第1話 死んだ社畜と、特別な力をくれない女神
「お前は普通だな」と、今までに何回言われてきましたか。
その一言にうっすら傷ついた経験のある方へ――本作をお届けします。
戦闘なし、魔法なし、議事録あり。ある社畜の異世界転移譚です。
「あなたに特別な力は差し上げません」
最初に聞こえたのは女の声だった。
俺は目を開ける。
真っ白な空間。床も天井も壁もない。重力だけが、ある。
正面に女がいた。
整いすぎている。人形みたいな顔。冷たい目。
ああ、これは神とか、そういう類いだな。
そう思う。
「あなた、特別じゃないでしょう?」
女神はもう一度、同じ声で言った。
俺は自分の胸に手を当てた。
動いている。
死んだはずなのに。
——死んだ?
意識が一瞬、過去に飛んだ。
***
深夜二時の会議室。
俺は、明日の役員報告に使う議事録を打ち込んでいた。
蛍光灯が、ジジ、と鳴る。
視界がにじむ。
心臓のリズムがおかしい。
それでも手は止まらない。
この議事録だけ書き終わったら休もう。
いつもそう言って休めなかったけれど。
親には、三年連絡していない。
友達と呼べる相手は、たぶん、誰もいない。
同じ部署の同僚でさえ、俺の名前を正しく覚えている人間は半分くらいだろう。
——思えば。
誰の人生にも、俺は登場しなかった。
キーボードを打つ音がふっと遠ざかった。
***
——ああ、そうだ。
俺は、死んだのか。
視界が白い空間に戻る。
女神がじっと俺を見ていた。
「お気づきですか。あなたは過労によりお亡くなりになりました」
「あ、はい。お手数をおかけします」
女神の眉がわずかにひそめられた。
「あなたには、異世界『ロイデン王国』に移っていただきます。魂の循環の都合で、今回ばかりは私の采配では避けられません」
「なるほど、了解しました」
業務指示を受けているような気分で俺は答える。
女神は何かを確かめるようにこちらを見ている。
「通常、転生者には特別な力をお授けします。例えば、剣聖になれる才能。神級の魔法適性。あるいは、賢者の知識……」
俺は期待せず聞いていた。
「ですが」
女神の声から温度が抜けた。
「あなたには差し上げません」
***
「あなたに特別な力は差し上げません」
「だってあなた特別じゃないでしょう?」
白い空間が少しだけ深くなったように感じた。
反論が湧いてこなかった。
怒り、悲しみ、悔しさ。普通なら出てくるはずのものが、何ひとつ出てこない。
ああ、そうだ。
俺はたぶん、ずっと前からそう言われ続ける側の人間だったのだ。
死んだはずなのに心臓が動いている。
なんでだろう。
それでも、女神の言葉はちゃんと聞こえていた。
「あなたの記録を見ました。三十二年間、何ひとつ突出した記録がありません」
「学校では平均。職場では中の下」
「特技なし。趣味なし」
「あなたは本当に、ただの——『その他大勢』なんです」
知っている。
それは俺が一番よく知っていることだ。
***
俺は女神の言葉を頭の中で数秒反芻した。
それから——静かに頭を下げた。
「分かりました。普通でいいです」
「……は?」
女神が初めて人間らしい声を出した。
「ありがとうございます」と俺は静かに続ける。「私のような者に、貴重なお時間をいただきまして」
「普通の人として普通に生きさせていただきます」
「あなたは——悔しくないんですか?」
女神の声から温度がさらに抜けた。
俺の答えを理解したいのではなく、分類しきれないものとして観察している。そういう声だった。
「他の転生者は皆、嘆願したり激怒したりしましたよ」
「『なぜ自分だけ』『せめて剣の才能を』『せめて魔法の適性を』」
「私の知る限り、あなたのようにただ受け入れて頭を下げた人は、誰もいません」
俺はほんの少しだけ、笑った。
たぶん、女神には見えなかっただろう。
「三十二年間、言われ続けてきたので。『お前は普通だな』と」
「慣れてます」
「……」
「それに、特別じゃないというのは事実ですから」
「事実に文句を言っても仕方ないですし」
白い空間に沈黙が流れた。
「ただ——一つだけ、お願いがあります」
「……なんでしょう」
俺は頭を上げて女神の目を見た。
「向こうで、議事録を取らせていただける仕事があれば紹介してもらえると、助かります」
女神が絶句する音が聞こえた気がした。
***
数秒、女神は俺を見つめていた。
何かを言いかけてやめる。
「……分かりました」
女神はやがてそう言った。
「あなたのご希望は、特別な力ではなく『普通の仕事』ですね」
「ご希望に添える場所をご用意します」
「ありがとうございます」
俺はもう一度頭を下げる。
視界が再び白く溶けていく。
最後に見えた女神の顔は——
よく、分からなかった。
ただ、最初に向けられたときよりは、ほんのわずか、人間に近づいていたようにも見えた。
***
視界が定まる。
石畳の路地裏。
空には、見たことのない二つの月。
冷たい、夜の空気。
遠くから、人の話し声と馬の蹄の音が聞こえる。
俺は、ゆっくり自分の体を確かめる。
手も足もある。動く。
生前と同じ服のまま。靴も同じ。
ポケットには何も入っていなかった。財布も、社員証も、定期も、消えている。当たり前、と言えば当たり前だ。
心臓はまだ、動いていた。
——ロイデン王国。
女神はそう言っていた。
その地名が、目の前のこの石畳と二つの月と結びつくのにはしばらくかかった。
知らない場所に放り出された、と考えるから頭が止まる。
知らない部署に異動した、と考え直すと少しだけ気が楽になった。
最初の出社日。最初の打ち合わせ。最初の挨拶。
そういうものは、何度もやってきた。
女神は「ご希望に添える場所をご用意します」と言った。
信じすぎず、疑いすぎず。いつも職場でやってきた配分と同じだ。
俺はゆっくり、立ち上がった。
路地の向こうから、男が二人肩を並べて歩いてくる。
深い色のマント。腰に金属の鞘。すれ違いざまに、香辛料の混じった嗅いだことのない匂い。
二人の男は、こちらをちらりと見て何かを言い合った。聞いたことのない単語が、二つ、三つ、混じる。
でも、語気と目線で、何を言っているかはなんとなく分かった。
——「酔っ払いか」「迷子だろう、知らんが」
その雑な扱いの感触が逆にありがたかった。
ここは、本物の誰かが誰かを面倒くさがっている、生きた街だ。
俺は深呼吸をひとつ。
声をかけるのは苦手だ。それでも議事録を取らせてもらう仕事にたどり着くには、まず道を聞かなければならない。
——とりあえず、状況を聞かせていただこう。
「すみません」
声を張ってみる。
久しぶりに、自分の声をしっかり出した気がした。
第1話をお読みいただき、ありがとうございました。
特別な力を授けないと告げる女神に、「分かりました。普通でいいです」と頭を下げる――そんな主人公・森田朝陽の物語が、ここから始まります。
多くの異世界転移ものでは、ここで剣聖の才能や神級魔法が授けられるところですが、
本作の主人公はそのどれも持ちません。最後まで、持ちません。
代わりに彼が手にしているのは、議事録用の手帳とペン一本だけ。
次話は、王都に放り出された朝陽が、王立図書館にたどり着く話です。明日同じ時間に更新します。
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