上
前半です。
心が病んでいる、なんて、見ず知らずの男に言われたくなかった。なので、素通りする精神科病院。交差点を抜ける。信号待ちをしている間にわだかまってしまっていた人混みからいち早く抜け出そうと、早足になる。ペットショップ『獣姦』の前を横切り、ラブホテル『Lincoln』の手前で方向転換をする。
随分と前から、私は、川に懐かれていた。川の名前は、ハゴロモ川。この地方小都市ハゴロモ市に流れる最大河川だ。といっても、川幅四メートルくらいの、河川敷もないような小さな川なんだけれど。
私が、歩くと、私の後からハゴロモ川がついてくるのだ。私が振り向くと、恥ずかしそうにそっぽを向いたり、あるいは、嬉しげに尻尾を振ったりするのだ。その時々だ。あまり、激しく尻尾を振ると、洪水になるから、やめてって伝えると、悲しそうに、川幅を狭めるのは、いつものことだった。
なので、今も、私の後を、ハゴロモ川が泳いでいる。私が、立ち止まると、ハゴロモ川も進行を止めるし、私が急ぎ足になると、ハゴロモ川も置いていかれまいと速度を速める。だから、交差点を抜けるとき、何人かの人たちは、ハゴロモ川に飲み込まれて水浸しになっていた。悪いことしたな、って思ったけれど、いつものことだから、みんな許してくれた。ごめんね、私のハゴロモ川が。いいんだよ、いつも畑に水撒きありがとうね。お礼されちゃった。急にありがとうなんて、恥ずかしくなって、その場を走って逃げ出したくなったけれど、走ったら、尚更大変なことになるだろうから、赤くなる顔をうつむかせでゆっくりと歩いていく。
「ハゴロモ川」
返事なんてない、ハゴロモ川は、川だから。川は喋らないのだ。
ハゴロモ川を叱ろうと思って、口を開いたのだけれど、よくよく考えてみたら、全て、私が悪いんだよな。私が、誰かを追い抜いたり、しようとするから。これからは、まるで乳母車を押すおばあちゃんみたいに、ゆっくりゆっくり、歩いて行こう。だから、私は、自転車も乗れないし、自動車や新幹線は、もってのほかだった。
ラブホテルLincolnを左折すると、地方都市にしては、華やいだ街並みはそこで終わりを告げ、あたり一帯田園地帯が展望される。いつもの散歩道。散歩道、というか、こうして、町中を歩き回ることが、私の仕事みたいなものだった。耕運機の轍を踏み越え、歩き慣れた、盛り土の上を私は進む。その後を、川幅を狭めながらハゴロモ川がついてくる。狭い田圃道を落っこちそうな、ハゴロモ川だったけれど、落っこちてしまえば、いいのだった。落っこちたハゴロモ川のかけらが、小さな支流となって、田畑に染み込んでいくのだ。
平日の、真昼間だった。青苗を植え付け、ひと段落ついたのか、田畑には、人一人いない。何十反にも及ぶ田畑が、右に左に、はるか前にに広がっている。とはいえ、見渡す限り田畑ってわけでもなく、はるかかなた田んぼの途切れた先に、私が物心つく頃から打ち捨てられた廃工場。途切れ途切れの民家。国道を、豆粒ほどのサイズで走る自動車。ハゴロモ小学校の灰色の校舎。が見えた。その背景には、ハゴロモ連山。ひときわ高い山は、羽客山という。羽客とは、仙人のことだそうだ。もちろん、仙人なんて住み着いてはいないけれど。明日か明後日か明々後日には、そのハゴロモ連山も踏破しなくちゃいけない。しばらく、雨も降らなかったし、そろそろ山も乾きを覚える頃だから。猿猪熊鹿が、水を求めて、町中にさまよい出てきても、困るだろうから。
しばらく、歩いた。
田んぼと田んぼのちょうど中心地点に、小さな広場があって、農具や飼料を保管する小屋と小さな祠がある。そこには、いつも、特大のおはぎが三つ備えられている。置手紙が一つ。『あかり様へ』。手紙っていうのかな。宛名のみが書かれた簡素な文。でも、それで、用をなす。あかり、というのは、私の名前だから、つまり、私へってことなのだ。別に神様というわけでは、ないのだけどな、と心の中で訂正しつつ、おはぎの一つを口に含む。甘い。
三つも食べきれない。量も多いのだけれど、時間もないのだ。私の背後には、ハゴロモ川が流れている。ここで、立ち止まってしまったら、ハゴロモ川の流れが、私の足元で滞るのだ。初めは、小さな池になり、次第に、ハゴロモ川まるまる一つ分の、大きな湖ができる。畝が崩れ出す前に、私は、散歩を再開する。残り二つは、本物の神様が食べればいい。私は、かじり跡のついたおはぎを手に、もぐもぐやりながら、歩速を緩めず田んぼを抜ける。そのまま、右折。国道脇の歩道を歩く。
「おいしかった。ごちそうさま」と言った後で、しゃがみこんで、餡子のついた右手をハゴロモ川につける。撫でられたと思ったのか、嬉しそうに彼は流れを早める。こらこら。私の足元まで水浸しじゃないか。はしゃぐなってば。甘いものを食べて、喉が渇いたので、ついでとばかりに、ハゴロモ川から水を掌で掬う。口に含んだ瞬間は、その清水はハゴロモ川なのか、じゃれつくように舌に巻きついた。でも、それも長くは続かない。切れた蜥蜴の尻尾みたいなものなのだ。しばらくすると、動かなくなりただの水になる。そうなった後で、ごくごくと飲み干していく。ミネラルウォーターの味がする。
国道をそのまま、まっすぐ、歩いていく。
空を見るのが、好きだって、男の子がつぶやいていた。男の子の名前は、嘘太郎と言った。格好悪い名前だから、私は、いつも、彼のことを、うーくんと呼んでいる。本人もその方が、気が楽なようだ。うーくんは、国道脇の歩道の真ん中で、仰向けに寝転がって、カッと目を見開いて、じっと雲ひとつない動かない青空を見つめていた。で、人が歩み寄ってくる気配を察知すると、気分が悪いのか、とか、どうしたのか、とか、聞かれたり、無言で救急車を呼ばれるのが嫌だから、独り言として、空を見るのが好きなんだ、って呟くのだった。いつものうーくんだった。
「うーくん、どないしたん。私だって。私だってば」私は、私の方など見向きをしないで、空を一心に見つめているうーくんへ呟く。けど、うーくんは、反応を示さない。瞬きひとつ、身じろぎひとつせず、じっと空を見つめているのだ。「うーくん、そこ、邪魔」人一人が通れるほどの歩道に、人一人横たわっているのだ。しかも、大の字に、手足伸ばして。
「紅、うるさいわ」というのが、うーくんの返答だった。
「うるさいとかないんちゃうん」
「うるさいものは、うるさい。俺の研究を邪魔するなや」うーくんは、こう見えて、私とほとんど年齢が変わらないくせに、年間一億円の国家予算をもらう自然科学者だった。三百六十五日、二十四時間、こうして空ばかり眺めて、空のことを考えて、研究しているのだ。で、四年に一度閏年の閏月の閏日の一日、手だけ動かして、四年間ひたすら眺めて気がついた空についての諸々を論文にまとめて国に提出するのだ。彼のおかげで、ほんの少しだけ、気象予報の確度が上がったらしかった。異常気象のいくつかも、予測できて、未然に防げているそうだった。
「そんなんゆうとったら、ハゴロモ川に沈めるで」けど、邪魔なものは、邪魔なのだ。
「沈めれるもんなら、沈めてみい」
「ああ、沈めたるわ」
売り言葉に買い言葉って、わけではなくて、私とうーくんのいつものやりとりだった。一字一句おんなじってわけではないけれど、だいたいいつも、こんな風に、喧嘩っぽい言葉のやり取りを繰り返すのだ。
私は、彼の上を、ひらりと跨ぎ越える。さらさらと、彼の上を流れるハゴロモ川。口と鼻先がちょうど浮かぶくらい、彼は浸水する。
「ひどい事をするなあ」とうーくんは呟く。冷水に浸されて、かっかしていた頭が冷やされたのだろう。口調が少し柔らかい。
「これも、うーくんのためやろ」私は、ちょっと恥ずかしくなって、棘っぽいもの言いになってしまっただろう。
うーくんは、植物人間だった。頭の後ろから、アスファルト下の土中へにょきにょきと巨木の根っこが生え伸びているのだ。そんなわけだから、彼は、この場から動くことができず、活路を見出した先が、気象の研究なのだった。
「うーくん、気持ちいか」
「気持ちいいわ」うーくんの根っこが、ごくごくとハゴロモ川のすする音は、聞こえないけど、想像に浮かぶ。
ハゴロモ川は川幅こそ、細いけれど、全長四、五キロに及ぶ長い長い川である。このまま、うーくんを跨ぎ超えて進み続けるとうーくんは、小一時間、ずっと水浸しになる。ちょっとひどいことしている気がするけど、うーくんは、それでいい、それがいいって言っている。
「今日の天気は?」折角なので、この世で一番天気に詳しいうーくんに尋ねておく。
「晴時々豚」
「豚が降ってくるんか。危のうてやれんわ」
「大丈夫やって。さっき、自衛隊に連絡しといたから。上空1キロメートルの遥か彼方の空域で、対空ミサイルで迎撃予定や。だいたい蒸発しとるやろうし、蒸発しとらんでも、たかだか、血の数滴やろ。カラスの糞に当たるより確率低いわ」
「そうなん?」
「そうや」
うーくんのお陰で、私たちは、空振る豚たちに、圧し潰されずに済んでいるみたいだ。うーくんは偉大だな、って内心思った。言葉には、言いあらわさなかったけれど。
「うーくん」
「なんや」
「パンツ見たらあかんよ」
「見とらんわ」
「ならいいわ。けど、女の人がうーくんの上を通るときは、ちゃんと目え瞑るんやで」
「ちゃんと瞑っとるわ」
「じゃなきゃ、泣きわめくキチガイ婦女子に、黒目のところだけ、チクチクと針で型抜きされるで」
「そんな怖いことゆうなや」
「キチガイは何するかわからんからな。キチガイつうのは、不幸の別言なんや。不幸な人間は、平気で酷いことするんや」
うーくんに水を遣るという名目で、私は、車道と歩道とを垣根するガードレールにもたれて休んでいる。ただ、たわいもない話をうーくんと話していたい、というのが本当の理由だったけれど。
少しずつ少しずつ、足元に水たまりができ、ハゴロモ川がわだかまっていく。うーくんの目と鼻と口より水位が上昇したら、急いでこの場を離れなくちゃならない。けど、それまでは、私とうーくんの自由時間だ。
「うーくん」
「うん?」
「私ら、いつか、学校とかに戻れるんかな」
「急になんや」
「ふっと思ってさ」
「無理やろう」
「なんでや」
「実際俺は動かれん。やったら、学校の方を俺の上に建てるしかないやろ。でも、そんなんいやや。狭苦しい。俺の方から、お断りや」
「でもなあ」
「それに、お前だって、教室行ったら、教室大洪水やろ」
「そこまでやないわ」
「けど、階段が川まみれやったら、滑って危ないわ」
「手すりがあるやろ」
「そういう問題やないやろ。同級生が溺れるやろうし、お前だって溺れるやろ」
「そういう問題やないけどさ。でもさあ」
ううう。言葉が途切れてしまう。仕方がないってことはわかっているから、これ以上言葉を繋げば、ただの不満の吐露になってしまうな、って予感する。
けど、もうすでに、そうなってしまっているかもしれない。かっこ悪いのは嫌だから、言葉が喉にスパイダーのように張り付く。スパイダーってなんだ。
いややろ。そんなんいややろ。いややろ。言葉がボールで、誰かちっちゃい人が喉の中にいて、言葉のボールを喉の壁にぶつけて、一人ラリーを楽しんでいる。
「大丈夫やって」うーくんが気安く気休めをいう。
「何がや」
「学校行かんでも、あかりはみんなから必要とされとるやろ」
「たかが、畑の水遣りじゃ」
「あかりにしかできんやろ」
「ハゴロモ川が勝手に流れとるだけじゃ」
不貞腐れてるな、って自分で思う。どこかでブレーキを踏みたい
「なあ、うーくん。ごめんな。これじゃ、ただの愚痴や。でもなあ。私、うーくんと話ししとかっただけなんや」
うーくんは、私の変調に対応しかねたのか、口を開いては、閉じ、開いては閉じる。目を白黒させることは、天気を観察する者として、許されないのだ。だからか、口をパクパクさせている。
「ああ、うう。うん、別になあ。そんななあ」
「なあ、うーくん。なあ。うーくんは、どこへも行かんよなあ」
「動かれんからなあ。きっと、死ぬまで、ここに植わっとるんやろ」
「でも、国立気象台の麓に植え替えて遣るとか国に言われた、ひょこひょこ行くんやろ」
「行かんわ」
「でも、火星の気象調べて欲しいとかゆわれて、火星まで運ばれてな。火星に植え付けられたりするんやないか。月でもええけど」
「大丈夫やって。あかりを残したりせんわ」
「約束?」
「約束、は、できんけどなあ」歯切れが悪かった。
それからしばらく、うーくんと一緒に、空を見上げていて、でも、私は、うーくんと違って、根っこが生えていないから(根気がないから)、飽きてしまって、気がつくと、トイレでも我慢してる子供みたいに、足踏みをしていた。足元でハゴロモ川がびちゃびちゃと波紋を立てた。潮時だな。潮時やね。って心の中で納得するための会話を行なった。
「それじゃあね」
「うん、またな」
「三日後くらいに、また来るからな」
「大丈夫やで、今週は雨やから」寂しいことをゆうなや、と思うけれど、あまり、水を遣り過ぎても、根が腐るのだ。
「じゃあ、雨が上がる頃に、また来るわ」
「それじゃあな」
「それじゃなあ」
うーくんを後に、その場を立ち去る。十歩をほど行って、振り返る。たかだか数メートルの距離なのに、うーくんは、川に没してもう見えない。
いつものことなのだ。ハゴロモ川が、私の景色を、書き換えてしまう。私の後には、川しか見えない。
うーくんは、今も、あそこで、上空を見上げているんだろうか。あの、ちょこんと見える肌色が、うーくんの鼻先なのだろうか。自信が持てない。
この道は、うーくんが寝そべっていることもあって、私が散歩道に使っていることもあって、人通りが少ない。国道なのに。もったいないな、という気もするけれど、私たちにとっては、ありがたいことなのかもしれない。私たちの、積年の努力で、不法占拠してしまった道なのかもしれない。
国道だから、車が通れれば、それでいいんだ。時折、よその県の人が私たちにびっくりして、車を止める。でも、それも、今日はない。私がこんな風になって、もう何年。うーくんがそういう風になってもう何年。みんな慣れてくれたんだろう。
今日はこれから何をしようか。
何もすることないな。
畑の水遣りも済んだ。
立ち止まると、足元がハゴロモ川に没する。うーくんとの立ち話もそう長くは続けられない。歩ける道も、歩道の広い国道や県道だけ。つまらないな、っておもわず呟きそうになる。
呟いたところで、現状が変わる訳じゃない。
ヴェネツィア公園に、戻ろうかな。
ヴェネツィア公園は、初めから、ヴェネツィア公園だったわけじゃなくて、私がそこに住み着くようになってから、ヴェネツィア公園になった。そう、呼ばれるようになった。
だから、公園の入り口には、大森公園って石彫りの看板が立てられている。
でも、それは、古い名前で、苔むしていて、誰にも顧みられることがないのだった。
私が眠っている間に、どんどん、ハゴロモ川はこの公園に流れ込んでしまう。ハゴロモ川はハゴロモ湖になって、滑り台も、ジャングルジムも、ブランコもどんどんどんどん、水に没していく。水の都ヴェネツィアみたいだって、何処かの誰かが思って、みんなもそうだなあ、って同意したんだと思う。別に風光明媚でもなんでもなくて、ただ、大洪水の後のように、遊具たちが半身を覗かせているだけなんだけれど、名前だけでも恰好つけようって、見栄を張ったんだ。
だから、ここは、ヴェネツィア公園って呼ばれている。
いつも水没しているから、草一本生えない、泥だらけの地面を一人ポツポツと歩く。くっきりとつく足跡に、染み渡るハゴロモ川。大丈夫、こんな泥だらけで、錆だらけの公園で遊んでいる子供は、まずいない。溺れさせてしまうことも、ないだろう。
公園の真ん中に小高い丘になっているところがあって、そこまで向かう。その丘の周辺だけ、樹木や草花が生えている。
普段は、よく懐いた猫みたいに、私の足元までじゃれつくハゴロモ川だったけれど、私が眠るときは、遠慮してか数メートル離れた先に蟠るのだ。だから、私が眠りつくその丘の周辺だけは、例外的に、草花が生き残っている。
そこに据えられた屋根付きの四角い机とベンチが、私の家だった。不法占拠ってやつなのだけれど、もう何年も使っているから、何かしらかの権利が発生しているはずだった。
私がハゴロモ川に好かれるようになってしばらくの間は、私だって、生まれ育った家に暮らしていた。でも、三日と経たずに、土塀が崩れ、柱は腐り、溺れた油虫がぷかぷか浮かんで。これはもう、無理なんだなって、誰の目にも明らかになって、私は、一人、毛布と枕と懐中電灯を抱えてここまで来た。この公園を選んだのは、ただ単に、家から歩いて五分の場所だったから。毛布を抱えながらの徒歩は、もう少し時間がかかったけれど。ぐっしょりと濡れ切った毛布と枕をベンチの上に天日干すことから、私の新生活は始まった。
だんだん草花が枯れていく様は、かわいそうだったけれど、他にはないんだって、自分に言い聞かせて居座った。
私がいつも眠りについているベンチの上に、女の子が一人座っていた。見知らぬ顔だった。ぼうっと空を見上げていた彼女の視線と私の視線がぶつかった。びくっと彼女は体を震わせたけれど、視線はそらさず、じっと見返して来た。私に用があって来たのだろうか。スニーカーを泥だらけにしてまで。
「こんにちは」と女の子が呟いた。
「こんにちは」と私も返事をした。
学校の制服を着ていなかったから、見た目で判断するしかなかったけれど、私と同い年くらいの、子供だった。染めたように真っ黒な髪で、背中にかかるくらいまで伸ばしていた。きっと、意図的じゃない癖毛が毛先を散乱させている。柔らかそうなほっぺたをしていた。笑ってもいないくせに、優しい感じのする顔つきをしていた。知らない顔だったし、知らない人だった。
こんな真っ昼間に、どうしてこんな錆び付いた公園にいるんだろうかって思った。私には、もう曜日感覚とか日付感覚というものがなくなっているのだけれど、今日は、祝日とか休日とかいう日なんだろうか。その割りには、出かけた先で、子供を見かけなかったけれど。
「えっと、あのさ」って私はいった。「もうすぐ、ここ水没するよ」一応警告しておこうと思った。もしかしたら、私のこと、よく知らない人が、たまたまこの公園に迷い込んだだけかもしれない、と思ったからだ。「水没したら、なかなか出られんから」
「大丈夫、大丈夫」無表情のくせに、朗らかにいう。
「そう。なら、いいけど」
思わず立ち止まっていたけれど、私は我が家に帰って来たのだ。不法占拠でも、我が家なのだ。だから、この子に気兼ねする必要はないんだ、って自分に言い聞かせる。ベンチまで歩いて行って、彼女からちょっと離れた位置に、腰を下ろす。
「いつも、嘘太郎がお世話になっています。嘘太郎の母です」
「嘘だあ」だって見た目が若すぎる。
「うん、嘘です。私は、空気女です」
「いきなり訳のわからんことゆうなや」と答えつつ、実は、言葉ほど、訳がわからないとは思っていない。なぜなら、理由は簡単で、私は、ハゴロモ川を引きずる女だし、うーくんは、アスファルトに根をおろす植物人間だから。空気女ってフレーズは初耳だったけれど、そういう存在もありかな、ってためらいなく思うのだ。けど「意味のない嘘をつくな」
「ごめんなさい」素直に彼女は謝ってしまう。でも、謝るときも、無表情で、形式的なお辞儀をするだけ。「なんとなく、つながりが欲しくなってしまったんです。嘘太郎くんの義理の母親とか、そのくらいの薄いつながりがあればいいなあ、ってふと思ったんです。この場に、嘘太郎くんはいないし、言い張ったら、通るかなって。いきなり、赤の他人として、紅ちゃんに話しかけるより、友達の義理の母として話しかけた方が、親しみを持ってもらえるかなって、思いついて」
「そうゆうものなのかな」
「うん、そういうものですよ」
「私には、よくわからないけれど」
この子は何をしに来たのかなって思った。ただ、私に嘘をついて、その嘘の言い訳をするために、来たのだろうか。ハゴロモ川はどんどん、ヴェネツィア公園に流れ込んで来ており、丘の麓にわだかまり始めている。今なら、学生幅跳び選手なら、ギリギリ飛び越えられる川幅だった。でも、彼女は帰る素振りも見せない。
「私は」って彼女は言った。「空気女なんです」
「うん、さっき聞いた」
「小谷って知ってますか」
「うん、知ってる」
「彼に、ベリベリと生皮を剥がされたんです」
「痛そう」
「うん、痛かった。でも、すぐに痛みは、私と分離しました。なぜなら、痛覚は、中身の方に属するから。生皮の方には、痛点はあっても、痛点から発せられる信号から痛みを感じる受容体は存在しないのです。反対に、肉だけになった私も、痛点からの痛み信号が途絶えたため、やがて痛みも感じず、茫然自失の体でした」
「そうゆうものなんだ」よくわからないから、歯切れの悪い頷きをする。
「私は、風天小鞠と言うのですが、小谷に生皮を剥がれた風天小鞠の生皮の方なのです。小谷は、風天小鞠をベリベリとベリベリと、つま先から頭頂部まで、綺麗に、裂け目なく生皮を剥いだんです。そうして、風天小鞠を、内側の肉の部分と、外側の皮の部分に分けたのです。そして、私は、外側の方」
風天小鞠(皮)は、そこでようやく、口角を上げて、笑いらしき表情を浮かべた。自嘲ってやつなのだろう。ひゅうと言うため息交じりの笑いだった。
「皮になって、へたっている私と、肉だけになって恥ずかしそうにうずくまっている私を小谷は、見下ろしてオナニーをしていました」
「まあ、あいつは、快楽殺人やからなあ」
「噂に違わぬ、ひどいやつでした」
「ひどいよね、小谷」
「うん、ひどいです。肉の方の風天小鞠は、ショックで、自宅に閉じこもっています」それで、正解だと思う。真っ赤な血肉が街を出歩いていたら、少なくとも初対面の人は驚いてしまうだろうから。「私は、たまたま、その場にいた、用務員のおじさんに人工呼吸で、空気を吹き込んでもらい、ほらこの通りです」彼女は両手を広げて、自分の体を私に示す。
「空気女?」
「うん、その通りです」
悲しい話を聞いたな、って思った。でも、彼女は朗らかに無表情。きっと、笑顔を作るための筋肉が欠如しているからだろう。本来なら、笑っているのか顔をしかめているのか、わからないけれど、彼女はずっと、穏やかな無表情で通している。
「それにしても」と私は呟く。「どうして、私に会いにきたん?」
「皆まで言わせますか」と風天小鞠は、ため息でもつくみたいに、ひゅうと息を吐く。
「皆まで言わんでもいいよ」わからないことには慣れている。わからないまま済ますことも可能だ。
「こんな話を」と風天小鞠。皆まで言うみたいだった。「嘘じゃないって信じて聞いてくれる人ってそうそういないから」
「うーくんだって、話くらい聞いてくれるやろ」
「あの人は、始終忙しそうだから」
「それもそうやなあ」ドライアイになりそうなほど見開いたうーくんの目を思い出す。うーくんにとって気象の研究は、人間であるための存在証明なので、なまなかな理由では中断できないだろう。私は、ちょくちょくお邪魔しているけれど。「家族には、どう話したん?」
「家族は殺しました。説明するのが、面倒臭かったので」
「そっかあ」
「うん。いま家には、肉の方の私が、肉になった家族たちと一緒に閉じこもっています。皮になった私の方に、買い物や学校を任せきりにして、気楽なもんです」
気がつくと、ハゴロモ川は、公園全域を浸していた。まだ、まだ、納まり切らないのか、入り口の石門のところから、ちょろちょろとハゴロモ川の尻尾が流れ込んでいる。沼沢から湖へ。少しずつだけれど、水位が上昇している。
「泊まってく?」そう言っても、大したもてなしの用意があるわけでもないけれど。
「いいんですか。嬉しいです。でも、大丈夫です」
「帰れるん?濡れちゃうよ」
「濡れちゃいませんよ。私、空気女だから」
「そういうものなん?」
「そういうものですよ。見ててください。ほらこうやって」って彼女は、大きく息を吐く「まずは、酸素と二酸化炭素とを吐き出すんです。それからね」すぅぅうって彼女は大きく息を吸い込む。「こんな風に、吐き出した酸素たちの代わりに窒素を吸い込むんです。窒素ってほら、空気より軽いから。これを繰り返すと、どんどんどんどん、体が軽くなって、最終的に浮かび上がることも可能なのです。浮かんだが最後、風に揺られるままですが、今日くらいのそよ風なら、気持ちの良い空中遊泳が楽しめそうです」
楽しいのなら、それはそれは、良いことだった。早く飛び上がらないかな、ってわくわくしながら、彼女を見ていた。けど、一向に飛びあがらなかった。彼女は、息を吐いて、しぼんでしまった。
「でも、真昼間から私が飛び上がると、きっと、みんなは驚きます」
「あ、確かに」
「驚かせるのは、あんまり好きじゃないんです」
「まあ、うん。だよね」時折、私も、他県の人から指さされてとやかく言われることがあるけれど、決して気持ちが良いものじゃないなって思い返す。
「大げさに驚かれれば驚かれるほど、いずれみんなが私に慣れてしまいそうで」
「そういう理由なんだ」
「ありきたりになるのってなんだか嫌じゃないですか。私は、ずうっと空気女で、ずうっと特別なのに。見慣れたというただそれだけのことで、飽きられて気にもとめられなくなる。そういうのって、ひどい感じがする」
ハゴロモ川の入水が完了していた。漣ひとつ立たない鏡面のような湖が四方に広がっている。私の暮らすこの丘は、言ってみれば、ハゴロモ湖に浮かぶたった一つの孤島であり、内緒話をするには、うってつけの場所なのだとふと思う。きっと、彼女が能弁なのは、このシチュエーションが関係しているんだろうなって思った。
「夕暮れになるまで、ここにいていいですか」って彼女が尋ねてきた。「夕暮れになったら、人目を忍んで、飛んでいくから、それまで、ぼんやりお邪魔しててもいいですか」言ってるそばから、お邪魔しているけど。
「お邪魔も何も、公園はみんなの場所やからなあ。まあ、もてなしはできんけれど」この小さな島には、生活必需品しか存在しない。寒くなったときの焚き火に火種、寝袋にチャッカマン。懐中電灯。乾パン類の非常食。誰かが訪れることなんて、想定していなかったから、茶菓子ひとつ用意していないのだ。「ごめんなあ」ふっと、お昼に食べたおはぎの味が思い出される。食べてしまったものは、消化される一方で、分け与えることは叶わない。謝ったって仕方がないなって思った。
「ここは落ち着くから好きです」まるで私の謝罪なんて聞いていないみたいに、思ったままを呟いている。初めてきたくせに。
「最近、どう?」って私。
「最近とは?どうとは?」きょとんと首をかしげる風天小鞠。
「この世界」端的すぎたかな。尋たいけれど、あまり深くは聞きたくない。そういう感情があってか、訥々と、端切れ端切れな言葉になってしまう。それじゃいけないな、って思って、すぐ付け加える。「私が抜け出してからの、あの世界。小谷は相変わらず、元気みたいやけど。他のみんなは、どうなんかなって」
「曖昧ですね」
「だって、記憶にないんだもの。私の場合は、七歳だったか、八歳だったかの時から、ずっとだよ。名前も顔も覚えとらんもの」だけど、気になる。
「同じですね。私も、こうなって初めて、ふっと紅さんや嘘太郎くんのこと思い出しました。自分自身が当事者になるまで、赤の他人を通り越して、無色透明の空気でしたよ。まあ、紅さんのことは時折、川を引き連れて歩いているのを、見かけましたけど、でも、あんまり学校のそばを通ってくれないから」
「だって、邪魔になるやろ」
「まあ、そうかも」
「できるだけ、人のおらんところを通った方がいいやろ。だって、川なんやから」
「あまり気にしすぎること、ないですよ」
「それは、空気女になった後やからゆえることや」風天小鞠は、喋りながら、両足をベンチの下にぷらぷらさせてる。もしかしたら、体重が軽すぎて、地に足がつかないのかもしれない。
「何はともあれ」と風天小鞠。遠い目をしている。ふと、思ったのだけれど、彼女にはなぜ、目があるんだろう。肉の方の彼女には、目はないのだろうか。だとしたら、大変だな。いきなり肉になって、いきなり盲目だなんて。「特に変わりはないですよ。いつも通り、これまで通りに、皆さん過ごしています。大きな変化といえば、翠蔭小学校から、翠蔭中学校へ、みんな揃って進学したことくらいですか。別に、みんな仲良しってわけでもないのに、誰も私立や国立にいかなかったのって、ちょっと驚きです。別に、みんな仲良しってわけじゃないのに。でも、それだって、他の小学校からも、中学に上がってきていたから、少し同級生が増えたくらいのものです」口調は朗らか。まるで、殺人事件をアナウンスするニュースキャスターのように、何事も意に介さない穏やかさ。
「そっか、もう、そんな年齢なんや。私たちって」
「今気づいたの?」
「うん」考えたこともなかった。「ずうっと、小学生気分やった」今度、うーくんに教えてやろう。私たち、もう中学に上がる時分なんやってって。大して驚かないかもしれないけれど。
「私は、これから、ずうっと中学生気分なのかも」
「大人な感じ」
「そう?」
「私に比べたら」気分が小学生の私にとっては、中学生って、憧れの対象だったから。急に、彼女のことが、格好良く思えてくる。永遠の中学生、格好いいなって。不思議な気持ち。
「うーん」納得がいかないみたいに、小首を傾げている。
「ずうっと中学生って、ずうっと小学生たちの憧れの的やろう」
「おばあちゃんになっても、中学生って嫌ですよ。いつまで落第しているんだって感じで。みんなから、馬鹿にされそうで」そんな嫌そうでもなく、彼女は答える。
今日は早くに帰ってきたから、まだまだ、あたりは明るくて、日の光がぽかぽかと気持ちがよい。もしかしたらだけれど、彼女がさっきから、地に足つかずにぷらぷらしているのは、その陽光によって、彼女の中の空気があたためられて、体積を増して、いまにも浮かび上がりそうになっているからなのかもしれない。指先をベンチに引っ掛けているのは、海底に没した錨の役割。
「手え繋いどこうか」
「手?」
「体が軽うなっとるんやろ」
「うん、少しだけ」
「なら、私が手えもっとくよ」押さえておくよ。
「いいよ。触られたくないから」はっきりとした拒絶。でも、すぐにぶんぶんと首を振って。「その、触られたくないっていうのは、嫌いって意味じゃないのです。圧力が加わっちゃうと、私が私じゃなくなっちゃうから。中身が抜け出してしまうのです」
「そっか。なんかごめんな」
「ううん」
「そう?」
「うん」
いらないお世話だったのかなってちょっと思った。ちょっと沈黙。
しばらく沈黙。
「また、来てもいいですか」って彼女は呟いた。「明日とか」
「うん、いいよ」だって、ここは、私が住み着いたってだけで、元々は公共の公園だ。誰がいつ、訪れたって構わない。私が気軽に許可するのも、変な気がするけれど。「でも」言おうとしてやめる。言わないほうがいいだろうって、言葉にしかけて気がついた。
「なんですか」
「なんでもない」
「そんなことないでしょう」
「そんなことあるよ」
「あるんだ。やっぱり、何か言いたいことがあるんだ」
「その、ある、じゃないから」
「当ててみましょうか」
「何も考えていなかったのだから、当てるも外れるもないやろ」
でも、そうは言って切り捨てたものの、本当のところは。本当に、私が言いたかったことは、私とあなたは違うやろってことだった。
空気女、皮だけになってしまったところで、そう、見た目が変わるわけでもないのだ。私となんかとかかずり合わずにこれまで通りの生活、これまで通りの日常に埋没して、自分のことなど忘れてしまえばいいだけだろうって内心思っていた。私の場合、学校へ行くと、同級生が溺死するのだ。でも、空気女ならば、そうはならない。少なくとも、人は死なない。誤って水素と酸素を大量に吸い込んで、即席爆弾にでもならない限りは。
「ひどいことを思われている気がします」
「気のせいやって」
「迷惑、ですか。こんな風に、いきなり訪ねて来たり、また、会いに来たり」
「迷惑やないよ」
「なら」
「別に、会いに来ていいよ。でも、でもさ」無理やり言い繕うみたいに、私は続ける。「でも、今週は、雨なんやって。うーくんがゆってた」思いつきの言い訳だったけれど、効果があったみたいで、彼女は、そうかあ、そうやったなあ、って残念そうな困ったような顔をする。
「雨かあ」
「雨降りの中、わざわざ、会いにくるような女じゃないよ。私は」ちょっと大げさな言い草だな、って内心思う。
「そんなこと、ないですけど」彼女の言葉はしりすぼみだ。「でも、雨の中の移動は、空気女にとっては、危険です。ざざ降りだと、身体中が雨滴で凹んで、空気が抜け出しちゃうし、傘を捧げる筋力も、空気女にはないですから」
「誰でも、得手不得手はあるよ」
慰めになったのだろうか。彼女は、斜に構えて、ふへ、と笑うだけ。
しばらくして、彼女の帰る時間。
「楽しい時間をありがとうございます」
「いや、こっちこそ」
「あの、ひとつお願いがあるのですが」
「なあに」
「私、これから窒素を吸い込んで浮かび上がるから、そうしたら」
「うん」
「バレーボールの要領で、私を打って欲しいんです。浮かび上がった私が、向こう岸まで届くように」
同級生を殴るなんて、嫌だなって思っている私に。
「大丈夫、痛くないから。ただの空気の詰まった袋ですから。痛くないから」
ぽーん、っといい音を響かせて、彼女は飛んでいった。電線にぶつかりそうになったところで、彼女は、ふうぅと息を吐いたのだろう。急降下。しぼみながら、地に足がつく。まるで影のように地に伏す。やがて、少しずつ、少しずつ、呼吸を繰り返し、体積を取り戻す。ばいばい。またね。あたりは、もう、薄暗くなっていて、彼女が無事に帰れるか不安。大丈夫だろう。大丈夫だよね。
私は眠ることにする。
夜風が冷たそうだ。そんな冷たいところおらんで、こっちへ入りいよ。寝袋の口を開ける。ひゅううと夜風が入りこむ。ほうら、あったかいやろ。
朝、目覚める。私は、寝ぼけていたみたいで、上半身寝袋から飛び出している。石ころみたいに冷たくて、石ころみたいに動かない両腕である。身体中冷え冷えしている。体の奥の方、心臓の付近だけ、ほのかに暖かいのみである。寝袋の中も、夜露にびっしょり濡れそぼっていた。半分脱皮して、力尽きて、そのまま死んでしまった蝉の半幼虫ないし、半成虫みたいだなって思う。腹筋だけで上体を起こすも、完走ランナーにまとわりつくゴールテープ、無人島に打ち上げられた漂流者にまとわりつく海藻みたいな両腕だった。
何もできやしない。
焚き火を熾そうにも、両腕がだらしないのだ。
肉で温めようにも、肉体全体が、大理石でできた塑像状態である。
日向ぼっこをしようと空を仰ぐも、うーくんの予報通り、本日はいまにも雨降りそうな曇り模様である。
やれやれ。
力尽きたランナーや漂流者のように、横倒れに倒れこむ。低くなった視界には、ハゴロモ川はまるで海のようで、公園を取り囲む民家は、ばかみたいにでかく見える。
しばらくすると、雨が降り出してきた。このところ、晴天続きで、ハゴロモ川が縮んでいたことを思い出した。ごめんねハゴロモ川。うっかり君に水やりを忘れていた。ごくごくと威勢良く雨滴を飲み込むハゴロモ川。飢えた獣のようだ。湖面は一挙に漣打ち、まるで天に舞い昇る勢いで、雨滴を捕食していく。雨滴が湖面に触れる寸前に、ぱっとミルククラウンが形成され、蕾が閉じるようにして、雨滴をミルククラウンが包み込むのである。一般のミルククラウンとは、形成順序に微妙なズレがある。もう、何年もハゴロモ川とともにいて、眺めている光景なのに、未だに不可思議な気持ちになる。未だに不可思議な気持ちになることに不可思議な気持ちになる。未だ
に不可思議な気持ちになることに不可思議な気持ちになることに不可思議な気持ちになる。どうして、未だに見慣れないんだろう。こんな不可思議な光景に見慣れる方がへんてこだろう。水位が徐々に徐々に嵩増していく。「雨の日はなあ。ハゴロモ川が荒れるから、いやや」って台詞を言おうとしたのだけれど、舌が痺れていて、もつれていて。「ああああああ、あああああああら、ややや」みたいになって、ちょっと恥ずかしくなった。誰も、聞いていないんだけれど。
私は、目を閉じた。何もできなくて、退屈になったから。
誰も聞いていなかったのでは、なかったのかもしれない。
「なあああああん?」(何しとるん?)
「見てわからんけ?」
「わああああああん」(わからんよ)
「遊んどるんや」
「うおおおおおうん」(嘘やろう?)
「嘘や。ほんとはなあ」
目を開けると、女の子が一人いた。私より、はるかに背が小さくて、はるかに肉が薄くて、つまり、私を半分に折りたたんでアイロンでもかけたみたいな子供だった。遠く遠く。けど、近く近く。叫ばなくては、声の届かない距離。けど、明らかに、何かの境界線を大きく踏み入った距離。ヴェネツィア公園の入り口と、私が横たわる丘とのちょうど中間地点に彼女はいた。つまり、肩くらいまで、ハゴロモ湖に没していた。
見知らぬ子だった。
私は、吠えることに疲れ、だらしなく垂れ下がっていた。
本当は、危ないで、そんなところで、そんなことしとったら、死ぬかもしれんし、死なんかもしれんで、って台詞を言いたかったが、それをいう前に、一眠りして、疲労を解消したかった。垂れ下がる私の垂れ下がる瞼から透かし見えるのは、その子が、裸であることと、前髪と後ろ髪とが、不揃いにざっくばらんに切られていることだった。水中に下半身が没しているので、もしかしたら、パンツくらい履いているのかもしれないけれど、少なくとも、小さなピンク色の乳首が見えた。綺麗だった。そう思うとすぐにこんな妄想が浮かんだ。
とある薄暗い店内で。
「おう、にいちゃん、文入れてくれや」とやくざのおじさん。「へえ、どんな絵にいたしましょうか」と彫師のおじさん。「見てくれや。俺の乳首めっちゃ桜色で綺麗やろ。この乳首をな、桜の花びらに見立てて、俺の腹から胸にかけて、ごっつ立派な桜の大樹をほってくれや。ちんちんは地面から浮き出る根っこの一部に見立ててくれや」「へい。お安い御用で」「これが、かの有名な遠山の金さんである」とナレーション。
痛そうだな、って思った。
「ほんとうはなあ」と女の子が叫んだ。
「おおおおおおおおん」特に意味はなかった。聞いているよ、って頷きのつもりで、無意味に、私は吠えた。ちょっと疲れた。
「ほんとうは、なあ」なぜだか、泣き出しそうな女の子だった。もしかしたら、泣いているのかもしれない。雨に濡れそぼって、判然としないけれど。もっと、こっちにきたらいいのに、って私は思った。そうしたら、お互いに、そんなに叫んだり吠えたりしなくて済むだろうに。でも、女の子は、その場に埋まってしまったみたいに、動こうとしない。女の子は、大きく息を吸い込んだ。「うおおおおおおおおおおおおおおお。もう、やってられんわあ」怒号をあげた。天地がひっくり返るかと思った。「うぎゃああああああああ。わああああああああああ。がああああああああ」って続けた。
「なああああああん」
「じゃあああああああああ。ぐぎゃあああああああ。がぎゃあああああああ」彼女を中心に津波が起こった。
「こおおおおおおん」(こっちきてえや)って言った。ほんとうは、(こっち来てえや。そんな遠くで怒ってても私には何もわからんよ。何があったん?どうしたん?寒いやろ。とにかく、こっち来てえや)って言いたかったのだけれど、長い台詞を吠える元気が私にはなかった。彼女の吠え声の前で、私の吠え声は、羆と狐くらいの差があって、私の吠え声、聞こえているかな、って不安になった。というのも、彼女は、ほとんど休みなく、吠え哮り続けているからだ。
しばらくしたら、疲れて、彼女の猛りも収まるのだろうか。
彼女は、ずっと吠えていて、私も、時折吠えていた。
彼女の声が、徐々に徐々に掠れて来た。振り回す両腕も、発条仕掛けのおもちゃのように、少しずつ、緩慢になってきた。
「なんでじゃああああ」と女の子は言った。「もういやじゃあ」って。
相変わらず降り続けていて、屋根の下にいる私まで、反射する雨に濡れそぼっていた。
「疲れた」って女の子が言った。私だって、疲れた。
「おおおおおおん」
「あのな。そっちいってもええのん?」女の子が訊いてきた。さっきから、そうしなよって言っている。私の吠え声は、十分には、伝わっていなかったのだな、って反省した。
「おおおおおおん」
「ええの?」
「うん」
ばしゃばしゃばしゃ。地に足がつかなくなって、泳ぎ始める。すいすいとクロール泳ぎで進んでくる。達者なものだった。やっぱり。パンツなんて履いていなくて、全裸だった。
丘のふもとまで来ると、逡巡したように、泳ぎ止まる。
「(水の)外、寒そうやな」
「うん」
「寒いの好きじゃない」服、来てくればよかったのに。
「そう」
「でも、大したことやない。どうせ、あたしは死ぬから」そう言って、彼女は陸に上がる。
「そう」
「さっき、病院でなあ。なんとかいう病気で、あんたこれから死ぬでって診断されたんや。それで腹たって暴れとった」
「うん」めっちゃ元気じゃないか。
「嘘や」
「うん」
「ほんとは、なあ。今度生贄になるんや。あたし」私のそばまで歩いて来た。濡れそぼった体から、ぽたぽたと水滴がこぼれた。屋根の下までくると、ふるぶると体を揺すった。水滴を飛び散らせる。「人柱ってゆうらしい」
「うん」よく、ある、話だった。
「人柱になる前には、禊っちゅうのがあってなあ。ちめたい水にじゃぶじゃぶ浸かるんじゃ。そいで体中ちめたくしてなあ、感覚を麻痺させるんじゃ。その予行演習を、あたしはしとった」もはや、寒さに慣れてしまったのか、身震いもしないで、女の子が、裸で、私の前に立っている。全身、ブラウン運動を起こすほど、ちくちくもぞもぞ鳥肌が立っていたけれど。このまま、再び水中に没したならば、その栗肌の律動によって、ゾウリムシのように、すいすい泳ぎ行ってしまいそうだった。
私は、何か答えようと思って、でも、何も言いたいことがないことに気がついて、開けた口に
「
空気だけ詰め込んで、
閉じた。
」
「でもなあ。いくら水浴びてもなあ、全然感覚はなくならんでなあ。このまま、コンクリ詰めにされて、土中に埋められるんかと思ったら、腹が立って来てなあ。暴れとった。でもなあ、暴れても暴れてもなあ、なあんにも変わりそうにないんじゃ」女の子は、まだまだ腹が立っていたようだったけれど、もう、暴れるのはよすみたいだった。「なんで、あたしなんじゃ。なんで、あたしなんじゃあ」
「あの」って私は言う。私は、凍えていて、もう小声でしか喋れない。喉も相変わらず痺れていて、不明瞭と明瞭の境界というさらに不明瞭な発語を、意志の力だけでなんとか維持する。「あの、なあ」
何日間も意識を失っていた病床の老人が、ふっと目覚め、何かつぶやき始めた時の血族たちのように、少女の目が一瞬丸くなって、なんかゆっとるぞこいつって顔になって、ぐって私に顔を寄せる。そんな凝凝しく見つめないでよ。見つめるくらいなら、耳を向けて。
「ひ、とつ。なあ。お」
「うん」彼女の頷きによって、線香の煙のよう吹き飛ぶ、私の台詞。まだ、喋ってる途中だったのに。気を取り直して、再度言う。
「お、願いがあるんや」
「お願い。あたしにできるかなあ」
「火。焚き火。つけて。寒い。死ぬで」
それから、しばらくして、彼女はなんとかチャッカマンを見つけ出して、湿ったチャッカマンを何度めかに着火させて、その小さな炎だけでも、少しだけ暖かくて、安心して、新聞紙が燃えるまでしばらくかかって、横雨と彼女が飛び散らした水滴に濡れた木材が燃えるまでしばらくかかって、燃え出してしばらく、もくもく煙って、死ぬかと思って、でも、やがて、その水煙も風に流され、湿り気も蒸発しきって、
パチパチ
焚き火の爆ぜる音。
と、
内心の拍手喝采である。
パチ
「ふう、生き返るう」焚き火の周りには、不揃いな石ころで、かまどが作られており、ごった煮の野菜じるががグツグツと煮立っている。鉄皿にとりわけた、それを、私は、すすっている。
彼女は、私の予備の服を身にまとい隣に座っている。にこにこしてよかったよかったって顔をしている。額や手のひらや、いたるところが煤で黒くなっていて、そこが却って魅力的に思える。
雨の日は、ロビンソウ・クルーソーの気持ちになる。激しく降るときは、特にそうなる。でも、その気持ちに流されすぎると、今回のように、本当に疲弊して、死にそうになる。彼女がいて、よかったな、って私は思う。
「あったかいってええな。気持ちようなる」と彼女。焚き火の前で、手をかざして、串刺したよもぎまんじゅうを炙っている。もらい物だった。
「そうやなあ」
「すべてが、どうでもようなる」それは、暴れ疲れて、寒さに疲れただけなのかもしれないけれど。
「焦げとるで」
「あ、ほんとや」でも、とろんとした目で、言葉でしか反応しない。
「まあ、焦げとるのも、美味しいけどなあ」
「燃えろ。燃えろう」
「そりゃ、あかんやろう」
「だって、面白いんじゃ」
「面白いんか」私には、わからなくて、首をかしげる。饅頭の燃える、甘い匂いに、腹がすく。つられて野菜じるをごくごくと飲むけれど、もっと何か、肉と餡子の食べたい気分になった。あいにく、肉は切らしている。他人は、滅多に肉をくれないし、肉をくれても、保存する場所もないから、すぐに食べ尽くしてしまうのだ。私も、饅頭を焼こう。
「あのなあ」結局、燃え尽きるのは、惜しかったのだろう。彼女は、ぶんぶんと串を振り回して、火の粉を払う。表面が膨れ上がって、破けて、どろっと餡子の飛び出したよもぎ饅頭だった何かだ。「そいえば、禊中は、何も食べたあかんのやった」
「でも、予行演習やったんやろ」ぎゅっぎゅと竹串に饅頭突き刺す私。食欲がとめどなく溢れてきて、一個、二個、三個、四個めを刺そうかどうか迷う私。そうだ、野菜も食べよう。白餅、草餅、大福に、輪切り茄子、ちょっと不揃いなバーベキュー。和風っぽくていいな、と思う。
「予行演習もちゃんとできんかったら、本番もちゃんとできんやろ」
「そういうもんなん?」
「でもなあ、食いたい」
「食べよ。食べよ」
「うん」
ぱく。ごく。
飛び出した餡子に、口の端を汚す。しばらく、彼女は、放心したように、口の中をもぐもぐさせたあと、はむ。もぐ。
やがて、私も、はむ、もぐもぐ。
「お茶が欲しいね」
それから、しばらく、ぼうっとした。特別に、やることは、なかったから。急激な糖分摂取に頭の中がぼうっとしただけかもしれないけれど。
雨の日の薄明は、ずっと夜明けか、夕暮れのようで、時間が止まったような感じがする。本当は、五時間も六時間も、そこで、そうしているだけなのに、まるで一秒も経過していないような気分になった。だから、それは、ただ、時が止まったのではなくて、私たちの意識がスロウモウになっただけなのだ。けど、スロウモウになった意識と、相変わらずな時の流れを見比べて、まるで時が止まったようなだ、と感じる私はどこの誰なんだろう。そんな確信犯的な誤りをする私は。そんなとりとめのないことを、とりとめもなく考えていた。
ぼうっとしてた。
「あたしの名前は、山田オブプリンセスっちゅうんじゃ。お姫様の山田という意味じゃ」
「大兄ちゃんは、山田オブキング。王様の山田じゃ。小にいちゃんは、山田オブ右大臣。右大臣の山田じゃ」
「父ちゃんはな。山田オブゴッドなんじゃ。神の山田じゃ。でもな、母ちゃんはな。山田桐花なんじゃ。嫁にきたからな。山と田んぼと桐の花じゃ」
「こないだ父ちゃんが飼い始めたニシキヘビは、山田大蛇じゃ」
「変な名前」
「変じゃないわい。源頼朝や藤原定家だって、の、があるじゃろ。古式ゆかしいんじゃ」彼女は、訥々と自分のことを話し始めていた。ずっと黙り込んでいるというのは、性に合わないのだろう。あるいは、ずっと誰かに喋りたかったのかもしれない。
私に、私に女の子が生まれるとしたら、もっと可愛らしく、やさぐれない名前にしよう、ってそうっと思った。
「ひめちゃん?いや、ひいちゃんかなあ」口の中で反芻する。オブちゃんもプリちゃんもプリンちゃんもないよなあ、彼女の呼び名である。
「お主は、紅灯じゃろ」
「そうだよ」よく知ってるなあ。
「有名じゃからな」まあ、それもそうなのだろう。名前まで知っているかは微妙だけれど、長々と川を引き連れ歩いている子供など、この街で、私を除いて一人もいないのだ。私に直に会ったことがない人でも、私のあとを遥か悠々と流れるハゴロモ川に進路を遮られた経験くらいあるだろうから。「あかりはな、神様なんじゃろ」
「違うよ」誰がそんなこと言ったのか。
「でも、みんな、ハゴロモ川に賽銭投げたり、饅頭流したりしとるやろ」
「あれは、まあ、カンパなのかな」変に信心深い老人もいるのだ。反対に、川にションベンをかける子供もいるらしい。昔、うーくんが目撃したそうだ。
「そっか」期待していたものが、しぼんでしまったみたいに、小声になる。「あのなあ、あかり。あたし、なあ。今度生き埋めになるんじゃ」
「知ってる。さっき、叫んでいたもの」
「父ちゃんの会社がでかなってな、新しい社員のために社宅がいるそうじゃ。その基礎工事中に、あたしを埋めてな、そうしたらな、丈夫でご利益のある社宅になるんやって」
「そっか」よくある話だった。私がまだ、小学生だった頃、同級生の何人かが、ふっとある日いなくなって、近所をぶらぶら散歩していると、立派な建物の前に、彼や彼女らの銅像が建てられているのを発見したことがある。新設した市民病院に、新興住宅地に、高等学校校舎に。
「本当はなあ、あたしには、贄子と贄男ってゆう生贄用の妹と弟がおってなあ。本当は、彼らのどっちかが埋まるはずやったんやけど、いややゆうてなあ。贄男のことは嫌いやけど、贄子のことは好きやからなあ。贄男が生贄になるんやったら放っといたんやけど、贄子の番やったからなあ。あたしなあ、ついうっかりなあ」魂が抜けるようなため息ひとつ。「でも、やっぱり、いややあ」
なんて答えたらいいのか、わからなくて、ぼんやりと黙り込む。今日一日雨だとしたら、今日一日、わたしはここで過ごすことになる。大雨の日のハゴロモ川は気性が荒く、うっかり散歩に出かければ、町の人たちを飲み込んでしまうこともあるからだ。このまま、水位が上がり続けたら、彼女だって泳いで帰れなくなる。きっと、このまま、雨が止むまで、ずっと一緒に過ごすのかもしれない。その間中、言葉が見つからずに、ずっと黙り通しというのもいやだなあ、と思った。いやだなあ、と思っても、どこかからひょっこり、彼女を慰め、私も罪悪感にかられない言葉が現れることもなかったけれど。つまり、ずうっと、漣打つハゴロモ湖を眺めていた。ここまで水位が上がってしまうと、ヴェネツィアというより、ただの孤島と湖だ。
「綺麗やなあ」
「何が」
「ほんとに、ヴェネツィアみたいや」
「そう?」行ったことないから、わからないや。
「あの、錆びついた滑り台とか特に。風情がある」
「お姫ちゃん(おひいちゃん)は、風流人なんやな。私には、わからんわ」
「あたしは、初めて見る光景やからなあ。一入感動するんやろ。子供の頃から不思議やったもん。なんで、大森公園は、夕暮れになると、もっこり水で満たされるんやろうって」
私は、外側から見た、この公園を想像して見る。考えてみれば、私はいつも中心にいるから、外からハゴロモ川だとか、ハゴロモ湖だとか、ヴェネツィア公園だとかの外観を知らない。まるで窪地でもない公園に、まるまると盛り上がるハゴロモ湖。ゼラチンのように固いのかと思えば、サラサラと漣打っている。それは不思議な光景だろうなあ、と思った。私にとっては内側からみるその展望よりも、その外観の方が、不可解で綺麗で胸打つのだろうかと思った。
「やから、いっかい中に入ってみとかったんや。これで、夢が一つ叶ったわ」
「なんか、寂しいなあ」
「思い残すことは、少ないほうがええからなあ。きっと」
他に、何がしたいのだろうか、と思った。お姫ちゃんは、喋れば喋るほど、疲れ果てるようで、もうこれ以上は何もしたくないって風に、蹲っている。
私のお家には、何もない。家電は雨に濡れればいちころなので、懐中電灯とか、寝袋だとか、まるで登山家か修験道者みたいな、必需品と空白で埋め尽くされた空間でしかない。
「あのなあ、お姫ちゃん。逃げちゃえば」
「あたしがおらんなったら、贄子が」
「贄子と一緒に」
雨は一日中降り続けていて、今頃、うーくんびしょ濡れで、あっぷあっぷしとるやろうなあと想像したり、肉の方の風天小鞠は、全身すっぽり、レインコート長靴に身を包んで、散歩を楽しんでいたり、逆に皮の方の風天小鞠は、どこにも行けずに膨れて天井にぷかぷか浮いているのかな、と想像したり、小谷のことを想像したりして過ごした。
あっという間に時は過ぎた。
彼女の好きな歌や好きなタレントや嫌いな先生や気になる同級生や習字教室の綺麗な先輩のことや贄子の好きなお菓子や怒った時の口癖や最多縄跳び記録や背丈や体重を知った。
なんだか、すごく表面的な会話ばかりしているなって、悲しくなったけれども、それでも、ふっと気になったことを尋ねたり、答えたりした。
雨は止んだ。でも、夜になっていたから、二人して眠った。小さな体の子供だから、一つの寝袋に一緒に入って眠れた。袋詰めにされた人参の気持ちになった。眠っている間に、成長ホルモンが分泌されて大人になっていくらしかったけれど、今夜だけは、その成長をやめて、ちっこいままでいなくちゃ、と思った。暖かかった。
「朝になったら、一緒に遊ぼう」
「急にどうしたん」
「寂しくなったんや」
「寂しくなったんか」
「こうして一緒におるんやけど、それだけじゃ、嫌になったんや」
「そういうもんなんか」
「もう、何年も、誰とも遊んでいない気がしてなあ」
「もう何年も」
「うーくんは地べた貼り付いとるだけやしな。時折、会いに来てくれる人たちも、私と話したら、満足してどっか行っちゃうんや」それは、それで、いいんだけれど。
「あたしも、そうなんかもしれんなあ。楽になったもん」
「楽になったんか。そりゃ嬉しいけど、なんだか、寂しい感じもするな」
「どんな感じに寂しいん?」
「泣きたくはないんやな。逆に、涙が、すうっと奥に引っ込んでしまう感じやな」
「引き潮やな」
「引き潮」
「あのなあ、明日。家に工務店の人がくるんや」
「うん」
「あたしの身長とか、体重とか測って、埋める穴のサイズとか色々決めるんや。だから、明日は、朝一番に帰らなくちゃならん」
「そっか」
「でもなあ、お昼からは暇なんや。もう、あと、半年くらいやからなあ。自由にしててええって」
朝になって「さようなら。またね」
朝ごはんも食べずに、寝て起きてすぐなのに。
ざぶざぶと渡っていく彼女に、「待ってやあ」と私。私も、湖面に両足を突っ込み、沈みかけの彼女のそばへ駆けていく。すると、さぁあ、とハゴロモ川は、私の周辺だけ、捌けていくのだった。相変わらず、地面は、泥だらけで、田んぼのような踏み心地だけれども。
「すごいなあ。魔法みたいや」
「私が出かけるときだけは、どいてくれるんや」じゃなかったら、邪魔で邪魔で仕方がない。濡れそぼらなくちゃ外出できないなら、私は冬の間どこにも行けなくなる。「一緒に行こう」
大森公園と書かれた石板の前。改めて、「さようなら」
さて、これから、何をしようかな。空を見ながら考えるけれど、神様からのカンニングペーパーが揺蕩っているわけでもなく、雲が綺麗なだけ。
昨日、雨が降ったばかりなので、特別に、水を欲する土地などあるわけもなく、じゃあ、できるだけ広い道を、川が一本流れ出しても邪魔にならないような広い道を、と私は選んで歩いていく。早朝だったから、人通りはまばらだった。
でも、空には空気女が何人か飛んでいて、時折目が合うと、おはよう、おはようと、挨拶を交わしていった。
空気女というのは、案外たくさんいるみたいだった。小谷のやつ、また見境もなく、人を殺しているんだな、って想像すると、寂しくなった。私たちが、特別だった時代は、とっくの昔に過ぎ去ったのかって。
人間生皮を剥がれると、肉の方は、恥ずかしくなって人目を避けるみたいだった。あんなに浮かんでいるのに、肉の方とは一人もすれ違わなかった。
みんな、じゃぶじゃぶとハゴロモ川を渡っていく。もう、慣れたもので、大抵の人は、長靴かブーツを着用している。
私を起点に、この街のファッションが規定されている。そう考えると、少し嬉しくなるけど、表現を格好良くしただけだな。すぐに申し訳なくなる。
新しくできた建物や、子供の頃に立ち入ったことのない建物の前を通ると、立ち止まりそうになる。この中は、一体どんなふうになっているんだろうって。知ってどうするんだとも思うけれど、気になるのだった。お姫ちゃんが下敷きになって建物ができても、好奇心がむくむくと湧きだすんだろうか。
私の中で、お姫ちゃんは、生贄になることが決まったんだろうか。贄子ちゃんと逃げ出してしまえ、って言っておいて。私の台詞は本気ではなかったのか。二人が逃げ出したら、贄男くんが埋められるんだろうか。会ったことも無いけど、ちょっとかわいそうだな、って思う、三人で逃げ出したなら。でも、贄男とは仲が悪いってお姫ちゃん言っていたな。二手に逃げればいいのか。でも、逃げた後で、どこへ行けばいいんだろうか。県境は、魔物たちの巣窟だし、逃亡した生贄専門の探偵だっているそうだ(いまもほら、通り過ぎた立て看板に広告が描かれている)。
逃げる、というのは、現実的ではないのかもしれない。でも、当の現実が、生き埋めになるしかない、というのなら、そんな現実否定したくなる。
うがあ、おがあ、あがあ、と吠え立てていたお姫ちゃんを思い出す。吠えるほか、どうしようもなかったのだな。でも、吠え疲れた今、何をどう、変えて行けばいいっていうんだろうか。
私は、立ち止まることができない。立ち止まってもいいのだけれど、せいぜい、一、二分間の間だけか、ヴェネツィア公園っていう特別な場所でだけだ。一度、歩き始めたら、行き場がなくたって、どこまでも歩き続けるしかない。
田舎には、魔物がうじゃうじゃといる。というのも、県境は、ことごとく魔物の巣窟であり、県境というのは、海浜の都市部から遠く離れた山間部と、相場が決まっているからだ。野を超え山を越えた、山間の里山には、県境から滲み出た魔物がぽつぽつと出没するのだ。このあいだ、ラジオの地方特集で、そう紹介されていた。時折、人を食うらしい。人も魔物を食うらしい。
ハゴロモ市もこの街も田舎といえば田舎だった。田んぼとビルと何もない空き地。雑木林。山。山。山。片田舎って言葉がちょうどぴったり当てはまる地方都市。寂れているわけじゃない。でも、もともと華やかに繁栄していたわけではない。栄華必衰とはいうけれど、栄えなければ、衰えようがないから。この街は、昔から少しも変わらない。
だから、たまに、この街にも魔物が出る。
久しぶりに、魔物を見た。
正面には『僕は、大丈夫』背中側には『絶対安全』と書かれた袖口の引きちぎれたTシャツ。濃いインディゴブルーのダメージジーンズ。つま先からつむじまで、全身肉や衣服が食い込むほど、細長い鎖でぐるぐる巻きに巻かれている。人とぶつかりそうになるたびに、シャアアアッという獣じみた声を発しながら、いそいそと土下座している。
「なにしとるん?」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「いや、謝ることはないんやけどなあ」
思わず、声をかけてしまった。
髪は明るい茶色に脱色しており、右耳には、細いピアスを一つつけていた。長靴を履いていないところを見ると、この土地には疎いみたいだった。
さっきから、ずっと土下座している。だから、私が彼の前で立ち止まると。ぶくぶくぶく。ハゴロモ川に水没した。
「ぶはぁあ。なんじゃなんじゃああ。シャアアアアッ」
「あ、ごめんな」
「いえいえ、悪いのは、僕なんです。ごめんなさい。ごめんなさい」ってまた土下座する。
頭の低い魔物だった。
「いや、悪いのは、私やろ。ごめんな、水浸しにして。そんな土下座ばっかしとったら、ずぶ濡れになるで」
「いえ、いえ。そんな。そんな」って洗顔はしていないけれど、両手をハゴロモ川につけて、縮こまっている。
「魔物なん?」
「ええ、まあ。はい、そうです」
「珍しいなあ。魔物さんがこの街にくるなんて」
「ええ、まあ。はい、そうですね」
魔物は、相変わらず、膝を折って、両手をついている。なにを答えていいのか分からず、目を白黒させている。思わず、そんな彼のことをつつきたくなる。嗜虐心ってやつなのかもしれないけれど、興味がむくむくと湧いてくるのだ。
赤の他人の魔物なのに。
立ったらええのになあ、と内心思っている。だけど、ここで、立ったらええのに、と私が言って、彼がそのまま立ってしまうと、なんだか私が命令を下したみたいで、きまりが悪いな、と思う。
口の端がもごもごとむず痒そうに波打ってしまう。
「観光なん?」
「就職です」
「この街に?」
「はい、ペットショップ『獣姦』ってところで」
「ああ、駅前の」道わかるかな。ちょうど散歩道だし、案内してあげようかな。「あそこの、店員さんになるんだ」
「いえ、そこで生体展示してもらえないかな、と。販売していただけないかなあ、と」
「それ、就職やないよ」
「まあ、正確には。ええ」
「売られても金になるんは、ペットショップやで」
「ええ、まあ。でも。魔物ってこの辺りではまだ珍しいし、大切に飼われるかなって」希望的観測だった。「人間界でいえば、それって就職みたいなもんかなって」
「うーん。まあ、それは、分からんけど」それはそうと。私は、できるだけ自然を装って話題を変換する。「まあ、それはともかく、ペットショップ獣姦は、こっちやないで。反対方向や」
「あ、そうなんですか」
「うん。ちょうど、道すがら通るし、案内したろうか」
「あ、それはありがたいです。俺、魔物だから、この街どころか人間の街に疎くて、正直道、全然分からなくて」そういって、彼はすっと立ち上がる。
私は、内心ガッツポーズをとる。よし、自然な流れで、彼を立たせることができたぞって。立ち上がると、彼は、私より頭一つ分くらい背が高かった。私が、成長途中の子供だってせいもあるかもしれないけれど、スタイルの良いしなやかな肉体の魔物だった。これなら、高く売れるのかもなって、相場なんて全然知らないけれど思った。そもそも、どんな人間が、魔物なんて買うんだろう。想像を試みるけれど、心の中にもくもくと湧いた白い靄が、やがて境界線の曖昧な人形を形成しただけだった。顔も人柄も性別も想像の範囲外。私の知らない世界の住人。
「こっちや」
「こっちですか」じゃらじゃらと、垂れた鎖を引きずりながら、彼はついてくる。じゃらじゃら。じゃぶじゃぶ。
「今更やけど、ごめんなあ」
「なにがですか」
「水浸しや」
「いえ、これは俺が勝手に濡れただけだから」
「そうゆったって、相手が私やなかったらなあ」
「いえ、案内までしてもらって。そんな気遣ってもらって」しどろもどろに頭を搔く。
「たんに暇なだけや。案内ゆったって、大した距離やないしなあ」私の気遣いに気を遣われると、更に気を遣わなくてはならないので、却って面倒だ。ざっくばらんに行こうと思った。とは言ったって、水浸しにしたのは、私なんだって事実は変わらない。「面白い格好しとるなあ」
「面白い?」
「うん、面白い。初めて見るわ」鎖は所々結び目があり、解けないようになっている。絡まり合い、肉体の可動域を極端に狭めている。歩きにくそうだなって思う。
「人前に出るから、少しは見た目に気をつけようと思って」
「これから、売られるんやしなあ」
「そうそう。よく知らないけど、他の動物だって、毛を整えたりするくらいだし」ラブホテル『Laocorn』の前を通過する。なぜか知らないけれど、この街は、ラブホテルが多い。普通のホテルよりも、きっとラブホテルの方が多い。滅多なことで外来の客などこないから、ホテルは寂れ、ラブホテルは栄える。非日常な感じがする場所が、一つや二つ必要なのだろう。ラブホテルの前を、男女で通ると、少しだけ、緊張する。直接の利用客ではない私にまで、ピリピリとした刺激をラブホテルは与えてくれる。「魔物って人間に嫌われやすいみたいだから、せめて見た目だけでもフレンドリーにって思って」
「努力家なんやなあ」どの辺がフレンドリーなのかは、分からなかったけれど。
「そこまでじゃ、ないけれど」照れたように笑ってる。
私の目の前で、魔物くんが、切られた。突然に切られた。右肘から先を切り取られた。そういう生き物みたいに、びちゃんびちゃんと、右腕が跳ねた。
「痛いです」そりゃ、痛いだろうなあ。ぴゅぴゅぴゅうとシャワーのように血が溢れている。でも、よく見ると、上腕骨からはじわりじわりと白っぽい骨髄が溢れ、ぎっしり詰まった筋肉からは、肉が動くたびに、じょぼじょぼと血液や肉片が溢れ出し、肉中核に位置する動脈からは、壊れた水道管みたいに血が迸り出て、肉全体を覆う静脈からは、閉め忘れた蛇口のようにだらだらと血が零れ落ちていた。いろんな液体が欠損箇所から溢れ出し、彼は急速に干からびて行く。右半身が軽くなり、おとっとと左足へと体が傾く。
日本刀を持った男が、私たちの目の前にいて、「警察を呼ばなくちゃ」血に滴る刀をさっと空振りする。ラブホテルの壁面に、半月型に血飛沫が付着する。「大丈夫ですよ。このくらい」ハゴロモ川が赤からピンクに。嘘太郎の首が撥ねられた時のことを思い出した。「警察やなくて、市役所やろ。害獣は駆除せにゃ」男が言った。そんな台詞聞いちゃいない。「警察の前に救急車や」血が、血が。
「だから、大丈夫ですよ」
残った左手で、ぽんぽんと私の肩をたたく。たたく、と言っても叩くという感じではなく、優しく触れる感じのたたくだった。
「よくあることです。慣れています」
「魔物のくせに、何人間の街をうろついてんや」
「就職をしに」
「おのれ何寝ぼけたことゆうとんや」それもそうだ。
「僕は、魔物ですが、人間に危害を加えません。牙だって抜いてきました。僕は、大丈夫。絶対安全です。ただ、この街で暮らしたいだけです」そう言って、慣れた動作で土下座をした。
「ああん」凄んでいるけれど、日本刀の男は困惑したように、二の足を踏んでいる。「魔物が散々人間を食いもんにしとるんは知っとるんやからな」
「でも、僕はしません。僕がこの街で暮らすことを、どうか許してください」
男は、しばらく、私たちの周りをうろうろと徘徊して、なにも言わずに立ち去った。
「大丈夫、また生えてくるから」って魔物くんは言った。
「でも、痛いやろ」
「痛みも、ふうはあ、すぐに治ります」深呼吸でごまかしている。
彼は、フルマラソンの完走者のように、ぜぇはぁと呼吸が荒く、今にも倒れてしまいそうだった。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。少なくとも、私は。
ハゴロモ川の流れは、どんな劇的な出来事にも動揺しないから。
右手には住宅街、左手には雑木林。どちらにしたところで、浸水させちゃいけない場所だった。家族の団欒を、唐突なインスタント洪水でめちゃくちゃにしたくはなかった。家族の団欒というのは、意外と、この世界で、とても大切なもののように思われた。庭につながれた犬は、なす術もなく溺れ死んでしまうかもしれなかった。雑木林だって、ハゴロモ川の氾濫で土石流を起こしちゃ、植物が、かわいそうだ。
筏か何かが、あればいいのにな、と思う。そうしたら、それをハゴロモ川の上に浮かべて、彼を寝かせることができるのだが。
でも、そんな便利なもの、持ち歩いていないんだよね。
「よくあることなん?こうゆうこと」
「魔物ですから」と彼の返答。すでに、血は、止まりつつある。
「そうなんだ」魔物も大変だな。デリケートな話題かと思い、後半の台詞は、心の中だけにとどめておく。もっと優しい人なら、もっと優しい台詞しか思い浮かばなくて、思ったことを素直に口にするだけで、場が和やかになって、いろんな傷が癒されていくのだろうと想像する。私の中で、悲しさよりも、驚きや興味の方が、優っている感じがありありとした。少し自分が嫌になった。
「魔物も人間、食べるからさ。人間も魔物を襲ったり、食べたりするんだ」
「話にだけ、聞いたことあるよ」
「昔、俺も、食べたことあるけど」
「あるんだ」ちょっと、恐ろしくなった。
「俺、虚弱体質なのか、うまく消化できなくて吐いちゃった。悪いことしたなって思った」
言い訳くさい、台詞だと思った。信じる気持ちに、ならなかった。信じたところでなににもならない。魔物なんだから。魔物は、人間を食べる生き物なんだから。
「どうして、人間の街にきたん」魔物のくせに。
「死にに」
「死ぬんだ」
「いや、死なないけど」
「なにゆうとん」
「でも、結局、死ぬのかも」
「ようわからんよ」
「どうせ、死ねって思われてるかも」
「誰に」
「みんなに」
「かわいそうや」確かに、魔物だけれど。
「最近、田舎の人間がどんどんどんどん減っているんだ。過疎化っていうのかもしれないけど」うん、と私は頷く。私がまだ、普通だった頃、テレビで流れていた廃村のニュースを思い出す。あの頃から、なにも変わっていないんだな、って思う。魔物が人間を食べ過ぎただけかもしれないけど。「このままじゃ、人間を主食にしている魔物もやっていけないらしいんだ。このままじゃ、魔物もやっていけない」
「あのさ、それってつまり」
「うん、まあ、そういうことかも」ため息混じりに、彼は呟く。「僕は要らない魔物らしい」
なんて答えたらいいのかわからなくて、頷こうか首を振ろうか迷っているうちに、数十秒。歩こう。何も言わずに、歩き続ける。
「死なない方がいいよ。一緒に、生きて行こうよ。大丈夫だよ」これは能天気な台詞だろうか。
「うん、死ぬつもりはないから」魔物は、足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばそうとして、やっぱりやめて、空き缶を拾って、どうしようと、手に余らせる。置いておきなよ。無理に、優しい人っぽいことを演じることもない。たかが、空き缶ひとつだ。からんころんからんころん。くしゃくしゃと踏み潰す。
「あ、うう、見ん方が良かった」思わず、本音が出た。真っ赤な切断面から、高速再生した植物の発芽のように、人差し指と薬指がにょきりと生え出していた。爪はまだ生えていなくて、シワひとつなくって、赤ちゃんみたいに、小さくて、肉の詰まった指先だった。傷口がきゅっと円錐形にしぼって、その先に、二本の指先が生えてるのだ。何か別の生き物みたいに、握ったり開いたりを繰り返していた。
「あまり見せない方がいいよね」私の右隣から左隣へとさっと移動する。
「いや、そういうわけじゃ、見慣れなくてな、びっくりしてしまってなあ」しどろもどろの言い訳だ。傷ついただろうか、傷ついていないだろうか。魔物の表情は読めない。
「一日もすれば、だいたい腕の一本や二本、生え揃うんです。人間は、違うらしいけど」
「すごいね」ちょっと感心してしまう。さっきは、ぎょっとしてしまったけれど、今となっては、好奇心の赴くまま、じっと観察してしまいたい気持ちだった。今まで見たことがないから。魔物の手が生え変わる瞬間なんて。あの赤ちゃんみたいな指先が、どう大人の男の二の腕へと変化していくんだろう。気になって仕方がない。「アピールポイントだ」
「何の?」
「ペットショップで飼い主を探す時とか」ポップに、腕を切り落とされても一日で生え変わります、と書くのは、ちょっと生々しいかな。
「こんなことで、就職できるの」
「就職、ではないやろうけど…。珍しい物好きの人っているから」
「そうなんだ」
小さな街だけれど、田舎の街なので、建物と建物の間に、大きく間隔が空いている。何もない空き地だってある。山や雑木林も点在している。だから、馴染みのペットショップへゆくのにも、歩いてだと、だいぶかかる。
途中、見知らぬ人間に襲われることもあったけれど、彼が謝り倒すと、そそくさと退散して行った。いきなり、匕首で彼の手首を切り取って、ムシャムシャとその場で咀嚼し始めた女子高生にはびっくりしたけど、お腹が空いていただけみたいだった。お昼に食べようと思っていたお饅頭を渡すと、手首を返してくれた。返されても困るけれど。生活に困っているってぼやいていた。薄汚れた格好で、やつれた顔をしていた。あげるよ、と彼は彼の手首を彼女に差し上げた。
幸いなことに、両足を切り取られることはなかった。だから、まだ、こうして歩いていられた。
「そういえば、名前なんてゆうん」
「名前ですか」
「そう。みんなからなんて呼ばれとるん」
「それ、とか、あれ、です」
「それって名前なん」
「人数合わせみたいなものだったから。おい、とか、お前、とか」
「そっか」名前がないと不便だ。ふっとしたときに、彼のことを思い出そうとしても、あの魔物とか、あの時の魔物とかじゃ、もやもやとしてしまう。きっと、飼い主から適当な名前をつけられるだろうから、そのうち、教えてもらおう。「私は、紅あかりってゆうんや。ヴェネツィア公園ってところで野宿してるから。暇なときでも会いに来てや」
もう、ペットショップは目の前なのだ。考えてみたら、初めて立ち寄る。動物ってそんなに好きでも興味もなかったのだ。だから今だって、私は中へは入らない。「じゃあね、ここだよ」
五百円をもらった。ペットショップのおばあさんから。私がもらっていいのだろうか。よくわからない。知らない。
こんな年齢不詳な、おばあさんがこのペットショップを営んでいたんだ。知らなかった。私には、知らないことがたくさんある。特にこの街のこととか。この街の、内側のこととか。
お金を手に入れるのは稀だ。私みたいな生活をしていたら、そりゃそうなるよ。
かといって、使い道ってなかなかない。ハゴロモ川が付いて回るのだ。店には、入れない。屋台や出店の前を通るのも、遠慮してしまう。さて、誰にあげようか。この五百円。
振り返ると、くちなしれんか、がいた。「何か、あった?」
「なあにもないわ。いつもと変わらん」そう私が答えたのは、条件反射みたいなもの。魔物の就職斡旋していたなんていうと、気分を悪くする人もいるだろうからって配慮したのだ。でも、今の、くちなしれんか、になら、別に気を使う必要はなかったかもしれない。
「ピンク、色、やで」くちなしれんかは、ハゴロモ川の突端を指差す。拡散し切らず、魔物の血、というか繊維の残余が無数にあって、くるりくるりと渦巻いている。その回転が、あまりに早いから、川はその先端だけ、うっすらとピンクがかって見える。「ちと、におう、で」においは、私にはわからない。
「久しぶりやなあ、くちなしれんか」
「久しぶり、なん?どっかで、あったん?てか、なあ。この、納豆、くさっとるで」くちなしれんかは、何もない空中を指差す。「変な、におい、するもん」くちなしれんかは、納豆殺人事件の殺人犯だった。
「そこに納豆はないで」
「そう、なん」くちなしれんかは、不定期納豆認知症で、三日に一度くらい、この世のすべてのものが納豆に見える。「やっぱ、そう、かあ。納豆にしては、すかすかしとる、と、思っとった、わ」すべてのものが納豆に見えるってどういうことなのか、私にはよくわからない。想像がつかない。でも、くちなしれんかのことを、みんなそう説明する。だから、くちなしれんかは、私のことも納豆だと感じていて、でも、納豆ではないかもしれない、人間かもしれない、と思って、とりあえず、話しかけているらしい。実は、正常なときのくちなしれんかは、私のことを知らない。少なくとも、話しかけらたことはない。
「空気やからなあ」
「教えてくれて、ありがと」
「私も、納豆やないからな」
「そや、納豆は、喋らんわな」くちなしれんかは、ずっと昔、人間を納豆と間違って殺害してしまったことがある。その際、取り調べで、『かき混ぜてしまえば、みんな同じ』と発言したため、猟奇殺人犯だと目されていたが、病気だとわかって、無罪になった。しばらくの間、施設病棟に留まっていたけれど、たとえ納豆に見えても、食べない、かき混ぜない、納豆じゃないかもしれない可能性を考える、の誓いを立て、社会復帰したそうだ。社会復帰というか、小学校に戻ってきた。何事もなかったみたいに。
どこまでが、本当か知らないけど、そう聞いている。
みーんな、幼かった頃、家族から聞いた、噂話だから。
「でも、おいしそう、やな」
「褒められても、なんも出ないからな」
「納豆も、でんのか」
今の私なら、納豆くらい、買うことができる。近くの子供に頼んで、五百円をあげる代わりに、コンビニで納豆一パック買ってきてもらえばいいだけだから。でも、くちなしれんかにとって、納豆を差し出す私の腕も、納豆なのだ。いくら、これだよ、これが、納豆だよって、指差しても、その指の先も納豆なのだ。納豆一パックの体積より、私の体積ははるかに大きいから、確率的に、私が、食べられてしまう可能性の方が高い。昔、そういう事件が、起こったのだ。
「出せないなあ、ごめんなあ」
「お腹、空くわあ」
「もう少しの辛抱や。不定期納豆認知症は、そんな長引かんのやろ」
「知らん、わあ。時計も、納豆。太陽も、納豆、なんやで」
抱きしめて、安心してもらおうにも、私も、納豆だ。手を繋いでも、それは納豆だ。糸を伸ばされる。私は、彼女のことをかわいそうだと思うけれど、自分の腕を引き延ばされたくはなかった。それは、怖かった。納豆だと思って、糸を伸ばされ、両腕の関節をことごとく抜かれた子が、昔いたから。
「みいんな、納豆なんやもんなあ」
「そうや」みんな納豆だらけの世界の中で、自分だけは、納豆ではないのだ。どうして、自分が納豆でないと言えるかといえば、自分の意思で動いたり動かなかったりするからなのだろうか。我、動くがゆえに、我、納豆ではないってことなのだろうか。「別に、納豆は、好きなん、やけどな」自分以外が全てが納豆って、少し、ちょっと、というか、かなり、寂しい感じがする。寂しいだろうな、と思う。ただの、想像だけれど。
本当のところは、私にはわからない。
でも、納豆認知症のくちなしれんかは、小声で、かすれた声で話す。実は、普段の彼女は知らない。話したことも、話しかけたこともない。声も聞こえない遠くの方から見かけたことが数度あるくらいだ。だから、普段の彼女と比べてどうこうだなんて、なんともいえないのだけれど、今の彼女は、いろんなことに疲れ果てているように見える。
「つめ、たい」しばらく立ち止まっていたから、彼女の足元まで、ハゴロモ川の川幅が広がったのだ。「なんや、これ。つめ、たいし、ピンク、色、やし、変な、匂いやし。おかしな、納豆や」そう言いながらも、彼女は慎重な動作で、ハゴロモ川を足先でかき混ぜる。万が一、人間だったり生き物だったりした場合、殺傷し得ないほどの緩慢な力のこもらない動作で、ハゴロモ川を蹴立てる。起こる波紋も、すぐに流れにかき消されるほどのものだ。
「私、そろそろ、行かんとなあ」
「そう、なん、か」
天も地も、右も、左も、納豆な彼女には、誰かと一緒に歩くということが原理的にできない。ただ、本当に、ただ、さまよい歩いているだけだ。もしかしたら、本人の気分では、自室から一歩も出ていないのかもしれない。車通りの緩やかな田舎だからできることなんだろう。
だから、私が、歩き出せば、彼女とははぐれてしまう。
また、どこかで出くわすかもしれないけど、納豆一粒一粒の識別は、彼女には、まだできない。そもそも、彼女の見る納豆一つ一つに、個体差があるのかわからないけど。だから、私と今の状態の彼女が再び、今日の何処かで巡り合っても、新しい納豆が、ぬわっと現前するにすぎないんだろう。
あたりを、見回す。彼女の母や父などが、遠くの方から見守っているわけでもない。母や父だって、彼女にとっては、納豆なのだ。居ても居なくても、変わりがない。だから、彼女にだけ、別れを告げる。
「さようなら」
「さよう、なら」
「また、どこかで出くわしたら、よろしくな」何をよろしくなのだ。
「うん。かき混ぜん、から、安心、してな」
「うん。それがいい。冷たあして、ごめんな」
「これ、あなたの、せい、なん」
「うん」
「そう、かあ」何か考えているみたい。「これ、なんなん?」
「川」
「本当や、ちょっと、流れとる、感じする」
「川やからなあ」
「納豆ではなく、川なんやなあ」彼女の顔が少し明るくなる。「川ん中やったら、人間、おらんから、歩き放題かもなあ」
「だめ」咄嗟に、私は、否定する。「それも、だめ。危ない。やめて」うーくんがかき混ぜられてしまう。
「それも、そう、やなあ。釣り人も、おるかも、しれんし」
「ごめんなあ」
「あなた、の、せいや、ないから」しょんぼりと、肩を落とす。
「さようなら」私は改めていう。長居をし過ぎた。脛の辺りまで、水位が上がって居た。返事を聞かずに歩き出す。
「なんで、わたしが、納豆の、気持ち考えて、納豆の、ために、配慮して、納豆の、ために、行動を、制限されな、あかん、のや」気持ちの沈んだ彼女が、呪詛のようにつぶやいた。
「だって、納豆やないもの」
「わたし、には、納豆に、見える」
「納豆やないもの」
「嘘や」
「嘘やない」
「そう、なん、やろうけどさ」遠く離れた彼女は、緩慢な動作で、ハゴロモ川から這い出して、緩慢な動作で、靴を脱いで、靴下を足の上から押し絞る。靴が靴だとわかるように、脇に挟んで離さない。彼女にとって、履いている靴だって納豆のはずで、手放してしまえば、無数の納豆の中に埋没して見失ってしまうのだろう。
「わたしは、なあ。納豆のこと、大好き、なんや、けどなあ。食べられん、納豆は、なあ。好きでも、嫌い、でも、なんでも、無うなる」
「そっか」私と彼女との間は、もうそれなりに距離が離れている。もう、しばらくは、会わないだろう。
くちなしれんかは、背中までの黒髪、丈の長いスカートも、ゆったりとしたブラウスも、ニーソックスも、革靴も、黒一色で、しばらく歩いて、振り返ると、二足歩行する蟻のように見えた。
彼女のことは嫌いではないけれど、ちょっとだけ怖くて、二足歩行の蟻になった彼女に、ほっと一息ついた。
私は、実は、そんなには寂しくないのかもしれない。
この街には、様々な人がいて、彼らは様々な事情によって、こんな川を引きずる女の子にも、話しかけてくれる。うーくんに、風天小鞠に、お姫ちゃんに、魔物に、納豆女に…。でも、いろんな人と話をしても、寂しい感じはする。お互いに、分かり合えないんだねって、そういう気分になる。
だから、というわけではないけれど、納豆女と別れからは、人通の少ない方、人通の少ない方を、選んで歩いていた。取り壊しの決まったスーパーマーケット。家主が引っ越して行って草木が茫茫と生い茂る廃屋。桜の木や南天の木が、かつてそこに人が暮らしていたことを意識させる。この家に、もう一度人間が暮らすことはあるのだろうか。案外好きだ。誰も暮らさない民家って。
もしかしたら、何処かの誰かがこっそり住み着いているんじゃないかな、って想像を巡らしたりする。窓ガラスの曇った、半ば自然と一体化した廃屋なのだ。妖怪の一人くらい住み着いていればいいのに。魔物が、いるのだから、妖怪くらいいればいいのに。楽しいだろうな、ハゴロモ川に、河童と水虎と川女が住み着いたら。もう、畑の水遣りはできなくなるな。少なくとも、きゅうり畑は。それは、困るな。数少ない、私の存在価値が、薄らいでしまう。どうやって、生計を立てようか。河童たちと相談せねば。空想の中に、河童が住み着いた。
川を下ってくる人がいた。ぴちゃぴちゃと、長靴で川底を蹴りたてように、歩いていた。途中から、走り出したようだ。蹴立てる音が大きくなったから、そうだとわかった。妖怪ではなかった。遊びに来たよ、って彼女は言った。狭いようで広い、田舎の街。でも、長い長い、ハゴロモ川。どこかで、見つけて、辿ってきたらしかった。
「なんだ、お姫ちゃんか」
「なんやようやっと見つけたのに」不満そうに、唇を尖らせる。
「妖怪かと思った」
「なんやそれ」私も、そう思う。妖怪とお姫ちゃんとどちらと出会いたかったんだろう。どちらと出会えば、どれだけ幸せで、どちらと出会えなかったら、どれだけ寂しい感じがするだろう。お姫ちゃんには、また、会いたいな、と思っていた。妖怪には、会って世間話してみたいなって思っていた。もしかしたら、どちらでもよかったんだろうか。
「河童がな、ハゴロモ川に住み着いたらええのに、って考えとったんや」
「なんやそれ」お姫ちゃんは繰り返す。口癖なのかもしれない。
「なんか、箔がつくやん。川として」
「ブランディング、ちゅうやつやな」
「なんやそれ」私も使ってみる。「難しい言葉しっとるなあ」
「父ちゃんがよく使っとるんじゃ」
「横文字好きそうやもんなあ」一度も会った事ないけれど。
「ハイカラなんじゃ」
よくわからないけど、おかしくなったから、笑う。お姫ちゃんは不思議そうに私を見上げている。私はゆっくりと歩く。お姫ちゃんは、ちょうど、私の半分くらいの幼年期なのだ。子供になったつもりで、歩く。
「別に、大山椒魚とかでもええんか」と、思いついたようにお姫ちゃんがつぶやく。
「なにがや」
「河童やのうて、大山椒魚」天然記念物。文学的や。
「河童の方が強いなあ」
「日本川獺」
「河童」
「水子」
「は、怖いなあ」想像してみた、青白い女の子たちが、川面にゆらゆらと揺られていた。「仲良くなれたら、怖くなくなるんかな」
「カモノハシに、ビーバーに、ヤマタノオロチ」
「山田大蛇とかええなあ」関係ないことを思いつく。強そうな山田だ。
「カモノハシは、ほとんど河童やと思うんや」
「そうやな」
よくわからない会話だった。雑談なんてみんなそんなものかもしれない。お姫ちゃんと話すのは楽しかった。
普通の友達関係なら、ここらで、喫茶や軽食屋にでも立ち寄るのかもしれないけれど、私とお姫ちゃんには、それはできない。そもそも、お金もないし。台詞と台詞の間も、休むことなく歩き続ける。時折、ハゴロモ川が私たちに追いついて、ちゃぷちゃぷと踵を濡らす。昨日は、ヴェネツィア公園だったから、のんびりお話ができたのだ。でも、今は、昼日中だから、公園に、帰る気分じゃない。まだ、何かしたい。それが何かはわからないけれど。
「ねえ、お姫ちゃん」
「あのなあ、あたし、もうお姫ちゃんやないんや」
「なんやそれ。お姫ちゃんは、お姫ちゃんやろ」お姫ちゃんの背かっっこうで、お姫ちゃんの洋服着て、お姫ちゃんの顔貌で、お姫ちゃんの声で喋るこの小さな生き物は、お姫ちゃんじゃなかったのか。私は、驚いた。
「名前変わったんや」
「そんなことあるん?」
「あるんや」
「でも、お姫ちゃんではあるんやろ?」
「まあ、そうやけど、それは、もう古い名なんや。今はな」彼女は、小さく肩をすくめる。「贄子」
「贄子ってあの」会った事はない。
「妹の。名前をトレードしたんや。父ちゃんが」
「そう。変なの」
「山田オブプリンセスは、必要なんやって。将来、嫁入りする娘が贄子って名前やあかんから」
「そうかも知れんけど」オブプリンセスならいいのか、とも思う。「そんな事できるん?」
「戸籍ごと交換したからな。あたしは、今じゃ、贄子、六歳、山田家次女なんや」
「それは、悲しい話なん?」
「いや、事実の報告」
着々と進行していっているようだった。お姫ちゃん、じゃなくて、贄子ちゃんの生贄。
「てことは、もう昔の贄子ちゃんが生贄になる心配はないんやな」
「そうやろうな」
「てことは、あとは、今の贄子ちゃんが逃げ果せるだけやな」贄男のことを、欄外に置けば。
「うん、まあなあ」しょんぼりと元お姫ちゃんはつぶやく。
元お姫ちゃんが、どこか遠い国まで逃げ延びて、たまに、私宛に手紙でもくれたら嬉しいなあ、って無責任なことを、私は思う。その願望を言葉にしようと開けた口の中に、自制心やら要らぬ気遣いやらを詰め込んで黙り込む。
「なあ、お姫ちゃん」
「だから、あたしは、もう贄子なんやって」
「そっか。じゃあ。贄贄」
「贄贄…」ちょっと不服そうだ。そのうち慣れるだろう。
「私の、ハゴロモ川に住む?河童のふりして。誰にもバレないくらい、自然な河童になりすましてなあ」
「無理やろ」
「でも、生き延びる方法を考えなくちゃ。何事も練習次第。もしかしたらうまくいくかもしれんやんか」
「あたしは、カッパジャー」贄子は、ガニ股になって、猫背になって、白目をむいて、頭を左右にゆっさゆっさと揺らす。よくわからないけど、それっぽい気がした。
「いいよ。贄贄」
「いいんかあ?これで」うん。
「贄贄はなあ。私の中では、生け贄じゃないからなあ。逃げて。生き延びて。逃げて。どこかでまた会おうよ」
お昼は、とっくに過ぎたみたいだった。お腹が減っていた。
遥か上空で、豚が降っており、それを自衛隊が光線銃で蒸発させているなら、それはとても勿体無いことのように思えた。私に食わせろ。その豚。って思った。上空五千メートルから、100キロ近い豚が降ってきたら、ひとたまりもないだろうけど。
贄贄に五百円玉を渡し、コンビニで惣菜パンを買ってきてもらう。歩きながら、二人で食べる。美味しかった。
空をぼんやりと眺めて歩いた。空は今日も飛んでいた。たまには、休めばいいのに。
「そういえば、贄贄は、空ちゃんのこと、あまりよう知らんのと違う?」ふっと尋ねてみた。
「知っとるよ。あの人のことやろ」と頭上を指差す贄贄。
空は、
空ちゃんは、私と同級生である。しかも、生まれた日も、生まれた場所も同じときている。生まれた日が同じなのは、完全なる偶然で、生まれた場所が同じなのは、この街で出産といえば、ハゴロモ市民病院だから。だから、大した偶然じゃない。空ちゃんが生まれた時のこと、私は赤ん坊だったから、全く記憶にない。人づてに聞いた話。空ちゃんは、生まれたとき、一声も泣かなかった。空ちゃんの母親のあそこから、空ちゃんが溢れ出して、分娩室じゃ狭すぎて、病院中が、青一色に包まれた。その光景の美しさに、人々は泣いた。泣いたら、その涙から虹ができた。それまた美しくて、また泣いた。私は、そんなことつゆとも知らずに、母のおっぱいをしゃぶっていた。町中から、鳥という鳥が、とことこと歩いてやってきて、ハゴロモ市民病院までやってきた。鳥たちは、窓を突き破って、院内に侵入すると、病院内に充満していた空ちゃんの中を縦横無尽に飛び交った。男の子ですか、女の子ですか、という空ちゃんの父の問いかけに、助産婦と産婦人科医は目を白黒させた。助産婦、看護師二人、医者、夫、の五人で、広がり切った空ちゃんをなんとかくるくるまとめて、空ちゃんの母の胸元まで差し出した。空ちゃんに体重なんてないから、大した労力などかからなかったそうだ。空ちゃんの内部を飛び交っていた鳥たちは、カアガアと不平を漏らしながらも、大人しく母に抱かれた空ちゃんを取り巻いていた。空ちゃんは、ちゅうちゅうと母のおっぱいを吸った。乳を吸うにつれて、空ちゃんは紺碧から、乳白色へと変貌し、曇天になった。一挙に大雨になって、病院の二階部分まで浸水した。
全然、記憶にないけれど、私が生まれた日、私が生まれたこともみんなの記憶から飛んでしまうほど、大変だったそうだ。
「何見てるの?」と贄贄。
「空」と私。「空ちゃん、相変わらず美人やなあ、って思って」
確かに、普通の人間とは容貌が全く違う。だから、空ちゃんは一般的な美人とは言い難い。でも、空ちゃんは、空ちゃんで、人間だし、なおかつ、空ちゃんは美しいのだから、美人といって何も問題はないだろう。
と言いつつ、美人な人を美人というのも、問題はないのと同様、美人じゃない人を美人というのも、問題がなかったりするけど。
空ちゃんは、小学二年生まで学校に通っていたけれど、それ以降、学校というか社会の枠組みに収まらなくなっていった。巨大すぎたことが第一点。また、学校の窓という窓が割れるほど、風が吹きすさぶこともあったし、連日雨が降り続き学校を浸水させることだってあった。鳥たちは、相変わらず空ちゃんのことが大好きで、空ちゃんの中を飛び交っていたし、曇天になると、目の前が見えないほど見通しが悪くなった。物思いにふけると、ぷかぷかと浮かび上がるし、怒ると雷や稲妻が走った。いじめとかがあったわけじゃない。けど、だんだんだんだん、空ちゃんの方から周りの子供達や大人たちから距離を取り始めた。学校にも来なくなった。家にも帰らなくなった。気がつけば、あんな遠くの上の方に、一人たゆたっている。鳥には相変わらず愛されているから、寂しくはないのだろう。
「そういえば、贄贄は空ちゃんが生まれる前を知らんのやなあ」と私。
「うん」とお姫ちゃん。やっぱり、贄贄より、お姫ちゃんの方が可愛くていいな。
私たちは、相変わらず、とぼとぼと歩いている。古い民家が立ち並ぶ。そのうち何軒かは、もう住む人もいなくて、カーテンの取り払われた窓ガラス越しに、擦り切れた畳が見える。花瓶だったり、座椅子だったり、取り残された家具が仄白く浮かんで見える。この辺りは、人通りも少ないから、ハゴロモ川を引き連れて歩くには、うってつけの場所だった。
「まあ、私も大して知らんのやけど。大変だったらしいよ。大抵いつも薄暗かったし、太陽も、空じゃなくて、じかに地面を走っていたから、毎日何十人かはうっかり焼け死んでいたらしいから。毎日が、大惨事。嘘太郎ってゆう植物人間が寝転んどる国道あるやろう。あれは、もともと、太陽の通り道で、朝になると端の方から、ごろごろごろごろガーターを走るボーリング玉みたいに、太陽が転がってたんだよ。一度、幼稚園でも小学校でも遠足で見にいって、マシュマロを焼いた。美味しかったけど、めちゃくちゃ暑くて、日焼けした皮膚がすごう痛とうなった」
「そうなんや」実感のこもらないお姫ちゃんの相槌。私と違って、思い出す記憶がお姫ちゃんにはないのだ。思い出の共有って難しいんだなって、私は思う。
「そうなんや。ある晴れた日の遠足でなあ、空ちゃんがうっかり太陽を丸呑みして、それ以来空ちゃんの体内を行ったり来たりや」痛い熱いと空ちゃんは泣き喚いて、この街は半分水没した。
そんな思い出話をしながら、私たちは歩いた。
今は、頭上には、空ちゃんの青と白の肉体が浮かんでいるけれど、空ちゃんがまだ小さかった頃は、見上げるとそこには背の高い大人たちの顔や建物の上階しかなった。自分たちより背の高いありとあらゆるものが犇めき合っていた。大人たちの顔や民家のベランダや桜の枝葉などが、銘々ぐにょんと間伸びして視界一面に広がっていた。
「ほら、あのハゴロモ商店街に面した県道あるやろ。あれは、月がごろごろ転がとった道なんや」ちょうどスーパーマーケットが一つ取り壊しになってできた空き地を挟んで県道が見える。指差して、伝える。
「月ってあんなにでっかっかったん」
「うん、四車線分」
「なんで車通り少ないのに、あんな幅広なんやろうって思っとった」ちょっと感心してくれる。お姫ちゃんにとっての素朴な謎だったんだろう。
「あそこも、遠足の定番コースでな。転がる月利用して、押し花作ったり、道に染料を流して、月を虹色に染めてみたりして遊んでた。そんな月も空ちゃんがうっかり呑み込んじゃったけど」
「月も呑み込んだんや」呆れたようにお姫ちゃんは呟く。
「まあ、子供やったし」
「食いしん坊なんやな」
「体が大きいからさ。お腹もすくんやろうな」だから、今でも、空ちゃんのお母さんとお父さんが日に牛十頭と豚十頭を、大砲に詰め込んで空ちゃんめがけて発射している。大食漢の空ちゃんがひもじくならないように。空ちゃんは、飛んでくる牛や豚を器用に口でキャッチしているそうだ。時折タイミングが合わず、取りこぼしてしまうこともあるけれど。
「消化しきれとらんけど」月も太陽も。
「石やから硬いんやろ」
空ちゃんを、ぼんやり、二人で眺めながら、歩いていった。会話が途切れたり、ふっと喋りたいことが浮かんだりした。
私たちは、年齢も境遇も違うから、共通の話題って案外なかった。片一方が、ふっと喋りたいことを、喋りたいだけまくし立てて、もう一方が、それに聞き耳を立てる、そんなことをお互い様にやりあった。私の方から、訊けないことがたくさんあって、お姫ちゃんの気まぐれに任せきりだった。
いつになったらお姫ちゃんが生贄に捧げられるのか、とか。お姫ちゃんの今後の生活とか。他県へ逃げても生き延びる自信がないこととか。どうせ生贄に捧げられるなら、その前に、とんでもなくひどいことをやらかしてしまいたい、なんていう薄暗い希望だとか。思いついたときに、思いついただけ、お姫ちゃんは喋った。
私の側は、何を喋ったのだろうか。
覚えていない。
いつも通り。
いつも通り、私は、町を眺めていただけ。
町を眺めて、まるで、観光ガイドみたいに、町についての注釈を述べるだけ。しかも、どこか情報の古い。
「ここがな。子供ん頃、私や小谷や嘘太郎が暮らしとった住宅地なんや」今は、空き地。
「なんというかなあ、いてもたってもいられん気持ちなんじゃ。今」ってお姫ちゃん。
「なんやそれ」と私。まるで理解できないから、相槌もぞんざいだ。
「頭が変になりそうな気持ちなんじゃ」
「その割に、平然としとるなあ」
「うん。我慢しとるからなあ」
「我慢せんかったらどうなるん」
「ねずみ花火みたいになあ、くるくる回って、ぱあと爆ける」
「なんかそれ、楽しそうやな」
「他人事や思うて」
私たちの足元に、生首が転がっていた。豊かな長髪だが、額の部分が禿げ上がっている。落ち武者である。
「こらこら、君たちここは立ち入り禁止なんだよ。今、合戦をやっている最中なんだ」とまだ首の繋がっている侍が教えてくれた。
「あ、そうなん?知らんかった」
「そうだよ。合戦国内プロリーグ昇格試合の最中なんだ。危ないから、家へお帰り」侍のおじさんは、親切に帰り道を指差し示してくれる。
民家と民家の隙間を駆け抜ける忍び装束。長槍片手に隊列を組む足軽部隊。捕らえられた女戦士と武将たちが裸になってくんずほぐれつしている。
「面白そうやな。ここおっちゃあかん?」
「だめだよ。十八歳以下入場お断りなんだ。Rー18ってやつなんだ」
「なんや、つまらん。大人ばっかりずるいわ」
お姫ちゃんが、私の腕を掴む。
「ここおっちゃあかんみたいやし、帰ろうや」
「大人ばっかずるいよ。楽しそうなことして」私は生首を蹴飛ばした。
そもそも、ここは、私が昔暮らしていた場所だった。今は寂れてしまって、空き地と空き家ばかりになってしまったけれど。もともといたのは私の方なのに。
「君たちも、大人になったらわかるさ」と侍は、知った風な口を叩く。何を知っているというのだ。「楽しいことばかりじゃない」
駄々をこね続けていたら、お土産に生首をもらった。
「これ、あげるから、もうお帰りよ」と侍のおじさんが、私の頭を撫でながら優しくつぶやくのだ。侍らしい、大きな掌。
「うん、まあ、じゃあ」
蹴飛ばしながら帰った。
触ってみなければ、それがプラスティック製であることがわからないほど、精巧に生々しく作られた生首だった。
お姫ちゃんと別れた。特別な理由はなくて、「そろそろ、家に帰った方が良い気がする」ってそれだけの理由で、お姫ちゃんはさよならを言った。
本心を言えば、もっとお姫ちゃんと一緒に居たかった。特別な会話とか、目的とかなくても一緒に居たかった。
「一人はやはり寂しいなあ」と私はつぶやく。お姫ちゃんは遠い影。生首は、ハゴロモ川に浮かべた。プラスティックなので、ぷかぷかと浮かんだ。夕暮れだったから、お姫ちゃんの影は、伸びに伸びて、本人が去った後も、なかなか消えなかった。もう、どこからが胴体で、どこからが首で、どこからが頭なのかわからないほど、一本の長い長い棒か紐のようになっていた。バタン、と家の扉を閉めたのだろう。一瞬にして、影は消えた。振り返ると、私の影も、長々と伸びて、ハゴロモ川の端の方まで覆っていた。
「生首。生首は要らんかねー。できたて焼きたてホカホカの生首だよー」
「生首掬い楽しいよー。一回三百円。トイが破れるまで掬い放題だよー」
「生生首、一つ五百円だよ。生きがいいピチピッチだよ。美味しいよー」
合戦場の近くだからだろう。生首出店が軒を連ねている。おじさんたちが、眠たそうな声で客引きをしている。ビニール詰された生首、鉄板で焼きあがったばかりの生首、蜜蝋の塗られた生首、串生首、水桶を流れる生首、薄くスライスされる生首、ここまで生首だらけだと、せっかくもらった生首も有り難みが失せてくる。やっぱり、もっと粘ればよかった。生首なんてどうでも良いから、私も遊びに混ぜて欲しかった。
子供達が、至る所で、生首を投げ合ったり、生首を踏み砕いたりしている。生首には、十個に一個の割合で、金の脳漿が入っているらしかった。緑や黒の脳漿の生首は、要らないや、とハゴロモ川に投げ捨てられた。割れた生首が絡み合ってもつれ合った。生首を買えない貧乏な子供達が、時折ハゴロモ川に捨てられた生首をさっと掠め取って、なんだ、緑か、とまた捨てた。街灯がぽつぽつと灯って、却って、夕暮れを強調した。
「帰ろうかな」って独り言。冬は夜更けが早くて、どんどん風も冷たくなっていく。ヴェネツィア公園に帰って、秋の間に備蓄したどんぐりでも齧って眠ろう。密かに、牛乳を腐らせて、手に入れた乳酒を飲もう。私は、子供だからすぐに酔っ払ってしまえる。一口の乳酒でぐでんぐでんに酔っ払って、味覚を狂わせて、うまいうまいと思いながら、焼きどんぐりを齧ろう。
信心深いおばあさんが、今日も、ヴェネツィア公園の入り口に、お饅頭とちくわの磯辺揚げとみかんとタッパ入りの手作りあんこを紙袋に入れて下げておいてくれた。実をいうと、実際にあったことはない。おばあさんっぽい字で、震える筆跡で、「あかり様へ」と書かれている。私の死因は糖尿病だろうか。何かの拍子にふっと亡くなってしまったなら、私の血に群がる、蟻、蟻、蟻。かき氷のシロップがわりに使われる、私の尿、血液、脳漿、リンパ液。『甘いよ、甘いよ。重度糖尿病患者のおしっこのかかったかき氷だよ』ってかき氷屋のおじさんが客引きをするのだ。屋台の上に、これ見よがしに、横たえられた私の裸体。力なく、垂れ下がる脹脛と両腕。お客が来る度に、屋台のおじさんは私のお腹周りを揉みしだくのだ。そして、臍下を全体重をかけて一押し。すると、じょぼぼぼぼと死体だから、温かみの失せたおしっこがとろとろとかき氷に降り注ぐのだ。レモンシロップみたいに綺麗な黄色。練乳が欲しい時は、私のおっぱいを揉みしだいて搾り取って、塩味が欲しい時は、瞼を開けて、眼球とさっとこすったり、鼻の穴をほじくり回す。でも、そんなお店にお客が来るわけなく、おじさんは、手持ち無沙汰に、煙草を吹かしている。
「死ぬのなら、夏、かき氷屋の屋台の前で」呟いて笑って、見ず知らずのおじさんに恋心を抱く。「今の私はどうかしとる」
気がつけば、いつもの丘の前で、もういいやって、バタンと草地に倒れこむ。何をしたわけでもないのに、歩き疲れて、へとへとだった。秋草はしっとり濡れていて、体が凍えてくる。芋虫のように這い進んで、震える手でマッチを擦り、くしゅくしゅに丸めた紙袋に着火。不定形に燃える炎を、朝方組んでおいた細技の上へ投げ落とした。ほっぺたを地面にくっつけたまま、はじける枝を眺めて過ごす。頭がぼうっとしてきて、一酸化炭素中毒なんだろうな、と想像を巡らせる。空気が焚き火へ吸い込まれて、その見えない流れがこそばゆい。生きなくちゃって思って、むくむくと、芽吹く茸類のような動作で、起き上がった。オットセイのように、両手つき、あたり見回す。何もない。
「お腹空いたな」
磯辺揚げを口にくわえて、葉巻のようにぷらぷらさせた。
どんどんどん。
遠くの方で夜襲の音。合戦ナイターが始まったのだ。鬨の声。観客の歓声。
今年も、合戦のシーズンが、始まったのか。遠いようで近い合戦場。見渡す限り誰もいないのに、こだまする人の声。一人ぼっちなのに、一人ぼっちじゃない感じがするから、夜の合戦は好きなのだ。たくさんの人が、勝手に命を燃やしていく。
とくとくとく。と、ハゴロモ川はヴェネツィア公園に流れ込む。その流れは、やがて私が座る丘へとぶつかって、行き場なく渦巻いてしまう。浮かんでは沈んで、沈んでは恨めしげに湖底から覗き上げて、しばらくして浮かび上がる生首たち。生首たちの中でも、かち割られず、手持ち無沙汰にただ投棄されたものたちは、口元や顎先から、真っ白なひげ根を生やしつつある。なんとかして、生き延びようとしているのだ。そんな彼らは、根付く地面を探しているのだろうけれど、湖中だからな、うまくいくかどうか。しまいには、ひげ根とひげ根が絡み合い、幾頭もの生首が組み合って、ボルボックスやクラミドモナスのようになっていく。お互いがお互いに、養分を吸収しようと画策して、やがて、弱いものから、青白く血の気引けていく。
ハゴロモ川の尻尾の方は、まだ合戦場を流れているみたいで、流れ込むハゴロモ川がかすかにピンク色を帯びていく。何人かが討ち死にして、とくとくと流れ出した血がハゴロモ川に合流したのだ。人間の血が、薄められて、薄められて、桜色になる。その桜色に投下される、街灯のオレンジ色。
「きれいやなあ」
「そうかあ」
「きれいやないか。きらきらと」
「そうかもなあ」
これら全て、独り言。
『やっちまえええ』遥か遠くの方から、観客の応援。応援なのか。
「そんな物騒なこと言わんとき」
『ぶち殺せえ』
「殺したら死ぬんやで。やめとこうや」
『うおおおおおおおおおお』
ナイターの日は、話し相手に困らないから、好きだ。
法螺貝の音。そして、観客はしんと静まりかえる。
『我こそは、』倍音なく朗々と響き渡る大音声。見栄を切っているんだろう、一拍間が空く。『山田オブキング、王の山田なり。いざ、尋常に、』
「お姫ちゃんのお兄ちゃんか」
『勝負いたせ』
法螺貝がなりひいびて、観客達の感極まった喚声。『うぎゃらららららううおうおうおうおううううううんんっまっまっまっまるううううううううるるるるるるるるるろろろろろろのののののらんらんらんらんたたったったたたぶぶぶぶぶぶぶぶちちちちちちちくくここここころろろせっせせ』何百人という人が好き勝手に叫んでいるから、もう言葉には聞こえない。
ナイターの日は、寂しくはないけれど、うるさいな、とは思う。
「夜泣きする子供かよぅ」ってちょっと愚痴る。喚声に打ち消されて、勝負の行方は杳と知れない。
オットセイの姿勢から、寝袋を枕にして、ごろりと寝転がる。空ちゃんが紫色に変色している。顔色悪いよ、大丈夫。空ちゃんは、大きな体の割りに、体が弱く、夜の寒い時間帯になると、どんどん顔色が悪くなる。しまいには、全身ぶつぶつの発疹まみれになり、その発疹が、ちかちかと明滅してきれい。私は、寝転がりながら、磯辺揚げをぷらぷらさせ、べったんべったんと、鼻先と顎先を磯辺揚げで嬲りものにする。これが今夜の蛋白源かと思うと、おいそれと一口では食べきれなかった。しゃぶり尽くして、噛み尽くして、吞み込もうと決める。
新しい、生首が、ぷかぷかと、ハゴロモ川に乗って流れ込んだりした。
切りたてほやほやなんだろう。目をぎょろぎょろと輝かせていた。
「山田オブキングさん?」
「んーん」首がうなりで答えてくれる。
「そっか」オブキングは生き延びているのだろうか。どちらでも良かった。
『合体!我ら、手長足長兄弟の攻撃受けてみよ』どこかの誰かが叫んでいた。
『変幻自在剣!』別の誰かが叫んでいる。
『疾風風神拳!』別の誰かが叫んでいる。拳で何ができるっていうんだろう。
「また、来てしまいました」
「えっと」
「風天小鞠」寝転ぶ私の頭上から、女の子が一人、スカートをひらひらさせながら、はるか上空から、舞い降りた。地上一メートルくらい。私の頭上に。
「忘れてたわけじゃないよ。ただ、驚いちゃって」
「忘れててもいいですよ。忘れた頃に、思い出させに舞い戻ればいいだけですから。簡単なことです」彼女は着地もせずに、私から一メートルくらい上空を、ぷかぷかと浮かんでいる。だいぶ、空中浮遊に上達したようだ。日がな一日練習を積んだのかもしれない。この先、ずっと空気女として生きていくのだから、空気女としてよりよく生きる方法を模索しているのだろう。「今夜は、賑やかですね」
「ここ、合戦場のすぐ近くやから」
「もう、そんな季節でしたね。子供の頃、よく見に行ったなあ」
「私は、あんな野蛮なもんみちゃあかんって、テレビ中継も見せてもらえんかった」
『やあやあ我こそは!』叫び出す何処かの誰か。その誰かに感化されて、『うぎゃらぴっぴのくらくままろげええええええええろろろろおおおおおげげええええええええろろろろおおおおおおお』観客達が叫び出す。
二人揃って「うるさい」「うるさい」声が重なってしまい、二人して思わず笑ってしまった。彼女の足をさっと掴もうとする私。上空へさっと逃げる風天小鞠。
「実際、野蛮ですよ。あえて野蛮なことをやっているから、ウケているんです」
「みんな、すごい喜んどるもんね」歓声はまだ、続いている。楽しそうだな、って思う。私も、混ぜて欲しいなって。「降りてこないの」
「降りて来ましたよ」
「お饅頭、食べる?」寝転んだままの姿勢で、お饅頭を探り当てる私。
「食べない」
「そっか」
「空気女は、空気以外を食べないのです」ダイエットってわけでもないみたいだった。そういう、自然の摂理なのだ。私は、遠慮なく、お饅頭に齧り付く。焚き火は、パチパチとはじけて、暖かくて、口の中は甘ったるくて、楽しげな叫び声があたりに満ち満ちていて、夜なのに、知り合いが遊びに来てくれて、これは、なかなか、幸せな状況だなって、ふっと思う。甘い。暖かい。嬉しい。楽しいなって気持ちが、むくむくと膨らんでくる。疲れ切っていなかったら、その場で踊り狂っていただろう。でも、今は、ただ、心地よく眠たくなるだけだ。
「どうしたん」眠りに落ちる前に、私は声を絞り出す。「こんな夜更けに、どうしたん」
空気女という生き方に座る、という動作は必要ないのだろう。少しずつ、少しずつ、彼女の下半身はしぼんでいく。最終的には、腰から下は、空気が抜け皮だけになり、ぺしゃんこに潰れている。地面から、いきなり女性の上半身が生えているみたいな格好になる。可愛いくて綺麗な女の子が、一人、土筆のように生えているだけ。
「そんな夜更けじゃ、ないですよ。ただ、散歩に出かけたくなっただけ」
「女の子一人の散歩って危なくないん」
「空を飛んでいくから、平気ですよ。それに、肉のない私には、性的魅力などあるわけないですし」
「そういうものなん」
「そういうものでしょう」
私たち二人とも、襲う側の人間ではないから、半信半疑だ。他人のことなんて、よくわからない。いや、風天小鞠は、家族を殺したことが、あったけれど。でも、襲うのと、殺すのとでは、だいたい同じだけれど、少しだけ違う気がする。
「合戦、今、面白いところなんかな」さっきから、ずっと、歓声が止む事がない。
「追い討ちタイムなのかも知れません」
「追い討ちタイムってなんなん」
「片一方が逃げて、もう一方た追いかけるんです」
「それ、楽しいん」
「たくさん首が飛ぶから、観客は興奮するんです」
「見た事ないから、わからんなあ」とどのつまり、そういう事だ。想像で補おうにも、情報が少なすぎるのだ。名乗り合って名刺交換したり、みんなが肩を組んで叫びあったり、時には、殴ったり蹴ったり喧嘩もして、追いかけっこしたりして、みんなんで交友を深める姿を思い浮かべる。で、時折、なんの脈絡もなく首が飛ぶのだ。ポーン、と。なんで、首が飛ぶんだろう。まるで、よく、わからなかった。「風天小鞠」
「なんですか」
「風天小鞠」呼んでみただけ。
「なんですか」
「風天小鞠も、眠くなったりするもんなん」
「そういう時もありますよ」
「空気女でも眠くなるん」
「人間ですもの」
「そっか。私、今、すごい眠いんや」
「お暇しましょうか」
「そうやなくて、眠くて、寝たいんやけど、風天小鞠とも一緒にいたいんや。おしゃべりしてたい」でも、眠いなあ。
「寂しいんですか」
「そうかもしれんな」体がどんどんどんどん動かなくなって、だけど、このまま眠り込んだら、夜のうちに凍死してしまうと、いそいそとダンボールを敷いて、拾ってきた毛布を広げる。寝袋に潜り込んだままの私が、ごろごろと丸太のように転がってゆく。毛布の上に停車できなくて、焚き火に少し焦げてしまう。これで、いつ眠りこけてもいい、安心して虚脱する。カタツムリか巻貝のように、片手だけ寝袋から突き出して、もらってきたお饅頭と餡子の入ったタッパーを引き寄せる。お饅頭に餡子を塗りたくって、泥団子みたいにして、手近な枝に串刺して、焚き火で炙る。表面の餡子が溶けるように焦げる、いい匂いがあたりに充満する。
「いい匂いですね」と風天小鞠。
「うん。この匂いが、私は好き」
「食べてもいいですか」
「あ、え」これは、私の。
「この匂い」
「いいよ。減るもんじゃないし」
「いただきます」って手を合わせる風天小鞠。彼女はいつだってそこそこ礼儀正しい。お饅頭周辺の空気を両手で掬うと、湧き水でも飲むみたいに、口元へと運んでゆく。吸ったり吐いたりしている。私たち肉体を持つ人間に例えると、摂食と排泄を間断なく繰り返していることになるのだろうか、ぼんやり私は考える。風天小鞠は、少し恥ずかしそうに、両手で顔を覆っている。
「おいしいん」
「うん」
「よかった」風天小鞠は笑う。
また、貝のように左手を伸ばす。ダンボールで作った小物入れを探り当てる。くじ引きでも引くみたいに、中をごそがさと漁っていく。あった。
「これも吸う?」ずっと昔に、拾った葉巻を見つけだした。「湿気てるかも、しれんけど」
「私、まだ中学生だよ」
「でも、空気女やろ」
「まあね」って風天小鞠は不敵につぶやく。ナイフも小物入れから探し当てた。先端を切って、焚き火にさっと通す。じくじくとけぶりだすシガー。
「静かになったね」
「何がですか」葉巻を両手で口元にあてがう風天小鞠。
「合戦の音」
「きっと、勝負がついたんですよ」
「そっか」
「うん」
「あっけないものやね」少し焦げ付いて、表面が地割れした餡子饅頭を私は掴み取る。ぶんぶんと串を振り回して、熱をとりかぶりつく。それでもまだ熱くて、はひい、はひい、と舌先がオットセイ。饅頭のかけらを舌端に転がす。心配した風天小鞠が、夜風をさっと吸い込んで、私の口元に吐きかけてくれる。ありがたいけど、それはうんこだ。
「人にうんこをかけてしまいました」
「気にしないよ」
「ごめんなさい」
「気にしないよ」
「ごめんなさい」
「気にしないよ」
「ごめんなさい」
それからしばらく、私は、お饅頭を少しずつかじって、風天小鞠は、葉巻の煙を、吸っては吐いてを繰り返した。太陽は、完全に沈んでしまって、あたりは暗闇。
「今夜は泊まってく?」
「いいんですか」
「いいよ、夜道は危ないからね」
私は、頑張って起き上がって、湖畔に流れ着いた生首をいくつか拾い集めて、寝袋の足元に詰め込んだ。野宿に慣れていない風天小鞠が、夜、寒くないように。まだ、生暖かい生首は、湯たんぽの代わりになる。生首を拾い集めるついでに、ハゴロモ川の水で口を漱いだ。ハゴロモ川も、わかったもので、にゅるにゅると私の口内をのたうち回り、細菌から微細な食べかすまで、取り除いてくれる。「ハゴロモ川、ありがとう」って私。「おやすみなさい」って私。まず、寝袋に、私が潜り込んで、しばらく葉巻の残り香を楽しんだ後で、風天小鞠も、萎みながら寝袋に潜り込んできた。寝袋の出入り口、私が顔を出すその周辺には、風天小鞠の排泄物である、シガーの心地よい香りが揺蕩った。「ごめんなさい」「謝ることじゃないよ」空気女に、肉体のある人間の常識は当てはめられない。
空気女じゃなくて、空気少女の方が可愛くいていいなあ、とふと思った。思っただけで、口にはしない。
吸いさしの葉巻は、燃えさしの燠火へと投げ込まれた。もわもわと烟草のいい匂いと外装の燃える焦げ臭さが渾然と漂った。人体に悪影響のあるものまで燻り出されているんじゃないかとも思ったが、詳細は知らない。吹きさらしの丘の上。全ては風に流されて行く。
「おやすみなさい」言い忘れていた、というように、彼女はそう呟いた。私は、眠ったふりをしようかと思ったが、思わず寝返りを打ってしまった。
私も、再び「おやすみなさい」
夜は暗く、何時間にも亘って暗い。この間、全ての人間が眠っているのだろうか。この街の全ての人間が眠る瞬間ってあるんだろうか。そんな瞬間があったとしたら、ふっと明滅する信号機が、なんで、誰も彼も眠っとるのに、わたしゃ明滅し続けとんや、とか自我を持ち出したりしないのだろうか。その瞬間だけ。自動販売機なんかも、同調したりして。けれど、そんな瞬間にそんな彼らが行うこととは一体なんだ。
なんてことを、私は夢の中で考えて、私は目覚めた。




