下
後半です。
目覚めてすぐやることはキスである。ぺしゃんこになった風天小鞠をずるずるとベンチの上まで引きずっていった。破かないように慎重に道を選んだ。ベンチの上に皺のよらないように広げるとキスをした。キスをする前に思い切り空気を肺に溜め込んでおき、キスと同時に、ふううっと息を送り込む。目や鼻や耳の穴から空気が逃げ出そうとするから、鼻から上の部分はまとめて握っておいた。風天小鞠の喉仏のあたりが、ぷっくり浮かんで、もう一度空気を送り込むと、そのぷっくり浮かんだ部分がちょっと縦長になって首元まで広がった。もう一度。もう一度。もう一度。途中疲れたから、空ちゃんを仰いだ。空ちゃんは、湿疹も治り、仄白く輝いていた。空ちゃんが毎朝飲んでる美味しい牛乳が空ちゃんの透明な体内を揺蕩っていた。空ちゃんの食道は、大抵いつも、西から東へ伸びている。太陽は空ちゃんの肉体を焼き焦がし穴開けながら好き勝手に転がっている。月は太陽が開けた穴を太陽の後を追うように転がっている。何をしているのか忘れてしまった。俯くと風天小鞠がいた。自力で呼吸を始め、さっきよりも少し膨らんでいる。急いで、鼻から上を握っていた左手を放す。なんだか、ひどい暴力を振るっていたような感触が左手にあった。しわしわだった鼻から上が、少しずつはりつやを取り戻して行く。中学生にしては妙に大人っぽい風天小鞠の顔貌が回復して行く。
「おはよう」
「おはよう」風天小鞠は、おはよう分、小さくしぼむ。
「あのさ」
「なに」
「いい天気だね」空ちゃんの両親にお金がなく、空ちゃんが好きなだけ美味しい牛乳を飲めなかったのだ。そう考えると、ちょっと空ちゃんがかわいそうだった。
でも、二日間もいい天気が続いたということは、嘘太郎に会えるということだった。その前に、ハゴロモ連山を散策してもいい。久しぶりに羽客神社で遊ぶのもいい。
「朝ご飯にする?」と私。
「ごめんなさい。もう食べてます」と呼吸を繰り返しながら風天小鞠。
「それもそうだね、食べよ」食べる前に、ハゴロモ川で口を漱いで、それから、屋根付きのテーブルの上においた木箱から鯵のヒラキを取り出した。ずっと前に、おばあちゃんからもらったものだ。再び、焚き火を熾して、それを炙る。美味しそうな匂いにつられて、浮かび上がった風天小鞠が、こちらまで流れてくる。「あのさ」
「なに」
「小鞠ちゃんは、なにをしてるの」
「なにってなにですか」
「空気女になった今、普段なにしとんのかなって思って」風天小鞠はちょっと固まった。聞いちゃいけないことだったのかなって一瞬思った。アジだけじゃ、お腹が減るから、片手を伸ばし、漬物壺から、胡瓜を摘まみ上げる。保存食が中心だから、塩辛いものばかりになってしまう。ご飯が欲しいけれど、あるのは堅焼きのパン。堅焼きパンを薄くスライスして、フランクフルトのウィンナーのように胡瓜を挟んで食べてみようか、と思案する。思いついたことは試したくなるから、事故が起きるまで進んでしまう。風天小鞠に、持っててとアジを渡し、胡瓜を咥えながら、堅焼きパンをナイフで肉厚に切り取った。挟んで食べた。「なんですか。それ」と風天小鞠。「ふふふ」と私。
なんの話をしていたんだろう。
「なにも、していませんね。空に浮かんでみたり、ビルの屋上からビルの屋上へ散歩してみたり、肉の方の私と口論したり、中学校の校門まで行ってみたり、いろんなことに飽きたら家でテレビを見ていたり、駅前でただ行き交う人を眺めてみたり、そんなところです」
「いろいろしているんやね」
「退屈なんです。あとは、ハゴロモ空気人間協会ってのがあって、そこに挨拶にいったり、職業安定所で仕事を探したり」
「空気人間協会なんてあるんや。知らんかった」
「普通の人間が来ないように、高い、高いところにあるから」
「ふーん」見上げる私。あっちです、と風天小鞠は指差してくれる。指さされても、よくわからない。あの、小さい点みたいなのだろうか。
「でもね」と風天小鞠は言った。「みんなで集まったからといって、特別やることはないんです。ただ、おしゃべりをするだけ」
「私たちみたいやね」
「うん。まあ」
「それが嫌なん?」
「嫌じゃないけど」
「うん」
「つまらない」
「うん」
「でも、よくよく考えてみたら、空気女になる前も、なった後も、このつまらなさは、変わらないんです」やっていることは、同じですから。
結局、漬物は、漬物で、堅焼きパンは、堅焼きパンで、軽く炙って食べることにした。どちらも美味しかった。混ぜると危険だった。
食べ終わると、生首を寝袋から取り出して、その場その場に転がして、寝袋はベンチの上に干して、私もベンチの上に寝転がった。私の食べかす目当てに、毎朝、雀や鳩が飛んでくるので、それを横目で眺めやった。捕まえて焼いて食ったら美味しいんだろうか。もう二度と、ここには来なくなるのだろうか。
「仕事、行かなくちゃ」と風天小鞠。
「あ、働いんてるんや」
「うん、この間、職業安定所からもらってきたんです」
「すごいなあ、もう働いとるんや」感心半分、引け目半分。私は、ただ散歩しているだけなのだ。それで、おじいちゃんやおばあちゃんたちからの貰い物と拾い物で生きている。
「退屈だから」そう言って、ぷかぷかと浮かび始める。この間みたいに、私の力は必要ないみたいだ。ゆっくりとだけれど、意志を持った進路を進んでいる。「また、遊びにきていいですか」
「いいよ。大抵、夕方と夜と明け方は、ここにいるから」
「それじゃあ、また」
「またね」
彼女は手を振った。その勢いで、すっと、飛んでいった。
私は、しばらく、ベンチの上でまどろんだ。朝日が、ちりちりと肌に当たる感じがした。焚き火の炎も暖かかった。私の生活空間はさして広くなくて、ベンチの上からでも、手を伸ばせば、大抵のものが手に届いた。堅焼きパンに再び手を伸ばして、小さく齧った。目覚める理由が思いつかなくて、頭がどんどん重たくなった。取り落としたパンに、群がる鳩。雀。女豹。象。ジャガー。あ、夢が混じってる。
私は、このまま大人になって、大人になっても、ここで、こんな生活を続けているのかな。
別に、それは、それで、悪くはない。慣れた暮らしだ。快適な暮らしだから。
でも、背は、これ以上伸びて欲しくない。百五十センチか、せいぜい百六十センチどまりがいい。もし仮に、私の成長期が終わりを迎えず、二メートルくらいになったりしたら嫌だ。二メートルの私が、ヴェネツィア公園で暮らしている未来が嫌だ。二メートルの私が、ハゴロモ川を引き連れている未来が嫌だ。
再び目覚めると、空はすっかり明るくて、まだ、ヴェネツィア公園でまどろんでいる事実にうんざりして、起き上がって、着替えをして、脱いだ服をハゴロモ湖で洗って、ベンチに干して、トイレをすませて、食べ物類を、物入れに押し込めて、厳重に重石を乗せて猫や犬に食われないようにして、焚き火が消えているのを確認して、ハゴロモ湖を抜けて、ヴェネツィア公園を後にする。
畑と田んぼに、水やりに行こうと思った。他にも、嘘太郎に会いに行こうと思った。久しぶりに。二日ぶりだっけ。よく、覚えていない。日常的に行なっている行為なので、普段から意識にのぼらないのだろう。できるだけ、さぼらないようにしている。できるだけ、天気のいい日には行くようにしている。それだけのことだった。私の意思はあまり関係ない。上空には、雲一つなくって、青々とした空ちゃんが一人浮かんでいた。時折、鴉が、空ちゃんと遊びに、舞い上がる。かあかあがあがあと空ちゃんに向かって鳴きわめくのだが、私には、彼女が空ちゃんになんて言っているのかわからない。そもそも、彼かもしれない。性別なんて意識ないのかもしれない。鴉には。雄の鴉に言い寄ろうと思って近づいたら、実は、自分も雄だったことに後から気がついて、気まずくなったりするのかもしれない。雌の鴉を襲おうとしたら、自分も雌鴉で、自己嫌悪に陥って、電信柱に頭を打ち付ける鴉だっているのかもしれない。いなさそうだな、と思う。見たことがない。
ヴェネツィア公園の出入り口に、子供っぽい字で『あかりさまへ いろいろ よろしくおねがいいたします』と書かれた手紙と麩菓子が二本置かれていたから、一本もらった。色々ってなんなのか、よくわからなかったけれど、麩菓子は好きだった。黒糖味だった。もらった一本はポケットに詰め込んで、残り一本は、帰ってきた時に拾っておこうと、置き去りにした。もらった以上、私も何か、例えば、世界が平和になるための活動でも行わなくちゃならないのかな、って思ったけれど、責任感がまるでわかなかった。こんなものもらわなくちゃ良かったと、麩菓子を捨てたくなったけれど、その場に捨てて、踏みにじって、唾棄するのは、かわいそうな感じがした。でも、麩菓子一本で、世界平和の実現なんて、釣り合いが取れていない気がした。
振り返ると、
ハゴロモ川には、拾い残された生首が一つ浮かんでいた。一晩水に浸かって腐り果ててしまったのだろう。どす黒く変色し、ふやけて膨らんでいる。歩いても、歩いても、緩やかな流れに乗って生首が追ってくる。つけられているような気がして、気分が悪い。そんな恨めしい顔で見ないでほしい。そんなどろりと眼球がこぼれ落ちた顔で見ないでほしい。だから、わざと、電信柱と民家の塀の間をするりと通り抜けた。ハゴロモ川は川幅を狭くしながら、私の後を健気に追ってくる。生首はその隙間にすっぽりとはまり込む。ハゴロモ川は、はまり込んだ生首に、一瞬堰き止められ、淀んで、でも、すぐに、乗り越えて私の後についてくる。さようなら。生首にとっても良かったろう。もしかしたら、嘘太郎みたいに、この場に、根づいて、生き延びられるかもしれない。あそこまで腐り果てていたら、難しそうだけれど。一抹の可能性はあるのだ。私は私で、憑き物がとれた感じがした。住宅街を抜けた。山をただくり抜いて作っただけのバイパスだから、左右には何もない。そんな道を一人で歩いていく。
住宅街。バイパス。少しだけの繁華街。空き地。チェーン飲食店。空き地。スーパーマーケット。空き地。ポツンと一軒家。空き地。ガソリンスタンド。空き地。バス停留所。空き地。ファミリーレストラン。空き地。空き地。本屋。ゲームショップ。空き地。パチンコ屋。空き地。スーパー銭湯。私は歩いていく。空き地や、意味なく広い駐車場に嵩増しされた、この街を歩いていく。この嵩増し具合が、私は嫌いじゃない。ふやけたカップヌードルみたいなもの。ふやけたカップヌードルは、かえって味がしみ込んでいて、美味しいのだ。
少しだけの繁華街を抜けると、また、住宅地が広がっている。家。空き地。家。田んぼ。家。駐車場。家。空き地。家。公園。家。小川。家。家。家。散髪屋。田んぼ。空き地。和菓子屋。家。駐車場。畑。誰も管理していない田畑も多くあって、そういう場所にも、気が向くと水をまくことにしている。ハゴロモ川も適度に放水させて痩せさせないと、連日の雨天などで大変なのだ。私の暮らす丘が、どんどん侵食されてしまうから。
ヴェネツィア公園から国道沿いの田園地帯まで、意外と距離がある。歩いて一時間半くらいだろうか。私の主だった勤務先なのだから、もっと近場で暮らせば良いのだが、子供の頃の私は、生家からなるべく離れたくなかったから、ヴェネツィア公園に住み着いてしまった。父母も戻ってくるかもしれなかったし、一人で遠くに出かけるとそれだけで迷子になってしまったように心細かったから。公園や空き地はいくらでもあるのだから、好きな場所へ移り住めばいいじゃないか、とも思う。でも、今となっては、ヴェネツィア公園を日々水没させ、草木も育たぬ荒廃した土地にしてしまった手前、今更他所へ移るのも気が引けている。他の、公園や空き地にも、私みたいな人が、住み着いていることもあるし。新しい、土地へ移ったら、その土地の木々や草花を水没させて腐らせてしまうのだ。それは少し、かわいそうな気がする。
女の子が一人いた。私と同じくらいの背丈で、私と同じように、伸ばしきった髪を後ろで束ねて、多分、私と同じようにちょっとつまらなそうに唇を尖らして、あたりを見回していた。彼女は、電信柱の中程までよじ登って、目をすがめて、四方に首を巡らしていた。遠くから歩いてくる私と一瞬視線があって、すぐにそらして別の方角を眺めやった。初めてみる、女の子だった。
「何をしとるん」
「結婚式」
「そんなところで、式あげるん?」
「結婚式場探し」
「新婦さん?」
「まあ、そんなところだ」
「まだ、子供やろう」
「大丈夫、私エロいからな」
「エロいんや」
「だから、結婚してもいい」言い切るように彼女は言った。言い切られたら、仕方がない気がした。
「式場、見つかりそうなん?」
「うん、見つかった」
「早いなあ」
「私、目がいいから」
私は、話している間も、歩き続けていて、もうすぐ彼女がよじ登っている電信柱の下を通り過ぎる。彼女とは、初めてあったばかりだし、そんなに長話をしている理由ってなかった。
「それじゃあ、また」
「それじゃあ、ね」
「結婚式、開いたら、私も呼んでよ」振り向きながら、私は言った。下半身は、一定の動作で歩速を緩めず、上半身だけで彼女と向かい合っていた。彼女がこれから降り立つ地面はハゴロモ川で水浸しだ。ちょっと悪いな、と思った。
「いいよ」
「いいんだ」
「こうして立ち話をしたのも縁だからな」
「立ち話っていうのかな」
「そんなの、なんだっていいんだよ」
「結婚式は、いつ開くの?」
「三日後」
「すぐやね。友達も呼んでいい」
「いいよ」彼女はするすると電信柱を降りていき、残り一メートルくらいのところで、じゃぽんとハゴロモ川に飛び込んだ。彼女の半身が飛沫で濡れた。でも、そんなことまるで御構い無しに、彼女は私とは反対方向へ歩き出す。ヴェネツィア公園のある方角だ。
「ばいばい」
「ばいばい」
名前も住所も式場も聞いていないから、もう二度と、会うことはないかもな、と思いながら、私は振り向くのをやめて、前だけを見て歩き続ける。
田んぼを歩くのは、やはり好きだった。畦道を進むのは、やはり好きだった。明らかに、川幅より細いこの道を転がり落ちないように私の後を追うハゴロモ川は、どこまでも健気で、可愛かった。後ろ向きに歩いてばかりいるから、私は時折よろめいて、その度ごとに、ハゴロモ川も私の後を追ってよろめいた。なんとかあぜ道にすがりつこうとするハゴロモ川を私は笑う。馬鹿にしている訳ではないのだ。はじめに転んだのは、私の方なのだから。ハゴロモ川は、畦から転がり落ちる度に、乾いた土に吸収されて、田畑を、稲や南瓜や茄子やきゃべつを潤していく。私も何度か、転がり落ちていて、もうすでに、全身、泥にまみれている。今日は、ハゴロモ川と遊びたい気分だった。特に理由はないだろう。もうすぐ、収穫時だ。真冬になれば、私がここに来る理由もほとんどなくなるんだろう、そう思って、少し寂しくなっただけかもしれない。
「あはは」って笑ってみる。
転がった先に、生首があって、目があった。
転がった私に、覆いかぶさるように、ハゴロモ川が流れ込んできて、濡れて冷たくなるのは嫌だから、私は急いで畦道へと這い上った。生首が、嫌いだったわけじゃない。別に、怖くはない。生首は、生首だから。
畑には、生首が点々と植えられてあった。特別な盛り土が施されているわけではなく、たまたま野菜が途中で枯れて、空いてしまった隙間だとか、いつもは道として使っている畝と畝との間だとか、特別耕された後もない、踏みかためたられた地面の上に、生首が寒そうに、転がっている。
昨日の、合戦で大量収穫したようだ。私は、よく知らないが、合戦では、最後に、負けた方のサムライたちを、観客一同追い立てるのだ。
落ち武者狩りタイムというのがあるらしい。そこでは、農家のおじいさんやおばあさんや子供や孫が、大活躍する。鎌を手に手に、侍たちの首を狩るのだ。農業で、普段、刃物に手馴れているから、他の観客より一日の長がある。彼らは、すっぱりすっぱり、一撃で、侍を打ち倒し、抵抗をなくしたところで、すっぽりすっぽり生首を抜いて行くのだ。実際に、見たことはないけれど、そんな情景を、昔、誰かから聞いた。鮮やかだそうだ。子供や孫より、やっぱり、おじいさんやおばあさんのほうが、老練の技術で、鮮やかだそうだ。おじいさんやおばあさんも参加できる、オールエイジな市民スポーツそれが合戦なのだ。
収穫された、生首は、獲った人それぞれ、自由に使用する。金魚鉢に入れて飼育を試みる人もいるそうだし、キャッチアンドリリースと言って、元の持ち主に返却する良心派もいる。農家だと、大抵の場合、潰して肥料に混ぜるそうだが、眉目秀麗な生首、たとえそうじゃなくても、おばあさんたちの好みに適った生首は、こうして畑で育てられる。育てたところで何にも実らないけれど、観葉植物と同じ、観賞用なのだ。生首によっては、男らしい、いい匂いのするものもあるそうだが、私にはわからない。
さっき目があった時だって、土の匂いの方が、激しく感じたくらいなのだ。
生首たちは、もともと侍や武将のものだから、大抵の場合、すでに顎髭口髭頰髯などを伸ばしている。そうした髭たちは、さらにうねうねと伸びてゆき、地面にぶち当たると、鋭く尖ったヒゲの先端で、土中への侵入を試みる。うまく、根付くのは、三つに一つだそうだ。髭の硬さって、人それぞれだそうだから。
せっかくだから、私は、生首の前を通るときは、一秒、二秒、三秒と、しばらく立ち止まることにした。やはり、私も、眉目秀麗な生首のことは好きだし、どうせなら、根付いて冬になってからもここにいて欲しいのだ。ハゴロモ川をいつもより流入させ、少しでも、地面が泥っぽく、掘削しやすくなれば良いのに、と思う。大差はないかもしれない。すでに、根付いた生首の前では、そんなことはせず、足早に通り過ぎる。根付いた根を水流が押し流しては、可哀想だからだ。
鴉たちがやってくると、生首たちは泣き喚く。だから、鴉除けにもなるのだ。
「やめてくれえ」「啄ばまないでくれえ」「助けてくれえ」「助けてくれえ」
中には、声帯模写を試み、鴉を追い払おうとするものもいる。
「わん」「わんわん」「うー」「や、やめてくれえ」「助けてくれえ」
鴉たちは、固く固く閉じられた生首たちの眼球を啄もうとするのだ。海鳥が貝殻をこじ開けるように、執拗に、時に時間差を交えつつ攻撃を続けている。雀達が、来ても同様だった。おばあさん達の特別のお気入り達は、サングラスを掛けており、涼しい顔をしていた。私が歩を進めるたびに、鴉達は、バサバサと飛び立ち、私から数メートル距離を取る。鴉から解放された生首達は、「かたじけない」「かたじけない」と私に感謝の意を述べるが、私は、ただ、歩いていただけなのだ。後ろめたくなる。私が、この畑を突き抜ける頃には、鴉達も舞い戻ってくるに違いない。「そばにいてくれ」とか「どこにもいかないでくれ」とか、おそらくきっと、生首達も、自身の容貌の美しさに自信があるんだろう。しきりに、そんな口説き言葉を私に投げかけてくる。ずっとここにいてもいいけれど、水没するよ、って内心呟く。水っぽく囁いてくる連中は、ことごとく、年若くて、きっと私とそんなに年齢の変わらない生首達だった。いわゆる小姓と呼ばれる連中だろう。武将達に可愛がられていたくらいだから、眉目秀麗で、農家のおばあさん達の心をくすぐるのも当然だ。小姓は、髭が伸びにくく、育てにくい生首なのだけれども、よくもまあ、こんなに根付いたものだな、とおばあさん達の執念に感心する。きっと、男性ホルモンを注射したり、口まわりやや頬を撫で回ったりと刺激を繰り返したのだろう。喋りかけてくる小姓達は、顔は童顔なのに、髭は土中に埋まるほどにぼうぼうだった。優遇されているのだ。
まだ根付けず、栄養を土中より吸収できない生首達は、省エネ対策で、沈黙を続けているのだ。鴉に啄ばまれても、せいぜい「うーうー」と唸るくらいで、全精力を、髭の伸長に費やしている様子だった。
「や、やめてくれ。サングラスは取らないでくれえ」どこかの生首が泣き喚いた。鴉だもの。学習するのだ。
鴉が、鴉を呼び寄せたのだろう。彼らは、意外と仲間思いだから。だから、初めはしんとしていた田畑も、まるで、春先の蛙の合唱のように、賑やかになる。鴉達も、興奮したのか、かあがあと鳴き喚いている。ちゃんと覆いをしてあげないと、生首達は、鴉の餌食になってしまうのだなあ、と学んだ。いつか、私が育てるときは、時代劇で尺八吹いている人がかぶっているような籠を、用意してあげよう。
おばあさん達も不用意だな。でも、もしかしたら、自分たちの好みの色の義眼でもはめ込みたいのかもしれない。青い目の侍とか、緑の目の侍とか、琥珀色の目の侍とか。あるいは、片目だけえぐらせて、眼帯でもつけたいのかもしれない。独眼竜とかって言って。
私が、公園に置き去りにした生首達は、大丈夫だろうか。彼らのこと、考えていなかったな。
そうして、私は、阿鼻叫喚の生首地帯を通り抜けた。
ここは静かである。風に揺られる稲穂の音しか聞こえない。生首のない、田んぼだって、時にはある。
遠くの方で、後ろの方で、鴉の悲痛な叫び声喚き声。生首たちの高笑い。哄笑。何かの拍子に、鴉の足でも、生首が食いちぎったのだろう。復讐心というものがないのだろう。鴉たちが一斉に羽撃く音。逃げ去る音。侍たちの勝ち鬨。ばっさばっさと私の頭上を通過する一羽の鴉。ぽたぽたと、赤黒い血が滴り落ちてくる。その一羽だけ、群れを逸れて、遠くへ遠くへ飛んでいく。
しばらく、歩く。さっきから、ずっと同じこと。私は、歩いているだけ。
「や、やめてくれえ」
「た、助けてくれえ」
「後、後生だあ」
「おっかつぁあん」
三歩歩いて全てを忘れた鴉たちが、再び生首を襲来したのだ。
そんなの知らない。
知らないことにする。
聞こえなかったことにする。
例えば、うっかり毛虫を踏み潰した幼い記憶に心的外傷性ストレスを感じないのは、なぜなのか?なんて事を考えながら、田んぼを抜けて、畑を抜けて、再び田んぼを抜けて、国道へ。
海岸線や山間の工事現場でよく転がっているU字のコンクリートブロック。それを六つ、ただ積み上げただけの階段。もう、それらがここでこのようになってから、何年経つんだろう。ところどころひび割れ、そのひび割れには、隙間なく稠密に泥が埋まり、うっすらと苔が生えている。ナメクジが這い進んだ跡だとか、ダンゴムシが齧りついた跡だとか。触ってみないとわからないような凸凹。最下段は、半分くらい、土中にめり込んでいる。トンネル状になったその隙間にも、雑草は生い茂っており、鬱蒼としている。きっとそこには、何か得体のしれない生物が身を潜めているはず。知らないけれど。
その階段を踏み越えて、一段高くなった先が、国道である。
三段めとアスファルトまで少しだけ距離があり、ぶち抜かれたガードレールに両手を伸ばし、体重を引っ張り上げるようにして、這い登る。もしかしたら、ここは、ただいらないブロック置き場で、階段じゃ、ないのかもしれない。
階段を登る際、一瞬視線が上向いて、「空ちゃん綺麗やなあ」、あいかわらずの青空。
国道のことは、好きじゃない。
そもそも、好きとか嫌いとかの対象ではない。でも、この道を歩くときは、少し浮き浮きする。
嘘太郎に、会える。これから。
嘘太郎。
うーくん。
嘘太郎。
タンクトップと褌のみをみにまとった、肉付きのいい男たちに嘘太郎は囲まれていた。何しとるんだろう。タンクトップからはみ出した、隆々たる広背筋。タンクトップと褌を取り外したら、筋肉がどんどん膨張を始め、ビッグバンでも起こしそうなほど、ぱっつんぱっつんである。彼らのさりげない動作一つ一つに、大陸のような筋肉が隆起する。ふっと腕を組んだだけで、その背中は張り裂けそうなほど膨らむし、重心を右足から左足に変えただけで、ぼんぼんぼんと音立て、左尻、左腿、左脹脛、がひと回り、ふた回りも巨大化する。その風圧で、褌がはたはたとはためく。
なんて声をかけたらいいんだろう。今は、取り込み中なのだろうか。また、一度立ち止まって、私の足元までハゴロモ川が浸水するまで佇立していて、一歩進んで、また立ち止まって、私の足元までハゴロモ川が浸水するまで佇立していて、また一歩。
数えてみると、男たちは、四名いた。その筋肉量ゆえか、常人を遥かに凌ぐ存在感を感じさせ、彼らの輪郭が曖昧に霞んで見えた。指折り数えた後も、絶対、もう五、六十人いるだろうと、そう思った。それだけの肉量があったし、一騎当千という言葉が脳裏に浮かんだ。もしかしたら、何十人の男たちが、肩車を組んだり、くんずほぐれつしているところに、人型の着ぐるみをかぶせたのが、彼らの正体なのではあるまいか。あの、筋肉一つ一つの裏側に、大の男が一人潜んでいるのだ。くんずほぐれつ絡まり合って、昔見た江戸の滑稽画みたいに、一つの全体を織りなしているのだ。遠目だから、思わず、一個の人間として認識してしまうが、スーラの点描画と同じ方法論なのだ。一歩、一歩、近づいてみたら、なんのことはない、いやらしく絡み合う男女の集合だったりするのだ。
一歩。
一歩。
「うーくん?嘘太郎?うーくん?」声が小さかったのか、届かない。「嘘太郎」届いた。
「紅?来とったん」
「来とったんやないわ。えっと、あの、その、なんやこれ」
「何やって何や」
「なんか大騒ぎしとるけど」
「喚いとるのはお前やろう」
「そうかもしれんけど」確かに、肉肉しい男たちは、始終黙り通した。時折、はたはたと褌がはためくくらいで、私が黙れば辺りは静寂だ。あああ。ハゴロモ川がまた、私の足元で蟠っている。
「鴉がなあ」と嘘太郎。「鴉が襲来しとったんや。大変やったわあ。んで、助けてもらとった」男たちのグローブのように膨らんだ指の肉に見え隠れしていた。首折られた鴉たち。「ほんと困るわあ。今回は、万事休すかと思った。まつげ何本か抜かれたし」植物人間じゃなかったら、きっと、やれやれと肩をすくめているんだろう。嘘太郎は、大げさに、ため息をついた。「合戦の度毎に、畑に生首うめんとってほしいわ。俺んとこまで鴉がくるからかなわん」
「そりゃ、災難やったなあ」
「眼球は、商売道具やから、もっと他のとこつついて欲しいわ」
「そう言う問題なん?」
「優先順位の問題やわ」
「嘘太郎」
「ん?」
「会いに来た」
「うん」
「邪魔やったら、このまま引き返すけどなあ」
私の後を流れるハゴロモ川の上をじゃぶじゃぶと渡っていくと、私の前を流れるハゴロモ川と私の後を追うハゴロモ川の流れとが正面からぶつかり合い、波と波とが打ち消しあい、一見ハゴロモ川の川面は静止するだろう。流れのない川というのは、見慣れなくて、なんだかむず痒さを感じる光景が出来上がる。
「別に、邪魔やないよ」
「そっか」
うーくんは、ありがとうありがとう、と言って、褌たちに帰ってもらった。見せしめのように、何羽かの鴉が、ガードレールにぶら下げられている。しかも、柱と横板の隙間に、カラスの頭部を無理にねじ込むと言うぞんざいなぶら下げ方で。男たちは姿を消した、と言っても、路肩に止められいた、黒塗りの乗用車へ退散しただけだ。肝心の車はエンジンさえかけられておらず、今もそこにいる。私は、先ほどまでそこにいた彼らの肉厚分、うーくんから距離をとって立ち止まっている。
「誰なんあの人ら」友達では、ないのだろうけど。
「国家公務員」
「ふーん」
「気象庁の役人なんや」
うーくんは、いつものように、じっと空を眺めている。そんな見つめては、空ちゃんが恥ずかしいだろうに。
「俺の身の回りのこととか、いろいろやってくれるんや」
「そっか」あまり深くは聞かないほうがいいかな、と自重する。下の世話とかあるだろうから。私の知らないことが、色々あるだろう。
「とても助かっとる」うーくんは、彼らのことが、割と好きなのだろう。嬉しいような、寂しいような。男の友情とか、仕事仲間とか、そういう感じ、なんだろうか。
「なんで、褌なん」
「制服なんや」
「国家公務員の」
「気象庁の」
「寒くないんかな」
「いつでも、どこでも、褌のはためき具合から、風向き風力がわかって便利なんやって」他人事みたいに、うーくんは言った。「嵐の中も日照りの中もあれでいくんや。心の底から尊敬してる」小声で、付け足すように、うーくんは言う。私も、同意する。声や台詞や動作には、表さなかったけれど。
「うーくん、喉乾いとるん」
「少しな」
「そうか、なら来て良かった」距離をとったまま、私たちは話している。徐々に徐々に、私の足元でハゴロモ川がまあるく広がり、やがてうーくんの根元まで達するはずだった。すぐにうーくんの元に駆け寄ってしまっては、この場には、長くとどまれない。うーくんが溺れてしまっては、元も子もないのだから。
「でもなあ、うーくんも、気象庁の所属やなかったん。あれ、着んでええん」あれとは褌。
「俺は、嘱託研究員やから、別にええんや」
「尊敬ってなんなんや」
「自分じゃ着る気になれんもんを着とるから、尊敬なんや」適当なことを言う。「あいつらのうち一人な。いつだったか、南極の天気調べるって、南極へ行ったことあるんやって。あの姿で。真似る気はなくても、尊敬するしかないやろう」
「そんな寒いところで、あんな恰好。そんなこと、人間にできるんかな」宇宙が無風であることを確かめに、いつか、宇宙へ行くというのだろうか。
「何人かは死んで、生き残ったのはあいつだけらしいわ」
「そっか」どこからが本当で、どこからが誇張伝聞なのかわからず、私は、言葉に躊躇する。嘘太郎は、嘘をつかないから、きっと全てが本当なんだろう。悲しい話を聞いた時、その悲しい話に現実味を持てなくて、大声で笑いそうになる私がいつもいる。子供の時、参加したおばあちゃんの葬式とか。表情筋のコントロールが難しくて、早く、話題よ変われ、と思う。
「全身かちこちに凍った奴がおって、そいつは、逆さにして、南極点に頭から突き刺したそうや。遺言やったらしい」
「そっか」
「他国の旗がはためく中、この国の国旗色に染め抜いた褌が、長く長くはためいてたんやって。多分、今もな」
「ふーん」なんて言葉を返せばいいのか、わからなかった。「うーくんは、そんな危険なこと、せんといてな」
「大丈夫やって。俺に、そんな勇気ないから」
「勇気の問題かなあ」
目の前の、二車線の国道には、まるで車通りがない。実は、ただ細長いだけのアスファルトの平原で、どこにも繋がっていないんじゃないだろうか。国道の見える限りの端の方をぼんやり眺めながら、そんなことを考える。じゃあ、なんのために、そんなものが、ここにあるんだろう。
「あのなあ、うーくん」
「なんや」
「別に、大したことやないんやけど、最近、友達っぽいもんがいくつかできたんや」
「友達っぽいんか」
「多分なあ。よく、会うし」誰のことかは教えない。「一緒におると、あまり寂しくないしなあ。楽しい感じがすることもあるし。まあ、それだけなんやけど。なんで、こんなこと言いとうなったんやろ」
「俺は知らん」
「そうか知らんか」うーくんにも、褌姿の同僚がいて、私にも空気女の風天小鞠や生贄予定のひいちゃんがいる。なんとなく、その人間相関図が寂しい感じがする。話し相手がうーくんしかいなかった時も、それはそれで寂しかったのだが、風天小鞠やひいちゃんや褌姿の気象庁職員がいる方が、却って寂しい感じがする。気のせいかもしれない。
「なあ、うーくん」
「うん」
「麩菓子食べるか」
「うん」
二つに割った麩菓子を二つとも、うーくんにあげる。一緒に食べようかと思ったのだが、全部うーくんにあげたくなったのだ。気持ちが、ころころと変わってしまう。いつもの私だ。
「ほい。ほい」
「そんな詰め込むなや。手ぐらい動かせるわ」
「植物人間のくせに器用やなあ」緩慢な動作だけれども、持ち上がるうーくんの細い腕。麩菓子より細い。その腕が麩菓子をつかもうとするけれど、うーくんの視点は、ずっと空ちゃん一色なので、うまく距離感がつかめず、すかしている。手伝うと嫌がるかもしれないから、見なかったことにして、私も上の空ちゃん。「空ちゃん雲一つないなあ」
私は、うーくんが傷つきそうなことを言うのが好きである。結果、うーくんが傷つかないでいると、嬉しくなる。
「空に浮かぶ雲には、二種類あるんや」とうーくん。
「そうなん」と私。やはり、空ちゃんを見上げているのだが、時折ちらりと路上へも視線を落としている。うーくんの浸水具合を確かめているのだ。まだ、後頭部が浸かったくらい。
「一つは、牛乳で、一つは煙草なんや」
「空ちゃん、喫煙するんか」
「最近なあ。ほら、曇ってんのに、雨降らん時ってあるやろ。あれ、煙草の煙なんや」
「不良や」
「そう言うのは、ようわからんが、俺は」
「不良やろ。学校行っとらんゆうても、私ら中学一年生やろ。年齢の上では」未成年である事は、確かだった。
「そんなんどうでもいいやろ」
「まあなあ」シケモクの味なら、私だって、知っているから。
「で、その喫煙がな、最近親にバレたんやって」
「最近っていつや」
「昨日」
「すぐやなあ」
うーくんは、脇道に逸れたなって顔をした。うーくんの後頭部から生える根っこによって地割れしたアスファルトへハゴロモ川が流れ込んでゆく。小さな渦巻きができる。こそばゆそうだ。
「髪洗ったろうか」
「根っこ傷つけんといてな」
うんわかった。返事をするのを忘れて、しゃがみこみ、川面でゆれる黒髪を手で掬う。
「誰かに、切ってもらっとるん」
「ここまでしか、伸びんのや」
「嘘やろ」
「たまに、三村さんになあ。ほら、さっき俺を囲んどった」しゃこしゃことモグラが穴掘る感覚で、流れる髪を両手の指で梳いてゆく。
「あの気象庁の」
「うん、腹筋が八つに割れとった人や」
「そこまで見とらん」
「見ものやで」
「ふーん」地肌の方を、指腹で擦る。
「でな、やから、さっきの話の続きやけど」
「何やったっけ」
「空の喫煙」
「ああ、うん」耳を餃子みたいに抑えて、耳の裏をごしごしと擦る。
「空の喫煙、親にバレてなあ。煙草は、当然取り上げられて、しかも、罰として飯抜きなんや」「そうなん」
「やから、今日はこんな晴れとんや」
「そうかあ」洗っても、洗っても、大して汚れが出てこない。さては、三村さんに洗ってもらっているのだろう。飽きたから、私は、うーくんの髪の毛から手を離す。「かわいそうやなあ」空ちゃん。
「反対側は洗ってくれんのか」
「うん、飽きた」
「そっか」
私は、うーくんから、また少し距離をとって、ハゴロモ川の流入を少し抑える。でも、大した効果はない。もうすでに、うーくんは、耳の穴まで水没している。私の声聞こえているだろうか。
洗髪の時、気遣う必要、なかったなあ、と今更のように思う。
「うーくん」
「うん」
「私なあ、うーくんのこと好きなんやあ」
「そうなん」
「そこそこなあ、好きや。そこそこやけど」
「そうか」
「うーくんは、どうなんですか」
「どうなんでしょうか」
「どうなんやろうなあ」
「どうなんかなあ」
「はよ、答えろや」
「そこそこ好きやで」
「そうかあ」
「思いついたこと言ってええか」と私。
「ええよ」とうーくん。
「私ら、織姫と彦星さんみたいやなあ」川にはばまれているところが。ただその一点のみが。
「そんなロマンチックなものやないやろ」
「でもなあ、ほら、もうそろそろ私はいかんといけん」ハゴロモ川の水位は、うーくんのこめかみ辺りまで達している。
「そうか」
「さようならや」
「さようならか」
「また、気が向いたら来るかもしれんし、来んかもしれん」
「そうか」
「そうや」
「それじゃ」
「うん、それじゃ」
「そういうことで」
「そういうわけで」
「うむうむ」
「だから」
「またな」
「ほいじゃあ」
「さよなら」
「またね」
「ばいばい」
「うん」
「ららばい」
「それは違うよ」もう声届かんか。
左手沿いのガードレールをこんこんこんとやる。
しばらく、国道を歩く。嘘太郎の言葉が本当なら、しばらく空ちゃんは雨を降らさないってことだろう。ハゴロモ連山、登らなくちゃな、と思う。山が乾いてしまう。飲み水を求めて、猪鹿熊猿が下山して、車に轢かれたり、人に殺されたりするのは、あまり想像したくない。でも、私の場合、普通の登山道を登れないから、ちょっと骨が折れる。ハゴロモ連山は、そんな登山客でごった返す山ではないけれど、狭い登山道いっぱいに、ハゴロモ川で満たしても、いけないのだ。危ないから。趣味の登山中に、ハゴロモ川に足元をすくわれて老人が怪我とかいやだから。大変だな。「大丈夫だよ」独り言。これまでだってやって来たことなのだ。
さらに、国道をしばらく進んで、歩道と車道を隔てるガードレールに切れ目ができる。その切れ目をすっと通り抜け、車道を横断。そのまま直進。国道から枝分かれした細い細い街路を行く。羽客山へとつながる道。左右には、まばらに、民家が立ち並んでいる。こんな山の梺の急勾配にまで家が建ち並んでいるのだ。開拓者って言葉が浮かぶ。別に、そういう恰好いいものじゃなくて、昔から、この地に住んでいた人々が、代替わりをしても、ずっと住み着いているだけだ。でも、はじめにこの地に住み着いた人たちは、何を思ってこの地を選んだんだろう。ハゴロモ連山で狩猟でもしていたのかもしれない。でも、いまは、普通に工場とかで働いている。家と家との隙間には、時折、こじんまりとした田んぼがある。もののついでに、と、ハゴロモ川を田んぼへ突き落とす。右手に田んぼが見える時は、道の右側ギリギリを歩き、左手に田んぼが見える時は、道の左手ギリギリを歩く。平衡感覚の保てないハゴロモ川は、ちょろちょろぼちょんぼちょんと田んぼへと流れ落ちる。アスファルトが途切れて、踏み固められた土の道。じわじわと染み込んでいき、見えない速度でハゴロモ川はしぼんで行く。
田舎の国道だから、行き交う車はいつも飛ばしている。遠く遠く国道の方で、びちゃああん。びちゃあああん。とハゴロモ川を撥ね飛ばす音が聞こえる。
羽客神社へとつながる石段の前を通り過ぎる。一番大きな登山口は、神社の裏手から始まっており、そこは使わないのだ。神社と羽客山へ至るための道からはみ出すように歩いて行く。藪の中。雑草をかき分けて歩く。山の傾斜面に沿うようにして歩いて行く。なぜか、打ち捨てられている軽トラックの脇を通り抜ける。サイコロ状のブラウン管テレビだとか、冷蔵庫の扉だけだとか、まるで墓標のように地面に突き立てられた傘傘傘だとか、そういう場所を歩く。さっき通り過ぎたトラックの荷台にも、黒いビニール袋で包まれた何物かがいっぱいに積み込まれていた。ギリシア風の半身像。大量のスニーカー。昔、こんな場所にも家が建っていたのだ。屋根が円錐状に凹んだ、木造の一軒平屋。平屋の前に朽ちかけたベンチが一つあって、すこしの間休憩。ぼうっと空を眺める。
「お姫ちゃん、なんでおるん」
「街中で、ハゴロモ川を見つけてな。追いかけて来たんじゃ」
「あぶないから、帰りなよ」
「いやじゃ。一緒に遊ぼうや」
「あぶないって。こんな藪ん中、一人で」
「あかりちゃんやってそうやろ」
「私は慣れとるからなあ」
「あたしは、どうせ近々死ぬ身やしなあ」
「それを言われたら、返す言葉がなくなるから、いやや」
「あかりちゃん、一緒に食べよ思うて持って来たんや」とサンドウィッチとおにぎり。どちらか一方にすればいいのに。いや、どっちも食べたい時ってあるか。
「うん。ありがと」
サンドウィッチの中身は、卵ウインナーハムベーコン鳥の照り焼きハンバーグレタス胡瓜。おにぎりの中身は、シャケ紅生姜納豆味噌鰹節鰯の佃煮団栗。
壊れかけの民家の目の前の山壁に、地滑りでも起こしたみたいに、草木が薙ぎ倒れ、地面があらわになっている箇所がある。地すべりの理由は、ハゴロモ川の流入で、私がいつも使っている、私と獣のための登山道だ。
「行こうか」
「うん」
「別に、別々の道から行って、頂上で待ち合わせとかでもいいんやけど」どうせ、私の方が遅くつくだろうし。
「大丈夫。一緒に行こ」
倒れて枯死した楢の根に足をかける。地面を踏みしめ登っていくと言うよりか、左右の樹木に、両手を引っ掛け、這い上っていくと行った具合だった。リーチが短い分、お姫ちゃんは大変かな、と思ったのだけれど、体重が軽い分ひょいひょいと登っていく。
「あたしが先でいい?あかりちゃんの川で滑りそうやから」
「道わからんやろ」
「登ってけばいいんやろ」
「うん、まあ、そうやけど」前回登った時、ハゴロモ川が、すっかり地面を削っていて、だから、道標には、ことかかかなかった。
「なあ、あかりちゃん」
「うん」
「あかりちゃんを追いかけとるあいだ、ごっつい褌姿の男どもと歩道に倒れとる男の子がおったんや。思わず、車線横切って反対側の歩道通ったけど」
「ああ、あれか」
「あれってリンチとかイジメとかやないんかなあ」
「どうやろうなあ」
「どうやろうなあ」
「大丈夫。よくあることらしいから」
「でも、心配やわあ」
「褌姿にされた方も、倒れとる方も、なんとなく、両方可哀相やろ。被害者同士仲良くしとるだけやから大丈夫やって」
歩き続けて、進み続けるほどに、二人とも息が切れてきて、会話が途切れがちになっていく。時折、休憩したり、時折ハゴロモ川の水を飲んだり、サンドウィッチとおにぎりの残りを食べたり、でも、団栗入りのおにぎりは残したりしたけれど、後は黙々と歩き続ける。私の背後のハゴロモ川のどこかで、獣たちが水を飲んで、土中に染み込んだ水が樹木の養分になったりしているんだろうか、と想像した。実は、本当に、こんなことをしていて、山のためになるか知らなかった。なんとなく、世界の役に立ちたかっただけだ。このままじゃ、手持ち無沙汰で、田んぼの水やりだけじゃ、物足りなくなって、とにかく何でもよいから始めた自己満足の慈善活動なのだ。だから、もしかしたら、ただ、山肌を削っているだけかもしれない。私はひどいことをしているのかもしれない。全て知らないことにして進む。
「なあ、あかりちゃん」
「うん」
「あたしは、生まれて、ここまで生きてきて、それから死ぬわけやけど。生きている間に、いろんなことをしていろんなことを感じていろんなこと思ったなら、死ぬ間際、気い紛れるんかな」
聞こえなかったふりをするには、長すぎる台詞だったから、何か返事をしなくては、と思う。でも、何と答えたらいいんだろう。
「なんて答えたらいいんやろうなあ」なんて答えたらいいんだろう。「わからない。知らない。考えたことないよ」投げやりにならないよう、あたかも、何か考えているかのようにゆっくりと私はつぶやいた。
「でもなあ、あたしが死ぬだろう年齢より、今のあかりちゃんの方が年上やろ。なんか知っとるんやないん。あたしにはまだわからない何か」
「無茶言わんといてや」私はほんのりと笑う。
「無茶やないわ。私より二、三年長生きなら、私より二、三年分物知りやろ。なんか知っとるやろ。隠しとるだけやろ」
「たかだか、二、三年分物知りなだけやろ」
「もう、誰とも会いたくないなあ」脈絡のないことを、おひいちゃんは言う。
怪獣が暴れていた。怪獣が熊を食べていた。怪獣は大と小だった。親子の怪獣らしかった。まず、親怪獣らしき方が、ひょいひょいと、幼児がお手玉するみたいに、熊を放り投げ弄び、その後そのざらつく舌で弱った熊を舐め回し、熊の黒毛を全身くまなくこそげ落とす。そこまでお膳立てした後で、弱った熊を子怪獣に譲るのだ。よろよろと立ち上がろうとする熊の手足を順々に子怪獣は食いちぎっていくのだった。私たちは、そろうそろうと先へ進んだ。
頂上までたどり着くと、藪の中とはいえ見晴らしがよかった。樹木や背の高い草花で縁取られた視界ではあったけれど、街全体を見渡せた。一体何を作っているのかわからない工場からもくもくと排煙が揺蕩っていた。人の形は、もう見えなくて、私が少し目を離した隙に、人々は、どこか、より安楽な地へ移住してしまったんじゃないかな、って思った。でも、自動車の形は、かろうじて視認できて、自動車が走り回る様を見て、ああこの街には、生物らしきものが存在するのだな、ということが推測された。線路の響く音が一切聞こえないのに、パントマイムみたいに、電車が行ったり来たりを繰り返している。不思議だな、って思う。踏切の鳴る甲高い警告音も、車両と車両と線路と車輪が組み合い打ち合うガタゴトガタゴトという音も、どれだけ耳を澄ましても聞こえない。目を閉じれば、何もないのと同じである。風が吹いたので草木が揺れたし、私とお姫ちゃんの荒い呼吸は続いているけれど。
「おにぎり残っとる?」
「もう、団栗入りのしかないよ」
「いいよ、ちょうだい」お腹が空いた。半分ずつ分けた。
頂上に長く止まっているわけにはいかないだろう。田畑と山肌に多分に吸収されたとはいえ、ハゴロモ川の川幅は、まだ一、二メートルはある。やがてこの突端にも、小さなカルデラ湖ができて、徐々に徐々に山崩れが起こるだろう。そのまま、少しずつ陥没するに任せて、地上付近まで降っていってもいいかもしれない、と夢想したけれど、何千年かかるかしれない。お姫ちゃんが、生贄になる期日が通り過ぎるまでそうしていてもいいかもしれない。でも、お腹が空くな。いくら、勘違いをしたおばあさんたちだといっても、こんな山上まで、お供え物を届けに来てはくれないだろう。空気女の風天小鞠に、お届けを頼もうか。でも、彼女だって、仕事が忙しいだろうし。足元の灌木がぷかぷかと浮き出して、私たちは、それに腰掛けて、足元は濡れるに任せた。少しずつ少しずつ水位が上昇するに従って、視界が樹木の背丈を飛び越して、余すところなく街の全貌がみはるかせるようになった。夕暮れで、全体が紫がかって見える。工場からの煙は、どこから煙でどこからが空ちゃんなのかが判然としない。辺りが薄暗くなるにつれて、街頭が灯り、ヘッドライトがともり、却って人々の動きが明瞭になる。こんな小さな街なのに、東端の方から徐々に徐々に薄暗くなってゆく。遠く海浜に続く方には、何もなくて、本当に何もないみたいにもやもやとした闇に覆われている。時折、星なのか、船上の連絡灯なのか判断のつかない明かりが煌めく。
「そろそろ帰らんとなあ」
「うん」
足元もおぼつかない。幸い、ハゴロモ川はその大半がまだ頂上までたどり着いておらず、麓の方からちょろちょろと流れ込んでいる。でも、これ以上のんびりしているわけにはいかないだろう。
「でもどうやって帰るん」
「この木に摑まっといてな」
私は、上体を少し傾ける。ぷっくりと浮かんでいた山上湖から、流入するハゴロモ湖へと灌木が落下する。あとは、重力と慣性に身を任せる。流れ落ちるハゴロモ川と山道を登ってくるハゴロモ川がぶつかり合って、すぐに落下が優勢となる。時折水面に没し、息ができなくなるけれど、一時的な状態にすぎなかった。川幅をはみ出しそうになるたびに、反対方向へ重心を切り、進路を微修正した。徐々に徐々に、速力が増してゆくのが面白かった。でも、速度のピークは中腹までだ。麓へたどり着くまでに徐行しなくてはならない。そのために、登りはじめは、敢えて、長く緩やかに曲がりくねる道を選んだ。緩やかなカーブの度に、敢えて迂遠に方向切り、速力を衰えさせる。見覚えのある平屋にたどり着くころには、流れるプール程度まで進度が衰えている。
「死ぬかと思った」
「慣れれば簡単だよ」
私は、この技を習得するために、日夜公園の滑り台の上を滑り降り続けてきたのだった。
一度めは、ただ階段を登ってスロープを滑る。
二周めからは、ウォータースライダーである。回を重ねるごとに、ハゴロモ川は塒を巻いてゆくことになり、水量が増してゆく、勢いが激しくなる。五十周くらいすると、もう、何が何やらわからなくなる。
今は、もうやらない。しばらく前に、滑り台が、水流の重さに耐えかねて、倒壊したからだ。私の趣味が一つ無くなった。寂しくなったけれど、過ぎ去ったことだ。あの時の感覚は、まだ残っているから、この程度の山下り、いとも容易かった。
「楽しかったな」
私たちと一緒に、大量のハゴロモ川が流れ込んできたから、あたり一面水浸しである。打ち捨てられた平屋は、全体水没している。ベンチが少し横移動している。山の頂上だったから、まだ見えていた太陽は、今や何処かに隠れてしまった。一寸先は闇。でも、遠くの方は、きらきらと見える。藪を越えた向こう側に、ちらほらと民家。その内幾らかはもう誰も暮らしていなかったり、留守だったりするから、三軒に一軒くらいの割合で、カーテン越しに仄暗く明かりが灯っているのだ。それに、きっと誰の用もなさないだろうに、人も車も通らない国道には点々と街灯が灯っている。山の麓とはいえ、国道からしたら標高が高いのだ。見下ろす形で見通せる。私は、ふっと、吠えそうになった。理由は、今ここでなら、吠えたところで、野犬か何かだと聞き流されるだろうから。でも、隣に、お姫ちゃんがいた。
実は、私は大量殺戮者である。
秋の暮方だというのに、あたりは、しんと静まり返っている。
虫という虫が溺死してしまっているのだ。
この場を早く、立ち去らないと。
「行こうか」
「うん」
「て、どこ?」
「ここ」
「ここ、ああ、ここか」
「手え繋いどこや」
「うん、そうやな」
夜慣れた道だから、私が先導する。ぴちゃぴちゃとお姫ちゃんが足音を立てる。
「冷とうないか」
「今更じゃ」
投棄されたゴミを的確に避けるすべを私は身につけている。だから、zigzagに歩く。お姫ちゃんは、その迂遠な経路の理由も問わない。ぽつぽつと私についてくる。もしも、私が悪いやつで、街へ戻るんじゃなくて、何かひどいことをするための悪のアジトへお姫ちゃんを連れ込もうと企んでいたとしたらどうするんだろう、と思うけれど、最初から最後までそんなわけないことだから、ただの思いつき。
「お腹空いたなあ」
「おにぎりもサンドウィッチももうないよ」
「そうかあ」
大した距離もなく、気がつけば、草木の生えていない踏み固められた人道へ。ちょうど帰宅途中の人数人とすれ違う。数メートル先で、ブロロロロンと発進しようとしていた、最終バスが、最終バスであるがゆえに、ついっと立ち止まり、運転手が窓から乗り出し私たちへ身振り。身振りで、私らは乗らんよ、と伝えると安心したように、バスは身震いして、ブロロロロロンと走り出す。夜目の慣れない運転手は、ハゴロモ川を見落としたのだ。バス停留所で、疲労をアピールするための体操を踊るおじさんにこんばんはこんばんはと返礼しあい、ぽつぽつと灯る民家の中身、具体的には、夕飯のメニューなどを想像しながら、横目に通り過ぎる。想像の中身は、カレーシチューハンバーグ。お寿司を食べている人だっているだろうけど。時折すれ違う人たちは、時折、うぎゃ、と叫び声をあげる。薄暗さにハゴロモ川に気づかず足を踏み入れるのだ。まるで大地に穴が空いたかのように、恐れおののき、背後で飛びのく人もいる。その度ごとに、お姫ちゃんが、さりげなく、足元ふみ鳴らしぴちゃぴちゃと音させて、事情を伝えたり伝えなかったり。
国道にたどり着く。左手に折れれば、うーくんを夜襲できる。右手に折れれば、ハゴロモ駅へ。
「家、どっちなん」
「帰りたないなあ」
「そっか」
「こんばんは」
「こんばんは」
「こんばんは」
「こんばんは」
「どなたです?」
「初めまして」
「初めまして」
「初めまして」
「初めまして」
「僕らは、こういうものでして」
「名刺なんていらんよ」
「あ、はい。僕らハゴロモ市立大の学生でして、学生新聞の記者でして、取材をさせていただけないかなあ、と」
「こんな夜更けに」
「はい、お時間空いていましたら。どうかなあ、と」
「いやや」
「え、どうして。そこをなんとか」
「そこってどこ」
「取材受けていただければ、粗品ですけど」
「ハゴロモ市立大学学内学生ケーキショップ『糖尿病』のブルーベリータルトです」
「うちの大学家政科もあるから、なかなかいけますよ」
「経営学科も協力してるんす。あ、俺経営学科」
「そう」
「というわけで、立ち話もなんですから」
「カメラ撮っていいですか。撮りますよー」
「照明オッケー」
「あざーっす」
「だから、私は」
「えっと、まず、最初の質問なんですが」
「要は、あなた、紅あかりさんと小谷の関係を聞きたいんですよね」
「あかりちゃん、逃げよ」
全て、逃げるに限る。私の場合は、特に。
「お姫ちゃん先行って」
私の後ろには、滔滔とハゴロモ川が流れているから、一旦引き離してしまえば、大抵の人間は、私には追いつけない。
でも、一旦引き離してしまえば、である。怖かった。手を伸ばしたら届きそうな距離。摑まれ、羽交い締めにされ、タコ殴りにされたらどうしよう。怖い。時よ止まれ、とおもった。彼らの時だけとまれ。私は、怖さのあまり、「わおおおおおおおおおおおおおおおおおん」と吠えた。猫騙しのつもりだった。びっくりして硬直して欲しかった。その通りになった。駆け出すお姫ちゃんの後を慌てて追いかけた。私は、本当は、心細く、走るお姫ちゃんを背後から抱きしめたかった。でも、そうなると、二人して無様に転ぶことになるからやめた。そんなラガーマンみたいな熱い抱擁は私たちには似合わない。私は、お姫ちゃんのことが大好きで、本当は、抱きしめたかった。
振り返らない。のっぽで髪が長くて、妙に笑顔で、そのくせ歯並びの悪い、横縞の長袖にジーンズに履き慣れないピカピカのスニーカー姿の二人の大学生がどこまでも追いかけて来そうで、怖かった。足音は聞こえないが、忍の一族なのかもしれなかった。
夜の駅前になど、行くものではなかった。
心拍数はなかなか平常には戻らなくて、急に立ち止まったから、ハゴロモ川のやつ、私を通り越して、はるか先の電信柱まで水浸しにしてしまっている。私の元へ舞い戻ろうとしては、勢い収まらず、再び通り過ぎ、三度通り過ぎ、潮の満ち引きのように行ったり来たりを繰り返している。私たちは、足元から冷やされ、冷静さを取り戻して行く。
「いやや」と私。
「なんやったんやろうな連中」
「いやや」と私。
「やな感じやったわ」
「いやや」
「やな連中やったわ」
「いやや」
「あかりちゃん帰ろ」
「うん」
実は私は、震えていた。何か、目に見えない攻撃を一身に受けたみたいに、震えていた。ただ、話しかけられ、つまらない話をされただけだというのに。なんなんだろう、これは。電信柱を五、六本へし折りたい気分だが、そんなことしたら、私の方がへし折れてしまう。
「あのなあ、お姫ちゃん」
「なんや」
「今晩、一緒におってもろってもええかな」
「ええよ。家には、帰りたかないし」
「よかったあ」
公園には、電信柱の下ですれ違った彼女がいた。結婚式場を探していた彼女だ。
「あ」って私。「えっと」名前を思い出そうとして、でも聞いていなかった。「エロい人」
「そうだ。私は、エロい」と彼女は言った。
「誰なん」とお姫ちゃん。
「えっと、エロい人」他に情報がなかった。「新婦さん?今度結婚するんやって」
「違うな」
「違うん」
「今度ではない、今から式をあげるのだ」
「急やなあ」
「善は急げだ。夫もいる。式場も見つかった。こうして招待客も集まった。今やらないでどうする」
「さっきは、三日後とか言っとったやん」
「気が変わったんだ」
「招待客ってあたしらのことなん」
「うん。袖触れ合うも他生の縁だ」
「やった」
彼女は踏ん反り返っていた。きっと、これから結婚するものだから、誇らしい気持ちでいっぱいなのだろう。でも、そこは、私の寝床の丘で、彼女は気づいていないのかもしれないけれど、私が組んだ竃を踏みつけている。でも、もともとは公園だから。公共の場所だから、文句は言えないのか。
「式場ってどこなん」
「ここだが」
「公園だけど」
「殺風景さが気に入った」
「そっか。うれしい。ここ私の家なんや」
まず、彼女に、脇へどいてもらい、竃に火を熾すことにした。夜が浸透して、少しずつ体温が奪われつつあったから。それに空腹だった。お腹が空いているときに、火に当たると、なぜかそれだけで少し満たされるから、不思議だ。炎が燃え盛るまで、私たち三人は、麩菓子を三等分にわけて、くちゃくちゃとやった。口の中が甘すぎたから、ハゴロモ川を掬って飲んだ。
「他にも、招待客って来るん」
「うん、何人かに声をかけたから」
「そうか。早めに来るといいんやがな」満ちつつあるハゴロモ湖を眺めやる。「そういえば、なんて名前なん」尋ねると、
「色子」
「色子ちゃんかあ。色子ちゃん、おめでと」と私。
「おめでと」とお姫ちゃん。
「うれしい」と色子。彼女は無邪気に笑う。そっぽを向きながら笑うくせがある。何か面白いものでも見つけたのかな、と視線を追おうとすると、笑いすぎてまぶたが閉じている。ただ、笑っているだけだった。
私は、備蓄していた固焼きパンを拾い物のバーベキュー網に乗せ、竃で炙る。焦げ付かないように、注意を払う。宴なのだ。秘蔵していたサラミもお姫ちゃんに切ってもらい、一緒に焼いた。ひっくり返すための鋏はないから、餅つきの要領で、ハゴロモ川に両手をつける、パンとサラミをひっくり返す、ハゴロモ川に両手をつける、を繰り返した。サラミがじゅぐじゅぐと脂を滴らせ始めると、パンの上に乗せ、パンに脂を染み込ませた。見ているだけで、美味しそうだった。色子の結婚式など忘れて、ただ無心に食したいくらい美味しそうだった。
お腹、減っていたのだろう。
「こんばんは」
「こんばんは」
「おじゃまします」
「おじゃまじゃないよ。どうぞどうぞ」
風天小鞠だった。上空から、得体の知れないまん丸いものが、ぷかぷかと沈んでくると思ったら、風天小鞠だった。「色子さん、ご成婚おめでとう」「えへへ」って笑顔で答える色子。風天小鞠も、招待客のようだった。
「あ、小鞠」とお姫ちゃん。
「山田さん」と風天小鞠。
「知り合いなん」
「又従兄弟やで」
「ふーん」世界って狭いんだなって月並みに思った。
「なあ、小鞠」お姫ちゃんが、私が訊きたかったことを言ってくれた。「太った」
「ええ。少し」恥ずかしそうに俯いている。いつまで、そんなところで浮かんでいないでよ、と私は、彼女の踵を掴み、さっと地上へ引きおろす。「ちょっと、仕事の関係で、空気入れすぎちゃって」
「仕事って何しとるん」
「人間バレーボールのボール役」
「大変そうな仕事やな」
「トスはいいんだけど、スパイクとサーブがね、痛い。それにね」風天小鞠は、それからしばらく、仕事の愚痴を言って、お姫ちゃんと私と色子はそれを黙って聞いていた。そんなに辛いのなら、その仕事、辞めればいいのにな、と内心思ったけれど、言葉にはしなかった。風天小鞠には、風天小鞠の、深い考えがあるのかも知れないから。
しばらく、四人でぼうっとした。
結婚式は、なかなか、始まらなかった。
「他にも、招待客おるん?」
「うん」
「誰?」
「くちなしれんかと、名前のない魔物と、嘘太郎」
全員、私の知り合いだった。
「うーくんはこれんやろう。根っこ生えとるから」
「やっぱりそうか」
「魔物も、ペットショップの陳列棚ん中やろうし」
「そうか」
「くちなしれんかは、納豆にまみれとるやろうし」
「そっか」
三人とも、色々と事情がある。事情があることはわかっているのだろうけれど、色子は寂しそうに俯いてしまった。「誘ったのに。来てねって」
「来るって約束したん?」
「いや、くちなしれんかは、『納豆の、くせに、結婚、するんか』って言って、魔物は『そんなことより、僕を買い取ってください』って言って、嘘太郎は『行けるわけないやろう』って言ってた。でも、私は、『絶対来てね。楽しいから』って言ったんだ」
「そっか」
私たちは、お腹が空いていたから、パンとサラミをそれぞれ食べた。それから、手分けして、薄くらやみの中、ほうぼうに転げていた生首を拾い集めた。日中、何か、ひどい目にあったのか、生首たちは「もうやめてくれええ」「啄まないでくれええ」と懇願した。「そんなことせんわ」と私たちが答えると、みんな、ほっと一息ついた。私たちは、彼らを、ベンチの上や色子の周囲に丁寧に並べた。私は、彼らの耳元で「歌え、笑え、祝福しろ」と命じた。文字通り頭数を揃えることしかできなかったけれど、色子はにこにこと微笑み始めた。
「みんなが私のことを見てる。結婚式って感じだ」
神父も司会者もいない。そもそも、新郎もいない。それでも、私たちは、色子を祝福する準備だけは、できている。
「それでは、結婚式を始めるぜ」と色子は言った。少し照れてるみたいに、俯きがちだった。
「おめでとう」私たちは、唱和する。まばらな拍手。
「ありがとう」
「それは何」と私は訊いた。色子はいつの間にか、薄緑色に着色された試験管を握りしめていた。色子は、愛おしげに、試験管をじっと見つめていた。今にも、舐め出したり、試験管割れるほど、抱きしめたり、頬ずりをしそうな勢いだった。
「私はね。ずっとずっと幼い頃から、多細胞生物と結婚するような浮気なことはしないって決めていたんだ。結婚するなら、恋人にするなら、単細胞生物。たった一つの細胞を、この命尽きるまで愛し続けるんだ、って決めていたんだ」
生首たちが、ひゅうひゅうとすきっ歯で囃し立てる。
「なんていう単細胞生物なん」
「精子。Lincolnでもらって来たんだ。袋入りでくれたんだ」
「それ、多分、単細胞じゃないですよ」
「でも、めっちゃ小ちゃかったよ。顕微鏡で一人一人見比べてお見合いしたけど、ほんと、選り分けるのが大変だった。太った人、尖った人、動きの速い人、遅い人色々いたけど、みんな一様に、そこらへんのミジンコなんかと比べ物にならないほど小さかった。私は、決めたんだ。こんなに小さくて儚い人は、私が守ってやらなくちゃ」
彼女の惚気話に、生首たちが、やんややんやと騒ぎ立てた。「妬けるぜ。こんちくしょう」などと喚く輩もいた。ただ、卑猥な言葉を並べ立てているだけのもいた。ただ騒げばいいってものじゃ、ないのにな、って私は思った。言葉にはしないけれど。生首は、生首だから。落ち武者だから。
「でもさ」風天小鞠が、何か言いかけて、やっぱりやめた。「おめでとう」さっき言った台詞を繰り返してる。
「そっか」私は、私で、それは、それで、良いのかな、と思った。彼女は、とても幸せそうに微笑んでいる。嬉しそうだし、楽しそうだ。これから起こる未来のことを想像して、一人興奮している人の顔だ。精子の寿命がどのくらいか、とか、そもそも精子って生き物なのか、とか、どうでも良いな、と思った。「よかったね」
「よかったなあ」とお姫ちゃん。
「うん、運命の出会いだと思うんだ。顕微鏡で覗いているとさ、彼だけが、私に向かってまっすぐに泳ぎ登って来たんだから」それから、彼女は、後ろ髪を束ねていたゴムどめをさっと外した。豊かな黒髪が、風になびく。彼女は、全身黒い繭のように、自身の髪でうっすらと覆われる。気がつくと、彼女は、外したゴムどめを二重におり、試験管に巻きつけていた。
「なんなんそれ」
「結婚指輪」
「ゴムでええん」
「今は、まだ、これでいいかな。暫定的だけど。それに、試験管に銀の指輪じゃ、滑り落ちちゃうしさ」
「それもそうだね」
「愛してるんですね。彼のこと」
「うん」
「末長く、お幸せに」
結婚式ってなにをしたらいいのだろう。私たちには、わからなかった。結婚なんて、私たち誰もに、縁遠いものだったから。だから、四人して、ぼんやりと見つめあった。彼のことは頭数に入れていいのか、わからない。色子も、飽きてしまったみたいに、ポケットに入れっぱなしにして、もう話しかけもしなかった。私が備蓄していた食糧を四人で貪り食うだけだった。何をやっているのだろう私は。明日の朝、何を食べよう。あまりに刹那的に、咀嚼と消化を繰り返してた。何もかも、なくなってしまう。ただ、なんでもいいから、胃袋に収めるということが快感だった。もちの焼ける匂い。葱の焦げる匂い。何でもかんでも吸い込んだ風天小鞠は、原型なんてわからないくらい、ぱんぱんに膨れ上がっていた。私も、人のこと言えなかった。
食べすぎて、みんなが苦しくなって横たわった。なんで、こんなに食べたのだろう、自分自身、よくわからなかった。
色子は、それじゃあ、と言って、ハゴロモ湖を泳いで消えた。ハネムーンに出かけたのだ。こんな夜更けに出かけなくても、と思ったけれど、彼女の意思は固かった。
空をゆうらり泳いでいた風天小鞠は、突風にさらわれて、どこか遠くへ流れて行った。
私とお姫ちゃんは、寝袋に潜り込んで、眠ることにした。二人とも、たらふく食べた後だから、体がぽかぽかと暖かかった。お互いがお互いを湯たんぽのように、抱きしめた。生首たちに、おやすみと告げた。思い出したみたいに。朝、ほんのりと日が登る頃に、起こしてよ、お願い、と目覚ましの代わりを生首に頼むと、生首たちは、快く、微笑で応えてくれた。首肯はできないから。生首を植えると、こういう時に便利だな。烏に突かれないよう、対策を立てなくちゃならないな。これから。
私は、夢をあまり見ない。嫌いだから、見ないようにしているのだ。見たとしても、現実の延長線上のようなものばかりで、つまらないぜ、と夢の中でいつも腹を立てている。現実世界の二番煎じの夢なんて、見るだけ時間の無駄だぜ、と思っているのだ。でも、いつも、そんな夢ばかりを見る。今日もまた、夢の中で、色子と風天小鞠とお姫ちゃんが私の元を訪れにやってきた。ああ、いつも通りだな、と私は思って、ふつふつと怒りが沸き起こるのを感じた。だから、私は、お前らとは、現実でもあっとんじゃボケカスと彼らを呼ばわって、私は彼らをことごとく殴り蹴り飛ばした。ひどいことを数限りなく行った。骨という骨を破り砕かれて、なめくじのようにのたうつ彼らに、塩を撒いたりもした。夢の中の私は、大変な力持ちで、お姫ちゃんの足首を握ってひゅんひゅんと振り回していると、うどんの生地のようにお姫ちゃんは伸びきってしまい、すぐそばに立っていた電信柱に、びゅるびゅるびゅるっと巻きついて解けなくなってしまった。風天小鞠は、インドの油菓子のように狐色に焼いたり、膨らみきったところを巨大なパテで殴りまくって、正二十面体っぽく形作ったりして遊んだ。色子は、ぎゅうぎゅうに試験管に詰めて、その圧によって、試験官をひゅるるるるるんと、天高く飛ばした。試験官は、空ちゃんの腟に突き刺さり、割れ砕かれ、中に入っていた色子の夫は、空ちゃんと受精した。空ちゃんのお腹がぽっこりと膨らんで、膨らみ過ぎて、背の高い建物や電波塔はことごとく押しつぶされた。山も削れた。空ちゃんは青みがかった透明だから、巨大な胎児と目があったりした。胎児は夢見心地でもんどりを打ち、その勢いで空ちゃんの腹は揺れ、胎児が戯れに両腕を突き下ろすと、その腕の形に空ちゃんの腹は出っ張り、さらに街は破壊された。梱包用のプチプチを潰すみたいに、胎児は、建ち並ぶ民家やマンションを一軒一軒、ぺしゃんこにしていった。胎児は、無音でケタケタと笑った。その笑い声の波動がまたまたすごく、街は破壊された。私は怖くなった。風天小鞠に砂場の砂を詰めている場合ではなかった。なんとかして胎児を殺さねば、ということで、日がな一日街を歩き回り、ポイ捨てされたシケモクを拾い集め、灯油をかけて燃やした。副流煙は、流産に効くと何処かの誰かから聞いた記憶があったからだ。風天小鞠に、煙草の煙をどうしようもないほど吸い込んで、浮かび上がり、空ちゃんのそばで吹きかけてやれ、と命じたが、風天小鞠は、いやいやと首を横に振った。拾い物のシケモクでは、ラチがあかなかった。もはや、煙ならばなんでもよいだろうと、街中を燃やして回った。庭先の柿の木が燃え、押しつぶされた山々が燃え、コンクリートもアスファルトもぐにゃぐにゃに溶けていった。電信柱もマッチ棒のように燃え尽き、巻きつきっぱなしだったお姫ちゃんが解けてぼとぼとと落下した。試験官から飛び散って、粒状になっていた色子がわっと泣き出した。やりすぎだよ、と色子は泣いた。私の周りだけ、ハゴロモ川のおかげで、猛火が及ばなかった。街中のありとあらゆる人々が、戦火を逃れに私の元へと集まってきた。風天小鞠をはじめ空気人間たちが、こんな地獄のような場所からはおさらばだと、浮かび上がろうとすると、群衆が彼らの手足にしがみついた。一人で逃げるなんてずるい。俺たちも連れて行ってくれ。うるさい。手足のちぎれた空気人間が、また一人、ぴゅううう、と穴の空いた風船のように。遠くの方で、裸の男たちが、伸びきったまんまのおひいちゃんで綱引きを始めている。
ふう、私は、一息ついた。だから、夢なんて見たくないのだ、と思った。
目を覚ますと、山田贄子が、心配そうに不安そうに私のことを見詰めていた。
しばらく、二人して、黙ったまま、目を合わせたり、視線をそらせたりを、繰り返した。
「どうしたん」
「何が」
「魘されとったから」
「そっかあ。うん」
「怖い夢見たん」
「どんな夢やったかなあ」
「怖かったん?」
「そうかもなあ」
「大丈夫やで。あたしが、そばにおるから」
「安易にそんなこと言わんほうがええで」
「なんでや」
「期待してしまうから」
お姫ちゃんは、少し悲しいのかな、目を閉じた。
私は、夢と現実の区別がつかなくて、もし、今ここが現実なのに、夢みたいに行動してしまったらどうしよう、と不安になって、指先ひとつ動かせないまま、目を閉じた。
実は、まだ、あたりは、真っ暗闇で夜中だった。
野犬がぴちゃぴちゃと水を飲む音。
朝、目が覚めると、私じゃなくて、お姫ちゃんがうなされていた。見えない何かに襲われているみたいに、首でも締められているみたいに、ぎったんばったん、硬直したり、弛緩したりを繰り返した。「お父さん」とか「殺さんといて」とか「いやや」とかそんな台詞を微かにもらした。夢というのは、途中で起こしてしまうから、記憶に残るのだそうだ。だから、私は、お姫ちゃんを目覚めさせないように、そうっと寝袋を抜け、芋虫のように、土の上にごろんと寝転がった。朝の空気は、冷たくて、眩しくて、伸びきった肉体を、十重二十重と折りたたむようにして、半身を起こした。私は、ありとあらゆる存在を愛おしく感じた。一瞬間だけ。私たちを取り囲んでいた生首たちは、すやすやと寝息を立てていた。起こしてって頼んどいたのに。
火を熾すと、ぱちぱちと枝のはじける音で、お姫ちゃんを起こしてしまうかもな。
私は、竃の石を少しだけ右にずらす。お姫ちゃんから遠ざける。それから、いつもの半分くらいの枝に着火する。枯れ枝が少なくなってきたな。昨日、羽客山へ行くついでに、枯れ枝拾いでもしてくればよかったな、と少し反省。昨日、食べすぎて、少しお腹が苦しくなっていて、だからご飯の前に排泄を済ませる。それから、保存用のダンボール箱の中から、食料を漁る。実は、日中、私がこの公園を空にしている時、見知らぬ人が、知らぬ間に、この段ボール箱に食料を入れておいてくれることがある。奥の方から、キャベツとレタスと白菜が見つかった。もう少し彩が欲しかった。底の方に、さつま芋の芋と茎の部分が大量に敷き詰められてあった。私は、排泄を行なったのと反対側で鍋に水を組み、ぶつ切りの芋と茎を鍋に放って、竃で蒸す。蒸している間、暇だから、お腹減ったから、竃の前でしゃがみこんで、白菜とキャベツを交互に齧る。甘かった。美味しかった。
「わんわん」
振り返ると、昔見た魔物だった。
「わんわん」
首輪をつけられた四つん這い魔物と手綱を握る恰幅の良い中年の男性が並んでこちらを眺めている。
「わんわん」
「魔物やんか」
「わおんわおん」
「久しぶり、なんかな。そいつ飼い主なん」
「わおおん」
「お嬢さんこんにちは。曽根崎眼鏡っ子です」眼鏡はかけていなかった。そういう名前なのだろう。おじさんに見えるけど、実はおばさんなのかもしれない。
「こんにちは。紅あかりゆいます」
「わおおおおん」
「朝、散歩をしてるとね。こいつが、どうしてもお嬢さんに会いに行きたいと申しましてね」
「わおあおん」
「そうなん。嬉しいわ」
「あおん。あおん」魔物は四つん這いのままくるくるとその場を回った。
「あの時は、本当に助けていただいてありがとうございました、と申しておりますね」
「うん。そっかあ。まあ、大したことやないから、気にしんといてって伝えとってください」あんまり、大きな声で話していたくなかった。お姫ちゃんを起こしてしまうかもしれないから。
「あうん。あうん」魔物は、べろべろと、曽根崎眼鏡っ子を舐め始める。
「こらこら。やめろやめろ」言葉に反して、にこにこと笑っている。
「よかったなあ。優しい飼い主さんに巡り会えて」
さよならを言い合った後、私は、白菜を齧って、二人は、トコトコと歩き去った。犬の真似事をしなくちゃいけないなんて、魔物も大変なんだな、って思った。性に合っているのかもしれないけれど。
「あ。お姫ちゃん」
「よう。あかりちゃん」
「おはよ」
「おはよ。よう寝たけど、まだ眠いわ」
「さつまいもあるよ」
「さつまいも?」
「うん、さつまいもだけやけど」
私たちは、二人して、竃の前にしゃがみこんで、さつまいもをもぐもぐとやった。舌と上顎で、柔らかくなった黄色い部分をすりつぶして飲み込んで、残った皮をくちゃくちゃと噛んだ。
「甘い。美味しい。いつまでも、こんな風にぼんやりとしていたい」とお姫ちゃんは呟く。
「そうやね」
残り汁はほとんど味がなくて、千倍に薄めたお茶のようだった。でも、暖かくて、ポカポカするから、ひとくちひとくち、舌と口の中を慣らしながら飲んだ。
お姫ちゃんは、諦めきっている。でも、私は、それは、嫌である。
しばらく、ぼんやりした後で、ぶんぶんと首を振る。
「どうしたん」
「どうもせんよ」
お姫ちゃんも、嫌なものは嫌か。諦めているとしても。
「今日、何しようかな」
「何もせんでいいじゃろ」
「そりゃ、あかんやろ。今日一日が無駄になる。何よりも、つまらん」
「無駄とか、無駄じゃないとか、私には、ようわからんけど」
「何かしたら、その分、何か起こるやろ」
「何がや」
「知らんけど」
「あ、」私はふっと声を漏らした。
「なに」
「ゴキブリ女や」ゴキブリ女がヴェネツィア公園前をササササ、と通り過ぎたのだ。這いつくばって。
「ゴキブリ女ってなんや」
「ゴキブリ女は、ゴキブリ女や。四つん這いになってゴキブリみたいに、カサカサ動くんや。明るいところが苦手なんや」
「ふーん」
「ゴキブリ女はな、ほんとは、普通の女の子なんや。いや、普通じゃないところもあるらしいんやけど、肉体の方は普通らしい」お姫ちゃんは、理解できないな、って顔で、空ちゃんを見上げている。「でもな、ゴキブリ女の影は、めっちゃ淫靡なんやって」
「淫靡ってなんや」
「淫靡ってあれやろ。インモラルみたいな感じやろ。淫らってことやろ」こんな噂話みたいなこと、ゴキブリ女の知らないところで話していいのかな、って私はふっと思った。ゴキブリ女が、あとあと知って、傷ついたりしないだろうか、と。だから、私は、話し始めておいて、だけど、口を閉じた。ぼんやり、空ちゃんの綺麗な体を眺めやる。遠くの方で、というか、ハゴロモ宇宙開発局のロケット発射場から、しゅるしゅるしゅると、白煙が立ち上っている。きっと、また、有人ロケットを打ち上げたのだろう。有人ロケットは、友人ロケットである。空ちゃんのお父さんお母さんが、いつも一人で揺蕩っている空ちゃんを寂しかろうと慮って、適当な子供を捕まえてロケットに詰めては、空ちゃんめがけて飛ばしているのだ。私も、飛ばされそうになったことがあるけれど、ハゴロモ川が邪魔になって中止になった。
黙り込んでいる、私を、お姫ちゃんが、不審そうに見上げている。
「ゴキブリ女の話はもういいん」
「うん」
「そっか」
「あのな。一応ゆうとくけど、私は、ゴキブリのこともゴキブリ女のことも別に嫌いやないからな。ゴキブリ女のことゴキブリ女ゆうんは、侮蔑的にゆうとるんやなくて、ゴキブリみたいやから、ゴキブリ女ゆうとるだけやから。ゴキブリのこと、別に、好きでも嫌いでもないからな。ただの虫やし」
「うん」
「ゴキブリは噛んだりせんからな」
「そうやな」
「ゴキブリ女も噛んだりせんから」ふっと、ゴキブリのことを、御器齧り(ごきかぶり)とも呼ぶことを思い出す。もしかしたら、齧り付くのかもしれないなあ、って思う。でも、自分の主張に不都合な情報は、口にしない。卑怯だな、私。
「平身低頭を地でいっとるもんな」お姫ちゃんが一人納得している。結局私たちは、さつまいもとさつまいも汁を食べ終えたのに、特になにをするでもなく、ぼんやりしている。命には、限りがあって、お姫ちゃんが生贄から逃れるためには、何か策を練らなくちゃならないのに、なにもしないで、ただ息を吸ったり吐いたりして、たまに、吐き出す息に言葉を乗せてみたりして、ただそれだけのために時間を過ごしている。私たちは、しばらく、息を吸ったり吐いたりした。何かしなくちゃ、と言い出したお姫ちゃんも、ただ、息を吸ったり吐いたりしている。
「やっぱりさ」
「うん」
「ゴキブリ女の話してもいい」
「あかりちゃんが決めなよ」
ゴキブリ女の影は、淫靡なのである。どうしようもなく淫靡なのである。一目見ただけで欲情を掻き立てるのである。男たちは、その影を性欲と切り離して認識することができない、そうである。私は、知らないけれど。ゴキブリ女の影には、なぜか知らないけれど、細長い切れ目のような穴が空いているそうである。
「そこに入れたくなるんやってさ、男たちは」
「変なの。影に穴が空いとるのも変やし、男たちも変や」
ゴキブリ女も、昔は二足歩行していたのだが、二足歩行をしていると、影が露わになって、男たちの欲情を駆り立てるそうである。ゴキブリ女がバス停でバスを待っていると、知らぬ間に、男たちが足元で性交に及んでいるのである。もちろん、影との交わりだから、擬似的な性交で、要は、自慰行為の延長線上なんだろう、と思う。でも、いつもいつもそうなのだ。ゴキブリ女が立ち止まったり、座り込んだりする度に影に向かって男たちが殺到するのだ。教室での授業中とか、軒先で雨宿りをしている時とか、羽客山の展望台から街を見下ろしている時とか。どこからともなく、男たちが現れてズボンを下ろすのだ。
「それでな、うんざりした、ゴキブリ女は、自分の影を自分の肉体で覆い隠すように四つん這いになったんや」
「そうなんか」
「そうなんや。初めは、自分の影を覆うほどの巨大な日傘を差したり、着膨れして影の形を変えてみたそうなんやけど、効果なかったんやって。巨大な日傘には、照光器を横から当てられたり、着膨れしても、それがまたいいとかいうのもおったらしい」男は、執念深いから、とぼそっとつぶやく。私自身その執念を体感したことはないけれど、傍から眺めていてそう思うのだ。
「いろいろ、大変なんやな」
「人生工夫が必要なんや」そんな教訓めいたことを言って、なんになるんだろう。私には、わからないけれど。
私には、目的なんてなかった。ただ、日々、生きているだけ。呼吸をしているだけ。ハゴロモ川は流れたり淀んだりを繰り返しているばかり。私は知らない。何もかもを知らない。
今日は、雑木林を歩こうと思った。私が勝手に、そう決めた。どちらが虫食いなのか、わからないけれど、中途半端な開発の結果、街には、いたるところに虫食いができていた。まるでルールを忘れたオセロゲームのように、鬱蒼と茂る樹木の群と人間の群れとが入り合い組み合い組んず解れつしていた。昔は、この街も、全てが全て、樹木で覆われていたのかな、と思うと、恐ろしいような懐かしいような想像が広がってくる。私は、できたら、この散歩は一人で行きたいな、と思った。
お姫ちゃんと、どこかで、さよならをしなくちゃな。
「お姫ちゃんこれから、何をしよう?」
「何をしたらいいんかな」
「いっつも何しとるん」
「いっつも何しとるんやろうなあ。あたし。何かはしとるはずなんやけど」
「何かはしとるはずだよね」
「ぼうっとしてる」
「悪くないね」
「ぼうっとして空に浮かんだ気持ちになったり、地中に沈んだ気持ちになったりしとる」
「悪くないね」
「そうや。全然悪かない。でも、ずうっと天井の下を歩いている気分になる」
「天井の下ってなんやろ」
「細長い蛍光灯があってな、五本に一本くらいちかちかしとるのがあるんや。けど、私が見上げるたびに、澄ました顔で、ちかちかやめて、ぴかーって、空元気に光り輝くんじゃ」
「ようわからんけど」
「ようわからんように話しとるからな」
「ぽっかりとした穴を、潜り、また潜り、潜る。歩くというのは、ぽっかりと空いた穴の連続体をただ、くぐり抜けるだけのことかもしれない」
「何ゆうとるんや」
「さあ」
「ようわからん」
「私も」
「昔な」
「うん」
「学校の先生は、みんな悟っとるんやろうなって思っとった。あんな偉そうに話すんやから、悟りの一つや二つしとるやろうって」
「うん」
「その気になったら、ニヤニヤしながら、その場で舌噛みちぎって、身震い一つせずに、存在を消滅できるんやろうなあ、彼らはって思っとった」
「うん」
「でも、それは、あたしの一方的な思い込みで、悪いことしたなあ、思っとるんや。過度な期待をしてしまったなあて。彼ら、あたしの期待が負担で不安やったろうって」
「うん。でも、教師って生徒に期待されるのが本望やろう」
「嘘だ」
以上の会話のどこかで、私は、「さよなら」という言葉を挿入して、お姫ちゃんも、以上の会話のどこかで、「さよなら」という言葉を挿入した。全体として、「さよなら」という言葉を誘発する会話だったから。
さよなら、と言っても、その瞬間、足の裏から火を噴いて北極と南極へそれぞれ別れて飛び立つわけでもない。声も届けば、視認もできる距離を揺蕩った。つまり、さよなら、という言葉の後、お互いにお互いの存在を存在せぬものとして認識した。
私は、ヴェネツィア公園を抜けた。風天小鞠が、電信柱に引っかかっているのを見つけた。皮膚は絶縁体だから大丈夫。素通りする。
「本当に、皮膚って絶縁体だったろうか。勘違いかもしれない。でも、まあ」
私以外の人間は、小学生だったり、会社員だったり、通学通勤時間らしく、一定の方向に流れて行く。私は、その人波に、乗ったり、乗らなかったりを繰り返す。人波サーフィンをしばらく楽しんだ後、波が止んだから、一人誰もいない住宅街で、行ったり来たりをした。ヴェネツィア公園から離れたり、離れなかったりを繰り返す。生首のことが気になったのだ。昨日のように、カラスに啄ばまれたらかわいそうだ。日時計の針のように、ベネツィア公園の周囲をくるくる回った。ハゴロモ川もくるくる回った。
「あ、いたいた」
「昨日は、どーも」
「チース」
「お話を伺いたくて探したんですよ。朝からずっと。こんなところで何やってるんですか」
「暇そうですね。お時間いただけますか。えーと、まず最初の質問は」
「いやや」
「うわ、冷た。朝のハゴロモ川は冷たくて気持ちがいいですね。でも、犬のフンとか浮かんでる。汚いな」
「小谷と初めて出会われたのは、小学校御入学の御時だったと思うのですが、その時の小谷の印象、思い当たる節、違和感などを」
「いやや、ゆうとるやろ」
「どうして嫌なんですか。僕たちは、知りたいんです。教えてくださいよ」
「初対面の時は、流石に昔すぎて記憶にないですか。確かに、なるほど。それは、僕の質問が悪かった。反省します。では、一番古い、小谷との記憶などを」
「いやなものは、いやや」
「いじわるだなあ、あかりさんも。何も、無償で、ってわけじゃないんですよ。昨日、公園に置いてあったでしょ。麩菓子」
「ふむふむ。そんなに、小谷との思い出を甦らせるのがお嫌なんですね。何かあったんですか。トラウマ的な。そこ、聞きたいなあ」
「どうして、私にこだわるん」
「違いますよ。話聞いてなかったんですか。馬鹿ですか。僕たちは、ただ小谷のことを知りたいだけ。だから、こうして訊きにに伺っているんじゃありませんか。あかりさんのことなんか興味ないですよ」
「そうです。だから、是非、リラックスして。知っていること、なんでも教えてください。きちんとした記事にして、報道いたしますから。それが、僕らの仕事なんです」
「それじゃ、写真撮りますねー。あ、意識しなくていいんで。自然に自然に。インタビュアーとの会話楽しんで」
「それでは、気を取り直して。小谷がことを起こした前と後で何か、変化って感じましたか。それとも、小谷の様子や印象に、変化はなかった?」
「そうですそうです。自然が一番。感情がよく画面から伝わってるよ。いいねー」
「何黙ってるんですか。早く。いや、記憶の整理が必要なんですよね。大丈夫です。思い出せる範囲でいいんですよ。僕ら、待ってますから。早く思い出せたら、ゆっくりリラックスして早くお話しください」
その後、私は、殴られたり、蹴られたり、どつかれたりした。
「何、黙りこくってんだよ。クズが。ああ」
「だってなあ。話通じんやろ。私たち」
殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る。
「大丈夫ですか。ごめんなさいね。こいつ荒っぽくて。こら。正当防衛にもほどがあるだろ。殴る時は、手加減しろ」
「蹴る時は」
「足加減だ」
それから、しばらく、同じことの繰り返し。低予算アニメのようだ。
私は、ぼんやりとした。幽体離脱感を繰り返し感じたり、『痛いの痛いの飛んでけー』という在りし日の母の歌声が頭の中で反響したりした。飛んでいった先はどこなのだろう、と私は思った。痛みだけの世界か。『痛いの痛いの飛んでけー』を合図に、私の痛いの痛いのから、スペースシャトルのようなエネルギー噴射が巻き起こり、私の体ごと、どこか遠くへ飛んで行ってしまわないだろうか、と想像した。今の場合、そちらの方が良い。ぼんやりするのは、嫌いじゃないけれど、強制的にぼんやりさせられるのは、嫌だなあ、と思った。ハゴロモ川が滞留しないように、蹴り転がされる。
それから、しばらくして、そのしばらくの間が、長くてしんどかったのだけれど、しばらくして、小谷が現れた。久しぶりだった。一週間ぶりくらいだった。なんだ、大して久しくもない。
「こんにちは」
「こんにちは」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「そっか」
大学生たちは、私の体をこねくり回すのに熱中しており、小谷の登場に一切頓着しなかった。きっと、まるで気がついていなかった。真夏の亡霊ないしぼうふらのように、脈略なく現れるのだ。小谷は。気がついたら、そこにいて、ちょっとびっくりする。
「そっかじゃないよ。助けてや」
「助けるって何を」
「警察呼ぶとか」
「警察って俺犯罪者だからなあ」
「匿名通報したらいいやろ」
「携帯持ってないし」
「貧乏人が」人のことは言えない。
「あなたもだろ」
「私には、働けない事情があるから」
「俺にだってあるよ」
「嘘つき」
「面倒くさいんだ。ごく一般的に暮らすのが」
そこまで言うと手近にあった岩石に腰をおろし、小谷はポケットから取り出したタバコに火をつける。中学生のくせに。携帯電話は持っていないくせに。
「大変そうだな」
「大変とか、そうゆうレベルやないって」
「確かにな。なんだか、可哀相になってきた」
「実際、痛いしなあ。そこそこ」強がってみた。そこここが痛い。
「そこそこかあ」かなり痛かった。痛烈って言葉が脳裏に浮かんだ。
「痛い痛い助けて、って泣き叫んだら、助けてくれるんか」
「うるさいな、って思うだけかもな」
「小谷には、人情ってもんがないんか」
「ないんだろうな。あったら、人殺したり、しないよ」
小谷は、この街では名の知れた殺人鬼だった。よく人を殺す。でも、殺しても、大抵、結局、死なないことの方が多い。多いと言うか、死んだ場合を、私は知らない。空気女になった風天小鞠とか。植物人間のうーくんとか。なんだかんだで生きながらえてる。ずるいなあ、と思う。そんな好き放題をやって、ある一定の範囲で被害が収まるなんて、ずるいだろう、と思う。
「反対の見方もできる。殺そうと思って殺してみても、生きているんだ。うんざりする」
「ありがたいやろ」世の中には、その反対も、たくさんあるのに。
結局、小谷は、見ているだけだった。
でも、小谷がそこにいるってことが不気味だったのか、二人の人間は、暴力に飽いて、ふらふらと何処かへ去って行った。なんだかんだ言って小谷は、連続殺人未遂犯なのだ。そんな小谷とわざわざ関わりを持とうとは思わないだろう。いくら、小谷について取材している新聞記者だって、肝心の小谷とは相面したくないのだろう頑なに視線を俯かせて歩いている。彼らは、私に唾を吐き散らして、去って行く。ハゴロモ川がすぐに私を取り囲んで、私をじゃぶじゃぶと洗う。ああうーくんっていつもこんな気持ちなんかな、って思ったりする。結構気持ちがいい。今日は、暖かいから。
殴られ蹴られ擦られて薄くなった皮膚からじわじわと血が滲んでくる。でも、次々と押し寄せるハゴロモ川に行き場なんてなくて、細い血の筋は、繭のように、私にまとわりつく。そんなに私から離れたくないなら、出なければいいのに。まるで、乳離れできない甘えん坊のようだと思う。そろそろ私は溺れそうになる。うーくんと違って、ハゴロモ川は私めがけて流入するから、水の進みが早いのだ。小谷は、そんな私の横で、スニーカーの泥をハゴロモ川で洗っている。その泥も私めがけて流入して、目に入る。痛い。
「そんなことしとらんで、助け起こしてや」
「自分で起き上がれるだろ。面倒臭い」
「助け起こして欲しい気分なんや」
「そう言われてもなあ。俺の気分はどうなる」
「知らん。他人に斟酌する余裕なんかないわ」
小谷は、無視した。私は起き上がって、小谷を殴った。いろんなことに疲れ果てた私の体は、扇風機の羽みたいだった。びゅんびゅんとすごい勢いで回ってはいるが、幼子のの腕力でもとめられるあれだ。私は、見掛け倒しの大げさな動作で、大振りに殴り込むが、ぺしりと、なんの威力もなく小谷の肩に拳を当てただけだった。
「ひどいことをされた後は、誰かに無性に、ひどいことをしたくなるなあ」と私は呟いて。
「そうか」と小谷は応ていた。
よくあることだった。半年に一回くらいはあるだろうし、私以外の誰かだって体験というか体感することだろう。暴力なんてよくあることだ。信号機の数ほどありふれてはいなけれど。
いや、そうでもないか。と私は頭を振る。
信号機が新設される頻度と、誰かが誰かを殴ったり蹴ったりするまでのインターバルとでは、どちらがより煩瑣なのだ。少なくとも、特別な発展のないこの街には、新しい信号機も新しい道路も新しい横断歩道も新しい陸橋もひとまずは必要ないだろう。
小谷は、よく人を殺そうとする。私には、なぜ、そんなことをしようとするのか、よくわからないけれど。この間も、見知らぬ人の指と指との間にナイフをあてがい、首の付け根まで肉を裂くということを、両手両足それぞれの指の間で行なっていた。小谷の腕がいいのか、大して痛そうではなかった。流石に、今回は死んでしまうのかなあ、と横目で眺めていたけれど、切り裂かれた方は元気なもので、涎ひとつ垂らさなかった。首から伸びる細長い肉紐二十本を器用に操り、まるで蛸型火星人のように、歩き出すことさえできたのだ。内臓はこぼしていたけど。緩慢かつ優雅な動作で。ただ、その時、どこからともなく小学生の集団が現れて、気持ち悪いんじゃボケえとかと罵って、その蛸型を蹴り倒し、取り囲み、教科書の詰まったランドセルで滅多打ちにしてしまった。元気に暮らしているだろうか。それ以降、その蛸型もあの小学生達も見かけてはいないけど。
暴行を加えられた日は、何もしたくなくなる。きっと、暴行で傷ついた肉体を癒すために、それなりのエネルギーが必要になるからだろう。私の膚は、窓ガラスを磨いた後の雑巾のようにところどころ黒ずんでおり、ちくちくと針で突かれているみたいにそこかしこが痛む。本当に、文字通り、雑巾だなあ、私って思う。ただの連想であって、本当は、本当のところは、雑巾の気持ちなんて、私にはわからないのに。
私は、立っているのも面倒になって、信号機の細長い鉄柱にもたれかかる。それから何もしない。できうる限り、立ち尽くして、立ち尽くすことも面倒になったらずるずるとしゃがみこんで。あたり一帯、水没させる。脱力しきった私は、背泳ぎの要領でぷかぷかと浮かぶ。こんな場所に滞留しちゃ、あかんやろう、と思ったけど。
生垣が、水圧に耐えかねて、押し倒される。煉瓦塀は、迂回する。民家の柱が、めきめきと拉ぐ音がどこからか聞こえてくる。わたしは目を瞑っている。大怪獣になった気持ちになる。あるいは、大怪獣がそこかしこにいて、地団駄を踏むとかではなくて、優雅に、一歩一歩、家々を踏み潰している様を想像する。大怪獣にとって、民家一つを押しつぶすことは、私たちが梱包用のプチプチを押しつぶすのと同じくらい容易くて、病みつきになる、特別の目的のない遊びなのだ。
私が、悪いのではない。殴られたり、蹴られたりしたから、疲れただけだ。疲れたら、眠るだけだ。眠っている間に起きたことは、知らない。子犬がきゃんきゃんと吠える。溺れかけているのかもしれない。でも、そんなこと、知らない。
「でもなあ」
死んでしまうのは、可哀相だなあ、と思って、ハゴロモ湖の畔まで泳ぎ渡って、歩き出す。歩いていたんじゃ、間に合わないかもしれないから、よろよろと走り出す。
「なんで、私が走らなくちゃならないのだろう。子犬なんて勝手に何処かで死んでしまえばいい」
小谷の姿は、どこにもなくって、あれ、どうして私は殴られたり蹴られたりしたんだっけ、と考える。特に理由はなかった。
また、いつか、特に理由もなく、殴られたり、蹴られたりするかもしれない。
私は、しばらく走ると、すぐにいろんなことがどうでも良い気分になって、まろんで、私は道路に寝そべって、そんな私を浸すようにハゴロモ川が流入して、ハゴロモ川がハゴロモ湖になって、周囲の家々やら車やら水浸しにしたり、押しつぶしたりして、寝たきりの爺さん婆さんの悲鳴や子犬の鳴き声に、目覚めさせられて、仕方ないから、泳いで走って、しばらくしたら、やっぱり、いろんなことがどうでも良くなって、まろんで、まるで受け身も取らずに投身するものだから、全身痣にまみれて、痛くて、さらに、いろんなことがどうでもよくなった。
私は、どこへ向かって進んでいるのか、良くわからなくなった。手当たり次第、民家を水没させ、破砕させているだけのようだった。
気がつくと、あたりは、まるで、大津波にでも侵されたみたいに、何にも残っていなかった。
「ひどいことするなあ」と小谷が言った。
「どこにおったん」
「ここ」
「ずっと」
「ずっと。あなたが勝手に走って行って、勝手に戻って来ただけだ」小谷は、相変わらず、座り込んで、タバコを吹かせていた。小谷の周りを濃いタバコの匂いが取り巻いていた。もう、随分と長い間、そこでそうしていたのだろう。小谷の衣服も全身びっしょりと濡れそぼっている。
「あああ。疲れた」
「もう、公園に帰ったら」
「でも、大惨事や」
「素知らぬ顔をすればいい。俺はいつも、そうしてる」
「無責任だ」
「誰かが死んだわけでもないんだろ」
「多分なあ」
小谷は、優しくないから、介抱してくれたり、一緒に連れ添ってくれたりはしなかった。私は一人で、ヴェネツィア公園に戻った。
それから、空ちゃんを眺めたり、日向ぼっこをして過ごした。会社や学校から帰って来た大人や子供達が、どんな気持ちで、荒れ果てたこの住宅街を眺めるだろうか、と想像した。びっくりするだろうなあ、と思った。してやったり、という気持ちにもなった。びっくりするだろうなあ。してやったり。何をしてやったりなのだろう、知らない。
「あ」
「なんじゃこりゃー」
「うわー」
夕方になって帰って来た、会社員やアルバイターや学生が声をあげた。私は、公園の中央で、両手で口を覆って、くすくすと、笑った。
「おーい、おいおい」
「怖かったよー」
「わん、わわん、わん」
寝たきりの婆さん爺さんや、風邪で留守番してた子供達や、取り残された番犬が、甘えた声で泣き喚いた。私は、やっぱり、悪いことをしたのかなって思って、私以外誰もいない公園の真ん中で、ごめんねの予行演習を行った。
「ごめんね」
「ごめんね」
「ごめんね」
「笑いながら言った、あかんなあ」
それからしばらく、街のみんなは、野宿して暮らした。がれきの下で、雨露をしのいで、太った人を取り囲んで暖をとった。喉が乾いたら、ハゴロモ川を飲みに来て、お腹が空いたら、畑を荒らした。電気なんて通らないから、夜になると真っ暗になって、寂しくないように手を繋いで眠った。お風呂なんて入れないから、みんな臭くなった。まだ、秋で、本格的に冷たくなる前だから、お昼の、一番暖かい時に、みんなして、ハゴロモ湖で水浴びをした。かと思うと、ハゴロモ湖の辺りで用を足す子供達もいた。私は、そんな彼らのことを、両手を望遠鏡のようにして、眺めていた。時折、私にお供えにくるお婆さん。そのお婆さんが公園の入り口に置き去りにしたおはぎを、拾い食いする子供。その後を尻尾をふりふりついていく野犬。野犬という属性のチワワ。行方知れずになった、飼い犬を探す、おばさん。
何日か経った。私は、ほとんど毎日、一日中眠って過ごしていたから、正確な日数など分からなかった。よく、無人島に漂流した人たちが、木に刻みを入れて、日数をカウントするけれど、あれになんの意味があるのだろう。暦も曜日も、週末のデートの予定もなくなった世界で、そんなことして意味なんてあるんだろうか。そんな言わずもがななこと脈略もなく考えた。気怠かった。食べては眠り食べては眠り、そんな日々を繰り返した。時折、私の島まで泳ぎくる人たちがいて、お互いにちょっと気まずくなったりもした。お互いに、お互いの影を眺めやって、そこに他者がいることを認識して、そうっと後ずさった。そうしているうちに、身体中の傷が、癒えたから、私は、のそのそと、起き上がった。爪先立った。世界を見渡した。流石に、数日間じゃ、荒地は荒地のままだ。テントや、キャンピングカーや、プレハブ小屋が所々立ち並ぶ。お互いにもたれあう民家の間に隙間を見つけ、洞穴のように利用している人もいる。そんな荒れ野。以前より、ごちゃごちゃと、いろんなものがあり、栄えているようにさえ見えるけれど、ただ、エントロピーが自然増大した結果なのだ。私の着衣が汗臭くて、急に気持ちが悪くなって、溺れるみたいにハゴロモ湖に入って、じゃれつくハゴロモ湖にもみくちゃにされて、洗濯機で渦巻く衣類のようにしばらくの間漂流した。
「あ、どこに行くの」
「散歩」
「だから、どこに行くの」
「私も知らん」
漂流することに飽いだ私は、ハゴロモ湖を抜け出して、荒地を抜けて、意味もなく歩き続けた。荒地の人たちは、私のことなど御構い無しだった。みんなして、私に石投げうち、私のことをいじめ殺すのではないかと、恐ろしかったが、そういう気配は伺えなかった。私が、こんな風にしたって、誰も知らないのかもしれない。
目的地なんてなくて、特に会いたい人もいなくて、だから、ただただ、まっすぐ歩いた。道に迷う余地がなくて、時速八キロくらいで、ずんずん、と進んだ。途中で、少し怖くなったのだけれど、立ち止まる理由が思いつかなかった。
犬の糞かと思った。生暖かかった。
「あのさあ」
「なんや」
「あかり、俺踏みつけてる」
「ああ、気づかんかったわ」足元には、うーくんがいた。うーくんの腹の上に乗り上げていた。浮いたり沈んだりした。痩せた腹で、内臓が退化したのか、ふみごこちの悪い腹だった。私は思わず、立ち止まった。
「退いてくれんのか」
「いろんなことが、どうでもようなってな」
「俺のこともか」
「いろんなことは、いろんなことや。いろいろ入っとる」
「そっか」
「いろんなことがどうでもええんやけど、だからって、何かにかまけとるわけやないんや。なんか、特定のことに気持ちが集中して、それ以外のものがどうでもようなっとるわけやないんや。ほんとにいろんなもんが、どうでもええんや」
「そっか」
「なんで、私、今こうしておしゃべりしとるんやろうなあ、って気持ちにもなるんや。ああ、うーくんに話しかけられたからや。別に、私から、おしゃべりしたかったわけやないんや。なんや。黙ろ」
「そうか」
うーくんの腹に乗ったおかげで、少しだけ高くなった視点で、みるともなしに、私の視界の届く、一番遠くのものを眺めやった。
「うーくん」
「なんや」
「うーくん、優しいな」
「いきなりなんや」
「いろいろや」
「ようわからんが」
「踏みつけにされて、いきなり無視されて、また急に話しかけられて、返事しとる。うーくん、優しいなあ。さもなくば、ただの寂しいばかだ」
「罵っとるのか、褒めてるのか、どっちかにせえや」
「どっちでもいいんや。うーくん、あのなあ。覚えとるか」
「覚えとるって何をや」
「いろんなこと」
「漠然としすぎとるわ。でも、漠然としたもんは、記憶からすり抜けちまうもんやから、きっと忘れとるやろ」
「ばか」
「俺の記憶は、もう、九割がた、これまで見た空模様で埋まっとる」
「やろう」
「もう、ここに植わって何年もなるからなあ」
「その始まりや。うーくん。うーくんが、小谷に首切られた時んこと、覚えとらんのか」
「痛かったなあ」
「私、泣いたんやで」
「何がや」
「うーくんが、首切られて、殺された時」
「そうなんか」感慨深そうに、うーくんはつぶやいた。「そん時、俺、意識のうのっとたからなあ。初耳や」
「泣いとったんや」
「ふーん」
「二、三ヶ月くらい」
「ふーん」
「毎日ポカリスウェットばっかり飲んでなあ、泣き続けとったんや。九十日くらい」
「ふーん」
「アクエリも飲んどったかもしれん。経口補水液も。アミノなんとかも。泣きすぎて、おしっこ出んくなって、もしかして、私の目から溢れとるこれは、涙やのうて、おしっこの成れの果てなんやないか、アンモニア臭いんやないかって思ったりもしたんや」
「心配のしすぎやろう」
「そうしたらな、私の周囲水浸しなって、川か湖みたいになっとんたんや」
「ああ、覚えとる覚えとる」うーくんは笑った。「久しぶりに会ったら、川引き連れとるから、びっくりしたわ」
「私も、びっくりしたわ。死んだと思っとったら、畑の肥溜めん中転がっとって、勝手に根っこ生えとるんやから。試しに、胴体くっつけたら、接ぎ木できたんやから」
「あの時は、ありがとうな」
「どういたしまして」
「ふう」
「でもなあ」
「なんや」
「私の涙、なんやったんやろうなあ」
「川やろ」
「湖かもしれん」
「どっちかゆうたら、海かもな」
「にしては、小さいわ」
過去に注釈を加えることはできないし、今に注釈を加えることもできないし、未来にだってできない。でも、こうしたもやもやした思考がまさに注釈なのかもしれないな、て思った。
あの時、肥溜めの中に転がっていたうーくんからは、糠漬けみたいな匂いがしたなあ、と、その匂いを、思い出す。風が吹いても、鼻の奥に張り付いたみたいに、匂いは消えなかった。髪がばたつくばかりだった。
「いい眺めや」私は呟く。「いつも思うんや。もう五、六センチばかし背え高かったらな、て。子供の頃から、そうや。ゼロ歳の頃は知らんけど、三歳とか、幼稚園くらいの頃からそうや。クラスで一番背え高い子に憧れとったわ。五、六センチの差が、憧れやったわ。ふと思い出したわ。いい塩梅や。うーくんの腹の厚みわ」
「そうか」とうーくんは落ち着いた声で答える。
「あのなあ」と私は呟いた。「うーくんのこと、引っこ抜いてもええか。いや、引っこ抜くんは面倒やから、根っこの根っこんところ、だからアレな、根っこの生え際んところ、アスファルトのかけらかなんかでな、ガンガン叩き折ってもええか」
「怖いことゆうなや」
「根っこんところ切り離したらな、うーくんの体、筏みたいに、ハゴロモ川ん浮かべて、一緒にどこか、遠くへ行こうや」
「そんなことしたら、俺死ぬやろ」
「死なんかもしれんやろ。そのうちまた生えてくるかもしれんし」
「根っこのうのったら、養分も水も吸えんし、干からびて死ぬやろ」
「干からびたって、しわしわになるだけやろ。ハゴロモ川につけとったら、そのうち治るわ」
「そういうもんかなあ」
「そういうもんやろ」
「ふーん」
「ん」
「じゃあ、そう、するか」
「そうって」
「さっき、あかりがゆったこと」
「でもなあ」と但し書き。「少しずつやってな。いきなり鉈でぶった切るんやのうて、ノコギリかなんかで、少しずつ、な。で、めっちゃ痛なったり、根っこから血がポタポタ垂れたり、なんか知らんけど、このままやったら、きっと死ぬわって、思ったら中止してな。多分、少し傷つくくらいやったら、大丈夫やろうから」
「え、う、あ」私は、少し、急に、怖くなって、その場を立ち去る。その腹からポン、と飛び上がる。
「どこへ行くんや」
「あ、あれや」
「あれってなんや」
「あれは、あれや」
「だから、なんや」
「ノコギリ取りに行くんや」
「それもそうやな。早よしてな。いや、気長に待っとるから。焦らんでええからな」
私は、十数歩離れてから、思い出したように、手を振って、さよならを言った。うーくんは、もはや、水没しかけていて、ごぼごぼごぼお、みたいな不明瞭な台詞を吐いた。自分で、ふっと、言い出したことだったけれど、想像すると、怖かった。「私が、うーくんを、切るんかあ」って呟くと、現実感が、薄らいで、とてててて、とピンボールみたいに、(車道側の)ガードレールにぶつかって、(畑側の)ガードレールにぶつかってを繰り返した。気持ちを取り直そうと、「私が、うーくんの、大事なあそこを切り取るんかあ」とあえてボカして、卑猥っぽく呟いた。「グヒヒヒ」って笑いも添えてみる。うん、いい感じだ。
どこか、遠くへってどこなんだろう、と頭の片隅では考えていた。
くちなしれんかが、鉄箸を、アスファルトに突き刺していた。カンカンカン。「納、豆ぅい」
それは、納豆じゃないよって、言いたくなった。でも、そんなこと、百も承知かもしれなかった。足元、というか、引力引っ張る方には、おそらく、生命は、少なくとも人命はいないだろう。だから、引力で粘つく方の納豆を、かき混ぜてやろう、と考えているのかもしれなかった。でも、そうなると、うーくんが危険だな、と思った。でも、くちなしれんかも苦しそうだった。ずっとずっと、ずっと、納豆をかき混ぜたくて、かき混ぜたくて、待ち焦がれて、我慢していたのだ。そんな彼女に、当事者じゃない私が、なんて言葉をかけたらいいんだろう。
「また、会ったね。くちなしれんか」
「なん、や。納豆、か」
「納豆やないで。人間や。ただ、見かけたから、声かけただけ。元気そうで何よりや。また、ね」
「あ、待って、や」
「なに」
「わたし今、納豆、かき回し、とるんかな」
「アスファルト」
この広い世界、どのくらいのパーセンテージを、納豆が占めているんだろうか。
「どうり、で、ねばり、が、足らんわ、けや」
彼女は、スックと立ち上がると、どこへともなく歩いて行った。信号も納豆。車道も納豆。ならば、クラクションの音も、きっと納豆なんだろう。書き割りのような山並みの方へと、消えて行く。失恋した女の子のように、しょんぼりと肩を落としている。
納豆小屋なるものを、想像した。一辺二メートルくらいの、正六面体の小屋である。そこには、扉が一つだけあり、窓はない。その小屋には、うず高く納豆が積まれている。だいたい、体積の八割くらいが納豆である。壁は、鋼鉄でできており、ちょっとやそっとじゃ傷つかない。くちなしれんかが、いつでもそこへ入ることができ、思い切り納豆をかき混ぜられる小屋だ。そういう小屋があればいいのにな、と思った。
私は、しばらく、納豆小屋のディティールを想像しながら、歩く。どこかに、ノコギリは、落ちていないものだろうか。うーくんを地面から切り離したら、どこへ行こうか。そんな事どもを、もやもやと、考えながら。
手に手に武器を持つ群衆が、私を追い越して行く。どこか遠くへ。山の方へ。雄叫びをあげるものもいる。疲れるだろうに、くるくる舞い踊りながら、流されて行くものもいる。感極まって、ガードレールに齧り付くもの。アスファルトに正拳突きを食らわせるもの。鍬や鋤や出刃包丁や木刀や、算盤や電化製品や三輪車や下駄、とにかく固そうなものを皆々握りしめている。物騒だ、と思った。
見知った顔が一人いた。飛んだり跳ねたり、踊っていた。
私は、彼らに混じるお姫ちゃんに訊いた。「どこへ行くん。なにをしに?」
「知らんけど、おもろそうやから、混じっとるんや」野次馬だった。
ハゴロモ川を踏み越えて行く、バシャバシャという音。私は彼らの邪魔にならないように、ガードレールを跨ぎ超えて、ガードレールと畑との、あってないような隙間に身を置いた。お姫ちゃんも、ガードレールをくぐって、こちらに来た。歩道も車道も関係なく、何百人という人々が流れ行く。
「ついて行かんのん?」
「あかりちゃんとおる方が面白そうやからなあ」
私は、しばらく、彼らを眺めていた。大人も子供もいて、女も男もいた。彼らのうち、一人でも、ノコギリを振り回している人がいたら、なんとかして譲ってもらえないかな、と思った。そんな都合良く、事が運ぶだろうか。ノコギリ、ブンブン振り回している人に声かけるのは、勇気がいるな、とも思った。スっちゃおうか。それも、それで、恐ろしい。スーツ姿の人もいたし、どてら姿の人もいた。素っ裸に近い人もいたし。上が背広で、下寝巻きみたいないな人もいた。でも、大半は、ありきたりな普段着姿の人たちだった。量販店で売っていそうな、格子柄や縞模様の、色だけ変えてお互いに識別し合う、そんな洋服姿の。名前は知らないけれど、見知った顔が、何人もいた。子供の頃、隣に暮らしていたおじさんとおばさんと子供。ヴェネツィア公園前のバス停をいつも利用しているおじいさん。ヴェネツィア公園周辺の人々が、大挙して流れて行くみたいだった。
「みんな、どこへ行くんだろう」
「さあ、なあ」
「なんか、言っとらんかったん?彼ら」
「口々に、殺せ、殺せってなあ」
「物騒やなあ」
「ヘヴィメタルとか、デスメタルみたいな、アレやないんかなあ」
「ブツ持っとるし、本気やろう」
「みんな本気になれるものがあるんやなあ」
お姫ちゃんも、ついさっきまで、あそこに混じっていたくせに、他人事のように言う。
「ヘヴィメタルとか、デスメタルとかの、アレやと思っとったんや」言い訳のような注釈のような、お姫ちゃんの台詞。
「アレってなんや」
「本気やないんやろうなってことや」
みんな怒っていた。怒っていたらしかった。耳をすませると、口々に、罵りの言葉を吐き出していた。楽しそうに怒っていた。本当に、怒っているのだろうか、って少し不思議に思った。串刺しとか、八つ裂きとか言っている人の横で、アハアハと笑っている子供や老婆が居る。祭りの神輿行列のように、だらだらと、彼らは間延びして進む。私は、彼らの最後尾が通り過ぎると、最後尾のあと十メートルくらいをついて歩いて行く。後を追って居るわけじゃなく、しばらく、一本道が続いて居るだけ。だいたい、同じ方角に向かって居るだけ。彼らは、純喫茶『コンビニ』の角を折れて、ハゴロモ連山へ。私は、なんの目的地もないまま、直進する。しばらく迷って、私の後をついてくるお姫ちゃん。
彼らの顛末は、後になって、風の噂で聞いた。風にたゆたう風天小鞠から聞いた。退屈だったから、はるか上空から眺めていたそうだ。シフト休だったそうだ。彼らの大半は、山に住まう怪獣に殺されて、食べられて死んだ。散り散りに逃げた、何人かは、そこらの熊や猿に襲われて食料になった。
「どうして、そんなことしたん?」って私。
「知らないけど、もしかしたら」と風天小鞠。「街を破壊したのは、怪獣だって、思ったんじゃないですか。それで、みんなで、怒髪天。殴り込みに行ったら、逆に食べられたのでしょう。怒ると、人は、無謀なことをしでかすものですね」
後には、彼らの武器が不法投棄の塵となって散乱した。
「私のせいなんだね」他人事の気分になった。こんな気分のままじゃいけないな、とも思った。舌でも噛みちぎるくらい悲しまないと。「申し訳ない」
ハゴロモ市は、過疎化の一途をたどっている。
群衆と別れて、私は、相変わらず、お姫ちゃんと二人で国道の上。歩いたり、立ち止まったり、歩いたり、立ち止まったりしている。あまり、ツカツカと先を急ぐと、私たちがこれまで行ったことのない場所へ、簡単に行き着いてしまうから、時折、立ち止まって、空ちゃんを眺めたり、水平線を指でなぞったりした。
国道の、どこにも、ノコギリは、落っこちていなかった。ナイフ一本落っこちていなかった。まあ、ナイフなら、調理用のものが、ヴェネチア公園にあるのだけれど。
「刃物が見つかったら、この街から出て行こうと思っとるんや」
「ようわからんなあ」とお姫ちゃん。
「私の中では、繋がっとるんや」と私の身勝手な主張。
「どこへ行くん」
「何処か遠くへ」
「曖昧やな」
「この街のほか、なんも知らんからな、私たち」知らない場所へ行きたいだけなのだろう。私が、まだ、見知らぬ場所へ。
「そこへ行って、何がしたいん?」
「特に、何も」未定。何もかも、未定。
「お姫ちゃんも、どうせ、死ぬんやろ。なら、さ、一緒に行こうよ。少なくとも、生き埋めには、ならない場所へ」
お姫ちゃんは、黙り込んでいる。真剣に、悩んでいるみたいに、あー、とか、うー、とか、言葉になりかけの吐息を漏らしては、口を閉じている。
「お父さんがな、頼んでくれるゆうとったんや。小谷に。小谷に、あたしを、生き埋めにするん手伝ってくれってな。小谷にやったら、殺す気でやっても、なんだかんだで、死なんやろって。もし、小谷が、埋めてくれるんやったら、多分、あたしは、死なない。土ん中埋まるだけで。やったらな、逆もありやと思うんや」
「逆ってなんや」
「あかりちゃんもな、あたしと一緒に、生き埋めになるってこと」
しばらく、両天秤にかけて、考えたけれど、
「いややな」
「そっか」
私は、どこか知らない場所で、野垂れ死ぬことに決まり、お姫ちゃんは、土の中で、一人生きて行くことに決まった。
私は、一旦ヴェネツィア公園に、調理用のナイフを取りに帰った。やっぱり、国道をいくら彷徨ったところで、ノコギリには出くわさないだろうから。
根っこを八割くらい切り裂いたところで、あとは、力任せに、引きちぎることにした。これ以上時間をかけると、うーくんが溺死してしまいそうだったから。お姫ちゃんも手伝ってくれた。気象庁職員も手伝ってくれた。彼らは、初め、うーくんがこの地を去ることに、渋ったが、うーくんと友達でもあったから、最後には、まあ、それもいいか、と許してくれた。根っこから血は流れなかった。うーくんも、ひとまずは死ななかった。しばらく、意識白濁していたけれど。
「蓮華の花をイメージするんや」って私は、うーくんに助言をする。うーくんは、ぷかぷかと、ハゴロモ川に浮かんでいた。
「蓮華の花なあ」
「水生植物をイメージするんや」
「イメージゆうてもなあ」
うーくんは、根っこが切れた後も、まるで手足が動かず、植物人間のままだった。だから、新しい根っこを生やす必要があった。
「うーくん、あなたは、差し木中のポトスなんや」
「でも、黙りこくってもらってはダメだ。そこまで植物に、成り切ってもらってはダメだ」
生活の必需品は、木箱に入れて、うーくんと一緒に、ハゴロモ川に浮かべた。当座の食料も、同様にした。
「さようなら」
「さようなら」
「こんにちは」
「こんにちは」
「どこかへ行くの?」
「うん」
「さようなら」
「さようなら」
「どこから来たの?」
「あっちから」
追記、切り株となったうーくんの根っこからは、その後しばらくの間、目玉やら、胃腸やら、肉の塊が、出芽した。臓器移植に利用された。
追記、風天小鞠は、人間バレーボール中、強烈なスパイクにより破裂した。でも、肉の方の風天小鞠が、丁寧に裁縫したから、事なきを得た。
追記、ヴェネツィア公園周囲は、もう、誰も暮らしていない。
追記、私がいなくなって、ハゴロモ連山は、乾いた紙粘土のように瓦解したそうだ。
追記、田畑には、用水がひかれたそうだ。
追記、小谷は、今日も誰かを殺し損ねてる。




