第2話:不当なる果実
「——以上が、昨日の戦闘記録及び、奪還した第三防衛線の損害状況です。我が部隊の損害は軽微。補給さえ速やかに行われれば、明日にも次の警戒任務に就くことが可能です」
アールスハイド王国軍、北方方面軍の前線基地。
豪奢な調度品で飾られた執務室の机の前で、エレナ・ローゼンバルドは背筋を伸ばし、書類を差し出していた。
濡羽色の艶やかな髪を揺らすこともなく、緋色の瞳でじっと目の前の男を見つめる。戦場での泥と返り血は綺麗に洗い落とされ、彼女の持つ磁器のような白い肌と、凛とした美貌が室内の灯りに照らされていた。
その視線の先にいるのは、昨夜、前線でエレナたちを罵倒したバドバル・フォン・ボルドス伯爵である。
彼はエレナから差し出された報告書を一瞥することすらなく、手にしたワイングラスを弄んでいた。
「……ふん。相変わらず、形式だけは立派な報告書だな」
バドバルは嫌味ったらしい笑みを浮かべ、書類を乱暴に机の上に放り出した。
「だが、エレナ。この報告書には大きな『虚偽』がある」
エレナは眉ひとつ動かさず、静かに問い返す。
「虚偽、と申されますと? 記載されている敵の損害も、我が部隊の物資消費量も、全て正確な数値ですが」
「そこではない。お前の手柄についての話だ」
バドバルは立ち上がり、品評するような視線でエレナの美しい顔から、軍服に包まれた細い腰のラインをねめつけた。
「第三防衛線を守りきったのは、我が本陣の迅速な展開と威圧によるもの。貴様ら黒鴉部隊は、ただの側面支援に過ぎん。それなのに、まるで自分たちだけで敵の重装騎兵を壊滅させたかのような書き方ではないか」
「事実を申し上げたまでです」
エレナの声は、どこまでも平坦で冷ややかだった。
「本陣が展開を終える前に、敵の騎兵は防衛線を突破していました。私たちが側面から魔導弾で足止めをしなければ、本陣は壊滅していました。それは戦場にいた多くの兵士が目撃しています」
「黙れ!」
バドバルが机を叩いた。ワインがグラスから跳ね、書類を汚す。
「目撃だと? 平民あがりの雑兵どもの証言など、何の価値もない! 戦果を決めるのは、指揮官たる我がボルドス家の判断だ。いいか、今回の戦果は我が中央軍の功績として王都へ報告する。お前たちの部隊には……そうだな、敗残兵の掃討という『大役』を与えたとでも書いておいてやる」
つまり、手柄の横取りである。
エレナと部下たちが命を削り、血を流して得た勝利の果実を、後方で怯えていた無能な貴族が我が物顔で奪い取る。
いつものことだ。この王国では、エレナがどれほど完璧な作戦を立て、どれほど圧倒的な戦果を挙げようとも、決して正当に評価されることはない。
なぜなら、彼女が「女」だからだ。そして、彼女の部隊が「平民」や「問題児」ばかりを集めた非主流派だからである。
エレナは胸の奥で、冷たい炎が静かに燃え盛るのを感じていた。
彼女の美貌の下にある緋色の瞳が、わずかに細められる。
「将軍。手柄をそちらに譲ることは、百歩譲って構いません。ですが、我が部隊への恩賞、および消耗した魔力回復薬や予備の魔導触媒の補給は、早急に行っていただきたい。部下たちの疲労は限界です」
「くどいぞ、エレナ!」
バドバルは苛立たしげに手を振った。
「手柄もない部隊に、なぜ高価な魔力回復薬を回さねばならんのだ? そんなものは、我が中央軍の騎士団に優先して支給されるべきものだ。お前たちはそこらへんの井戸水でも飲んでいろ。雑草のようにしぶといのが、貴様ら平民の取り柄だろう?」
露骨な嘲笑。部下たちを人間とも思わない言葉。
エレナは細い指を強く握りしめた。軍服の袖の中で、爪が手のひらに食い込む。それでも、彼女は表情に出さなかった。
「……承知いたしました。では、これで失礼します」
「ふん。さっさと行け。女の分際で、あまり私の前で偉そうな口を利くのではないぞ」
背後でバドバルが鼻を鳴らす音を聞きながら、エレナは執務室を後にした。
重厚な扉を閉めた瞬間、廊下の静寂が彼女を包む。エレナは小さく息を吐き、壁に背を預けた。
「……また、ですか、隊長」
廊下の影から、一人の青年が姿を現した。
エレナの右腕であり、黒鴉部隊の副官を務めるアルベルトだ。彼はエレナと同じく漆黒の外套を羽織り、悔しげに顔を歪めていた。
「ああ、アルベルト。立ち聞きはいけないな」
「立ち聞きしなくても分かりますよ。あの豚のような男が、まともに俺たちの報告を聞くはずがない。また手柄を横取りされたんですね? それに、補給も……」
アルベルトの言葉は、エレナの静かな眼差しによって遮られた。
エレナは何も言わず、ただ軽く首を振った。
「補給は今回も見送りだ。中央軍が優先される。アルベルト、すまない。みんなには、もう少しだけ耐えてくれと伝えてほしい」
「隊長が謝る必要はありません! 悪いのは全部、あの上層部だ!」
アルベルトは拳を壁に叩きつけた。
「俺たちはこの半年、一度も負けていません。他の貴族部隊が逃げ出した戦場を、いつも俺たちが押し返してきた! それなのに、なぜ俺たちの評価はいつも『敗残兵の落ち穂拾い』なんですか! なぜ、隊長がこんなに侮辱されなきゃいけないんだ!」
「私が、女だからよ」
エレナは自嘲気味に呟いた。
「この王国において、軍は貴族男性の栄光の舞台。そこに平民上がりの女が立ち、彼ら以上の戦果を挙げるなど、あってはならないことなの。彼女たちにとって、私は自分たちの無能さを突きつける目障りな鏡に過ぎない」
エレナの父は、優れた魔導学者だった。だが、軍の派閥争いに巻き込まれ、非業の死を遂げた。
エレナが軍に入ったのは、父の研究を引き継ぎ、その正しさを証明するため。そして、自分と同じように行き場を失った平民の魔導師たちに、戦う場所を与えるためだった。
その結果、彼女は最強の部隊を作り上げた。だが、強くなればなるほど、王国の腐った上層部からの嫉妬と嫌がらせは苛烈を極めていった。
「……隊長」
アルベルトが悲痛な面持ちでエレナを見つめる。
「俺たちは、あなたについていきます。どんなに冷遇されようと、あなたが俺たちの指揮官である限り、俺たちは黒鴉部隊だ。それだけは忘れないでください」
部下のその言葉に、エレナの凍てついた心がわずかに和らぐ。
彼女は薄い唇に、優しく、しかしどこか儚い笑みを浮かべた。
「ありがとう、アルベルト。あなたたちがいるから、私はまだここに立っていられる」
エレナは再び、冷徹な指揮官の顔に戻り、前を見据えた。
「行きましょう。部隊に戻って、今後の防衛計画を立て直す。上層部が動かないなら、私たちが独自に動いて、この最前線を維持するしかないわ」
だが、エレナはまだ気づいていなかった。
王国の腐敗は、彼女の想像を遥かに超えて進んでいるということに。
そして、彼女と黒鴉部隊を完全に排除するための、最悪の罠が、すでに水面下で動き始めているということに——。




