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暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜  作者: パラレル・ゲーマー
第六部・早く訪れた太平の世編

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第69話 水神様、文官不足に絶望する

 春の日差しが、少しずつ力強さを増してきた頃。


 江戸城の奥深い座敷に、京都所司代・板倉勝重から急ぎの飛脚で届けられた、厳重な封の書状が持ち込まれた。


 上座には家康と秀忠、竹千代。


 下座には本多正純、金地院崇伝、天海、そして俺。


 天下の法を草案した幕閣の重鎮たちが、息を詰めて、その書状の封が切られるのを見守っていた。


 それは、江戸が提示した『武家諸法度』『一国一城令』、そして『禁中並公家中諸法度』の草案に対する、禁裏からの公式な返書であった。


 正純が恭しく書状を広げ、静かな声で読み上げていく。


 その内容は、こちらの予想を裏切るほどに、極めて穏やかなものだった。


『武家を律する法、ならびに諸国の拠点を整理する法については、天下安寧の政として深く理解する。禁裏と公家の職分を定める法についても、朝廷を武家の政争から守るという公儀の趣旨を理解した。文言の細かな調整は必要なるも、概ね差し支えなし』


 さらに、書状の後半には、朝廷側の要望が連なっていた。


『ただし、朝廷の尊厳を守る表現を何よりも重んじられたい。また、禁裏の修繕、古典籍ならびに文物の保護への公儀の手厚い支援を、ここに確認したい。あわせて、京や畿内の古き水路、橋、道、火除けの整備につきましても、公儀のよき支援を相談したく存ずる』


 正純が読み終えると、家康が満足げに深く頷いた。


「大きな反発はなしか。……よし」


「かなり穏やかなご返答にございますな」


 秀忠が、安堵の息を漏らす。


 だが、外交の裏を読む崇伝は、冷徹にその文面を分析した。


「文面のどこにも『公儀の法に従う』とは書かれておりませぬ。朝廷の矜持でございましょう。……ですが、『理解する』『差し支えなし』という言質を引けた以上、実質的には我らの草案を受け入れたと見て間違いございませぬ」


「主上も、公家衆も、あの方広寺鐘銘の一件の恐ろしさを、決して忘れてはおられぬということですな」


 天海が、目を閉じたまま静かに言った。


 言葉一つで戦が起きる。


 その現実を前に、朝廷もまた、現実的な妥協を選んだのだ。


「ああ、良かった……。朝廷側が大炎上して『徳川朝敵!』みたいにならなくて、本当に良かったです……」


 俺が胸をなで下ろしていると、隣の竹千代が、無慈悲に現実を突きつけてきた。


「だが国松。返書の後半にある『京の整備支援への相談』というのは、そのまま公儀の、つまりお前の新しい仕事が増えたということだぞ」


「……見なかったことにしたかったのに!」


 *


 朝廷側だけでなく、諸大名側の反応も、驚くほど順調に推移していた。


 譜代大名は言うに及ばず、警戒していた外様大名たちに事前根回しを行った結果、幕閣が予想していたほどの大反発は起きなかったのである。


「諸大名より、強い反発の声は今のところ上がっておりませぬ」


 正純が、諸国からの報告書をまとめながら言う。


「無論、腹の底では煮えくり返るような不満を抱えている者もおりましょうが……少なくとも、表立って公儀の草案に異を唱える構えを見せる者は皆無です」


「徳川の天下が完全に定まった以上、各大名も、いずれこの程度の厳しい統制は来るだろうと覚悟していたのだろう」


 秀忠が、武家社会の空気を代弁した。


 大坂冬の陣における、徳川の圧倒的な動員力。


 そして、天下人としての豊臣家の没落。


 もはや徳川に対抗できる軸は、日ノ本のどこにも存在しない。


「それに、一国一城令も『全ての城を無条件に壊せ』ではなく、軍事拠点だけを減らし、蔵や水防番所、避難所として残す形にしたからな。領内経営の利が残る以上、表立って反対しにくいのだ」


 竹千代が、俺の提案した用途分類の有効性を指摘した。


「戦の牙は抜くけど、民を守るための爪は残す、ですからね」


 俺が言うと、家康がニヤリと笑った。


「よい。力のみでねじ伏せるより、理屈と利を与えて、相手の側から『受け取らせる』方が、後々よほど楽じゃ」


「……」


 俺は、あまりにも物事がトントン拍子に進むことに、逆に薄ら寒いものを感じていた。


「……なんか、順調すぎて逆に怖くないですか?」


 俺の心の中で、KAMI様がスッと現れて囁いた。


『あんた、よく分かってるじゃない。表の政治が順調に進んでいる時ほど、裏の事務処理の現場が地獄のように爆発するものよ』


(不穏なこと言わないでください!)


 *


 KAMI様の不吉な予言は、すでに現実のものとなっていた。


 江戸の町では、まだ法度が正式に発布される前だというのに、公儀の動きを察知した者たちが、怒涛の勢いで行動を起こし始めていたのだ。


「すでに、剣術、槍術、柔術、弓術を名乗る者たちが、連日のように『江戸での道場開設許可』を町奉行所へ願い出てきております」


 役人の一人が、分厚い届け出の束を抱えて報告する。


「中には、どこの馬の骨とも知れぬ、身元の怪しい浪人や無頼の輩も多く混じっており、公儀の道場として認めてよいか、一件一件の厳密な審査が必要です」


「早い! まだ正式に制度の告知も始まってないのに!」


 俺が悲鳴を上げると、竹千代が冷ややかに言った。


「飯の種と、名誉の匂いに対して、人はどこまでも敏いものだ」


 さらに、相撲興行に関する問い合わせも殺到していた。


「人足や牢人の間でも、『近々、公儀の相撲があるらしい』『勝てば米が出るらしい』『力自慢なら江戸で一旗揚げられる』という噂が、野火のように広まっております。……すでに、勝手に野相撲を始めて賭博を開く輩も出ており、町方での取り締まりが追いつきませぬ」


「うわあ……。また賭博対策と治安維持の仕事が増える……」


 江戸の町中だけではない。


 諸国の大名領でも、動きは加速していた。


「各地の大名より、道普請、橋普請、蔵の整備、水防番所の届け出が、連日のように相次いでおります。田法の支援を受けたい、補助金を得たい、あるいは一国一城令の代わりに『役所』や『蔵』としての認可を早く得たいという思惑が絡み合い、書類が山をなしております」


「相次いでおります、じゃないですよ! それ全部、図面から予算まで確認して審査するんですか!? 一体誰がその膨大な書類を読むんですか!?」


 俺の悲痛な叫びに。


 評定の間は、ひっそりと静まり返った。


 *


 家康は、目の前に積まれたおぞましい高さの報告書の山を見て、忌々しそうに顔をしかめた。


「全て順調……と言いたいところじゃが、水面下の問題は山積みじゃな」


「はい。最大の問題が、今、完全に露呈しております」


 竹千代が、重い口を開いた。


「まず、圧倒的に『文官』が足りませぬ」


「ですよね!!」


 俺は、思わず身を乗り出して同意した。


 本多正純が、疲労の色が濃い顔で首を振る。


「法度草案の細かな文言調整、諸大名からの問い合わせへの返書、城郭の用途分類の図面確認、普請米の支給記録の監査、街道補助金の審査、武芸道場の登録、相撲興行の許可基準の策定、火薬と花火の厳重管理、そして京の禁裏への返書……」


 正純は、深い溜め息をついた。


「……大御所様。これらはどれも、紙と筆を持ち、頭を使って筋道を立てて処理せねばならぬ仕事にございます。腕っぷしだけの者には、到底務まりませぬ」


「武士は山ほどいる。槍を振るう兵もいる。土を運ぶ普請人足も、米を出せばいくらでも集まる」


 秀忠が、幕府の構造的な弱点を指摘する。


「だが。文字を正確に書き、記録を読み解き、筋道立てて文書を整えられる者が……この公儀には、致命的なまでに足りておらぬのだ」


「現代人の感覚だと、お役所仕事には大量の事務員や官僚がいるのが当たり前なんですけど……。この時代だと、本当に文字を読み書きして処理できる人が少ないんですね」


 俺が嘆いていると、視界の端にKAMI様が現れ、テキストで補足情報を流してきた。


『KAMI補足:江戸時代中期以降になれば、寺子屋が全国に広がって、日本の識字率は世界的に見ても驚異的な水準になっていくわ。……でも、今はまだ慶長二十年。江戸幕府がようやく本格的に制度を整え始めたばかりの黎明期よ』


『まだまだ、社会全体に「自分で大量の実務文書を読み書きして、体系的に処理する」という文化は根づいていないの。武士でさえ、一通りの教育を受けていても、複雑な実務文書をきっちり大量に書ける有能な人材は、本当に一握りよ』


(そっか。武士イコール全員が完璧な官僚、ってわけじゃないんだな)


『そもそも、この時代は「代筆」の文化がかなり普通なの。家康も秀忠も、多くの公式な文書は祐筆や右筆と呼ばれる書記官に書かせるわ。偉い人は、自分で全部の書類を書くわけじゃないの』


『むしろ、国松みたいに自分でせっせと管理台帳を書き、項目を分類し、規定案の文面まで自分で作る童の方が、この時代では完全に異常なのよ』


「異常って言われた!」


『ちなみに、あの伊達政宗は、直筆の書状を生涯で大量に残す「戦国一の筆まめ大名」級ね。あれは当時の武将としては、かなり例外寄りの変人よ』


「政宗公、筆まめだったんだ……。花火は持ってくるし、筆もまめだし、キャラが濃すぎるだろ」


『だからこそ、彼みたいに自分で考えて記録を残せる人材は、実務面でものすごく便利なのよ。本人の性格は絶対に面倒くさいけど』


 *


 現状、幕府の圧倒的な事務作業不足を補うため、天海のツテで寺院から僧侶が何人か派遣されていた。


「寺院には、古くより読み書きと帳面の管理に通じた者が比較的多うございます」


 天海が、状況を報告する。


「すでに、懇意のいくつかの寺より、文書整理に長けた僧を何人か江戸へ出仕させ、実務を助けさせておりますが……」


「本当に助かってます」


 俺は心底感謝した。


「僧侶の方々、字がめちゃくちゃ綺麗で読みやすい上に、こちらの指示の文意を正確に理解して情報を整理してくれるので、今の御異物改方における最大の戦力です」


 だが、この「寺院からの人材派遣」にも、当然限界があった。


「しかし、寺院側にも日々の法要や寺領の管理という、人手が必要な役目がございます」


 天海が懸念を口にする。


「それに。……僧が公儀の政治文書に深く関わりすぎれば、いずれ必ず『特定の寺社勢力が幕政を牛耳っている』という歪みを生み出しましょう。また、僧は儀礼や漢文には強いですが、武家や民政の実務の全てに慣れているわけではございませぬ」


「寺の者だけでは足らぬか」


 家康は、トントンと扇子で膝を叩きながら、深く考え込んだ。


 やがて、家康の視線が、先ほど読み上げられたばかりの『禁裏からの返書』へと向けられた。


「……朝廷は、京の整備支援を公儀に望んでおるな」


「はい。禁裏の修繕、文物保護、橋、道、水、火除け……どれも結構な規模の話になります」


 正純が答える。


「だが、それを大々的に進めるにも、やはり『文』を扱う者が要る」


 家康の目が、老獪な光を宿した。


「朝廷には、公家がおる」


「……」


「公家は、和歌、儀礼、古典、文書の作成、官位の作法、古き先例に、誰よりも通じておる」


 俺は、家康の言葉の向かう先に、とんでもない嫌な予感を覚えた。


「大御所様、まさか……」


「公家も、幕府の『文官』として、この江戸で雇用すべきではないか」


 *


 評定の間が、再び水を打ったように静まり返った。


「公家を、この江戸へ呼ぶと仰るのですか?」


 秀忠が、驚きを隠せずに問い返す。


「全員を呼ぶわけではない。交代でよい」


 家康は、すでに頭の中で制度設計を始めていた。


「禁裏の許しを正式に得て、文書や儀礼に通じた公家を、役人として江戸へ招くのじゃ。法度の細かな文言の調整、朝廷とのやり取り、古典籍の保護事業、京の整備計画の記録、官位や武家儀礼の先例確認……。そうした山のような仕事を、彼らの『家職の延長』として手伝ってもらう」


「むろん、江戸までの道中と、滞在費は全て公儀が持つ」


「つまり。公家の『出向』……」


 俺が思わず呟くと、竹千代が反応した。


「出向?」


「ええと、所属は元の京都の朝廷に置いたまま、一定期間だけ江戸の公儀にやって来て、こちらで仕事をすることです」


「なるほど。出向か。よい言葉じゃ。それを使おう」


 家康がニヤリと笑う。


「また採用された!」


 だが、正純がすぐに外交上の問題点を指摘した。


「しかし大御所様。いくら実務の手伝いとはいえ、公家を江戸へ長期間呼べば、朝廷や世間からは『徳川が公家を人質に取った』と受け取られる恐れがございます」


「特に、長期間となれば、妻子まで伴うことになりましょう。となれば、なおさら『人質』の謗りは免れませぬ」


 天海も危惧する。


「それは分かっておる」


 家康は頷いた。


「そこで、名目と待遇が大事になるのだな、国松」


 急に振られ、俺は慌てて知恵を絞った。


「はいっ! 名目は絶対に大事です。『公儀の命で江戸へ差し出せ』なんて言ったら、一発で炎上して関係が破綻します」


 俺は指を折りながら説明する。


「あくまで、『朝廷と江戸の間の、文言の齟齬を避けるための文書・儀礼の相談役』。『京の整備支援を円滑に進めるための、大切な連絡役』。あるいは『古典籍・文物保護の公武共同事業』。『江戸の見聞と、新しい学問の交流』。……そういった、対等で前向きな名目にしてください」


「交代制にするのがよいな」


 竹千代が、制度の枠組みを補強する。


「一つの家から長く一人を江戸に留め置くのではなく、数ヶ月から一年ほどの短い期間で、次々と交代させる。これならば『京の禁裏を空にして公家を奪う』ということにはならぬ」


「滞在費、江戸での屋敷、従者の費用は、当然全て公儀持ちじゃ」


 秀忠が付け加える。


「それと、妻子の同伴は絶対に『強制』にしないで、『希望制』にしてください」


 俺は、人質感を消すための細かな運用を口にした。


「『連れて来い』だと完全に人質ですが。……『希望するならば、奥方やご子息も公儀の費用で江戸へお招きします。活気ある江戸の新しい学問や、祭礼、普請の様子、武芸の道場を直接見聞できますよ』とすれば、それは束縛ではなく、豪華な『文化交流ツアー』になります」


「人質として囲うのではなく、学問と文書のための、華やかな江戸滞在か」


 家康が、満足げに笑う。


「はい。名目と待遇さえ間違えなければ、朝廷の面子も潰さず、実務能力の高い文官を確保できる、かなり使える制度になると思います」


 *


 すると、竹千代がさらに一歩踏み込んだ提案をした。


「ならば。公家本人だけでなく、その『子弟』にも、積極的に江戸を見せるべきです」


「兄上?」


「京の公家が、江戸という町の実態を知らぬまま、ただの田舎だと侮るのはよくない。……逆に、江戸の武家が、京の高度な文と礼の文化を知らぬまま、朝廷の権威を武力で軽んじるのも、国を治める上では非常によくないことだ」


 竹千代の目は、数十年先の日ノ本の形を見据えていた。


「ならば。公家の子弟を交代で江戸へ招き、江戸の泥臭い実務と普請の熱気を見る機会を与える。……同時に、武家の子弟にも、京へ赴かせ、朝廷の厳格な礼法や文の深さを学ばせる機会を作るべきだ」


「公武の、文化交流と人材育成を兼ねるわけですね」


 俺は、竹千代のスケールの大きさに息を呑んだ。


「そうだ。法で縛るだけでは、いずれ必ず軋轢が生まれる。ならば、互いの内情を知る人間を、公儀の金で育てるのだ」


「公家の子を江戸へ。武家の子を京へ。……ふむ」


 家康が、唸るように顎髭を撫でる。


「これを正式な制度にすれば、いずれ公武の間の無用な誤解や齟齬を、根底から減らせるやもしれませぬな」


 正純も、その長期的な効果に同意した。


(公家版の参勤交代というか、官僚の公武交換留学制度というか……。戦国の直後に、かなりヤバいほど洗練されたものが生まれようとしてないか?)


『公武交流ローテーションね。うまく運用できれば、最高のエリート文官育成システムになる。……下手すれば、めちゃくちゃ上品で金のかかる人質制度になるけど』


「言い方!」


 *


 新たな文官雇用制度の仮名称が議論された。


『禁裏文書御用』


『公家文書御用』


『公武文書御用』


『江戸詰公家衆』


『公家御用詰』


「まずは、『公家文書御用』でよいだろう」


 家康が仮の決定を下した。


 内容はこうだ。


 禁裏の正式な許可を得た公家やその家臣を、交代で江戸へ招く。


 期間は数ヶ月から一年。


 滞在費、屋敷、従者費用は全て公儀負担。


 仕事は、公儀の文書の校閲、武家儀礼の確認、法文の文言調整、古典籍・文物保護の専門知識の提供、そして京の整備支援に関する朝廷への連絡役。


 妻子同伴はあくまで希望制。


 公家の子弟の江戸見聞・学問交流を大いに認め、歓迎する。


 代わりに、将来的に武家の子弟の京での礼法学習も相談していく。


 人質と受け取られぬよう、あくまで『協力』『交流』『御用』という名目を徹底し、無理強いは避ける。


 そして、参加して実務を担った公家には、相応の手厚い扶持、米、礼金を支給する。


「……完全に、新しい国家文官制度の種ですね」


 俺が言うと、竹千代が当然のように返した。


「文官が圧倒的に足りぬのなら、外から借りて、同時に中で育てるしかないだろう」


「そうじゃ」


 家康も鷹揚に頷く。


「武士の技を鍛えるための『道場』が必要ならば。……文を扱い、法を整える者を鍛える『場』もまた、泰平の世には不可欠なのじゃ」


 *


 俺は、少しだけ現代人として感動していた。


 武士だけでなく、公家、僧侶、そしていずれは町人まで。


 この国で「文字を書ける人間」が組織的に育てられ、活用される流れができようとしているのだ。


「字を書ける人を増やす仕組みを作るのは、本当に大事なことです」


 俺は、実感を込めて言った。


「水路を掘るのも、道を引くのも、法度を運用するのも。……結局、それを正確に『記録』して残す者がいなければ、どんな立派な仕組みも数年で絶対に立ち行かなくなります」


 俺は、机の上に積まれた書類を指した。


「結局、この泰平の世を根底で支えるのは、鋭い刀の刃だけじゃなくて……文字と、帳面なんですよ」


 家康は、俺の言葉を聞き、静かに笑った。


「うむ。刀の力で強引に戦を終わらせた後は、筆の力で、地道に泰平を保ち続けるわけじゃな」


「ならば。これからの世は、武芸に秀でた者と同じように、正しく筆を持つ者をも、重んじねばならぬな」


 竹千代の言葉に、俺は深く頷いた。


「それは、本当に良いことだと思います。……筆の力が強くなれば、無駄に血が流れることは減りますから」


 座敷に、一瞬だけ、未来への希望に満ちたとても良い空気が流れた。


 だが。


 俺の平穏は、次の正純の一言で粉々に打ち砕かれた。


「では。……まずはその『公家文書御用』の制度案の草案を、国松様にまとめていただきましょう」


「なんで!?」


 俺の悲鳴に、竹千代が冷酷な目で答える。


「お前が一番、公儀の文官不足の危険性と、業務が属人化する恐ろしさを深く理解しているからだ」


「問題を一番理解している人間めがけて、仕事の塊が飛んでくるシステム、本気でやめてほしいんですけど!!」


 *


 俺は泣きそうになりながらも、公儀の文官不足を根本から解決するための「長期的な教育の展望」まで提案せざるを得なかった。


「公家や僧侶の方々を一時的に借りてくるのは、応急処置として非常に大事です。でも、根本的には、この江戸の町で『読み書き計算ができる実務人材』を、自分たちの手で育てる必要があります」


 俺は、四つの案を、白い和紙に書き出した。


「一、祐筆見習い制度。武士の家の次男坊や三男坊、賢い町人の子、寺の小僧などを集めて、公儀の費用で筆、算盤、帳面の書き方、文書の様式を専門に教え込みます」


「二、寺院や町との連携。お寺の持つ学問の機能を使って、近所の子供たちに手習いを教える仕組みを支援します」


「三、公儀文書の『様式統一』。人によって書き方がバラバラだと処理に時間がかかります。誰が見ても一目で分かる型……つまり、定型文の決まりを作ります」


「四、文字だけでなく『算術』の重視。普請米の計算、補助金の割り出し、年貢と蔵の管理には、高度な計算能力が絶対に必要です」


「……寺や町で、広く手習いを教える仕組み、か」


 家康が、その未来の姿を想像するように目を細めた。


「まだ、公儀が音頭を取ってやるには時期が早いかもしれませんが……将来的に、絶対に必要になります」


「泰平の世は、戦場より、刀より、筆が忙しい世になるのう」


『安心しなさい。あんたがこのまま種を蒔き続ければ、後の世の日ノ本は、世界でも類を見ないほど「読み書きが得意な国」になるわ』


(寺子屋文化の発展だな)


『ええ。寺子屋、商家の帳簿、町人文化、そして出版。……文字が社会の隅々まで広がれば、文化も経済も爆発的に伸びるわ』


「それは良いことですね」


『その代わり、字が書ける人が増えれば増えるほど、あんたの部署に届く「書類の地獄」も果てしなく伸びるけどね』


「最後の一言で、全部の希望が台無しになった!」


『文字が増えるってことは、公儀の管理対象も増えるってことよ。頑張ってね』


「そんなこと、言われなくても知ってたよ!」


 *


 最終的に、家康が朝廷への返書の方針をまとめた。


『禁裏からの返書を、公儀としてありがたく受け取った』


『法度の文言調整は、今後とも丁寧に行っていく』


『京および畿内の整備支援についても、前向きに相談し、公儀の力を尽くす』


『その大事業を進めるためにも、禁裏・公家側から、文書や儀礼、古典に深く通じた者を、交代で江戸へ派遣していただきたい』


『江戸滞在の費用は全て公儀が負担する』


『これは決して人質などではなく、法文の調整、文物保護、そして京整備支援を円滑に進めるための『協力』である』


『妻子同伴は希望制とする。公家子弟の江戸見聞も大いに歓迎する』


『武家子弟の、京での礼法学習についても、将来的に相談していきたい』


「……極めて丁寧に書け」


 家康が、祐筆に命じる。


「決して、上から『呼びつける』のではない。公儀が、朝廷の『お力を借りたい』と、そう書くのじゃ」


「大御所様が、下手に出て丁寧すぎて、逆に裏がありそうで怖いです」


 俺が言うと、家康はニヤリと笑った。


「丁寧に、傷つけぬよう大切に囲う方が……雑に荒縄で縛るより、よほど長持ちするものじゃ」


「だから言い方!」


 *


 禁裏からの返書は、概ね穏やかだった。


 諸大名からの反発も、今のところ表面化するほど大きくはない。


 道は整い始め、活気ある江戸には浪人や武芸者が集まり、諸国の大名も公儀の作り出した「補助金」という新しい仕組みに我先に乗ろうとしている。


 全ては、驚くほど順調に見えた。


 だが、実務の世界において「順調である」ということは、すなわち「仕事が無限に増え続ける」ということと同義である。


 法度を作るには、文が要る。


 文を整え、記録を残すには、それを正確に書ける者が要る。


 道を整えるにも、蔵の空きを調べるにも、相撲を開くにも、花火の火薬を管理するにも。


 ……結局のところ、最後は大量の「帳面」と「筆」が絶対に要るのだ。


 刀の力で、戦国は確かに終わった。


 だが、筆の力で泰平を支える実務者が、この国には決定的に足りていない。


 そこで徳川は、寺の僧を借り、公家の文才を借り、やがては町や寺で子供たちに広く文字を教える仕組みの『種』を、江戸の泥の中に蒔こうとしていた。


 戦国の世は、ただひたすらに、腕の立つ強い武士を求めた。


 そして泰平の世は今、正確に字を書ける者を、血眼になって求め始めている。


 俺は、自分の机の上に新しく置かれた、真っ白な草案の束を見た。


『公家文書御用・江戸交代滞在制度案』


『公儀祐筆見習い・育成制度案』


『公儀提出文書・様式統一規定案』


『寺院および町方における、読み書き教育支援の試案』


「……田んぼの水路と泥の管理をしていただけのはずなのに。いつの間にか、国家の『教育制度』まで作らされてるんだけど……」


 KAMI様が、空間の片隅で楽しそうにコロコロと笑った。


『おめでとう。水神様、ついに日ノ本の識字率にまで手を出すのね』


「手を出したくて出してるんじゃないんですよ!!」


 だが、分かっている。


 水路も、道も、蔵も、国家の法も。


 それを正しく運用し、記録する者がいなければ、いずれ必ずどこかで詰まり、腐って崩壊する。


 泰平の世とは、刀を鞘に収めることができる、平和な世の中である。


 そしてその代わりに。


 山のような筆と帳面を、嫌というほど握らされる世の中でもあるのだった。




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― 新着の感想 ―
地下家辺りだったら、喜んで江戸に行きそうな気がする。京都にいても貧乏だから。
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