アンドロスと静かな怒り 前編
森の中で、静かな息遣いが重なる。
緑の騎士と対峙する、アンドロス。
その瞳は氷のように冷たいが、血潮はマグマの如くたぎっていた。
「これは、お前の仲間か」
言って、アンドロスが緑の騎士の足元へ、手にぶら下げていた物体を投げてよこす。
それは両手両足を引きちぎられ、弱々しく痙攣する魔物。
アンドロスに襲い掛かった、リザードマンである。
見る影もない、壮絶な姿。
ここまでやられれば、流石に多くの魔物は絶命する。
しかし、濁った瞳のリザードマンは、その体を小刻みに震わせ、口からは荒く呼吸を繰り返している。
ここまで損傷して、死んではいない――否、死ぬことが出来ないらしい。
「俺は同族は極力、殺さん。そういう意味ではそいつは頑丈で有難いのだが――どうしてまだ死なないのか、理由を教えてほしいものだ」
アンドロスは眉間に深い皺を作ったまま、声だけ努めて穏やかに話しかける。
言葉に出来ない理不尽に、怒りが見え隠れしていた。
「それを話す義務は無い。それよりも、私の邪魔をするのならば”剛魔天”といえど、容赦はしない」
緑の騎士はアンドロスの威圧に負けぬよう、声を張る。
「話すつもりは無いか。なら、力ずくで聞くとする。だが、先にジュアンの傷でも見ておくか」
言うと、アンドロスは大股で緑の騎士へと歩み寄る。
完全武装の緑の騎士を前にしても、恐怖心どころか、迷いすらない足取り。
それは槍を構える緑の騎士の方が狼狽えるほど、堂々としていた。
十メートル、五メートル――アンドロスが緑の騎士へと近づく。
アンドロスの接近に伴い、緑の騎士が纏う殺意が、その濃度を濃くする。
槍の間合いに入れば、いつでも刺し殺す覚悟はできている――全身から滲みだす殺意が、そうアンドロスに告げる。
槍の切っ先は、アンドロスの首筋へピタリと狙い定められている。
が、アンドロスがその正面に立った時。
緑の騎士は動くことが出来なかった。
正面から迫る、アンドロス。
その瞳が、静かに緑の騎士を見据える。
澄んだ湖面を映すような、コバルトブルーの瞳。
その瞳が、語っていた。
動けば殺す。
緑の騎士の身体が、ほんの微かに震える。
ただの視線――それに、心臓を鷲掴みにされるような、恐怖と息苦しさを覚えた。
そしてついに、アンドロスはあっさりと緑の騎士の脇を通り抜けた。
変わらぬ足取りで、その先に横たわるジュアンへと近づく。
「ティナ、怪我はありませんか」
聞かれ、ジュアンの傷口に手を当てるデスティナが顔を上げる。
白かったお気に入りの手袋は、今はジュアンの鮮血を吸い、一回り膨れ上がっていた。
「私は大丈夫だ――でも、ジュアンが――」
デスティナの口から零れる、途切れ途切れの言葉。
それを最後まで言わせぬよう、アンドロスはデスティナの頭を撫で、落ち着かせる。
「おい、ジュアン。意識はあるか」
アンドロスが聞くと、白い背中と赤い裂傷を剥き出しにして倒れるジュアンが、その体を震わせる。
「……来るのが遅いですよ……これだから、筋肉ゴリラは」
「すまんな、少し邪魔が入ったんだ」
傷の深さに反し、嫌みを言う気力は残っているらしい。
青ざめた顔のジュアンは、目を開かず、言葉だけをアンドロス向ける。
感心するアンドロスだが、見れば、ジュアンの背中に出来た傷から、出血が止まっていることを確認。
ぱっくりと開いた傷口も、ゆっくりとだが回復をはじめている。
どうやら、重傷を負いながらも、残った魔力で自らに回復魔法を施したようだ。
「なるほど、なかなか賢いじゃないか」
したたかで、魔物らしいしぶとさだと、アンドロスは小さく口元を笑わせる。
「ァ、アンドロスさん……あいつをやっつけて――」
「そのまま少し寝ていろ、絶対に動くなよ。背中の肉がザックリとえぐれて、骨が見えているからな」
「相変わらず……デリカシーの無い人ですね……」
苦し気に呻きながらも、自分の傷口の想像でもしたのか、ジュアンが口を閉ざす。
人間であれば絶命してもおかしくは無い怪我だが、ジュアンは上位の魔物。
自らの身体に回復魔法を施してる以上、すぐに死にはしないだろう。
とはいえ、早く小屋に連れ帰って手当てしてやらなくてはならない。
「ティナ、もう少しだけジュアンを見ていてあげて下さい」
「わ、分かった、任せろ!」
アンドロスが言うと、デスティナは小さな鼻から「ふん!」と息を漏らし、頼もしい声を返す。
ジュアンとデスティナ。二人の様子が見終わったところで、アンドロスがゆっくりと振り向く。
「さて、待たせたな」
その声に、今まで動きを止めていた緑の騎士が、びくりと体を震わせる。
アンドロスの殺気――それに、今まで身動きすら取れなかったのだ。
緑の騎士はアンドロスの殺意を振り払うよう、小さく首を振る。
「姫様との別れは済んだか、”剛魔天”よ」
「威勢だけは一人前だな……お前、女か?」
緑の騎士の声を聞き、アンドロスが首をかしげる。
その態度を侮辱と取ったのか、フルフェイス型の兜の奥で、舌打ちが聞こえた。
「私が女なら、殴れないとでも言うつもりか」
「いや? 毎朝、ジュアンをぶっ叩いて起こしているからな。俺に紳士的な対応は期待するな――だが、手加減をするつもりもない。貴様らの目的、話してもらうぞ」
青い瞳。
宝石のように美しいそれが、ギラリと野性の輝きを放つ。
アンドロスの中で、戦闘のスイッチが入った合図。
「笑止、いくら”剛魔天”と言えど、丸腰で何ができる」
「試してみようか」
アンドロスは腕を広げ、挑発。
ノーガード。まるで攻撃して来いと言っているかのような仕草。
それに対して、緑の騎士は長槍を両手に持ち、腰を落とす。
突撃の姿勢。
ジュアンの攻撃魔法を正面から受け止め、突破した攻めの構え。
「いくぞッ! 我が一族の鱗より切り出した槍の威力、その身で味わえッ!」
緑の騎士が、重厚な具足に覆われた脚部で、大地を蹴りあげる。
前のめりに倒した体が、一気に加速。
森を吹き抜ける冷風と同化するかのように、低く、揺るぎない速度でアンドロスへと迫る。
重厚な鎧から想像もできない、推進力。
踏み抜く毎に地面は抉れ、大量の土埃と雪が舞い上がる。
緑の騎士はアンドロスの眼前に飛び込むなり、その槍を真っ直ぐに突き出す。
轟ッと風を切り裂く音と共に、アンドロスに緑の刃が迫る。
が、次の瞬間、緑の騎士を襲ったのは、突然の衝撃と、無重力。
いきなり、目の前に広がる青空。
そして視界が反転、続いて自由落下。
その体は地上へ叩きつけられると、ここでようやく、全身に痛みが伝わる。
「い、一体何が――げほッ!?」
上体を起こすと、胸部から咳き込むほどの痛みがこみ上げてきた。
見れば、ドラゴンスケイルの鎧――その胸がベッコリとへこんでいる。
必死に呼吸を確保しながら、緑の騎士は思考。
どうやら、突撃する緑の騎士に、アンドロスが一瞬で肉薄。
その認識を超える速度で胸部を殴りつけ、身体を宙にぶっ飛ばされたらしい。
そして混乱のまま、成すすべなく落下。
それが、五秒前に起こった攻防。
緑の騎士はアンドロスに対抗するどころか、その攻撃の一撃すら避けることが出来なかった。
「おい、早く立て」
何が起こったのか把握したところで、アンドロスの落胆するような声が聞こえた。
荒く呼吸を繰り返し、なんとか立ち上がる緑の騎士。
しかし、その身に纏う殺意は、アンドロスの攻撃を前に微かに薄れていた。
たった一撃。
それだけで、アンドロスとの力の差を見せつけられてしまったから。




