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第五話 【懐かしい家の味】

 三歳にして家庭教師がつくことになったと知ったのは、そんな風にしてだった。それは、穏やかな夕食の席でのことだ。


 父と母はいつもの席につき、コービンは俺の傍らに控えて立っていた。


 ドア枠に背を預けるようにして、腰に剣を帯びた一人の男が立っていた。何を考えているのかまったく読み取れない目をしている。その眼差しからは歴戦の経験が滲み出ていて、次にどう動くのかまるで予測がつかなかった。例えば母なら、会話の最中でも肩の動きを見れば次の行動を先読みするのは容易だ。だが、あの男相手にはそれが通用しなかった。


 どうやら、その剣の男はセルパヘル家の警備隊長らしい。長年の経験に裏打ちされた鋭い眼光を放っている割に、見た目はかなり若かった。赤みがかった髪をしており、瞳は……そこまで仔細には見えなかったが、緑色のように見えた。


 その剣の男は、常に父とコービンの指示に従っていた。その様子からも、執事であるコービンが使用人たちの長であり、父がそのすべてを統べる当主であることがよくわかる。


 セルパヘル家の統率体制は、少し奇妙だった。他の多くの貴族家では、当主がいようとも一族の者たちがその決定に異を唱えたり、あるいは多数決に持ち込んだりするのが常らしい。だが、この家は違った。当主の言葉こそが絶対なのだ。もちろん、倫理の範囲内での話ではあるが。少なくとも、貴族家について書かれた本にはそうあった。


「君は『ねえ、子供の頃にどうやってあの塔をよじ登ったの?』って言いたいんだろう? 簡単なことさ! あそこは俺の物見台だったんだから……」


「あなた……どこか怪我でもしたら大変だから、あなたの中にまだあの冒険好きな少年が残っていると思うと、時々心配になるわ。まあ、もちろん、そういうところに惚れたのも事実なんだけどね」


「ジ、ジュリー……子供の前でそんなことを言わないでおくれ。今でこそ聡明な父親が、昔は自分の身も顧みない無茶ばかりしていたなんて、この子に知られるわけにはいかないんだから……」


「心配いらないわ、あなた。うちの子は賢いもの、父親と同じ無茶なんてするはずがないわ……だから私は誇らしいの。まあ、もちろん、木登りでもしているところを見かけたら、全部没収しちゃうけれどね! あなたも同じよ、あなた」


「わかったよ。木に登る前にはよく考えることにするさ」


 何だかんだ言って、この家で実権を握っているのはジュリエットのようだった。


 夕食はそのまま続いた。


 一族全員が揃う夕食は、毎日あるわけではない。この世界に週という概念が存在するのかは定かではないが、彼らは週に二日集まっていた。全員が共通の食堂に顔を合わせるのは、その二日だけだ。それ以外の日は、それぞれの家族が個別の食堂で食事を取っていた。


 ヴァレリウスの兄であり、俺の叔父にあたるルキウスの一家は、いわゆる『東翼』と呼ばれる区画に住み、父は『頭部』と呼ばれる主棟に居を構えていた。それでもなお別の翼棟が丸々一つ残されており、もはや使われていない広大な空間がそこかしこに存在していた。


 この屋敷では使用人一人ひとりに個室が与えられており、空間はそれなりに有効活用されていた。それでも、まだ空き部屋はいくらでもあった。


「さて、ダリアン。お前に伝えておくことがある」


 父は母と笑い合うのをやめ、こちらに向き直った。


「魔法か?」


「そうだ、魔法だ……手配には骨が折れたが、お前に教えたいと名乗り出てくれた者がいてね。教えるのは魔法だけにとどまらない。母さんと話し合って、お前の才能を最大限に引き出したい、そしてお前自身も望むのなら、できるだけ早く学問を始めさせるのが最善だという結論に至ったんだ。どうだい? それとも、普通の子供のように木の棒を振り回して遊んでいるほうがいいかい……?」


「ヴァレリウス、そんな言い方をしちゃダメよ」


「すまない、すまない……ただ、少し……何と言えばいいのか……うーん……」


「嫉妬かしら?」


「いやいや、まさか。嫉妬なわけがないだろう。自分の息子に嫉妬などするものか……どちらかといえば、少し寂しいんだよ。俺があの頃の歳だったときは、もっと馬鹿だったからね。カーテンで鼻水を拭いては耳を引っ張られて怒られていたものさ。それなのに、うちの息子と来たら、たったの三歳でこれほど呑み込みが早い。早く大人になりすぎてしまうんじゃないかと心配なんだよ。君の母上も言っていただろう、雛鳥は時に早く大きくなりすぎるものだって……」


「まあ……あなた、そんな心配をしなくてもいいのに……とはいえ……」


「魔法も勉強も受けるよ」


 二人の会話を遮ると、両親は揃って勢いよくこちらを向いた。


 その表情はどこか奇妙だったが、顔の端々に微かな寂しさが浮かんでいるのが見て取れた。

 駄々をこねることもなくすんなりと提案を受け入れたせいで、まるで今にも窓から飛び立とうとしている小鳥を見るような目を向けられている。


 これまでは、それなりに赤ん坊らしく振る舞ってきたつもりだった。まあ、できる範囲でだが。泣き喚くこともなければ、おむつを替えてくれとねだることもない。彼らがそれに気づくのは、ずっしりとした重みを感じた時か、あるいは鼻をつく臭いが漂ってきた時くらいのものだ。その点では、決して手のかからない良い赤ん坊ではなかったかもしれない。だが、もう猫をかぶる気はなかった。興味のあることなら、自ら求めるか、差し出された手を取るだけだ。


「そうか、ダリアン。それなら……そうなることを祈ろう。手配した家庭教師が無事に到着し、お前に教えてくれることをね……正直、ちゃんと来てくれるといいんだが。何人にも断られてしまってね」


「知ってる。その話は耳に入ってた」


「わかっているよ。お前が聞いていたことくらい、父さんにはお見通しだ」


 ---


 一週間待たされたところで、両親の我慢も限界に達しつつあったと言っていいだろう。これ以上、適性の家庭教師を探す試みは打ち切られるところだった。


 そんな必要はない、あれほど乗り気だった勉強の話を、返答が来ないからといってたった一週間で投げ出すのかと言おうとしたが、彼らの考えを改めさせる術は見つからなかった。彼らにしてみれば、俺はすでに我が儘を通しているのだから、せめて一つくらいは思い通りにさせまいという意地もあったのだろう。


 大きくなったら、普通の学校にでも通うことになるのだろう。それがどんなものかはわからないが、案外その方がいいのかもしれない。いずれにせよ、俺は魔法について半ば諦め、この世界で平凡に生きることを受け入れかけていた。


 だが、事態がその平凡な日常へと落ち着く前に、母が部屋にやって来て、何も言わずに俺を抱き上げると正面玄関へと連れ出した。


「ママ……?」


 母をママと呼ぶのは、思っていた以上に抵抗があった。最初は、普段あまり喋らず大声を出すこともないせいで声帯が未発達なのかとも思ったが、そういうわけでもなかった。声そのものはちゃんと出ている。だとすれば、理由は別のところにあるはずだった。


「大丈夫よ、私の可愛い子。ママからとっても良い知らせがあるの……ついにあなたの家庭教師が来てくれたみたいなのよ!」


 家庭教師。

 本当に来たのか?

 よく考えてみれば、両親は諦めかけていたはずだ。

 それなのに、なぜ受け入れる気になったのだろう。


 わかっている。

 彼らは何らかの形で勝ち誇りたかったのだ。家庭教師など来ないと俺に信じ込ませて諦めさせ、その上で、自分たちの手で探し出した家庭教師が本当にやって来たと大々的に発表して見せたかったに違いない。


「坊や。ママも認めるけれど、ほんのちょっぴりだけ、最後には来てくれるんじゃないかって期待していたのよ……今はコービンが案内してくれているけれど、玄関で待っていてくれるわ。最後の決断は、あなた自身に下してほしいの」


 俺の思い違いだった。家庭教師が本当に来るか確証が持てなかったから、ただ言わなかっただけらしい。そうして階段を降りようとしたところで、差し出された一本の腕に制止された。


「ジュリー。愛しい人……我が子を抱く君の姿は、息を呑むほど美しいよ」


「もう、そういうことは後にしてちょうだい。今はしっかり集中していたいの。家庭教師との話の最中に母親が顔を赤らめるなんて、この子に恥をかかせるわけにはいかないわ」


「君をからかうコツは心得ているつもりなんだがね……?」


 他愛のない言葉を交わした後、歩みを再開して目的地に辿り着いた。

 ジュリエットは俺をそっと床に降ろし、優しく手を握ってくれた。


「あなたが……家庭教師の方かしら?」


「ご、ご迷惑をおかけして申し訳ありません……! 大アカデミーの方でちょっとした手違いがありまして、延々と書類を書かされる羽目になってしまって……で、でも、こうしてお伺いできましたので!」


 そこで、彼女の姿が目に入った。


 母と同じくらいの年頃。

 血のような赤い瞳と、波打つ赤髪。

 その慌てた口調とは裏腹に、佇まいはどこか落ち着いていた。


 同時に、母は言葉を失っていた。驚きとともに、微かな緊張を滲ませている。その女性は若いだけでなく、貴族の作法など気にも留めていない様子だった。一見すると風変わりな女性であり……母は、父がその無作法さを理由に彼女を拒絶するのではないかと懸念していたのかもしれない。


「ダリアン」


「パ……パ?」


「彼女でいいかい?」


 俺は彼女をもう少しじっくりと観察してみることにした。


 なぜ俺が選ばなければならないのか。そのためにわざわざここまでやって来たのだろう?


 俺に選ばせたいという気持ちは理解できるが、それは結局、俺の我が儘を通させる別の口実にすぎない。親として、もっと……いや、普通の親ではないのだ。あるいは、俺自身が親というものについて何も知らないだけなのかもしれない。


 どうでもいいか。


「ああ、この人に家庭教師をやってもらいたい」


「ルビー先生、そう呼んでくれていいですよ」


「……ルビー」


 父がパンと一つ、景気よく手を叩いた。


「よし、ルビー先生、聞いての通りだ。ようこそ……まあ、まだ書類の手続きが少し残ってはいるが、歓迎しよう。私の決断は下された」


「セルパヘル様……その、ご子息の家庭教師を務めさせていただきますこと……大変、光栄に存じます」


 今度はしっかりと、改まった態度だった。


 ---


「始める前に言っておきますが、個別指導の家庭教師をするのはこれが初めてなんです。普段は大勢の子供たちを相手に講義をすることに慣れていて……ねえ、それは問題ないかしら、ダリアン君?」


「問題ない、ルビー」


 ルビーは椅子から立ち上がり、鞄から一冊の本を取り出した。


「よろしい。では、簡単なことから始めましょうか。魔法陣について、何か知っていることはある? たくさんの本を読んでいたと聞いているけれど。その前に、そんな幼い歳で文字を覚えたこと、褒めてあげたいわね。それで、どうかしら? 何か知っている?」


「魔法陣は、人類がマナと意思疎通を図るための手段だ」


「ええ、でも同時に、それを制御するための数学的計算でもあるのよ。ローゼンリーではマナに自我や意識があるとは考えていないから、私たちはそれを『対話』とは呼ばないけれど……ここゼレニアにそうした信仰があることは認めるわ……」


「陣は、マナに何を起こすべきか認識させるための手段じゃないのか?」


「理論上はね。理解はするけれど、生きているわけじゃないの。例えば『そよ風』の魔法陣は、山とそこに吹き付ける風を表す十字を描くのよ。何に衝突するかによって、水の状態も変わってくる。実際、山によって雲が形成されることもあると分かっているわ」


 ルビーは瞬きをすると、再び椅子に腰を下ろした。


「まあ、少し急ぎすぎたかしらね。ねえ、先に進む前に何か質問はある?」


「なぜ戦闘用の魔法が存在しないんだ?」


「随分な質問ね……まあ、その理由は説明できるけれど、もしそんなものが存在したらどうなっていたかなんて、誰にもわからないわよね?」


「脱線する必要はない、ルビー。ただの質問だ」


「そうね。魔法は暮らしをより豊かに、便利にするために発展してきたの。単純なことよ。争いは……ろくでもないことしか引き起こさないもの。それに、すでに内部魔法が存在していたから、外部魔法はもっぱら生活の質を向上させるためだけに用いられてきたのよ。例えばノイドは、肉体能力を強化する内なる不可視のエネルギーのこと。わかるかしら? それはディオルが成し得るどんなことよりも、遥かに致命的で危険なものなのよ」


 なるほど。それなら、攻撃用の外部魔法が存在しないのも頷ける。肉体能力を強化できる連中を相手にする戦いの最中に、呑気に魔法陣を描くなど無意味だからだ。呪文の詠唱といった魔法の行使手段が存在しない以上、戦闘用として発展しなかったのは当然と言えた。


「生活を便利にするための外部魔法、つまりディオルは存在するけれど、それでも多くの人はロウソクやランプを手作業で灯す方を好んでいるわ。この部屋にあるロウソクは、専門の使用人が導いた特殊な魔法陣によって灯されたものだけれど、誰もがそんなものを備えられるわけじゃない。それは、あなたの家がどれほど偉大な歴史を持っているかを物語る証拠でもあるのよ、ダリアン君」


 興味深い話だ。俺の家は単なる貴族というだけでなく、貴族という枠組みを超えた深い歴史を背負っているらしい。彼女はその詳細について語りはしなかったが、この勉強部屋としてあつらえられた部屋にいることに、誇らしげな様子を覗かせていた。


 ルビーは立ち上がり、黒板にチョークで円を描いた。


「これが見えるかしら? 魔法陣よ。もう知っているわよね。問題は、あなたがきっと極めて本能的なやり方でこれを使っていただろうってこと。でもね、自分の手からマナが吸い出される反動で怪我をしないための手法が、ちゃんと存在するの」


「『本能的なやり方』とはどういう意味だ?」


「少しずつ進めるつもりだったけれど……まあいいわ。私の言うことが理解できなかった時のために、後で何冊か本を渡してあげる。子供には少し難しすぎるかもしれないけれど、ちゃんと学べているみたいね。全部ノートに取っているかしら?」


「続けてくれ、ルビー」


 ルビーは微笑み、黒板へと向き直って『そよ風』の魔法陣を完成させた。


「さっきも言った通り、これは『そよ風』の単純な魔法陣よ。十字を描いて東から吹く風を表現することで、心地よい空気の流れを生み出すの。何かおかしなところはあるかしら?」


「何もない」


「その通り。何もないわね。けれど、それも間違いなの。何の手順も踏まずに、ただ魔法陣に手をかざすだけじゃダメなのよ。『原点』に至らなければ、何一つとして起きないわ。陣はあなたを認識せず、不可視のエネルギーの供給源として利用してくれないの」


 彼女の言葉を借りるなら、原点とは有であり無である状態を指す。感覚すらまともに機能しなくなるほどに、思考を完全に空っぽにしなければならない。


「そして原点に加えて、残る六つの点が存在するの。術式によっては、それ以上を要求するものもあるけれどね」


 彼女は、古代において魔法を発動させることがいかに困難であったかを語り始めた。


「魔法は制御を失い、暴走し、不安定になって、時には術者を地面に叩きつけることすらあったわ。六つの点をすべて頭の中で直接思い描き、それらを破綻させずに共存させる方法を模索しなければならなかったのよ。けれど、そんなの現実的じゃなかった。時が経つにつれて、人々はその全工程をたった一つの点へと統合していったの。それこそが、いわゆる『原点』。数学のゼロを一種の門(円)として利用し、マナを選択した属性へと変換する術を見出したのよ」


 ルビーは六つの点について説明した。


 原点。術者が到達すべき虚無の状態。

 第6点。門。

 第5点。貯蔵庫。

 第4点。無駄を防ぐための魔力処理。

 第3点。秩序ある魔法を構築するための魔力の統合。

 第2点。三と一を繋ぐ架け橋。

 第1点。最終的に魔力が到達する場所。


「最初は原点の中に五つの点を統合するのは難しいかもしれないけれど、あなたならきっとできるようになるわ。それに、魔法をどこから放出させるかを指定するために、魔法陣上に第一点を配置しなければならないの。出口を二つ作ることもできるけれど、魔法の効果が二倍になるわけじゃなく、ただ分散するだけよ。より強力な魔法を放ちたいのなら、より多くのマナを注ぎ込むか、あるいは魔法陣そのものを大きく描くしかないわ。要するに、放出したい場所に向けて『×』の印を置くのよ。上、下、右、左、あるいは円のそれぞれの角にね。どこから放たれるのかを明確にすることが肝心なの」


「つまり、昔は魔法を使うのに円を使ってはいなかったということか? それに、魔法はどこからでも勝手に出ていたのか?」


「勝手に出ていたわけじゃないわ。図形を描いて魔法を発動させていた術者自身にだけは危害が及ばないようになっていたけれど、円という形を用いたことで、マナが外枠から霧散して無駄になるのを防げるようになったの。とはいえ、不可視のエネルギーの性質上、第一点を置かなければ、結局のところマナは制御を失って漏れ出してしまうのだけれどね」


「なるほどな……」


「わかるの? 家庭教師からこれだけの魔法の知識を一気に叩き込まれて、そんな返事をした子供はあなたが初めてよ……ううん、唯一ってわけじゃないかしら。昔、似たような男の子がいたけれど、その話はあまりできないわね……まあ、本当に理解できているかどうかは、いずれ試験をして確かめさせてもらうわよ、ダリアン君」


 ルビーは小さく笑い、再び本へと視線を戻した。


 ---


 俺がすでに知っていた魔法陣のこと、歴史、地理、そしてルビー自身の身の上話についてぶっ通しで語り合い、四時間に及ぶ講義はようやく終わった。


 他人の身の上話に耳を傾けることは、世界の過去を知るのと同じくらい有意義なことだと彼女は言った。他人の人生を詮索するという意味ではなく、その経験から学ぶという意味でだ。


 彼女は父親を亡くしたが、立ち止まることなく前へ進み、ローゼンリーへと辿り着いた。やがて時が経つにつれてその地位を高め、誰もが教えを請いたがるほどの家庭教師となったのだという。

 そうした名声に後押しされ、アントロフォス王国の首都ゼレニアへと赴き、王国の公認家庭教師として登録する道を選んだ。だが、そこで彼女は我が家の家庭教師募集の話を耳にし、更なる肩書きを得ることよりも、セルパヘル家の子息に教育を施すことこそを自身の最初の偉業にしようと決意したのだそうだ。


 セルパヘル家は王族の五大貴族の一つだった。筆頭にはカリエノス家が君臨していたが、デュルグハイムの民との重要な取引のおかげで、もっとも莫大な富を手にしていたのはセルパヘル家だった。


 彼女は自分の妹についても何か言いかけたが、言葉に詰まってしまった。それ以上話せなくなった彼女を見て、俺はそれ以上追及せず、軽く片手を上げて合図しながら部屋を後にした。


 その時の彼女の表情を見ることはできなかったが、あの落ち着かない歯の鳴るような気配は、もう感じられなくなっていた。


 ---


「あら! 坊や! 授業が終わったからママはずっと探していたのよ。どこに行っていたの? ルビーから、部屋を足早に出て行ったって聞いたけれど……何か言うことはないかしら?」


「何でもない、母さん。少し歩きたかっただけだ」


「おやつも食べずに? そんなのダメよ、いらっしゃい」


 彼女は俺の手を取り、厨房へと引っ張っていった。


 俺は席について待った。

 ジュリエットは、見覚えのない無数の染みがついたエプロンを身に着けていた。


「坊や、これはね、あなたのおばあちゃんのジュリーから受け継いだ芸術品なの。けれど……今はママの手によってさらに美味しく改良されているのよ。わかるかしら?」


 彼女は焼き菓子が山盛りになったトレイを置き、その中央に大きなマグカップを一つ置いた。


「母さん、これは……?」


「おばあちゃんはこれを『ホットチョコレート』と呼んでいたけれど、ママは『ママが息子のために作った特製超激ウマチョコレート』って呼ぶことにしたの……昔はお店で売っていたものだけれど、あなたには特別にタダであげるわね。でも、お行儀が悪かったら一杯ごとにお金を貰っちゃうからね」


 チョコレート。


 最後に口にしたのは、一体いつのことだっただろうか。


「何と言えばいいのか……」


「何も言わなくていいのよ。飲んでみて。余計なことは考えずに身を任せるのがママのモットーだって、覚えているでしょう?」


 俺は両手でカップを持ち上げた。


 慎重に口をつける。


「これは……」


「どうかしら……?」


「……家の味がする」


「家の味?」


「すごく美味いってことだ」


 それを証明するように、もう一口啜った。


「きゃああっ! 大好きよ、私の可愛い子!」


 彼女はまだ母親になったばかりだった。若く、そして底抜けに明るい。


 大層な言葉は持ち合わせていなかったが、美味いと感じたのは事実だった。あまりの美味さに、自分の舌にとっても……あるいは二重の意味でも、今となっては意味の通らない言葉を口走ってしまったほどだ。

 俺を愛し、あれこれと指図してこない母親。


 俺は、さらに口をつけた。

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