プロローグ
家。
家とは何だろうか。
家とは、人が安全だと感じられる物理的な空間のことだ。電気や水が通っている。それと同時に、眠りにつくときに温もりと安らぎを得られる場所でもある。
長い間、人類は眠りにつくことに不安を感じていた。だが歳月が流れるにつれ、安全は進化し、その恐怖は他の多くのものと同じように忘れ去られていった。そしてそれは、根拠のない安心感を生むことにもなった。
雨粒が、俺の顔に落ちてきた。こんな奇妙な時期に降る、あの雨粒だ。冷たさが容赦なく骨まで染み渡る、今歩いているこの場所で。
「あーもう、最悪!雨降るってわかってたのに、あそこから出なきゃよかった〜!」
俺の横を、悪態をつきながら乱暴に足音を立てて若い女が駆け抜けていった。彼女の腕が俺に触れ、振り返ってこちらを見る。何か言うかと思ったが、彼女は再び前を向いて歩き去っていった。
先を急ごうとするお前を責めはしない。お前は雨に文句を言っているが、俺はただ濡れるがままになっている。
【強者は弱者を守るために存在する。覚えておきなさい】
その言葉を思い出し、今日初めて足を止めた。
唐突にどうしたというのか。なぜ今、思い出したのか。ずっと昔に、母が口にした言葉だった。母はただ俺の前に立ち、俺からの明るい返事を期待しているかのようにそう言った。そのときの会話のすべてを覚えているわけではない。だが、その言葉だけは今も俺の記憶に残り続けている。
母は俺を誇りに思ってくれるだろうか。何しろ、俺はその言いつけを守ってきたのだから。
最終的に俺を今の姿へと変えることになるあの言葉を母が告げたとき、俺はどんな子供でもするような反応をした。不思議そうに母を見つめ、自分が学校で一番足が速かったことへの興奮を夢中でアピールし続けたのだ。
母を失ってから、俺は正義の味方になった。遊びと本気の区別もつかなくなるほどに。誰かが遊びで木に登っていれば、勝手に引きずり降ろした。そして相手は、いつだってそのせいで俺を嫌った。
理不尽だった。それでも、俺は善と悪の区別くらいはついていた。
(光はいつかあなたにも届くわ、我が子よ。私に届くのと同じように。けれど、光は決して悪いものじゃない。だから私たちはあなたをそう名付けたの。我が子よ、あなたはこの人生で、私が一番愛している光だから)
雨足が強まり、新たな記憶が脳裏に浮かび上がった。
(え? ママ?)
(望むものをただ望み、果たすべきことを果たしなさい。我が子よ、あなたが定められた運命に対して、自分が他と違うなどと思い詰めることはないわ。あなたは素晴らしい人間になるのだから。私にはわかるの)
……
まるで自分がもうすぐ死ぬと分かっていたかのように、母はそう言ったのだと思う。
母親は絶対に嘘をつかないと言うが、母は俺に嘘をついた。
だから俺の名前はヒカリなのだろう。
だが、その名前も今となってはあの人たちとは何の関係もない。
その意味はずっと昔に消え去り、今の俺は何者でもない、ただの虚無にすぎない。
あの火事……。
どうでもいい。そんなことは、すべてどうでもいいのだ。ただいつものベンチに腰掛け、雨の中に答えを見出そうと待つだけだ。
長いこと断片化していた俺の心は、物心ついた頃からずっと抱いていた問いへの答えを、雨の感触の中に見出していた。
(何を見ているの?)
母とはよく、雲を見立てる遊びをしたものだ。
公園に行って、芝生の上に寝転がりながら雲を眺めるだけの遊び。
単純なものだったが、俺はそれがたまらなく楽しかった。
(んー……ドラゴンが見える! うん! すっごく大きなドラゴン!)
(ドラゴン!? ママには見えなかったなぁ……小さすぎたのかな……)
(ママのお目々じゃ見えないくらい、大きすぎるんだよ!)
(ふふっ、そうね……)
母は俺を強く抱きしめた。
(でも、お姫様を助けに行くのかもしれない……ドラゴンにもできるかな、ママ?)
(ええ、できるわ。どんなに閉じ込められていても、ドラゴンが力ずくで扉を壊して外に出してあげればいいのよ)
母が微笑み、いつもの力で抱きしめてくれるたび、俺の顔は幸福で満たされていた。目を輝かせて母を見つめたあとに得られる抱擁こそが、俺へのご褒美だった。だが、もう返事はない。
今や雲など、ただの水の循環にすぎなかった。
……
俺はベンチから立ち上がり、再び歩き出した。
何年もの間、人生がこれ以上酷い扱いをしてくるはずがないと信じていた。心の奥底では俺を理解し、他と違うと感じさせるのをやめてくれるはずだと。だが現実はそうなるどころか、誇ることもできず、説明もつかない力を与えられた。
少なくとも、これを知っているのは俺だけだった。
誰かに話す勇気も、人前で見せる度胸もなかった。もしこれが明るみに出れば、俺に向けられる『機械』という言葉が現実味を帯びてしまうかもしれないからだ。
俺は水と心を通わせることができた。
奇妙な対話だったが、確かに通じていた。
まるで生まれてからずっとそこにいて、ようやく俺に話しかける気になったかのように。
それは水だけに留まらなかった。
年を重ねるにつれ、他の元素たちも現れた。
そして、憎むはずだと思っていた火さえも、俺は受け入れていた。
何度も火のせいにしようとした。だが悪かったのは、強い人間でありながら何もしなかった俺自身だ。たとえそのときは子供だったとしても。
防ぐことができたはずなのだから。そうだろう?
誰を欺こうとしているのか。できっこなかった。たとえ、そうだとしても……。
「え?」
進入禁止の通りを、一台の車両が猛スピードで駆け抜けていった。
トラックは二人の人間に向かって突進していた。
男と、幼い少女。
「弱者……俺の……出番か」
その言葉を口にするのは、ひどく骨が折れた。
水に進路を空けるよう命じ、大気を纏って飛び出した。
一秒にも満たない時間でトラックの速度を追い抜き、弱者たちのいる場所へと到達していた。
「え? パパ?」
「坊主? いつの間に……」
その時になって初めて、今回は力を使いすぎて調子に乗りすぎたことに気づいた。雨のせいで感覚が狂っていたのかもしれないが、この辺りは高性能の防犯カメラだらけだ。
くそっ……。
俺は本当にそこまで愚かだったのか。
それとも……今回は雨に呑まれて操られていたとでもいうのか。
その時、トラックが視界に入った。
「パ、パパ? どうしたの?」
少女は足首を痛めていた。
だから二人は立ち止まっていたのだ。
【弱者を守れ!】
そうしている。
俺は二人を守っている。
今の俺なら、二人を退かすことだってできる。
違うか?
できる。だが、やりたくない。
そんな姿を見られたくはない。
【生きろ、息子よ! ただ存在するだけでなく、精一杯生きるんだ!】
なんだ、今の声は。聞き覚えがない……。
「パパ、メイ、こわいよ!」
「大丈夫だ。俺がお前を守る……行くぞ」
男は娘を抱きかかえ、俺を引っ張って動かそうとしたが、びくともしなかった。
恐怖からか、男は俺から手を離し、素早く後ずさった。
「あいつに近づいちゃダメだ」
男は娘を抱え、遠くへと連れて行った。
「おい! そこから離れろ! 危ないぞ!」
父親が俺に向かって叫んでいた。
【生きろ、息子よ! ただ存在するだけでなく、精一杯生きるんだ!】
いや、待て……。
くそっ、あの言葉を言ったのは親父だったのか……。
俺に父親なんていたのか? 完全に忘れていたとでもいうのか?
あの言葉を……どうして忘れていた?
俺はトラックに向き直った。
この男はいずれ激突する。
あの男を救い、そして俺自身を救う方法は一つしかない。
人生ですらなかったこの生を終わらせること。
救済を口実にして、すべてに終止符を打つこと。
だからこれは英雄的でも高潔でもない、この上なく利己的な行為だ。
あの男の死を食い止める唯一の手段は、あのトラックを止めることだ。
【弱者を守れ……】
消え去る前に、それだけは果たそう。
これから起きることを父親と少女に見せないよう、大地に命じて壁を作らせた。
雨の中とはいえ、無数にある街明かりのせいで、二人には刺激が強すぎるだろうから。
この後どうなろうと知ったことではない。
人が集まってきて、この光景を目にしようとも。
「これで、終わりだ……」
両腕を広げ、その時を待った。
(風よ、強大な抵抗となってあの車両を押し留めろ。水よ、アスファルトを摩擦へと変え、急ブレーキの激しい衝撃からあの男を守れ。火よ、エンジンを窒息させて完全に停止させ、大地よ、石の杭を隆起させて完全に阻め)
それでも衝撃は訪れ、元素たちはそれぞれの役目を果たした。
(許してくれ、母さん。もう誰も守れそうにない)
死んだ人間には、もう何もできはしない。
(許してくれ、親父。言われた通りには生きられなかった)
あんたとの約束を果たせないまま、俺は死んだ。
最後に残ったのは、ひとつの思念だけだった。
目の前に現れ、そしてただ消え去った巨大な大気の奔流。
ただの暗闇。
だが、俺は自由だった。




