7章 (3)
……空が蒼い。とても。
日の昇った鮮やかな光景を仰いで、反対にフェルシアは憂鬱だった。
すれ違う通行人の目もあり、普段通りに努めているつもりだがその心は重い。
それでも意識して姿勢を正した。今の気分にも似た鈍色で塗装された角を曲がれば、目的地へと辿りつく。
「おはようございます」
「お、おはよう」
そこは見慣れたウェルゴールド基地の通用口だった。
支給されている許可証を見せれば、確認を取った門番が下がって通らせてくれる。
ついでに「寝坊か?」と尋ねられ、なんとも言えない気持ちになった。また直前の感情が揺り戻されてきたからである。決して彼が悪いわけではない。
フェルシアは「…いえ、家の都合です」と答えてその場を後にした。
(ただの寝坊だったら良かった…のかしら…?)
彼女は敷地内を小走りに進みながら今この状況に、―――こんな日の昇りきった時間にここを歩かざるをえなくなった理由について考えた。
今日は実習四週目の始まり、週明けの月曜だ。
昨夜は「明朝ゾエグ公爵閣下に面会して頂きます」と侍女から教えられて中々寝付けなかった。
そして今朝。行ってみれば予想通り、軍部での間諜が芳しくないと叱責される羽目になる。一応行動記録と考察について毎日報告してはいるが、幸か不幸か、未だに成果と評されるほどのものは上げられていない。
実習自体は順調だが、機密にやすやすと触れられる環境でないのはこの三週間ではっきりしていた。気は進まないが、情報を得たいなら積極的に忍んで探るしかなかろう。
しかし彼女が気落ちしているのはそれだけではなかった。その叱責の最後にゾエグ公爵から宣告されたことが大きい。
『お前の婚約が早まった』
『それは……』
『年明けだ。学院卒業後はデビューと同時にアランと婚約し、邸へ移れ』
『…分かりました』
「早まった」と。当主自ら出て行きながらついでのように言われたそれが、最も衝撃的な内容だとは。
それだけ言い捨てるとあの男は馬車に乗って行ってしまった。これから領地で客人を迎え、フェルシア達が整えた森にて狩りを楽しむのだろう。
書斎に一人取り残されて思わず呆然としていたが。数秒の後、侍女に促されてやっと自分もそこを出発したのだ。そして、現在に至る。
「……………」
婚約する、ついに。
覚悟はしていたがいざ段階を進むとなる不安と緊張があった。
今までアランのことを散々嫌ってきたけれど、あと数ヶ月で真の婚約者同士になるのだ。
それはまるで燃え盛る炎の中に踏み出すような、自ら灰へと化しに行くような。自分の意志とは反対に整えられていく未来へ身震いがする。
これで本当に彼らの身内になる。婚約はおいそれと解消できるものではない。
貴族同士の婚約ともなれば、玉璽の押された婚約許可証が必要となる。
解消の際にも相応の理由や証拠の提示、そして再び国王の承認が必要となるのだ。教会や役所といった民間の施設でいつでも手続きできるような約束事ではなかった。
それに婚約だけではなくマナーハウスへ移るようにも言われた。姉に近しくなるのは嬉しくとも、今までよりも管理の厳しい日々となるだろう。今まで以上に彼らの研究へ協力させられることも有りえる。
ましてやその次段階である、結婚など。
(…私、今まで思っていたよりも自由だった)
先ほどの小門を境に遠ざかる、ゾエグ公爵の監視役の目を意識しながらそう思った。
確かに八年前から監視される生活を送ってはきたけれど。
平日日中だけは学院内を自由に行き来できたし、必要とあらば帰宅する時間もその時々であった。
それに、この場所にいる間だけは。
青空を背にそびえる建物を仰ぐ。
この巨大な基地の敷地内には、さすがの公爵も手出しができないようだった。
ここで見張られていたことはほとんどない。
初週は視線を感じたが、順次排除されたらしく気配はすぐに消えてしまった。
それにより公爵も諦めたのだろう。代わりに軍部でどう過ごしているか、報告を求められることが多くなったが。
誰も自分を見ていないということが、なんと懐かしい感覚であったか。
しかしそれもあと数日で終わりだ。
来月はいよいよ学院で剣術トーナメント本戦が開催される。その後年末の卒業式を経て…。
「…………」
フェルシアは俯いた。
……あの日、あの一室で。
彼にもらった言葉の数々が脳裏を巡り続けている。その答えは、まだ出ていなかった。
もっと考える時間があればいいのに。時の流れはあっというまに過ぎ去っていくし、遠かったはずの問題は容赦なく迫りくる。
(…早く、行かないと)
そうして悩む間に彼女はやっと本舎の正面に着いた。
目の先の階段を上がれば、いつもの面々が仕事をしているはずだ。明朝に遅れを報告済みではあるが、見習いとしてできるだけ早く顔を出さねば。
そうして考えるのを止めると、束の間立ち止まっていたフェルシアは再び歩き出した。
平静な顔を保ち、沈んだ思いを引きずったまま。
* * * * * * *
「…ねえ、フェルシア。ちゃんと休んでる?」
気配を感じ足音を聞けば、近付くのが誰かはすぐに分かった。
「ルルリエ先輩」
振り向けば、視線の先にあるドア枠に一人の女性が顔を覗かせている。少し眉を下げた表情が自分を見ていた。何だろうか。
資料を写していた手を止め、立ち上がると彼女と向き合った。
「どうかされましたか?」
「ううん。さっきからずっとそれをしているでしょう?少し休憩してはどうかしら」
「これは…。もうすぐ終わるので問題ありません」
そう言って、傍らに山と積まれた資料とそれをまとめた書類を示した。だが、その返事は彼女の求めとは外れていたらしい。
「…そういうことじゃなくってね…」
はぁ、何だか誰かさんを思い出すわ…。と呟かれて怪訝になる。
「……?」
「もういいわ。ほら、私が準備するからそこに座っていて?」
「あの、何をでしょう…?」
「はいはい。ね、上官命令よ。先輩に従いなさい」
そう言われては選択肢などない。机の上に未練はあったがフェルシアはそこを離れた。次に指し示された壁際のソファへと座れば、その間に、「待っててね」と言い置きルルリエは姿を消してしまった。
(何かしら…?)
そう不思議に思いつつも、やはり頭の中は今し方読み込んでいた文章や図式のことでいっぱいであった。
過去の戦歴や因果関係等を記録したその資料は、本日午後一番に他の隊員から手渡された。指示により内容をまとめ始めて早三時間だが、教科書や一般書籍では知れない臨場感あふれる内容に、今や釘付けである。
ちょっとだけ、ルルリエが戻って来る間だけ…と腰を浮かしかけたところで。
彼女は戻ってきてしまった。
「はい、どうぞ」
何故か手にはトレーとそこに乗せられた二つのティーカップが。その一杯を手渡されれば、白くふわっとした湯気が立ち昇った。
「…ありがとうございます」
そこでやっと気付く。
意外なことに、この人は自分のためにお茶を用意してくれたのだと。
一つ瞬き、じいっと手元の透明な液体を見つめてしまった。
するとその様子を見ていたらしい彼女からクスっと笑った気配がする。
「ねえ、教えてあげましょうか?」
自らも隣に腰を落としながら、柔らかな声が言う。
「はい…?」
「今貴女がしようとしたこと、少佐とそっくりだったわよ」




