第1話 真っ赤な梅干し
※ずいぶん前に賞に応募したものの供養です
基山高校1年2組には、不思議な体質を持つ少女がいる。
そんな噂が広まり始めたのは、高校1年生の5月。
向井さんと同じクラスになって1ヶ月半が経とうとしていた頃だった。
ホームルームの少し前。クラスには、もう何人かが登校してきていた。
――――ガラッ。
教室の後ろ扉が開かれる。
「綾菜、おはよう」
すると、先に来ていたクラスメイトの1人が、教室の入り口に向かって声をかける。
扉を開けたのは、黒い髪に水色のインナーカラーの透けるポニーテル、隣の席の向井さんだった。
すると、向井さんはそれに返事をせず、代わりに慌てて鞄から何かを取り出した。
《おはよー!》
マジックでそう書かれた、スケッチブック。
それを向井さんは胸元にパッと出すと、葉に滴る水滴のように輝く翡翠色の瞳をまんまるに開いてニコッと笑った。文字の周りには、可愛らしいウサギや猫なんかも描かれている。
「あー、今日は【声】?」
声をかけたクラスメイトが問う。と、向井さんはまたパラパラと数ページめくり、今度は《YES!》と書かれた紙を、泣き真似をしながら友人に向けた。
「大変だねえ……。なんかあったら言ってねー」
向井さんは、その言葉に親指を立てる。と、それから窓際の僕の席の右隣にやって来て、鞄を机の横にかけ、前髪を整え、1時間目の前に設けられた朝読書の時間の準備を始めた。
彼女の名前は、向井綾菜。
入学してから1度も席替えが行われなかったから、ずっと隣同士の女の子。
そして、不思議な体質、その噂のもとになったその人。
向井さんが席につくと、程なくして担任が姿を現す。
と、クラスメイトたちはいつものように起立から一礼して、各々が本を開いた。この学校には、朝読書という習慣があった。
なので、僕も自分で選んだ本を開く。
そして、ようやく身体に馴染始めた高校生活の習慣が、
(ああ、今日も変わりない1日が始まるんだな……)
そんな気だるげな絶望を感じさせた。
そんな時だった。僕が異変に気がついたのは。
――――パカッ。
明らかに本を開く類のものではない音がして、僕は反射的に音のほうへと顔を向ける。
すると、そこには担任の様子を伺いながら、小さな弁当箱を開ける向井さんの姿があった。
そして、その箱の中から、赤い塊がこちらを覗いていた。
(……あれは、梅干しか。――――梅干し!?)
向井さんは僕の視線に気づくことなく、担任を警戒しながらそーっと蓋を机の下の収納棚に置き、梅干しをひとつまみする。と、子供が盗み食いをするように素早く口の中に放り込んだ。
「〜〜〜〜っ!」
あっという間に、向井さんの顔が梅干しに負けないくらいくしゃくしゃになる。
顔の中心に全てのパーツが集まり、声にならない絶叫が向井さんの身体から漏れ出ていた。
(――――えっ!? 食べっ……!! えっ!?)
僕は驚いて担任のほうに目をやる。
しかし、担任は気づかない。
こんなにおかしなことが起こっているのに、むしろ何事もないことを嘆くようにため息をついて、教卓で暇そうに自分の持ってきた小説を眺めていた。
一方で、向井さんは続けて白米を取り出す。と、箸でそれを口の中に放り込んだ。
(え!? 米も!? っていうか、そんな食べ方をするならおにぎりにすれば……)
すると、大きくなるばかりの僕の驚きと困惑にようやく気がついたのか、口をもぐもぐとさせている向井さんと目が合った。
「……ぁ」
その瞬間、2人の間にバトル漫画さながら電撃が走り、緊張感が生まれたのが分かった。
向井さんは少し目を細め、こちらを観察するように見つめながらも口をもぐもぐとさせ続け、一方で僕は向井さんとまともに目が合うことが初めてだったから、別の意味で緊張し固唾を飲んでそれを見つめていた。
そして、お互いの視線がぶつかってから5秒。
――――スッ。
そんな教室の中での静かで小さな戦いは、向井さんが平伏し、こちらに梅干し入りの弁当箱を差し出すことで決着した。
(――――な、何!? どういうこと!?)
僕は、ただただ困惑していた。
すると、向井さんは少しだけ顔を上げ、梅干しを指す。
そして、エアーでそれを摘み、口に運ぶ仕草を見せた。
(これは、僕も食べろってこと……?)
口パクでそう伝える。と、向井さんはこくりと頷いた。
(いや、いらないよ! 欲しくて見てたわけじゃないから! 誰にも言わないし!)
そう身振り手振りで伝えてみても、向井さんはリスみたいに頬を膨らませたまま、僕をじっと見つめ続ける。そのくだらなさに似合わない真剣な眼差しに、僕は少しドキッとさせられた。
すると、煮え切らない僕に向井さんはため息をついて、梅干しを引っ込める。
僕は「良かった。諦めたか」と、安堵した。
が、それも束の間、今度はさっきまで使っていた箸と白米を向井さんがこちらに差し出してくる。
その表情は、やれやれと言いたげだった。
(いや、白米も欲しくて渋ってたわけじゃないから……!)
しかし、そう伝えようとした時、僕はあることに気がついた。
(……ちょっと待てよ。これって、さっきまで向井さんが白米を……)
その逡巡は、男子高校生にはとても重要で、緊張感を得るには十分なものだった。
――――間接キス。
それは、いつだって男に甘酸っぱさを与えるもの。
たとえ、どんなに高級服で着飾った社長だろうと、それは変わらない。
何年経っても人をドキドキさせる魔性のイベント。
不快な人ならいざ知らず、これを好意のある人から手渡されれば、断らずにはいられないのである。
(……ふ、ふーん。ま、僕はもう高校生ですし、たいしたことないですけどね!)
僕は、心の中でそう呟く。
向井さんの申し出を断るつもりだった。きょどらず、華麗に、さりげなく。
――――しかし、その唇はすでにタコよりも鋭く尖っていた!
――――キスを意識してないとは言えないほど、無様に滑稽に!!
――――さっきまでの向井さんを眺めているだけの平穏な時間は、皮肉なことに眺めていたことによって、早まる鼓動と格闘する激動の時間に変わってしまったのである!!!
そんな心を現わすかのように、僕の視線は向井さんの顔と差し出された箸の先端とを右往左往し始める。
そして、そんな僕を、向井さんはただ一途に「まさか密告する気じゃないだろうな」と訝しんでいた。
心の中では、葛藤が暴れ回って、クラスの中に存在する大人しくて平均的な人間という僕の姿から180度、いや回りすぎて360度も乖離していく。
(いやいや! それは倫理的にまずいのでは!?)
心の中で、言い訳をする。
……じ――っ。
しかし、向井さんはこちらを疑い続ける。
(いやいやいやいや! 疑わなくても奥は味方ですって! 言ったりしませんから!)
目を合わせて、必死に説得する。
…………じ――――――――っ。
それでも、向井さんはこちらを疑い続ける。
(うっ! 全然疑いが晴れてない……!)
僕のほうが、先に折れそうになる。
………………じ――――――――――――っ。
まだまだ、向井さんはこちらを疑い続ける。
(た、食べるしかないのか!? 味方だと証明するには……!!)
ぐるぐると回る思考は、まるで高速回転の電子レンジ。
熱暴走はどんなに正確な機械でも狂わせてしまうのに、僕ごときの脳みそともなればもう正確な判断など出来ようがなかった。
そして――――。
(……ええい、ままよっ!!)
と、僕の中の天秤が「白米を食べる」という側にガコンッと傾いた時だった。
――――キーンコーン、カーンコーン。
鐘が鳴った。
鳴って、しまった。
僕の覚悟を嘲笑うかのように、無慈悲に。
スピーカーから流れるノイズ混じりのその音に、向井さんは表情をハッとさせる。と、いそいそとお弁当箱をしまい、代わりに机の下から小説を取り出した。
そして、担任が顔を上げる頃には、「いかにも他の生徒と同じように本を読んでいましたよ。なんなら、集中しすぎて鐘の音に気づいてませんよ」という澄まし顔に切り替えて、適当に開いたページに視線を落としていた。
(……え?)
クラスメイトは皆、本をしまい始める。
(……良かった、んだよな? これで)
だけど、僕だけは独りぼっち。白米の誘惑から抜け出せないでいた。
「はい。みんな、本しまってねー。えーっと、保護者会の出席確認のプリントが……」
担任が手を叩いて自身に注目を集めると、皆は朝の連絡事項に耳を傾ける。
窓際の席。
小春日和を運ぶ風が、火照った顔を通り過ぎていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
励みになりますので、良いと思ってくださった方は【☆】や【ブックマーク】をポチッとしていただけると嬉しいです!




