18.伸ばされた手
「あの……は、どうなって…」
ふと聞こえた声に、当時十三歳のフェルシアは立ち止まった。
(……当主様だわ)
廊下の分かれ道、たった今過ぎようとした先の扉がわずかに開いている。それは重厚な装飾の、領主書斎のものだ。
見回すが、辺りにはフェルシアの他に誰もいなかった。さっきまで後ろにいた侍女も所用で側を離れている。
いけないとは思いつつ、彼女は声のする方へそうっと近付いた。
「申し訳ございません。手は尽くしているのですが…」
扉の緻密な木彫りを目前にすれば、その会話はよりはっきり聞こえた。室内には公爵以外にもう一人いる。
尻すぼみで弱気な声にフェルシアは聞き覚えがあった。姉リーシャの主治医を務める男だ。
「はっ、もう研究に三年も経つがな。一体お前達は何を手こずっているんだ!」
公爵が机を叩いたのだろう。バンッ、と強打する音に慄く。だがフェルシアの頭には大きな疑問が浮かんだ。
「も、申し訳ございません!なにぶん、未知のものでありますから」
「言い訳するな。優秀だと己を売り込んだのはどこのどいつだった…?」
「必ずや、お望みの結果を出して見せます…!!」
「フン。早くしろ、でないと解明の前に実験材料が死ぬぞ?この私がわざわざ持ち帰ってきたものを、無駄にするつもりか」
それと同時にお前達の命も消えるがな、と吐き捨てる声。
「そのようなことは」
「忘れるな。もうあれで最後だ」
聞こえた内容に、少女は目を見開いた。
(研究?実験材料?…それってどういうこと?)
初めて聞く表現だ。あの医者は研究者でもあるのか、それとも医者というのは嘘か。
そして…三年と言っていた。それはちょうどフェルシアとリーシャがこの邸へ来た時期と重なる。
そこで彼女は遠くパタン…と鳴った音に気付く。
フェルシアは慌てて元の位置に戻った。間もなく侍女が戻ってきて、また二人で静々と廊下を歩く。
赤青の瞳の奥に芽生えた疑念を抱えながら……。
* * * * * * *
「…ああ、あれかな。岩が二つ見える」
その声でフェルシアは顔を上げる。…なぜか今、ゾエグ家での過去を思い出していたが、もう森の東端へ着いたらしい。ライナスの視線を追えば、そこには低木よりも大きな岩が並んでいた。だが…。
(すごい匂い。獣の死体でも溜まってるの…?)
小さく返事をしたきり黙る彼女をライナスが覗き込む。
「…大丈夫か?」
「いえ、あの……どうしてこんな匂いがするんでしょう…?」
ずっとここにいると気分が悪くなりそうだ。今朝、朝食を食べなくてよかった。
「そうだな…。もう近いだろうから、すまないがもう少し我慢できるか?」
「はい。あの……」
一体何を、と疑問の募るフェルシアを背に、ライナスは飛びかかってきた魔獣を一刀両断する。
ザシュッ、と軽快な音がして獣の首と胴体が別れ、ドッと黒いものが二つ地に落ちた。
何度目かの光景にフェルシアは瞠目する。早業すぎて目で追うのがやっとだ。
(すごい……やっぱりこの方は、強いわ)
赤黒い断面がピク、ピクッと痙攣し、血を滴らせる。それを見たフェルシアは異様な匂いも忘れて感嘆した。
この場にいたる道のりで、ライナスはこうしてほぼ一撃で魔獣を蹴散らしてくれた。それはフェルシアの予想以上の実力で、背後の自分へ脅威を寄せ付けずに。
こんなに綺麗に首を落とす人は初めて見た。肉どころか太い頸部も断つ必要がある。筋力だけでなく、高い技術が必要だ。
そうしてライナスが道を拓くたび、フェルシアの彼を見る目が変わる。そうしていつしか、獣の死骸とライナスを見比べ、ほぅ…と尊敬の念を送りながら。彼女は引き続きその後ろをついて行った。
「…ここか。ああ、フェルシア」
「……はい?」
ピタリと足を止め、ライナスが振り返る。見上げた紺藍の瞳はひどく真剣だった。
じっと見つめられたフェルシアは、いよいよ彼の目的が近いのだと察知する。
「この先に匂いの元がある。…と言えばわかるかもしれないが、きっと見るに耐えない光景だ。……死んでいるのは、獣ではない」
フェルシアは固まった。それはまさか。
「君が知らない、ゾエグ公爵の秘密を見せてあげるよ。だから覚悟して欲しい。……できるか?」
「……は…い。わかりました……」
重々しく告げられ、彼女はぎこちなく頷く。だが頭の中は疑問ばかりだった。
「獣ではない」「ゾエグ公爵の秘密」……全て、不穏でしかない。
フェルシアの反応を確認し、ライナスが「行こう」と呟く。そうして二人が足を止めたのは、とある穴の淵だった。
ザ…と剥き出しの土を踏み、ライナスが目を眇める。
その隣でおそるおそる眼下を覗いたフェルシアは息を止めた。
木々の合間にぽっかりと空いた空間。深い森に隠すように設けられた大穴は幅広かつ、高さも大人三人分ほどあった。
その中で動いているものがいる。魔獣だ。
見慣れた四つ足が、何匹も底に降り立って徘徊していた。だが歩いているのは少数で、ほとんどは穴の右端に集まっていた。
その光景にフェルシアは固まった。
(………たべてる………)
ガツガツと、同じ場所に顔を伏せ、不規則に首を振る獣達。全部で二十匹はいるだろうか。
それらが群がり、乗り上げているのは―――人の死体だった。
見間違いではない。フェルシアは人より目がいいので、その詳細がよく見えた。すでに色々と変色して判別しにくく、男女も様々のそれらが、次々と荒らされていくのを。周辺に転がる無数の白い骨が、この場が一時的なものでないことを彼女に伝える。
大穴の底に山と積まれた腐乱死体とそこへ嬉々として魔獣が飛び付き、貪る、異様な光景。
フェルシアの目には赤く溜まった魔素が時折の風で吹かれていくのも視えていた。
黙って目を見開く彼女に静かな声が落とされる。
「…フェルシア?」
「ぁ………は、はい…!」
ライナスだ。フェルシアは隣からの真っ直ぐな視線へピクッと震える。
一瞬、彼がいるのを忘れていた。
「あの、ライナス様。あれは……?」
フェルシアは思い切って尋ねた。魔獣が人を食べるのはわかる。だが状況がおかしい。そもそも、どうしてこんな所に死体の山があるのか。
するとライナスは慎重に口を開いた。
「あれは、とある研究の実験体になった人々だ。彼らが最後にはこの穴に遺棄され、結果的に魔獣の餌になっている」
「研究……。もしやそれをゾエグ公爵様が、というお話でしょうか…?」
フェルシアはハッと直前の話を思い出す。だがライナスは目を眇め背後を示した。
「…説明をしたいが、ここは危ない。少し移動しよう」
彼の促しで、二人はその場を離れる。異様な光景から目が離れ難く、フェルシアは大きな手で背を押してもらい、やっと震える足を踏み出した。
しばらく行き、辺りの魔素も薄れたころ。そろって川辺の岩に腰掛け、フェルシアがそっと口を開く。
「……ライナス様が『見たいもの』とは、あのことだったのですね」
「ああ。一度自分の目でも確かめたかったんだ」
「あの…ですが、なぜそれをあなた様が…?公爵様の研究とは…」
そして、どうしてフェルシアにも見せたのか。様々な疑問が渦巻き、彼女は戸惑ってライナスを見上げた。
だが彼はすぐには答えをくれず、じっとこちらを見下ろす。
「その前に聞くが。君は本当になにも知らないのか?」
その問いにフェルシアは怯んだ。
彼女は知っていた。ゾエグ公爵が何事か探求していることを。そしてそれが、フェルシアとリーシャの姉妹に関連し、長い間公爵を煩わせていることも…。
迷ったフェルシアは小さく切り出した。
「…あのお方が、なにか調べてらっしゃるのは知っています。ですが、あれと関係があるかは…」
しかし考えてみればわかること。ゾエグ公爵のしている―――薬や治療法の開発とは、一般に多くの動物実験や治験協力の上で成り立つ。失敗し、人的被害が出ていてもおかしくはない。だが。
「それに、亡くなった方々を…あんな…。あれでは……」
大量の死者を想定したように掘られた穴、そこへ投棄された遺体と群がる獣達。
無残すぎて言葉が見つからない。もう研究以前の問題だ。
声を震わせ、俯くフェルシアの隣で口を開く気配がした。
「…その被害家族の嘆願から、私はゾエグ公爵の行いにたどり着いた。もとは国内の行方不明者を追っていたんだが、今は陛下からも正式に命を受け、全容の解明を急いでいるところだ」
フェルシアは瞠目する。やはりこれは大事だ。公爵の一人、ライナスに王命を下すほどの。
驚く彼女へライナスは淡々と説明する。
「公爵が研究を始めたのは十年も前らしい。だがあれはいまだに医療研究として正式な認可もない違法なものだ。その規模は徐々に大きくなり、人体実験も厭わず行うようになり……今ではあれほどの犠牲者が出ている」
特に被検体として招集されるのはゾエグ領の領民のため、領内では働き手が減り、ここ数年税収が減ったという実態もある。…と語るライナスの声は静かだった。
だがそこに込められた怒りが、フェルシアには手に取るようにわかった。これは人殺しと同等だ。民を守る貴族がやることではない。
「…フェルシア。我がオリヴィエ家の名にかけて、この話が偽りではないと誓おう。その上で、改めて聞かせてくれ」
代々軍の高官や議員を務め、堅実を地でいく家名をも示され、この話の信憑性がなお高まる。続く言葉にフェルシアは息を止めた。
「君は研究の協力者か?」
ゆるやかな風の中、王命を負った問いが重々しく響く。
きっとライナスも命がけだ。天下のゾエグ家に下手を打てば、己が家の没落を招く。
目前の真っ直ぐな瞳に、フェルシアはこの二週間で見た彼の笑顔が蘇った。
「…わかりません…。ですが増えた魔獣の処理も罪とあらば、私もそれにあたりましょう」
結果的にフェルシアは後始末を引き受けていた。それだけは確かだ。ライナスはその実態を見せたくて、わざわざ自分をあの場に誘ったのだろう。
「なら、研究の内容を知っているか?」
フェルシアは口籠った。人命のかかった話だ。正直に言えとフェルシアの道徳心が騒ぐ。だが……。
(なにがどう姉様に影響するかわからない…)
この期に及んで家族一人を天秤にかける己がいた。しかしリーシャはただ残された肉親。突然のことに、フェルシアはまだ彼女を斬り捨てる覚悟を持てない。
「……すみませんが、これ以上は。私は公爵家の内情を明かす立場にありません」
「フェルシア、君も貴族ならこの捜査に協力する義務がある。君から得た情報は決して口外しないし、協力してくれれば身辺の安全も保障しよう。……それでも、公爵に逆らうのが怖いか?」
内心を言い当てられ、フェルシアはひやりとする。ライナスはどこまで知っているのかと。
「そのようなことはありません。あのお方は私に大変お優しく…」
「本当に『お優しい』人間ならこんな事件は起こさない。…それに君は公爵の心証をひどく気にしているようだ。今も私といるのを見られたらまずいんだろう?」
フェルシアは思い出した。数時間前、彼の名を呼ぶ前に揶揄されたことを。
「妙な憶測を避けるためです。アラン様との婚約の件もありますので」
「そうか。だが、それだけかな?」
なにが言いたいのかと、フェルシアは警戒する。するとライナスは黒いフードの下でフッと目を細めた。
「公爵と取引しているだろう?君が求めるものの替わりに、彼の望む通りに振る舞うと」
彼女は表情を変えぬよう努めた。こんな場面で己の弱みを晒すなどありえない。だが無意識に強まる視線は止められず、二人はいつしか立って向き合っていた。
「おっしゃっている意味がわかりません。証拠があるのですか?」
「…そうだな。物的証拠はない。だが」
その言葉に、一瞬ホッとしそうになるフェルシアへ。次いだ彼の言葉はどこか場違いだった。
「君が大切にしそうなもの、と考えるとおのずと見えてくるだろう?」
「え………」
じっと見据える赤青の瞳に、見慣れた穏やかな笑みが映る。どうしてここで笑うの、と思う彼女の耳へ考えるような声が響いた。
「この二週間、君は実習として真面目に務めてくれたが、私は側で見ていてとても興味深かった。将来が約束されているのに、君はなに一つ嬉しくなさそうだったからな」
近衛騎士団への入隊と公爵令息との結婚が決まっているフェルシア。派閥の鞍替えによる逆風はあるものの、学院では実力を示し、毎日優雅に公爵家へ通い、令嬢として申し分ない日々を送っている。
「とすると、君は権力や地位を欲する人間ではなさそうだ。学院で私が誘った時も、顔に『面倒だ』と書いてあったのには笑ったな」
人にあんな反応をされたのは初めてだ、と嘯かれフェルシアは焦った。そんな。あの時はちゃんと真顔を装ったはずで…。
「そ、そんなことは決して。ご不快にさせてしまい申し訳ございませんでした」
「…ああ、冗談だ。もともと君の事情を考察していたから、私にはそう見えた、というだけの話だよ」
もしかしてライナスは人を揶揄う性分なのでは?とフェルシアは疑った。真面目な話と思いきや、彼女は眉を寄せる。
すると彼は今度こそおかしそうに小さく笑った。
「すまない。君はつい揶揄いたくなる。どうしてだろうな」
「…私におっしゃられても、困ります」
知りません、と言いそうなのをすんでこらえる。
フェルシアだって、こんな風に接してくる人は初めてだ。ライナスといるといつも調子が狂う。
「まあ、話をもどそうか。……ゾエグ公爵はひどく強権的な人物だ。今君が得ているものは全て『押し付けられた』と考えれば、その反応にも辻褄が合う。その代わり、君が負った代償は大きかっただろうが」
代償。フェルシアは領地の委任統治のため、無理矢理書面へサインさせられた日を思い出した。あの瞬間、自分が自由でいられる場所はなくなり…覚悟が決まった。
「君は故郷をとても大切に想っていそうだ。だが、それを差し出してまで守りたいものは…」
次の言葉が予測でき、フェルシアは静かに首を振る。会って浅い相手にまで読まれてしまうのでは、己はどうしようもない。そう思って。
「………私に、もう家族はおりません」
俯き、小さな声は絞り出すようで。フェルシアは己に戸惑う。今更、どうしてこんな声が出るのか。
「…それについては非常に残念に思う。挨拶が遅れたが、お悔やみ申し上げる。…辛かったな」
「いえ……ありがとうございます」
心からの弔辞。フェルシアは一瞬、泣きそうになった。誰かと家族の話をしたのはいつぶりだろう。
以前ルルリエにも思ったが、やはり彼らのいる世界はとても優しい。
「…なあ、フェルシア。本当にそうなのか?」
まだ話は終わっていないと、ライナスが語りかけてくる。フェルシアは俯いたまま答えるが、疑問ばかりだ。
公表されている事実。それ以上のことを、彼は掴んだというのか。黒布の下にある肢体が強張る。
「君は…ずっと姉のリーシャ嬢のことを気にしてはいないか?彼女のことでなにかあるんじゃないか?」
「……それは……どうして、でしょう……?」
彼は「証拠はない」と言っていた。それなのに、どうしてそう指摘できるのだろう。それもちゃんとリーシャを念頭に置いて。
ますます疑問が深まり、フェルシアがそっと顔を上げると。ライナスは……とても静かな表情をしていた。
「…二年前に階段で倒れた、あの時に君が言ったんだ。―――……『姉様』と」
赤青の瞳が見開かれる。
そんなことフェルシアは知らない。覚えていない。
「あの後、捜査をしていて気付いた。君の兄姉の…体は見つかっていないと聞いた。ならリーシャ嬢は生きているのかも、と。…もし彼女が公爵の人質になっているなら、君の行動にも説明がつく」
始めフェルシアに優しかったゾエグ公爵は、グローリーブルー領内で両親の遺体を埋葬した。だが兄姉と他の親族は見つからないと言われたし、世間的には今もそのままだ。それを生きているかも、と捉えてくれる人間が他にいるとは……。
フェルシアは信じられない気持ちで目の前の彼を見た。ライナスはそっとかがんで自分と目を合わせ、手を差し出す。
「頼む、フェルシア。私を信じてくれないか?声をかけるのが遅くなって本当にすまない。今更かもしれないが、もし君が困っているなら…助けたいんだ」
(たすける………)
その四文字は、まるで初めて聞く言葉のようだった。
同時に、彼の性格を知った時「初めて出会うタイプの人」と評したのは間違っていなかったと知る。
絆されてはいけない。騙されるから。
信じてはいけない。裏切られるから。
…いくら内心でそう唱えても、この大きな手を取りたくなる。そんな頼もしさが彼にはあった。
フェルシアの事情へ真剣にかけ合おうとする大人なんて初めてだ。
彼女はまた顔を伏せた。見ていられない。自分はこんなに真っ直ぐに見てもらう人間ではない。数多の死者を出した、人体実験の原因かもしれないのに。
ぎゅっと両手を握り、フェルシアは口を開く。
「…大変驚きました。ライナス様ほどご優秀な方でも、読み違えることがあるのですね」
彼女はやっと息をした。窮地にあるほど人はなにかに縋りたくなる。己へそう言い聞かせて。
「全く違います。ご期待に沿えず残念です」
この手を取った先は今よりも幸福な未来だ。フェルシアにそうは信じられない。
断言すればライナスは手を下ろして苦笑した。真剣だったろうに、気分を害した風もなく。その反応にもう意外性はない。だがそれでもフェルシアはその顔に見惚れた。
「…そうか。だが、捜査協力の件は考えておいてくれないか?今は公爵に関する情報が一つでも多く欲しい」
「それは…。私が公爵様にお伝えするとは思わないのですか…?」
「君はしないよ。あれを見て、できるわけがない」
即答されて彼女は瞠目した。彼は自分を見抜いている。フェルシアが心からあの大穴の光景に衝撃を受け、遺体となった人々を悼んだことを。
同時に姉一人を守ろうとする己が矮小に思え、フェルシアは力なく答えた。
「……わかりました。少し、考えさせてください」
そう言って背を向ければ、ライナスがまた声をかけた。
「ああ。…フェルシア。君が助けを求めるなら、私はいつでもその手をとろう。覚えておいてくれ」
静かで、穏やかで。彼そのもののような響き。
それはゆっくりと体に沁み、森を抜けた後も、いつまでもフェルシアの中に残り続けた。




