【第1話】なぜ「富士」ではいけなかったのか
私、富士山トオル(ふじやまとおる)は29歳の頃、全体のコンセプトを企画するグループで働いていた。社会人になって5年目ということもあり、「どれぐらいの発言をしても許されるか」がようやく分かってきた、そんな時期だった。
私が提案していた列車名は「富士」であった。それで決まりかけていた。でも、最終的に選ばれたのは、もう皆さんご承知の通り、「なめくじ」だった。まずは、中央リニア新幹線最大の謎ともいわれている、その経緯について触れないわけにはいかないだろう。
「富士」といえば、鉄道ファンでなくとも少し年配の方なら知らない人はあまりいない、まさに由緒正しき列車名である。ひとつ前にはそう、「ブルートレイン」に使われていた。東京駅を起点に、最も運行区間が長かった時期には、当時「西鹿児島駅」と呼ばれていた鹿児島中央駅まで、24時間以上かけて走っていた「寝台特急」である。残念ながら、私の出身地である宮崎まで行っていたのは1997年が最後だったから、私はその姿を写真と鉄道博物館の静態展示でしか見たことがないのだが、最後の「ブルートレイン」は東日本では2015年まで運行されていて、その雄姿がテレビに移るたびに、「富士」へのあこがれは強くなっていったものである。
中央リニア新幹線は、東京―名古屋間を結ぶ路線だから、必然的に富士山の近くを通ることになる。営業運転での最高速は500km/hを超えるため、新幹線にも増して急なカーブを作ることができず、富士山の近くはほとんどがトンネル区間。富士山が見えるのはほんの20秒くらいだと聞いている。それでも、「富士」という列車名を冠するのに相応しい路線、そして性能を持つ列車になることは、もはや既成事実といえる。
そう、もしかすると「富士」を推していた理由の半分くらいは、個人的な感情だったのかもしれない。ただ、「客観的に見てもこれは通る!」というのが、今月になって始まったこの会議の、当初の感触だった。しかし、大きな問題が2つあった。
ひとつめは、その路線が長期的に使用されるインフラであり、日本の顔のひとつともいえる存在であることによる。列車名は、その時の流行に任せたものではなく、普遍的であることが好ましいし、何よりも品格が求められるわけだ。
「それならなおのこと『富士』でいいじゃないか。それしかないじゃないか。」
私は会議の中で何度か、半分キレながら叫んだことを覚えている。しかし、その後、ベテランの浅間さんに、自分の視野の狭さを思い知らされることになる。
「トオルくん、富士山って本当に普遍的といえるのでしょうか。」
彼はこう続けた。
「長期といっても、それは5年や10年の話ではないんです。50年、100年というスケールになる。あなたも知っているように富士山は活火山。ここのところ大人しくしているようだから、よいイメージだけが膨らんでしまっている印象がありますが、ひとたび噴火が起きれば、それはもう『自然災害の象徴』になってしまうかもしれない。極端な話、磐梯山みたいに山体が半分以上吹っ飛んで、日本一の山でなくなっている可能性すらあるんですよ。」
正直、他の有力候補として挙がっていた「みらい」「ゆめ」とか、それに関連する名前は、あまりにも抽象的過ぎるし、すぐに陳腐化するものだと思っていたので、もう「半分くらい勝った」ぐらいに思っていたのだが、ここにきてようやく、この会議室にいるメンバーがなぜこんなにも長く列車名を決められないのかが、やっと理解できた気がした。
もうひとつは、系統化が難しいことである。ご承知の通り、東海道新幹線も「のぞみ」「ひかり」「こだま」といったヒエラルキーがある。「こだま」は音速、「ひかり」は光速、それよりも速いのが「のぞみ」だという構造になっている。一方、「富士」だとどうなるか。
各駅に留まる標準タイプを「富士」と置いてみる。すると、停車駅の少ない速達タイプのネーミングで詰まる。なにせ「富士」の時点で既に最高峰なのだから、どうにもしようがない。富士の上にある「かさぐも」は品がいいが、すぐに天気が悪くなりそうだからと候補から外れ、「そら」だとどこにもありすぎる。かつて「のぞみ」が「スーパーひかり」と呼ばれていたように、頭に何かつけることもできなくはないが、今の時代に「スーパー富士」はさすがにないだろうというということで、これも候補から外れた。
逆に、速達タイプを「富士」としてみる。標準タイプは富士よりも下にあるものから、バランスの悪くないものを選べばよい。候補ならいくらでもある。
「『もとす』なんて良いよね。」
と誰かが言う。そうすると、
「え~?山中湖や河口湖は?」
と誰かが返す。こうなるともう、何も決まらなくなる。
「『きそ』なんてどうだろう?」
「長良川と揖斐川は?」
だいたいは「そこが地元だ」という人が、ここぞとばかりに似たような候補をいっぱい出してきて、そこから「あそこはいい所だよね」と無駄話が始まる。でも、それでは議論が進まない。同郷の黒木さんなんかは、
「同じブルートレインにちなんで『彗星』はどうでしょ?」
と援護射撃してくれたが、
「ちょっと夜のイメージが強いよね。」
と、これも決定打とはならなかった。
今日は月末の金曜だからと、会議はここでお開きになった。私と同様、一切お酒を口にしない黒木さんと、
「そんな理由で、こんな中途半端なところで終わらせていいの?」
なんて愚痴をこぼしながら帰路に就いた。この会議、同じメンバーで来週の月曜にもやることになったが、終わり際に臼杵さんが濱田部長に耳打ちをしていた。なんだか嫌な予感がしてならない。




