アンドロスと静かな怒り 後編
緑の騎士の、荒い息遣いが聞こえる。
つい数分前まで、深緑色の輝きを宿していたドラゴンスケイルの鎧。
それは今、泥に汚れ、その形状はボコボコに変形。
アンドロスに殴り、蹴られ、地を転がされ――まともな抵抗など、一度も出来なかった。
「手も足も出ない――強すぎる……」
緑の騎士が、拳の跡の刻まれた兜の奥で、声を震わせる。
攻撃や防御――そういうレベルの話では無い。
アンドロスの暴力を前に、緑の騎士は、まるで無力な小動物。
ドラゴンの鱗で作った、物理攻撃に高い耐性を持つ鎧――それが無ければ、今頃、自分は木っ端みじんの肉塊へと変じていただろう。
しかも、アンドロスは鎧の強度まで計算し、緑の騎士に恐怖を与えるため、あえて殺さないように力をセーブしながら攻撃している。
遊ばれている。
それが、アンドロスと対峙し、緑の騎士が痛感した実力差。
「こ、これほどとは――げホっ――」
ダメージは内臓まで達しているのか、咳き込むと、口から鮮血が飛び出す。
甘く見ていた――否、もはや認識が誤っていたと言ってもいいかもしれない。
堅牢なドラゴンスケイルの鎧と、同じ素材を穂先に用いた長槍。
そして胸に抱く決死の覚悟があれば、どんな強敵でも打ち倒せると信じていた。
しかし、その考えは、今や砂糖菓子よりも脆く崩れ去っていた。
目の前に佇む、二メートルの巨体。
その内に秘められた圧倒的な力に、足が震えだす。
”剛魔天”の称号――それが意味する、最強の魔物とはこういう強さ。
火山に住まう邪龍より、深海に潜むクラーケンより、地獄に住まう悪鬼よりも、更に強大。
いくら装備を充実させたところで、たった一人で敵う相手ではないのだ。
「どうした、もう来ないのか」
アンドロスの嘲笑交じりの言葉。
緑の騎士は地に槍をつき、満身創痍の身体で立ち上がる。
いくら強さの違いを見せつけられても、その心に宿る闘志の炎が消えることは無い。
「私は――負けない。うっ……ここで倒れるわけにはいかないッ!」
もはや、槍を構える手に力は残っていない。
震える腕を無理やり振り上げ、長槍の切っ先をアンドロスに向ける。
アンドロスは目を細め、緑の騎士の覚悟に対し、首を横に振る。
「お前も、何か事情があって俺に立ち向かってくるのだろう。しかし、もう止めておけ、これ以上戦うと言うのなら、俺はお前を殺す」
それは、言葉だけの威嚇では無かった。
堅牢な鎧の奥で、ゾクリッと全身が総毛立つ。
アンドロスの身に宿す闘気が、さらにその段階を上げる。
どれだけ、その身体に力を蓄えているのだろうか。
緑の騎士の全力をもってしても、アンドロスの力の十分の一も引き出すことは出来ない。
「はぁはぁ――もう、勝ったつもりか、その驕りが仇となるぞ、”剛魔天”」
「本当に口だけは一人前だな。女とは言え、なかなか度胸がある」
「女だからと、馬鹿にするなッ! 私は、一族の命運を背負っているのだ! 負けるわけにはいかない!」
その叫びは、アンドロスに向けたものでは無かった。
自らを鼓舞するため。
最後の力を喚起するための、雄たけび。
自らの叫び声に突き動かされるように、何度目か分からない、突貫攻撃へと踏み出す。
緑の騎士には、これしか無かった。
幼い頃より叩き込まれた槍術。
そして一族より継承する頑丈な肉体。
その二つを合わせた、唯一無二の必殺攻撃。
緑の騎士にとって、それは体力的に見ても、最後の一撃。
それを前に、アンドロスが瞳に浮かべた感情は複雑。
憐れみとも、悲しみとも取れる、情けの表情だった。
その余裕を通り越した実力差に、緑の騎士は更にその体を突き動かす速度を増す。
目に見えぬ怒りの力が、その身体を後押ししているようだった。
「はぁああああああッ! 喰らえッ! 砕けろ、”剛魔天”ッ!」
緑の騎士の、渾身の一撃。
それを前に、アンドロスが取った行動はシンプル。
アンドロスは視線を地へ落とすと、ゆっくりと拳を振り上げる。
天高く持ち上げられた、岩石のような拳。それを、緑の騎士ではなく、地面に向けて振り抜いた。
硬く握りしめられた拳が、大地を穿つ。
その衝撃は地を砕き、局地的な地震が発生。
ひび割れ、隆起する地形。
突撃する緑の騎士は、裂ける大地に足を取られ、その場に転倒。
地を転がり、ついにその手から槍が放られた。
攻撃どころではない――立っていることも出来ない振動が、大地ごと緑の騎士を襲う。
「こ、これは――拳一つで地を割るとはッ」
無様に顔面から転倒した緑の騎士。
その口から、乾いた言葉が漏れた。
渾身の突撃は、アンドロスに到達する前に、あっさりと防がれてしまった。
ここまで圧倒されると、もはや敗北感すら生まれない。
緑の騎士は倒れ伏した姿勢のまま、放心。
「お前の負けだ」
冷たい声に、視線を上げる。
目の前にアンドロスの姿があった。
拳を振り上げ、局地的な地震を起こすほどの腕力を、今まさに緑の騎士へと振り下ろそうとしている。
緑の騎士に、恐怖は無かった。
ただ、その拳が振り抜かれたとき、自分はもうこの世に居ないのだという漠然とした事実だけが、その感情を殺していた。
◇◆◇
突然の地響きと、大地が砕ける破砕音。
それはデスティナが今まで聞いたことも無いような、大地の叫び声だった。
「な、なんだ!? 今のは、地震か?」
振動に、背にかかる赤毛が震える。
デスティナは思わず、傍らに置いたシームルグの卵を抱きしめていた。
しっかりと胸に抱く白い卵は、デスティナを落ち着かせるようにじんわりと温もりを伝えてくる。
「……終わったみたいですね」
倒れたまま、ジュアンがポツリと零す。
意識を失いかけている自分にも分かるほどの、アンドロスの闘気。
それが津波の如く波状に広がり、伝わってくる。
それは、味方であるはずのジュアンでさえ、戦慄するほどの迫力。
まるで、餓えた獣の牙が喉元にあてがわれているような、身も凍るプレッシャーである。
ほどなくして地震は止み、森には静寂が戻る。
続いて聞こえてきたのは、アンドロスがゆっくりと地を踏みしめる足音。
「お待たせしました」
そんな落ち着いた声と共に、木々の間から二メートルを超える巨体が姿を現す。
一戦交えた後だというのに、アンドロスの声は普段と変わらない。
浅黒い顔には、小さく笑みすら浮かんでいた。
しかし、そんなアンドロスを見て、デスティナは首をかしげてしまう。
「アンドロス、その肩に担いでいるのは誰だ」
デスティナの視線が、ある一点に注がれる。
それは、がっしりとしたアンドロスの肩。
そこに荷物のように担がれる、人間――否、人間型の魔物。
聞かれたアンドロスは、どう説明しようか、少し思案してから短く答えた。
「あの鎧の中身です」




