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十二灯館は、誰の罪を照らすのか  作者: 綾見 恋太郎


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第一章 招待状と湖上館

 十二灯館では、灯が消えるたびに人が傷ついた。

 死ぬ者がいた。

 消える者がいた。

 名を奪われる者がいた。

 自分が誰であるかを証明できなくなる者もいた。

 その夜、最初に消えたのは、玄関広間に近い灯だった。

 古い洋館の外壁に吊るされた十二の灯のうち、ひとつだけが、音もなく暗くなった。

 電球が切れたような唐突さではない。

 炎が風に吹かれて消えたような弱々しさでもない。

 そこにあった光を、誰かが指先でつまみ上げ、闇の中へしまったような消え方だった。

 真壁彰は、その瞬間を見ていた。

 見ていたはずだった。

 けれど、あとになって何度も考え直すことになる。

 あのとき自分は、本当に灯が消えるところを見たのか。

 それとも、灯が消えたと全員が思い込むための何かを、見せられただけなのか。

 玄関広間の鏡の中に、赤いものが映っていた。

 実物よりも鮮やかな赤だった。

 広間の中央に死体があるように見えた。

 胸から血を流し、顔をこちらへ向けた男が、あらかじめそこに置かれていたかのように倒れていた。

 だが、実際の死体は中央にはなかった。

 柱の影に近い、わずかにずれた位置にあった。

 鏡だけが、そのずれを消していた。

 誰かが言った。

「西園寺さんは?」

 死体を見るより先に、名前が置かれた。

 そのことに気づいたとき、真壁は初めて、この館の恐ろしさを理解した。

 人を殺すことよりも、殺された人間をどう見せるか。

 誰が、どの順番で、何を見て、どの名前を口にするか。

 犯人はそこまで設計していた。

 だから真壁は、最初の死体の前で一歩も動かなかった。

 動けば、その動きさえも、犯人の用意した順番に組み込まれる気がしたからだ。

 十二灯館では、灯が消えるたびに人が傷ついた。

 そして最後の灯が消えたとき、真壁彰自身の名前が、犯人として置かれた。

 だが、その夜の始まりには、まだ誰も知らなかった。

 十二の灯の中に、犯人自身のための灯も混じっていることを。

     *

 湖は、夜になると深さを増す。

 実際に水位が変わるわけではない。

 水面がほんの数センチ高くなるわけでも、底が急に遠ざかるわけでもない。

 だが岸を離れ、小型船が闇の中へ進むにつれて、真壁彰にはいつもそう感じられた。

 昼間ならただの水面に見えるものが、夜になると底を隠した黒い板になる。

 今夜のように風が細かく波を立てていると、その板は絶えず皺を寄せ、そこに映ったものまで本物のように揺らめかせた。

 船首が波を割るたび、小さな飛沫が黒い空気の中へ散った。

 背後の岸辺の灯は、少しずつ遠のいていく。

 代わりに、前方の闇の中から古い洋館が輪郭を現し始めていた。

 十二灯館。

 招待状に記されたその名を、真壁は昼のうちから何度も見ていた。

 厚手の紙。

 銀の箔押し。

 差出人の名はない。

 あるのは日時と場所、それから短い文面だけだった。

 ――追悼と検証のため、どうかお集まりください。

 ――あの事件を、終わったことにしないために。

 礼を尽くした文章だった。

 だが、丁寧すぎるとも思った。

 追悼。

 検証。

 関係者。

 使われている単語はどれも正しい。

 正しいからこそ、真壁には引っかかった。

 人は本当に悼むとき、ここまで言葉を整えるだろうか。

 言葉を整えすぎる人間は、ときどき死者ではなく、生きている者の視線を気にしている。

 真壁は船の縁に片手を置き、前方の館を見た。

 湖へ突き出た岩場の上に、古い洋館が建っている。

 中央棟を軸に左右へ翼棟が伸び、さらに湖面へせり出すように細い回廊と温室棟が接続されていた。

 正面から見れば端正だ。

 尖塔めいた飾り。

 急勾配の屋根。

 均整の取れた窓列。

 だが近づくほど、その端正さは崩れていく。

 左右の翼棟で窓の幅が違う。

 石材の色も揃っていない。

 階の高さも、微妙にずれている。

 どこかで継ぎ足し、どこかで削り、どこかで隠し、そのたびに見た目だけを整え続けてきた建物だった。

 正面の顔は整っている。

 だが骨格は整っていない。

 真壁は、そういうものが嫌いだった。

 隠すために整えられたものは、あとから必ず人を誤らせる。

「十二、か」

 誰に聞かせるでもなく呟くと、背後で声が返った。

「数えた?」

 二階堂壮也だった。

 コートの前を開けたまま、寒さを気にしていない顔で立っている。

 こういう場所で必要以上に平然として見えるのは、この男の癖だった。

 平然としているのではない。

 平然として見える位置に、自分を置いている。

「招待状にも書いてあっただろ。館の名は、事件の夜に灯っていた十二の灯から取ったって」

「追悼にしては趣味が悪い」

「追悼なら、もう少しさりげなくやるよな」

 二階堂は館を見上げ、薄く笑った。

「こういうのは追悼じゃない。見せ物だ」

「お前は何でもそう見る」

「今回は自信あるよ。あの文章も嫌だったし」

「文章?」

「“あの事件を、終わったことにしないために”。いかにも正しい。誰も反論できない。でも、誰が、どういう立場で言ってるのかが書いてない。そういう文章、だいたい碌なことにならない」

 真壁は答えなかった。

 答える代わりに、館の灯を数えた。

 外壁に沿って、一定の間隔で十二の灯がともっている。

 ひとつひとつは同じ形に見える。

 だが船が近づくにつれ、ガラスの古さや金具の色が少しずつ違うことがわかった。

 古いものをそのまま残しているのではない。

 古いように見せるために、直し続けてきた灯だ。

 そして、湖面にもその灯は映っていた。

 黒い水の上で、十二の灯は倍になる。

 十二ではなく、二十四。

 もちろん反射だ。

 誰でもそう考える。

 けれど今夜の湖は風で細かく揺れているのに、灯の列だけは妙に消えなかった。

 上下に伸び、歪み、ときおり実物よりも明るく見える。

 館そのものより、湖面に沈んだ館のほうが大きく見える瞬間すらあった。

「二十四に見えるな」

 真壁が言うと、二階堂は少し眉を上げた。

「縁起でもないこと言うね」

「ただの反射だ」

「ただの反射って言葉、こういう場所だと一番信用できないやつだよ」

「お前は何でもそう言うだろ」

「今のは本気」

 二階堂は湖面を見た。

 波に揺れる灯の列が、館の下にもうひとつ別の館が沈んでいるように見える。

「湖って嫌だな」

「何で」

「映るから。映ったものを見た人間は、それを“見た”って思う。本物を見たのか、反射を見たのか、その場では区別しない」

 真壁は二階堂を見た。

「珍しくまともなことを言うな」

「失礼だな。俺はいつもまともだよ」

「自分で言うな」

 そのとき、船室の明かりの下で紙を見ている人物が目に入った。

 九条雅紀は、招待状と同封資料を膝の上に広げたまま、ほとんど身じろぎもせずに目を走らせていた。

 風で紙の端が揺れても、手元はぶれない。

 周囲が落ち着かないほど、この男はかえって静かになる。

「まだ見てんのか」

 真壁が声をかけると、九条は顔を上げないまま答えた。

「見ている」

「何がわかる」

「わかるっていうより、気になる」

「死体もないのに?」

「死体の話はしてない」

 九条は一枚の紙を軽く持ち上げた。

 二十年前、この館で起きた一家惨殺事件の概要だった。

 館の所有者一族と関係者を含む六名が死亡。

 犯人は不明。

 事件後、関係者による説明と警察発表が行われ、公式記録として一応の時系列が残された。

 真壁も読んでいた。

 玄関広間。

 食堂。

 階段下。

 書庫。

 温室。

 湖上回廊。

 六つの死亡位置が、図面上に赤く記されている。

 二階堂が九条の手元を覗き込んだ。

「どう?」

 九条は少し考えてから言った。

「整理がうまい」

「褒めてるのか、けなしてるのか微妙だな」

「時系列が整いすぎている」

「整ってるならいいだろ」

「整い方が変なことがある」

 真壁は九条の横顔を見た。

「何が変だ」

「死体の位置の説明がきれいすぎる」

「死体の位置?」

「うん」

 九条は紙面へ視線を戻す。

「死因や損傷の記述より、どこで、どう見つかったかのほうが詳しい」

「発見位置が重要な事件だったんじゃないのか」

「そういう可能性もある。でも普通は逆だ。死因や所見が先に来る。位置は補助だよ」

「おまえ、それをこの紙一枚で言ってるのか」

「この紙一枚だから、言えることもある」

 九条はそこでようやく顔を上げた。

 色素の薄い目は相変わらず淡々としていたが、視線だけは紙の外の何かを見ている。

「誰かが、説明しやすい形に寄せた感じがする」

 二階堂が小さく息を吐いた。

「景気の悪いこと言うなあ」

「着いてからもっと言うと思う」

「最悪だな」

 九条は気にした様子もなく、もう一枚の紙をめくった。

 館内見取り図だった。

 方位記号と縮尺、各室の名前、そして六つの赤い印。

 真壁は、その図面の向きに違和感を覚えた。

 船から見えている館と、紙の上の館が、うまく重ならない。

 図面は必ずしも実際の視界と同じ向きに描かれるものではない。

 北を上にすることもあれば、正面入口を下にすることもある。

 だが、その程度の違和感ではなかった。

 湖上回廊の位置が、外から見ている印象と少し違う。

 温室棟の角度も、紙の上では整いすぎている。

 船が近づくにつれ、そのずれはむしろ大きくなった。

「この図面、向きが変じゃないか」

 真壁が言うと、九条は紙を持ち上げた。

「そう?」

 二階堂も覗き込む。

「方位記号はあるけど、見やすさ優先で回してるのかもね」

「それならいい」

「よくなさそうな顔してるけど」

 真壁は返事をしなかった。

 図面が間違っているとは言えない。

 まだ館の中に入ってもいない。

 だが、外から見た館と紙の上の館がぴたりと重ならないことは気になった。

 建物そのものが継ぎ足しで歪んでいるのか。

 図面が簡略化されているのか。

 それとも、自分たちが見ている“正面”が、そもそも正面ではないのか。

 そのとき、少し離れた席から低い声がした。

「たぶん、正面が二つあるんです」

 真壁たちはそちらを見た。

 窓際に座っていた男だった。

 三十歳前後に見える。

 黒に近いグレーのコートを膝に畳み、手元には招待状と、細かな書き込みの入った館内図がある。

 髪は柔らかく整えられていて、顔立ちも穏やかだった。

 人に警戒心を抱かせないタイプの外見だ。

 だが、視線だけが違った。

 人ではなく、建物の継ぎ目を見ている目だった。

 二階堂が笑顔を作った。

「すみません。盗み聞きさせちゃいました?」

「いえ。聞こえてしまっただけです」

 男は軽く頭を下げた。

「鳳恭介です」

 真壁も名乗った。

 二階堂、九条も続く。

 鳳は九条の名前を聞いたときだけ、ほんの少し目を細めた。

「九条雅紀さん。もしかして、京東大学の」

「法医学教室にいます」

「やはり。同じ大学です。僕は工学部建築学科の准教授をしています」

 二階堂が九条を見た。

「知り合い?」

「いや。面識はない。学部が違う。キャンパスも端と端だ」

「大学って広いもんな」

 二階堂が言うと、鳳は柔らかく笑った。

「法医学教室の方と建築学科では、普通は接点がありません。あれば、むしろ何か起きている時です」

「今みたいに?」

 二階堂の言葉に、鳳は少し困ったような顔をした。

「そうならないといいのですが」

 柔らかい返答だった。

 だが真壁は、鳳の手元を見ていた。

 招待客に配られたものと同じ見取り図に、すでに線が何本も引かれている。

 赤印ではない。

 壁の厚み。

 増築部の接続。

 回廊の角度。

 湖面側の支柱の位置。

 まだ館へ入ってもいない段階で、鳳は紙の上にもうひとつの館を作り始めていた。

「正面が二つある、というのは?」

 真壁が訊くと、鳳は湖上の館へ視線を戻した。

「あの館はたぶん、最初から湖に向けて建てられたものではありません。陸側に正面玄関を持つ古い建物に、湖側の見せ場をあとから継ぎ足している。つまり本来の正面と、見せるための正面が違うんです」

「見せるための正面」

「はい。こういう館ではよくあります。生活のための顔と、客を迎えるための顔と、写真に撮られるための顔が違う」

 鳳はそこで一度言葉を切った。

「ただ、ここは少し極端です」

「何が」

「湖側の見え方を優先しすぎている。大窓も、回廊も、灯の配置も。中にいる人間のためというより、外から見たときにどう見えるかを先に考えている」

 二階堂が小さく笑った。

「見せ物ってこと?」

「言葉を選ばなければ」

 鳳はにこりとした。

「そうですね」

 その笑みは柔和だった。

 柔和すぎて、かえって何を考えているのかわからない。

 九条が紙から目を上げた。

「鳳先生は、ここへ来たことがあるんですか」

「ありません」

「ずいぶん詳しく見える」

「建物は、初対面でもある程度は話してくれます」

 二階堂が感心したように言った。

「九条みたいなこと言う人が増えた」

「俺は建物とは話さない」

 九条が即座に言った。

「死体とは?」

「話さない。読むだけ」

「ほら、似てる」

 鳳はそのやり取りを聞いて、少しだけ楽しそうに目を細めた。

「建物も同じです。話してはくれません。ただ、隠し方に癖が出る」

 その言葉で、真壁は鳳を見直した。

 隠し方。

 まだ誰も、何かが隠されているとは言っていない。

 にもかかわらず、鳳は当然のようにその言葉を使った。

 柔和な男だ。

 声も穏やかで、他人を押しのけるようなところはない。

 だが、見ているものが違う。

 真壁はそう判断した。

 船が岸壁へ近づいた。

 館の輪郭がさらに大きくなる。

 石積みの岸壁。

 古びた係留柱。

 濡れた石段。

 灯に照らされた範囲だけがわずかに現実で、その外はすぐ闇だった。

 操船していた無口な男が先に降り、ロープを固定する。

 出迎えはない。

 館から誰かが降りてくる様子もなかった。

「歓迎されてる感じ、薄いな」

 二階堂が言った。

「追悼会だからな」

「追悼会って、普通もうちょっと人を人として扱うよ」

 順に船を降りる。

 石段を上がると、玄関へ向かう回廊の左右にガラスで覆われた灯が並んでいた。

 ひとつひとつは同じ意匠に見えるが、近くで見ると微妙に古さが違う。

 補修されたもの。

 金具だけ新しいもの。

 ガラス面に薄い傷が残るもの。

 十二の灯は、均一に見えるよう整えられているだけで、実際には同じではない。

 そのことに気づいた瞬間、真壁は少しだけ不快になった。

 死者を悼むための灯というより、死者を並べるための灯に見えたからだ。

 鳳はその灯の前で一瞬だけ足を止めた。

 灯そのものではなく、灯を支える金具の根元を見ている。

「何か?」

 真壁が訊くと、鳳は顔を上げた。

「古いものと新しいものが混ざっています。見た目は揃えているけれど、内部はかなり交換されている」

「それが問題か」

「問題というほどではありません。ただ、灯の位置を保存しているというより、灯の位置だけを保存しているように見える」

 二階堂が腕を組む。

「違うの?」

「違います。物を保存するのと、位置を保存するのは」

 鳳は湖面側の暗がりを見た。

「前者は記憶を残す行為です。後者は、配置を残す行為です」

 その言葉を聞いて、九条が小さく反応した。

「死体の位置と同じですね」

 鳳は九条を見た。

「死体の?」

「死因より、どこにあったかを残す。死者より、配置を残す」

 鳳の表情が、一瞬だけ止まった。

 すぐに柔らかい顔へ戻る。

「なるほど。法医学の方は、そう見ますか」

「建築の方は?」

「僕なら、動線を見ます」

「動線?」

「そこに何かが置かれているなら、それは誰かがそこへ運んだか、そこで何かが起きたかのどちらかです。建物は、そのどちらを許したかを見ます」

 真壁は、鳳の横顔を見た。

 人が死んだ場所を前にしているわけでもないのに、鳳の言葉は妙に冷えていた。

 柔和な知的さの奥に、別のものがある。

 そう思った。

 玄関扉の前で、ようやく館の人間が現れた。

 氷室圭吾と名乗った男は四十代前半ほどで、痩せた体に黒いスーツをきっちり着込んでいた。

 館の現管理責任者だという。

 表情の作り方も声の調子も間違っていない。

 だが、間違っていないことそれ自体が、この男の本音を見えにくくしていた。

「ようこそお越しくださいました。お待ちしておりました」

 氷室は深く頭を下げる。

「今夜は追悼と検証のための場です。どうか穏やかに、お過ごしいただければと思います」

「穏やかに過ごすための場所には見えないな」

 真壁が言うと、氷室は一瞬だけ表情を止めた。

 だがすぐに笑みの形へ戻す。

「そのように感じられる方も、いらっしゃるかもしれません」

「物騒な会話だこと」

 二階堂が横から口を挟んだ。

 氷室はそれには答えず、扉を開いた。

 館内へ一歩入った瞬間、空気が変わった。

 暖かい。

 だが、ただ暖かいのではない。

 温度が均一すぎる。

 人が出入りしている館の空気ではなく、管理された空気だ。

 余計な匂いが少ない。

 木の匂いも、暖炉の匂いも、花の匂いも、全部が薄く抑えられている。

 そのくせ、どこかに古い紙と乾いた布の匂いが残っていた。

 玄関ホールは高い天井を持つ吹き抜けで、正面の階段が二階へ伸び、その左右へ廊下が分かれていた。

 壁には大きな鏡と古い額装写真、そして二十年前の事件に関する展示パネルが整然と並んでいる。

 整然と、というのが問題だった。

 追悼の場のはずなのに、ここには悲しみより順番がある。

 鏡が大きすぎるのも気になった。

 玄関広間の壁に据えつけられた姿見は、装飾というには実用的すぎ、実用というには場所がよすぎた。

 入口から一歩入ると、ホール中央と広間の奥が同時に映り込む。

 角度によっては、広間の中央にあるものが玄関正面にあるようにも見える。

 真壁は鏡の前を通り過ぎながら、わずかに眉を寄せた。

「また嫌な顔してる」

 二階堂が言う。

「鏡が嫌いなだけだ」

「嘘つけ」

 九条は鏡ではなく、床を見ていた。

「絨毯、新しいところと古いところがある」

「そこまで見るのか」

「見るよ」

「何で」

「古い建物は、床がいちばん嘘をつかない」

 二階堂が感心したように言った。

「九条、名言っぽい」

「名言じゃない。普通」

 鳳もその横で、床を見ていた。

 真壁は気づいた。

 九条は床の汚れや擦れを見ている。

 人がどこを歩いたか、何を運んだか、そこに痕跡が残っているかを見る目だ。

 一方で鳳は、床そのものを見ている。

 継ぎ目、傾き、沈み、材の替わり目。

 人間の行動ではなく、建物の記憶を読んでいる。

 似ているが、違う。

 だからこそ危うい。

「鳳さん」

 真壁が声をかけると、鳳は顔を上げた。

「はい」

「この館、どう見えますか」

 鳳はすぐには答えなかった。

 玄関ホール、階段、鏡、展示パネル、床、天井、廊下の奥。

 順に見てから言った。

「人を迷わせる建物ではありません」

「意外だな。複雑に見えるが」

「複雑です。でも、迷わせるために複雑なのではない。見せたいものへ誘導するために複雑なんです」

 二階堂が口元を引き上げた。

「つまり?」

「客が自然に、展示パネルと鏡を見るようになっている」

 真壁は鏡を見た。

 確かにそうだった。

 玄関から入ると、正面に階段がある。

 だが視線は鏡へ吸われる。

 鏡の中には、背後の扉、横の展示、奥の広間が同時に映る。

 見るつもりのなかったものまで、見せられる。

「よくできています」

 鳳は柔らかく言った。

「嫌な意味で」

 そのとき、展示室側から女が現れた。

 鳴海栞と名乗った。

 三十代前半ほど。

 館の資料整理を担当しているという。

 柔らかい顔立ちだが、目の奥に疲れがある。

 事件そのものにではなく、事件にまつわる“何か”を長く見続けてきた人間の目だった。

 腕には薄い傷があった。

 古い紙で切ったような、細い線が何本も残っている。

 鳴海はそれを隠すように、資料ファイルを胸に抱えた。

「資料展示の案内を担当しております」

 鳴海はそう言って頭を下げた。

「皆さまがお着きになりましたので、まずは簡単に館内のご説明を」

 声は落ち着いていた。

 だが「資料」という言葉を口にしたときだけ、わずかに硬くなった。

 まるで資料というものが、ただの紙ではなく、守るべき遺体であるかのようだった。

 そのあと、招待客たちが順にホールへ集まってきた。

 西園寺雅治は、最初からここが自分の場だという顔をしていた。

 六十に近い年齢だが、服装も髪もよく整えられている。

 名目上、この追悼会の中心人物だと紹介されても、いかにもそうだと納得できる風体だった。

 そのこと自体が、真壁には不快だった。

 悲劇の中心へ、自分から座りに行く人間の顔をしている。

「展示の順序は、事前に確認した通りでよろしいですね」

 西園寺は鳴海に向かって言った。

 確認というより、念押しだった。

 鳴海は一瞬だけ目を伏せた。

「はい。西園寺様のお名前は、冒頭の挨拶文に記載しております」

「名前は正確に。肩書もね」

「承知しております」

 鳴海の声は丁寧だった。

 丁寧すぎて、そこだけ温度が消えていた。

 御子柴瑠璃子は、その少し後ろに立っていた。

 喪の色に近い黒を着て、胸元に小さなブローチだけを差している。

 派手さはない。

 だが目を引かないわけでもない。

 遺族側の顔として、ここにいるのが自然な女だった。

 表情は静かで、悲しんでいるとも、もう悲しみを通り越しているとも見える。

 その隣に、神楽坂小夜子がいた。

 瑠璃子に付き添うような位置取りだった。

 似ている、とまでは言えない。

 だが喪服の輪郭、髪のまとめ方、背格好、首の長さ、横顔の線。

 灯りの下では、距離によっては混ざりそうな近さがある。

 顔立ちは違う。

 だが、黒い服と薄い化粧、まとめた髪、伏せがちな目線が重なると、遠目には印象が近くなる。

 特に館の照明は、正面から顔を照らさない。

 陰影が先に立ち、細部はあとから遅れてくる。

 葛城慎一郎は、行政資料を扱ってきた人間らしい乾いた身のこなしで、場の空気を測る前に自分の位置を定めるタイプに見えた。

 挨拶より先に、配布資料のページ番号を確認している。

「この資料、公開範囲は整理済みなんでしょうね」

 誰にともなく言った声が、ホールに少し硬く響いた。

 蓮見詩穂は展示パネルの説明文に目を留めていた。

 鳴海と同じ種類の“資料を見る人”の空気を持っている。

 ただし、鳴海が資料を抱えるように読むのに対し、蓮見は距離を置いて読む。

 研究者の目だった。

 烏丸鏡花は一番若く見えた。

 ここにいるには少し細く、少し白く、だからこそ二十年前の「少女」の記憶を呼びやすい。

 寒いのか、緊張なのか、両手を胸の前で握っていた。

 最後に朽木怜二が姿を見せた。

 法的整理にあたっている立場だという。

 弁護士そのものではなく補佐役に近いと言っていたが、言葉の選び方にはすでに“文面にして残す人間”の癖があった。

「記録に残る場ですから、感情的な発言は控えた方がいいでしょう」

 到着してすぐにそう言ったせいで、二階堂が小さく鼻で笑った。

「記録に残す前提なんだ」

 朽木は聞こえなかったふりをした。

 真壁は人数を数えた。

 十二人。

 真壁、二階堂、九条、鳳。

 西園寺、瑠璃子、小夜子、葛城、蓮見、烏丸、氷室、鳴海、朽木。

 一瞬、数が合わない気がした。

 いや、合っている。

 合っていないのではない。

 数え方が揺れているのだ。

 招待客を数えるのか。

 館の側の人間を数えるのか。

 関係者を数えるのか。

 証言者を数えるのか。

 十二という数は、置き方で簡単に変わる。

 そのことが、妙に嫌だった。

 全員が揃ったところで、氷室がホール中央へ立った。

「改めまして、本日はお越しいただきありがとうございます。ここ十二灯館は、二十年前の事件以後、長く閉ざされておりました。しかし、事件をただ封じたままでは、残されたものは整理されません。本日は、追悼と検証を兼ねた小さな集まりとして、関係者の皆さまをお招きしております」

 小さな、という言葉に二階堂がわずかに口元を歪めた。

「まずは展示室にて、当時の公式記録と現在までに整理された資料をご覧いただきます。その後、簡単な会食の時間を設けます。館内では、館の名の由来にもなっております十二の灯を、今夜も当時と同じ位置に灯しております」

 当時と同じ位置。

 真壁はその言葉に、わずかに引っかかった。

 同じ灯を灯すのではない。

 同じ位置に灯す。

 氷室がそう言うと、鳴海が展示室側のパネルの前へ進み、説明を引き継いだ。

 その動きは慣れていた。

 館の展示準備を任されている者の動きだった。

 モニターのリモコンを押し、照明を少し落とし、図面の前に立つ。

 足元の配線を避ける癖が自然についている。

 この館に、何度も入っている。

 この展示を、何度も試している。

 真壁はそう見た。

「二十年前の事件では、館内で六名の死者が確認されました」

 鳴海の声は静かだった。

「玄関広間、食堂、階段下、書庫、温室、そして湖上回廊。それぞれの死亡位置は、当時の見取り図に記録されています」

 壁に掲げられた大判の図面へ、全員の視線が向く。

 赤い印が六つあった。

 真壁は、説明を聞く前からその並びが嫌だった。

 綺麗すぎるのだ。

 館全体に散っているのに、散らばり方にどこか意味がありすぎる。

 玄関広間、食堂、階段下、書庫、温室、湖上回廊。

 入口、日常、転落、記録、温室、湖。

 まるで人間が死んだ場所ではなく、悲劇の順路のようだった。

「こちらが当主の死亡位置。こちらが当主夫人。こちらが長男。こちらが使用人。こちらが客人。そしてこちらが……」

 鳴海は最後の赤印に触れた。

 ほんの一瞬、指先が止まった。

 止まったというより、触れたまま離れなかった。

 紙の上の赤い点を、押さえつけるような仕草だった。

「少女の死亡位置です」

 湖上回廊。

 九条がわずかに眉を寄せたのを、真壁は見た。

 鳳は図面そのものではなく、図面の余白を見ていた。

 方位記号。

 縮尺。

 凡例。

 増築部の線の太さ。

 赤印の位置。

 そのどれかが、彼の中で何かに触れたらしい。

 けれど鳳は何も言わなかった。

 言わないことが、かえって気になった。

 鳴海はさらに続ける。

「十二の灯は、あの夜に失われたものを忘れないための灯として、事件後に保存されました。今夜は、当時と同じ順に点灯しております」

「順、ね」

 二階堂が誰にも聞こえない程度に呟く。

 真壁は図面から目を離さずにいた。

 玄関。

 食堂。

 階段。

 書庫。

 温室。

 湖上回廊。

 死体の位置ばかりが綺麗に並ぶ。

 そのくせ、死因や時間経過の説明は薄い。

 九条が真横で小さく息を吐いた。

「どうした」

 真壁が訊くと、九条は図面から目を離さないまま言った。

「死体の置き方としては、整いすぎてる」

「置き方?」

「死因の説明より、どこでどう見つかったかのほうが詳しい。普通は逆だ」

「またそれか」

 二階堂が小さく言う。

「お前、その紙の上の死体ばっかり気にしてるな」

「紙の上の死体だから、余計にだ」

 九条はそこで初めて顔を上げた。

「これ、死んだ順じゃない」

 誰にも聞こえないはずの声だった。

 だが真壁には、はっきりと聞こえた。

 その言葉だけが、館の空気のどこかに引っかかったまま残った。

 展示室の窓ガラスには、ホールの灯が映っている。

 ガラスの向こうにいるはずのない人影が、角度によっては二人にも三人にも見えた。

 瑠璃子と小夜子の黒い服が、そこに重なって映る。

 ほんの一瞬、どちらがどちらなのかわからなくなる。

 真壁は瞬きをした。

 ガラスの中の二人は、すぐに分かれた。

 だが、その一瞬の曖昧さだけが、妙に長く残った。

 鳴海の説明は続いている。

 二十年前の経緯。

 発見順。

 保存された灯。

 関係者の証言。

 公式記録。

 どれも、過不足なく整っていた。

 整いすぎていた。

 真壁はもう一度、湖上回廊の赤印を見た。

 そこに少女がいた。

 そう記録されている。

 そこに死体があった。

 そう説明されている。

 そこに灯があった。

 そう保存されている。

 だが、誰が最初にその名前を置いたのか。

 誰が最初に、その死体をその人間だと決めたのか。

 その問いだけが、説明の中から抜け落ちていた。

 鳴海がページを一枚めくった。

 資料ファイルの端で、彼女の指が小さく切れた。

 ほんの細い赤い線だった。

 鳴海はそれを見ると、すぐに指を握り込んだ。

 誰にも見られたくないというより、紙に血を落とすことを恐れたような仕草だった。

「紙は、汚れると戻りませんから」

 鳴海は誰に言うでもなく呟いた。

 二階堂が一瞬だけ彼女を見た。

 真壁も覚えておくことにした。

 ふと、鳳が小さく言った。

「この図面、少し白すぎますね」

 真壁は振り向いた。

「白い?」

「ええ。人が暮らしていた建物の図面にしては、余白が多すぎる」

「どういう意味だ」

「増築跡、保守導線、配膳用の裏動線、灯の管理口。そういうものが描かれていない。正式な来客用図面なら珍しくありませんが、事件検証用としては情報が抜けています」

 二階堂が目を細めた。

「抜けてるっていうより、抜いてる?」

 鳳はすぐには答えなかった。

 ただ、柔らかい声で言った。

「図面は、建物そのものではありません。誰かが、何を見せたいかです」

 その一言で、空気の温度がほんの少し下がった気がした。

 氷室がこちらを見た。

「何か、ご不明な点が?」

 鳳は穏やかに微笑んだ。

「いえ。大変よく整理された資料だと思います」

 褒め言葉だった。

 だが、真壁にはそう聞こえなかった。

 九条も同じだったのだろう。

 鳳の横顔を一度見て、それから図面へ視線を戻した。

 二階堂だけが、小さく息を吐いた。

「やっぱり碌なことにならなそうだな」

 誰も答えなかった。

 そのとき、館のどこかで微かな音がした。

 金属が触れ合うような音だった。

 窓の揺れか、暖房設備か、古い配管か。

 誰かが足を止めたわけではない。

 説明は続いている。

 人々は図面を見ている。

 だが真壁は顔を上げた。

 音は、右手の廊下から聞こえたように思えた。

 次の瞬間には、左の階段奥から聞こえたようにも思えた。

 声や音の向きが、この館では信用できない。

 さっき鳳が言った言葉が、頭の中で戻ってきた。

 真壁が廊下の奥を見たとき、鏡の中に誰かの影が映った。

 振り返る。

 誰もいない。

 もう一度、鏡を見る。

 そこには、展示図面の赤印が映っていた。

 六つの赤い点。

 その隣で、館の灯が静かに燃えている。

 そのときだった。

 外壁に並んだ十二の灯のうち、玄関広間に最も近いひとつが、ふっと暗くなった。

 音はなかった。

 電気が落ちたのでも、炎が消えたのでもない。

 そこにあった光だけが、誰かの指先で摘まみ取られたように消えた。

 誰もすぐには動かなかった。

 動けなかった。

 闇になった灯の位置を、全員が見ていた。

 瑠璃子の喉が、小さく鳴った。

 小夜子がその腕を握る。

 烏丸鏡花は自分の名札に触れた。

 葛城は何か言おうとして、口だけを開けた。

 朽木は胸ポケットから手帳を出しかけ、その途中で手を止めた。

 二階堂の笑顔が消えた。

 九条は息を止めていた。

 鳴海だけが、モニターの方を見た。

 まるで、そこに何が出るかを知っているように。

 展示室の奥に置かれたモニターが、赤く点いた。

 画面に文字が浮かぶ。

 ――ひとつ灯して、客を呼ぶ。

 誰かが息を呑んだ。

 その直後、館のどこかで女の声がした。

「西園寺さんは?」

 声は右手の廊下から聞こえたようでもあり、階段の奥から聞こえたようでもあり、鏡の中から聞こえたようでもあった。

 全員が、同時に西園寺雅治を探した。

 つい先ほどまでそこにいた男。

 名簿に大きな字で署名し、鳴海に何かを確認し、氷室に指示めいたことを言っていた男。

 場の中心にいることを当然のようにしていた男。

 その西園寺雅治が、いなかった。

 真壁は、灯の消えた窓を見た。

 次に鏡を見た。

 鏡の奥で、赤いものがほんの一瞬だけ揺れた。

 血だ。

 そう思った瞬間、真壁の背筋を、冷たいものが走った。

 まだ死体を見ていない。

 まだ何も確認していない。

 それなのに、名前だけが先に置かれた。

 西園寺さんは?

 その一言が、この館に最初の死体を呼び込んだ。

 真壁は低く言った。

「二階堂。全員をここから動かすな」

 二階堂の表情から、軽さが消えた。

「了解」

 九条が無言で立ち上がる。

 鳳は、消えた灯ではなく、玄関広間の鏡を見ていた。

 鳴海は展示パネルの横で、資料ファイルを抱きしめていた。

 彼女の白い指先だけが、異様に強く紙を押さえている。

 真壁は廊下の奥へ向かって一歩踏み出した。

 その足音さえ、館のどこかで別人のもののように響いた。

 十二灯館の最初の灯は、もう消えていた。

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