17.変な人
つんつん、と触ってみたがもうソレは動かなかった。
(……もう駄目ね)
フェルシアは呆れて手を下ろし、周囲を見渡す。
並び立つ木々、そこかしこの青い茂み。ここは森の中だ。深く、人気がなく、こんな風に―――目の前の男のように、気絶してよい場所ではない。
数歩先には獣の死骸があった。先ほどまで二人を襲っていたそれは、今やピクリとも動かない。フェルシアがとどめを刺した。
だがいまだこの森は危険だ。このままだと彼はまた魔獣に襲われ、帰らぬ人となる。
フェルシアは溜息と共に草地へ膝をついた。このままでは己の寝覚めが悪い。
(これぐらいで驚くような人、どうして雇われたのかしら)
倒れたのはフェルシアの従者だった。しかし魔獣狩りの最中、少し大きな個体を見たくらいでこの様とは。人選を間違っている。
そこで男を安全な場所へ置きにいこうと、フェルシアが手を伸ばした時だった。
「手伝おうか?」
パッとフェルシアは振り返った。
自分以外の声。しかし信じられない。この声は…。
「あなたは……」
なぜここに、とフェルシアは開いた口が塞がらない。この人は、ここにいてよい存在ではない。
「…やあ、フェルシア。休日なのに君も忙しいんだな」
「オリヴィエ少佐…。どうして…」
ガサッと茂みを越え、フェルシアの目前に現れたのは背の高い人影だった。黒いマントとフードで身を隠しているが、その背格好と声は間違いなく彼女の知る人物だ。
突然の登場にフェルシアはゴクリと息を飲む。ここはゾエグ公爵領内だ。対立派閥の人間、それも当主が気軽に出入りしてよい場所ではない。
「ちょっと用事があってね。ついでに君の仕事ぶりを見にきただけだよ」
何気ない口調。だがその台詞はフェルシアの役割を知っている風だった。彼女は警戒し、ジリ…と後退る。
「…あなた様がここにいることを、ゾエグ公爵様はご存じなのですか?」
「知らないだろう、言ってないからな。…そこの彼は気絶してしまったし、君が黙ってさえいれば、最後まで知らずに終わるさ」
両者は静かに見つめ合った。同じくフードを被る下で、赤青と紺藍の視線が交差する。
(…もしかして、この使用人が私の『監視役』というのも気付いて…?いえ、それはないわよね…)
フェルシアは密かに慄く。実は倒れた人物は、日常の侍女と同様で己を監視し、ゾエグ公爵へ報告するのが役目だ。それを示唆された気がして落ち着かない。
そこで取るべき行動の一つをフェルシアは口に出す。
「…私について来てください。ゾエグ領の騎士団へ出頭していただきます」
本人いわく、ライナスは領内へ忍び込んでいる。だが案の定、相手は薄く笑うのみだった。
「それは困るな。私にもこれから用事があるんだ」
「用事…?しかし、あなたほどのお方が一人でここにいるのも問題になりましょう。しかるべき手続きを踏み、戻っていらしては?」
「手続きだって?そんなことをしては、俺が見たいものは見られないよ」
説得に意味はなく、逆に彼はフェルシアへ言い聞かせるように嘯く。
「…フェルシア。君もきっと興味があると思うよ。それで声をかけてみたんだが、どうだ?少し、私と一緒に来ないか?」
彼女は目を瞬かせた。
(『見たいもの』……?)
ライナスになにか目的があることはわかった。だが、自分を連れて行こうとする意味がわからない。
それでも彼に引く気はないと悟り、フェルシアは観念した。自分に彼を拘束する実力はない。どの道ゾエグ公爵へ報告する間、ライナスは野放しになる。
彼女は取るべき行動その三、を選んだ。
「……わかりました。ですが、絶対にお一人では動かないでください。その後に、騎士団へ来ていただけますか?」
「悪いが約束はできない。だが、これから私の話を聞いて、それでも公爵に言うべきだと思うなら好きにしてくれ」
予想通りの答えにフェルシアは溜息をつきそうだった。しかし悔やんでも仕方ない。自分がゾエグ公爵に怪しまれないためにも、ライナスをしっかり監視せねば。
結局、二人一緒に行動することになる。倒れた使用人を森の端に移動させ、立ち上がるライナスにフェルシアは問うた。
「これからどこへ行かれるのですか?」
ここを真っ直ぐ行けば人里だが、今は目立つ真似をするとは考えにくい。
「森の東側だ。実は私も現地に行くのは初めてでね。『大きな岩が二つ並んだ所』と聞いたんだが、わかるか?」
「東…?すみませんが、そこは私も行ったことがありません。特に危険だと、騎士団も立ち入りを禁止されていますので」
「そうか…。安心してくれ、君のことは私が必ず守る。とりあえず行こう」
事もなげにそう言われ、フェルシアは不思議な気分になった。
守る、と言われたのは初めてだ。自分は物心ついたころから剣技を叩き込まれ、その才能を開花させ、今でも戦闘においては男性と同等以上に扱われる。
確かにライナスの方がよほど強いだろうが、耳慣れぬ響きだ。
また二人で森に戻りながら、ライナスがふと尋ねる。
「ここでなにをしていたのか、聞いてもいいか?」
「…ご覧の通りです。来週、公爵様がこの近くで狩りをなさるそうなので、その準備を」
秋も深まり、狩猟シーズンも真っただ中。しかしさすがに貴族が遊びで追うのはキツネや兎だ。その下準備で魔獣を掃討していたと返せば、ライナスは目を伏せた。
「それは嫡子と婚約する令嬢にさせることではないと思うが…。君はそれでいいのか?」
「…公爵様は私を評価してくださっています。それに領内の秩序のためとあらば、私も喜んでお手伝いいたしましょう」
疑問は今更だった。フェルシアはゾエグ公爵の命令に従う、それまでだ。
ここ数年、彼女は騎士団と共に強制的に「準備」に参加させられている。疑問といえば、今年は去年より倍の魔獣が跋扈していることだが…、考える意味はあるまい。
その答えにライナスも軽く肩をすくめる。
「それで君は戦闘に慣れてるんだな。この間の疑問が解けたよ」
するとライナスは先週の行軍演習について口にした。あの時のやりとりを思い出しフェルシアはハッとする。
「その節はご容赦を…。ここでのことは公になっていませんし、積極的に言うものでもありませんので」
フェルシアがここにいるのは限られた者の秘密だ。公爵家に入る娘が魔の血で汚れているなんて、社交界で外聞が悪いから、らしい。
「もちろん。だが、なにも隠す事はないと思うがな。君の実力だろう?」
「…ありがとうございます」
いつもの微笑みを向けられ、フェルシアは少しホッとした。
魔獣の相手などフェルシアには今更だ。
子供のころ、グローリーブルー領の野山ではよく獣が出没するので、外遊びでは必ず剣を持たされた。それをゾエグ家に来て「穢れている」と評され、蔑みの材料にされていたが、ライナスの考えは違うらしい。
武門同士、通ずるものがあったようで少し嬉しくなる。
(魔獣の対処は軍の仕事。でも、それを任せきりの人達に批判されるのもおかしな話だわ…)
ゾエグ家の形成する一大派閥は都で優雅に暮らす上位貴族ばかり。王に侍る近衛はともかく、街の治安維持や田舎の安全を守る軍は「汚れ役」と認識され、それを担う下級貴族と平民も同じ人間に見えないらしい。
だからフェルシア達姉妹の扱いも散々なのだと、俯きそうな顔を上げ、フェルシアも質問しようと口を開く。だが。
「あの、閣下も…」
「ああ。名前で呼んでくれないか?ここは軍部じゃないんだ。そう呼ばれると変な感じだ」
「え………」
フェルシアはポカンとした。固まっているとライナスが「駄目か?」と首を傾げる。
その親しげな仕草に彼女は我に返る。
「…では、オリヴィエ公爵様は」
「下の名がいいな。呼んでくれないなら、今すぐ公爵邸に行って、君と私の親密さを見せつけようか」
「ライナス様は、なぜこちらに?…なにをお探しなのですか?」
後ろめたいのは侵入者のライナスの方なのに、なぜ自分が脅されているのか。激しい疑問を覚えながら、フェルシアは早口で訂正した。
困る。政敵を見張っていたつもりが、ゾエグ公爵に「二人で何か企てていた」と責められては。
そうして焦れば、また笑われると思ったのだが…違った。ライナスはスッと目を細め、真剣な顔をする。
「この先にあるものを見ればわかるよ。…少し、景色が変わってきたな」
「あ……はい。そうですね…もう、立入禁止区域に入ったと思います」
淀む空気を二人は敏感に感じ取った。木が生い茂るのは変わらないが、鳥の囀りも消え、代わりに遠く蠢く複数の気配。フェルシアもこちらに来たのは初めてだが、いつも近づくたび、嫌な臭いと……この濃厚に漂う魔素が視えていた。
魔素。これは魔獣から立ち昇る霧のようなものだ。通常は目に視えず、長時間吸い込めばあてられて気分が悪くなる。
だがフェルシアに限ってはこれが視えた。木々の間をふよふよと漂うそれは、彼女の右眼に似て赤く、近くに魔獣がいると教えている。
(他の場所とは密度が違う…。やっぱりここから魔獣が溢れているのかしら?)
二人は同時に剣を抜いた。
シャラッ…と鳴った涼やかな音にフェルシアは驚く。ライナスも同じ考えであったとは。
「目的地はもっと先だ。注意しよう」
隣で長剣を構える姿をフェルシアは頼もしく感じた。彼は国内でも一、二を争う剣豪だ。連綿と続く武家の当主、それにこれまた強いと有名なガーランド元帥に師事したという。
その剣捌きを間近にできるチャンスだと、彼女は密かに期待し目先を指さした。
「あちらは川のはずです。東なら、こちらに行きましょう」
「わかった。…私の後ろにいてくれるか?もしもの時だけ戦ってくれ」
「…?いえ、私も一緒にやります」
ここで妙なせめぎあいが発生する。ライナスがかすかに眉を寄せた。
「いや…私に任せてくれ。君のようなご令嬢が、危ないよ」
「あの…?ライナス様、私もさっきまで魔獣を討っていましたので…」
フェルシアもいよいよ首を傾げる。戦闘を止められたのは初めてだ。こんな森の中でまで紳士的にせずとも、誰も見ていないのに。
「だが、危険なのは変わりないだろう?後ろで打ち漏らしがないか、注意してくれるだけでいいよ。それにこんな所まで誘ったのはこちらだ」
対するライナスも、堂々と己に並ぼうとする彼女に違和感が拭いきれなかった。
ここは軍ではない。フェルシアの実力はともかく、まずは男の己が対処すべきだ。そう思っていた。
一瞬沈黙が落ち、両者見つめ合う。
やっぱり少佐は変な人だ、そう言わんばかりのフェルシアの顔を正確に読み取り、ライナスは仕方なく声音を落とす。
「…フェルシア。私の矜持を守ると思ってここは一つ、譲ってくれないか?」
「あ…は、はい。わかりました」
フェルシアもハッと我に帰った。そうだ、ライナスは別に自分が弱いと言っているわけではない。
一般的に戦うのは男性の役目。それを差し置いては、彼を侮るようなもので…。
考えが足りなかったと、フェルシアがサッと数歩引く。それを見てライナスは褒めるように微笑んだ。
「ありがとう。…では行こうか」
「はい」
踏み出すライナスに合わせフェルシアも離れずついて行く。
迫る危険から守るように立つ、大きな背を不思議に思いながら。