先生と同じ扱いですか」

「怪我人という意味では」

「光栄です」

「光栄じゃありません」

 鳳は少しだけ肩を震わせた。

 笑ったのだと、少し遅れてわかった。

     *

 西園寺雅治、葛城慎一郎、蓮見詩穂の遺体は、警察の到着後、順に検証された。

 九条は医療搬送を勧められたが、しばらく現場に残ると言い張った。

「無理だ」

 真壁が言うと、九条は目を閉じたまま答えた。

「全部は見ない」

「見るな」

「指示だけ」

「搬送されろ」

「最後の確認だけ」

 二階堂が横から言った。

「真壁、諦めた方が早い」

「お前は黙ってろ」

「九条、目を開けなくていいから、項目だけ言って。真壁が見る。俺が記録する。鳳さんが位置を見る」

 九条は頷いた。

「それならできる」

「できるじゃない」

 真壁は言った。

「やるだけ」

「もっと悪い」

 結局、九条は担架に乗せられる前に、最低限の確認項目だけを口にした。

「西園寺さん。刺創の向き。出血の広がり。床板の継ぎ目。死体移動の痕。衣服の乱れ。手指の汚れ」

 真壁が見る。

 二階堂が記録する。

 鳳が床の位置を補足する。

 九条は目を閉じたまま、声だけで死体を読んだ。

 読めなくされた男が、目を閉じてなお、読むべきものを残していく。

 その姿を見て、真壁は少しだけ胸が詰まった。

「葛城さん」

 九条は続ける。

「口元、指先、席札、グラスの縁、ナプキン、椅子の位置。毒は飲料だけじゃない。接触物を全部」

 二階堂が記録する手を止めずに言った。

「席順の写真も残す」

「残せ」

「葛城さんが触った順番も」

「それが大事」

「わかってる」

「わかってるなら言うな」

「確認だよ、確認!」

「うるさい」

 九条の声に、ほんの少しだけいつもの調子が戻った。

「蓮見さん」

 九条は苦しげに息を吸う。

「紙の配置は後置き。口元のビニール片。首元の掻き傷。噴出装置。換気。G七のラベル。第七名の紙片。床の足跡」

「全部押さえる」

 真壁が言った。

「あと、鳴海さんの温室」

「偽装被害」

「そこも」

「死なない量。見つけてもらう位置。白い花弁の粉。噴霧装置。発見時の呼吸」

 二階堂が記録しながら言った。

「“死なないように倒れている”」

「それは俺の所見じゃない」

「名言っぽいから」

「やめろ」

「わかったよ」

 九条は小さく息を吐いた。

「もういい。搬送される」

 真壁は思わず言った。

「遅い」

「うるさい」

 九条は担架に乗せられた。

 搬送される直前、彼は真壁を呼んだ。

「真壁」

「何だ」

「西園寺灯里」

 真壁は黙った。

「名前、間違えるな」

「間違えない」

「死体の名前も」

「ああ」

「犯人の名前も」

「ああ」

「じゃあ、いい」

 九条は目を閉じた。

 救急隊員が担架を運び出す。

 玄関の外、朝の光が少しずつ濃くなっていた。

     *

 鳴海栞は、夜明けの広間で身柄を確保された。

 逮捕という言葉が正式に置かれるには、手続きが必要だった。だが、彼女はもう逃げなかった。

 取り調べに先立ち、彼女は淡々と供述を始めた。

 最初の計画は、殺人ではなかったという。

 二十年前の追悼会を装い、十二の灯を消しながら、当時隠された記録を順に提示する。関係者たちに、自分たちが何を伏せたかを認めさせる。御子柴瑠璃子は、その計画に協力した。

 瑠璃子は、二十年前に西園寺灯里を知っていた。

 正確には、知っていたというより、忘れられなかった。

 灯里は、西園寺家の血を引きながら正式な子として扱われなかった少女だった。事件の夜、彼女は館にいた。だが死後、その存在は都合の悪いものになった。

 身元確認は曖昧に処理され、別の死者の名と入れ替えられた。

 死者の数は六。

 だが名前は七つあった。

 ひとつの名前が、記録から落ちた。

 それが西園寺灯里だった。

 鳴海は、資料整理の過程でその欠落へたどり着いた。

 最初は、ただ戻したかったのだという。

 名前を。

 記録を。

 追悼されなかった死者の場所を。

 だが、資料を読めば読むほど、彼女の怒りは増した。

 西園寺雅治は、当時の親族側の意向を知っていた。

 葛城慎一郎は、行政記録を「混乱防止」として整理した。

 蓮見詩穂は、欠落資料の存在を知りながら、公開しなかった。

 氷室圭吾は直接の当事者ではなかったが、館の保存という名目で、先代からの沈黙を引き継いだ。

 鳴海は、彼らを同じ罪の下に並べた。

 名前を奪った罪。

 だが実際には、それぞれの関与の濃淡は違った。

 直接隠した者もいれば、後から知って黙った者もいる。

 疑っただけで目を逸らした者もいる。

 何も知らず、ただ古い管理方針を継いだだけの者もいる。

 鳴海は、それを同じ灯で照らした。

 同じ罪の名を置いた。

 真壁は、それを聞きながら、黙っていた。

 鳴海のしたことは殺人だった。

 だが、二十年前の記録が正しかったわけではない。

 この事件の難しさは、そこにあった。

 悪が一つなら、物語は簡単に終わる。

 だが実際には、嘘の上に怒りが乗り、怒りの上に殺意が乗り、殺意の上に正義の言葉が被さっていた。

 それを一枚ずつ剥がさなければならない。

 真壁は、だから順番にこだわった。

 順番を間違えれば、誰かがまた別の名前を奪われる。

     *

 事件の構造は、夜が明ける頃にはおおむね整理された。

 第一灯、西園寺雅治。

 彼は、玄関広間で殺されたのではない。

 別の控え室で刺され、死後に玄関広間へ運ばれた。鏡の反射を利用し、広間中央に倒れているように見える位置へ置かれた。目的は二つ。

 一つは、二十年前の発見場面をなぞること。

 もう一つは、床下保管庫の蓋を隠すこと。

 西園寺の血が床板の継ぎ目に流れ込んでいなかったことが、移動を示していた。

 第二灯、葛城慎一郎。

 毒は食事ではなかった。

 席札の縁に塗られていた接触毒が、指先から口元へ移った。水を飲んだ場面を強調することで、犯人は「毒杯」の見立てを完成させた。葛城の反発しやすい性格と、席札を確認せずにはいられない癖が利用された。

 第三灯、烏丸鏡花。

 階段からの転落ではなく、階段の罠による滑落演出だった。

 緩められた絨毯、手すりに仕掛けられた線、床の滑り。殺害ではなく、重傷を負わせて“階段下の少女”に見せることが目的だった。烏丸の「私じゃない」という言葉は、見立ての役を押しつけられた人間の抵抗だった。

 第四灯、蓮見詩穂。

 書庫の換気装置を改造した噴出装置により、彼女は呼吸を奪われた。周囲に散らされた資料は、死後の演出だった。手元に置かれた第七名の紙片とG七の棚札により、彼女は「記録に埋もれる者」とされた。

 第五灯、鳴海栞。

 偽装被害だった。

 温室で使われた薬剤は致死量ではなく、倒れている位置も発見される前提で整えられていた。白い花と霧、外壁灯、温室の湿度は、死を演出する舞台装置だった。

 第六灯、御子柴瑠璃子。

 湖上回廊から沈んだように見えた影は、黒い布と反射によるものだった。瑠璃子は死んでいなかった。彼女は第七保管室へ向かい、二十年前の灯里の資料を取りに行った。だが鳴海の計画が殺人へ変わっていることに気づき、戻れなくなった。結果として、鳴海はその失踪を利用した。

 第七灯、神楽坂小夜子。

 小夜子は薬物と音声で錯乱させられ、自分の声で瑠璃子の名を名乗らされた。声を奪うとは、発声能力を失わせるだけではなかった。自分の声に、自分ではない名前を置くことだった。

 第八灯、氷室圭吾。

 自分の声の録音で誘導され、裏導線に閉じ込められた。館の管理者でありながら、館の中で迷わされた。彼に握らされた第七保管室の鍵は、彼を秘密の管理者として見せるための道具だった。

 第九灯、鳳恭介。

 建物を読む力を逆手に取られた。床の傾き、隠し穴、音響の反射。鳳ならできる、と思わせるために、彼自身が建物に飲まれかけるよう仕組まれた。

 第十灯、九条雅紀。

 薬物で視界と平衡感覚を狂わされ、死体を読む能力を奪われた。彼の所見は切り取られ、館内放送で流された。死体を読む者が、読めない夜に落とされた。

 第十一灯、二階堂壮也。

 言葉を切り取られ、館内放送で命令に変えられた。場を制御するための言葉が、疑惑と誘導の道具にされた。二階堂はそこで、信じろではなく、確認しろという方法へ切り替えた。

 第十二灯、真壁彰。

 最後の犯人役。

 ポケットに入れられた第十二保管室の鍵。死体の下にある床下保管庫。赤いモニターの表示。すべては、真壁に死体を動かさせ、床下を開けさせ、犯人役を完成させるための罠だった。

 だが真壁は触れなかった。

 そして全員の確認を経て、犯人の順番ではなく、彼ら自身の順番で床下保管庫を開けた。

 それが、十二灯館の仕掛けを崩した。

     *

 午前六時過ぎ、湖の向こうに朝日が昇った。

 十二灯館の外壁には、もう灯は点いていない。

 湖面にも、夜の反射は残っていなかった。

 真壁は玄関前に出た。

 救急車両と警察車両の赤色灯が、湖畔で回っている。だがその赤は、館のモニターの赤とは違った。

 外の赤だった。

 誰かを閉じ込めるためではなく、助けるために回っている光だった。

 二階堂が隣に来た。

 顔色は悪い。声も少し掠れている。

「真壁」

「何だ」

「発表文、どうする?」

「もう考えてるのか」

「考えないといけないでしょ」

「少し休め」

「休んだら、館の文章が先に残る」

 真壁は二階堂を見る。

 二階堂の目は疲れていた。

 だが、もう折れてはいなかった。

「そうだな」

「今回の発表文、難しいよ」

「だろうな」

「二十年前の記録の嘘を、今回の殺人の正当化にしない。今回の殺人を理由に、二十年前の嘘をなかったことにしない。鳴海さんの動機を説明しすぎると、殺人に物語がつきすぎる。説明しなさすぎると、灯里さんの名前がまた消える」

「書けるか」

 二階堂は、少しだけ笑った。

「書くよ」

「ならいい」

「ただし、真壁も確認して」

「もちろん」

「九条にも」

「入院先で怒られるぞ」

「鳳さんにも」

「図面の確認か」

「うん」

 二階堂は湖を見た。

「今回は、一人で言葉を置かない」

 真壁は頷いた。

「それがいい」

 二階堂はしばらく黙っていた。

 それから、小さく言った。

「言葉って、怖いね」

「今さらか」

「今さら」

「でも、お前は使うんだろ」

「使うよ」

 二階堂は朝の湖を見たまま言った。

「怖いから、使う」

     *

 鳳恭介は、館の図面を見ていた。

 左肩に応急処置を受け、足首にも包帯を巻かれている。救急隊員に早く搬送されるよう言われているのに、彼はまだ古い図面を手放さなかった。

 真壁が近づく。

「鳳さん」

「すぐ行きます」

「その“すぐ”は信用できません」

「今日の真壁さんは厳しいですね」

「今日だけですか」

 鳳は、わずかに笑った。

 机の上には、二枚の図面が並んでいる。

 一枚は現在の展示図面。

 もう一枚は古い施工図。

 そこに、鳳の筆で新しい線が書き足されていた。

 玄関広間の床下保管庫。

 湖上回廊下の通路。

 第七保管室。

 応接室の壁内空間。

 温室裏の管理通路。

 書庫の換気導線。

 階段の裏。

「消されていた部屋を、書き足したんですね」

 真壁が言うと、鳳は頷いた。

「はい」

「それは証拠になります」

「わかっています」

「館の価値に関わるかもしれない」

「ええ」

「それでも?」

 鳳は静かに図面を見下ろした。

「建物は、見えないところも含めて建物です」

 真壁は黙って聞いた。

「都合のいい部屋だけを見せて、都合の悪い空間を隠すなら、それは図面ではありません。宣伝です」

「厳しいな」

「今日だけです」

 鳳は少しだけ笑った。

 それから、真面目な顔に戻る。

「この館は、人間に嘘をつかされていました」

「ああ」

「でも、嘘をついた建物のまま残す必要はありません」

 真壁は頷いた。

「鳳さん」

「はい」

「建物は嘘をつかないんですよね」

 鳳は少し考えた。

「厳密には、建物は黙っています」

「黙っている?」

「はい。だから人間が、そこに都合のいい物語を置く」

「では、図面は」

「黙っている建物に、必要な言葉を添えるものです」

 鳳は、新しく書き足した線を指でなぞった。

「今度は、隠すためではなく」

     *

 九条雅紀は、搬送される直前まで強がっていた。

「自分で歩けます」

 担架の上でそう言うので、救急隊員が困った顔をした。

 真壁は冷たく言った。

「歩けない」

「歩ける」

「右と左がわからない奴は歩けない」

「今はわかる」

「どっちが右だ」

 九条は一瞬黙った。

 二階堂が横で吹き出しかけ、咳払いで誤魔化した。

「……腹が立つ」

「搬送されろ」

「真壁」

「何だ」

「灯里さんの記録」

「ああ」

「死体の身元確認をやり直す必要がある。二十年前の資料、歯科記録、骨、遺留品、残ってるもの全部」

「手続きは進める」

「名前だけ先に戻すな」

 真壁は九条を見る。

 九条の目はまだ少し焦点が合っていない。

 だが、その声だけははっきりしていた。

「今度は逆をするな。死体と記録を確認してから、名前を戻せ」

 真壁は頷いた。

「わかった」

「でも、呼ぶなとは言ってない」

「どういう意味だ」

「西園寺灯里という名前を、忘れるなという意味」

 真壁は少しだけ黙った。

「ああ」

「二階堂の発表文にも入れろ」

「本人に言え」

「言ったら長くなる」

 二階堂が横から言った。

「聞こえてるし!」

「ならいい」

 九条は目を閉じた。

「あと、真壁」

「まだあるのか」

「お前、最後に床下へ手を伸ばした」

「人命救助だ」

「わかってる」

「何だ」

「順番、守ったな」

 それだけ言って、九条は黙った。

 担架が運ばれていく。

 真壁は、その背中を見送った。

 九条に褒められたのかどうか、最後までよくわからなかった。

     *

 小夜子の声が戻ったのは、病院へ搬送される直前だった。

 完全に戻ったわけではない。

 かすれた、小さな声だった。

 けれど、彼女は確かに自分の声で言った。

「瑠璃子さん」

 担架に乗せられた瑠璃子が、薄く目を開けた。

「……小夜子」

 小夜子は泣きながら頷いた。

「私です」

 その声は、まだ弱い。

 でも、彼女自身のものだった。

「神楽坂小夜子です」

 瑠璃子の目から涙が落ちた。

「うん」

 たったそれだけ。

 だが、二階堂はその場で少しだけ顔を逸らした。

 真壁は気づかないふりをした。

 声を奪われた人間が、自分の名を言い直す。

 この夜において、それは一つの解決だった。

 小夜子は、真壁の方を見た。

「灯里さんの名前」

 かすれた声で言う。

「はい」

「消さないでください」

「消しません」

「瑠璃子さんのことも」

「はい」

「鳴海さんの罪も」

 真壁は少しだけ目を伏せた。

「消しません」

 小夜子は頷いた。

「お願いします」

 その声は、もう誰かに置かれた声ではなかった。

 彼女自身の願いだった。

     *

 鳴海栞が館を出るとき、朝日は完全に昇っていた。

 彼女は警察官に付き添われ、玄関の前で一度だけ足を止めた。

 湖を見たのだ。

 十二灯館の外壁に並ぶ灯は、消えたままだった。

 昼の光の中で見ると、灯は小さな硝子の器にすぎなかった。夜のあいだ、あれほど人の心を支配した光が、朝にはただの設備に戻っている。

 鳴海は、その灯を見ていた。

 真壁は近づいた。

「鳴海さん」

 彼女は振り返る。

 顔色は悪い。

 だが、もう泣いてはいなかった。

「灯里さんの資料は」

「押収します」

「捨てないでください」

「捨てません」

「隠さないでください」

「隠しません」

 鳴海は小さく頷いた。

「私は、間違えました」

 真壁は黙っていた。

「名前を戻したかったのに、名前を使って人を殺しました」

「はい」

「それでも」

 鳴海は湖を見る。

「灯里がいたことだけは、本当です」

「はい」

「それを、嘘にしないでください」

 真壁は、ゆっくり頷いた。

「それは約束します」

 鳴海の目に、また涙が浮かんだ。

「ありがとうございます」

 その礼を、真壁は受け取らなかった。

 受け取るには、死者が多すぎた。

 鳴海は連行されていった。

 その背中は小さかった。

 だが、彼女がしたことまで小さくなるわけではない。

 西園寺雅治は戻らない。

 葛城慎一郎は戻らない。

 蓮見詩穂は戻らない。

 彼女の怒りが本物でも、殺人は消えない。

 真壁は、そのことを胸に置いた。

 怒りと罪を、混ぜないために。

     *

 正午前、十二灯館は完全に封鎖された。

 警察の規制線が張られ、鑑識が入る。床下保管庫、湖上回廊、温室、書庫、食堂、階段、管理室。すべてが、犯人の演出ではなく、警察の手順で調べられていく。

 二階堂は、現地の報道対応に入る前、玄関広間の隅でノートを開いていた。

 真壁が覗くと、見出しだけが書かれていた。

 ――十二灯館事件について。

 その下に、何度も線が引かれている。

「悩んでるな」

「悩むよ」

「いつものことだろ」

「今回は違う」

 二階堂はペンを回した。

「事件名をどうするかでもう揉める。十二灯館連続殺人事件、で済ませたら、灯里さんの名前がまた消える。でも二十年前の身元記録問題を前面に出しすぎると、今回の被害者の死が鳴海さんの動機に吸われる」

「難しいな」

「でしょう」

「でも書くんだろ」

「書くよ」

 二階堂は、ノートに一行書いた。

 ――本件は、十二灯館における連続殺人および傷害・監禁事件であると同時に、二十年前の身元記録の重大な不整合が再発見された事件である。

 真壁はその文章を見た。

「硬いな」

「発表文だからね」

「でも、悪くない」

「珍しく褒めた」

「珍しくない」

「珍しい」

 二階堂は少しだけ笑った。

 それから、次の行を書いた。

 ――捜査機関は、今回の殺人事件と過去の記録不整合を混同せず、それぞれについて確認を進める。

 真壁は頷いた。

「それがいい」

 二階堂はペンを止めた。

「真壁」

「何だ」

「“名前を戻す”って、発表文に書けないんだよ」

「そうだな」

「でも、必要なんだよね」

「なら、別の言い方を探せ」

「たとえば?」

 真壁は少し考えた。

「身元および氏名の再確認」

 二階堂は顔をしかめた。

「硬い」

「発表文だからな」

「今のは仕返し?」

「少し」

 二階堂は、今度はちゃんと笑った。

 疲れた笑いだったが、二階堂自身のものだった。

     *

 夕方、真壁はもう一度だけ湖畔に出た。

 十二灯館は、昼の光の中で見ると、昨夜とはまるで違って見えた。

 湖上に浮かぶ古い館。

 外壁に並ぶ十二の灯。

 玄関広間の大窓。

 湖上回廊。

 温室のガラス。

 どれも、ただそこにあるだけだった。

 夜のあいだ、それらはすべて意味を持っていた。

 人を殺す意味。

 人を疑わせる意味。

 名前を奪う意味。

 過去を暴く意味。

 だが、本来、建物は黙っている。

 意味を置いたのは人間だ。

 鳳の言葉を思い出す。

 建物は、黙っている。

 だから、人間がそこに物語を置く。

 真壁は、湖面を見た。

 水はもう、灯を映していなかった。

 それでも、夜の反射がまだ目の奥に残っている。

 消えたはずの灯が揺れているような気がした。

「真壁」

 声がした。

 二階堂だった。

 少し離れて、九条の搬送先から戻ってきた連絡を確認している。

「九条、検査入るって。命に別状はない。退院するって言い張ってるらしい」

「元気だな」

「元気ではないと思うけど、九条だからな」

「鳳さんは」

「骨折はなさそう。ただし安静」

「できるのか」

「無理じゃない?」

「だろうな」

 二階堂は真壁の隣に立った。

「小夜子さんは?」

「声、少し戻ったらしい。瑠璃子さんも意識戻った。まだ詳しい聴取は無理だけど」

「そうか」

「氷室さんも搬送先で安定。烏丸さんは重傷だけど、命は繋がってる」

 真壁は息を吐いた。

「全員、無傷では出られなかったな」

「うん」

 二階堂は湖を見た。

「でも、全員が死んだわけじゃない」

「ああ」

「それは、かなり大きい」

 真壁は頷いた。

 この事件は、完全な勝利ではない。

 死者がいる。

 傷ついた者がいる。

 鳴海の罪は消えない。

 二十年前の嘘も消えない。

 だが、生きて出られた者がいる。

 名前を取り戻した者がいる。

 声を取り戻しつつある者がいる。

 図面に書き足される場所がある。

 発表文に残される名前がある。

「二階堂」

「何」

「灯里さんの名前、発表文のどこに入れる」

「最後じゃない」

 二階堂は即答した。

「最後に入れると、余韻になる。余韻にしたくない」

「じゃあ」

「中盤。事実関係として入れる。二十年前の身元確認に不整合があり、西園寺灯里さんという名前が記録から落ちていた可能性がある。現在、身元および氏名の再確認を進めている、って」

「いいと思う」

「ありがとう」

「それから」

「うん」

「今回の死者三名の名前も、同じ重さで」

 二階堂は真壁を見る。

「もちろん」

「鳴海さんの動機に吸わせるな」

「わかってる」

「鳴海さんの罪も、二十年前の嘘に吸わせるな」

「それも、わかってる」

 二階堂は小さく息を吐いた。

「真壁ってさ」

「何だ」

「たまに広報より広報っぽいこと言うよね」

「やめろ」

「褒めてる」

「なお悪い」

 二階堂は笑った。

 その笑い声は、湖に吸われていった。

 館内放送ではない。

 録音でもない。

 切り取られていない、ただの笑い声だった。

     *

 帰り際、真壁は振り返った。

 十二灯館の外壁には、十二の灯が並んでいた。

 もう点いていない。

 灯が消えたあと、そこに残るのは器だけだ。

 光を入れられるのを待つ、空の器。

 真壁は思った。

 灯は、罪を照らすこともある。

 嘘を暴くこともある。

 だが、灯そのものが正しいわけではない。

 誰が点けたのか。

 何を照らしたのか。

 何を照らさなかったのか。

 それを見なければならない。

 鳴海栞は、灯を使って罪を照らそうとした。

 だが彼女は、灯の下に新しい死体を置いた。

 それは、照らすことではなかった。

 名前を戻すために、別の名前を奪うことだった。

 真壁は、湖面を見た。

 昼の水は、もう何も映していないように見えた。

 だが、よく見ると、館の影が薄く揺れている。

 完全には消えない。

 何かがあった場所は、何もなかった場所には戻らない。

 ならば、戻すべきなのは過去ではない。

 記録だ。

 名前だ。

 そこにいた人間が、そこにいたとわかる形。

 真壁は歩き出した。

 二階堂が隣に並ぶ。

 遠くで、救急車のサイレンが小さく鳴った。

 湖の上を、朝ではなく昼の風が渡っていく。

 十二の灯は、もう点いていなかった。

 だが真壁には、消えたはずの灯が、どこかでまだ揺れているように思えた。

 本物ではない。

 反射でもない。

 誰かがそこにいたという、消しきれなかった名前の残り火だった。

 その火を、もう誰にも勝手に置かせない。

 もう誰にも、勝手に消させない。

 真壁はそう思い、湖に背を向けた。

 了



真壁・二階堂・九条 登場作品

『雪桜の教室は、誰の子を埋めたのか』

https://ncode.syosetu.com/n1156mf/


鳳恭介 登場作品(5/20より投稿開始)

https://mypage.syosetu.com/3046131/

『七禍島、鳳恭介の帰還』

『首狩り温泉郷の十三階段』

『鳳恭介の不在証明』

『青燐荘の十三人目』

など

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