眠りと幻聴
椅子に座り、ムッツリと黙り込むアンドロス。
上半身の服を脱ぎ、その傷だらけの身体を暖炉の前で温める。
そこへあてがわれるのは、ひやりと冷たい、ジュアンの手。
それがアンドロスの皮膚を撫でると、無数に出来た裂傷がゆっくりと消えていく。
「それにしても、無茶をしましたね。正面からグリフォンと戦うなんて」
呆れたように言うジュアン。
眼鏡の奥で灰色の瞳を笑わせているが、アンドロスの顔はひどく不機嫌そうだった。
「なぜ、ティナを小屋から出した。答えろ」
その声には、明らかな怒りが含まれていた。
グリフォンとの戦いの最中、そこへ現れたデスティナ。
一歩間違えば、デスティナもグリフォンの餌食になっていたことだろう。
デスティナは川へ水を汲みに出ており、不在。
アンドロスは遠慮なく、獰猛な声でジュアンを問いただす。
ジュアンは口の中で小さく呪文を詠唱、その手に柔らかな光の輝きを浮かべると、アンドロスの皮膚にすり込むように、その手で筋肉質な浅黒い肌を撫でる。
じっくりと肉体を回復させる、効果時間の長い回復魔法である。
「そうしないと、アンドロスさんが殺されていたからです」
回復の手を休めず、ジュアンは答えた。
色素の薄い唇が緩み、アンドロスの怒りを見透かす、静かな笑みを浮かべる。
「お前、ティナに危険が及ぶと分かっていて、俺の後を追わせたのか?」
「そうですよ、何より、姫様が『そうしたい』とおっしゃったので、私は従ったまでです」
悪びれずに言うジュアン。
淑女的な見た目に反し、こういうドライな部分は、無駄に魔物らしさがある。
アンドロスは怒りの言葉を口から発しそうになるが、それが結果としてその身を救ったという事実を思い出し、言葉を飲みこむ。
「戻ったぞ!」
アンドロスが押し黙ると、小屋の扉を元気よく開け放ち、デスティナが帰宅。
両手で水桶を持ち、ふらふらと歩いてくる。
「怪我は大丈夫か、アンドロス」
「大丈夫です、ご心配をおかけしました」
アンドロスが頭を下げると、デスティナは「ふむ」と鼻から息を吐いて胸を張る。
「私が行かなければ、お前はあのデカい鳥に喰われていたぞ。感謝するのだ」
「全く、その通りです」
アンドロスを助けるため、危険を犯したデスティナ。
その勇気と行動力に、アンドロスは素直に感心する。
今思えば、あそこでジュアンが助けに来ていたら、アンドロスはグリフォンを殺す決意を固められたか、分からない。
現れたのがデスティナであったからこそ、かつての仲間を殺し、その身を助けようという気になったのだ。
ひょっとしたら、ジュアンはそこまで考えて、デスティナに好きに行動させたのかもしれない。
そうしているうちに、アンドロスの怪我の治療は終了。
「はい、キズはこんなものでしょう。あとはゆっくり休んで、体力の回復につとめて下さい」
「休まなくてもいい、動ける」
ジュアンに言って立ち上がろうとするアンドロスだが、その手を掴み、デスティナが赤髪を揺らして首を振る。
「ダメだ、アンドロス。今日はもう横になれ」
そう言って、ぐいぐいとアンドロスの手を引き、ベッドまで連れていくデスティナ。
もともと、アンドロス用の巨大ベッドは、今はデスティナとジュアンの二人が仲良く使っている。
アンドロスは納屋か小屋の床で寝ているのだが、久しぶりに使う愛用のベッドは、流石に寝心地が良かった。
「ありがとうございます……ですが今日、ティナはどこで寝るのですか?」
アンドロスが眉根を下げて聞くと、デスティナがベッドを指さして答える。
「決まっている、そこだ。今日は三人で寝るぞ!」
◇◆◇
アンドロスが自らのために作った、巨大なベッド。
今日はアンドロスを中心に、デスティナ、ジュアンの二人も横になり、形の悪い『川』の字で眠ることに。
「大丈夫か、アンドロス。怪我が痛んだら、いつでも言うのだぞ」
「し、承知しました。もうほとんど治っていますので、お気になさらず」
アンドロスの頬に出来た切り傷を、なでなでと小さな手が撫でる。
デスティナの手は温かく、全体が肉球のように、むにゅっとしている。
頬を撫でられた経験など無いアンドロスにとって、その柔らかさは未知の感覚。
なんだか、こそばゆさに頬が緩んでしまう。
「今日だけ特別ですよ。明日からは、また床で寝てください」
「分かった――そうは言うがな、これはもともと、俺のベッドだぞ」
アンドロスと寝るのが嫌そうなジュアン。
寝間着に着替え、眼鏡を枕の傍らに奥と、胸元を隠して身体を横たえる。
ベッドの端に横になると、小さく首を横たえ、ジトッと睨んでくる。
「……変な気は、起こさないでくださいね」
「子供二人を相手に、変な気を起こすはずはないだろう」
「誰が子供ですかッ!」
ムキになって怒るジュアンに、アンドロスは年齢からくる、余裕のある笑みを返す。
自分を助けに来なかった罰である。せいぜい、今日は狭苦しい思いをしてもらおう。
かと思えば、一分と待たず、ジュアンは瞼を重く閉じ、小さく寝息を立て始めた。
「寝るのが早いな……」
「ジュアンはいつもこうだぞ、寝つきが恐ろしく良いのだ」
デスティナ曰く、ベッドに入って五分以上、会話をしたことが無いとのこと。
「それでは、私達も寝るか」
「そうですね」
デスティナがピンクの頬を膨らまし、「ふーっ」とエンドテーブルに置かれたランプの灯を消す。
部屋の光源は暖炉から漏れる、弱弱しい炎の灯りだけ。
やはり疲れていたのか、アンドロスもすぐさま眠りに落ちた。
◇◆◇
突然、どこかからグリフォンの鳴き声が聞こえた。
アンドロスは、眠りに落ちていた意識を一気に覚醒。
その額に汗を浮かべ、肩を揺らし、呼吸を整える。
「……幻聴か」
ベッドの上で、静かに安堵。
同時に、口の中で小さく「情けない」と声がこぼれた。
かつては魔王の側近にして、最強の魔物である”剛魔天”の称号を掲げていた。
しかし、今は無関係の魔物を一匹殺しただけで、寝つきの悪さに悩まされる始末。
魔王が死んでからというもの、アンドロスは日に日に、矮小な人間モドキへと成り下がっていくような気がする。
情けなさに息をつきながら、腹の上に妙な重さを感じる。
なぜかアンドロスの身体の上に覆いかぶさるように眠るジュアンが居た。
驚くほどの寝相の悪さである。
これも、きっと寝つきの悪さの原因の一つ。
アンドロスはジュアンを起こさぬよう、その体をベッドの端っこに追いやると、再び横になる。
「アンドロス」
名前を呼ばれ、驚いて隣を振り向く。
闇の中で、デスティナの黄色い瞳が輝いていた。
きっと、慌てて目を覚ました拍子に、起こしてしまったに違いない。
謝ろうと口を開こうとするアンドロスだったが、先にデスティナの小さな唇が動いた。
「すまない、私が”蝕み”の力を使えたら、お前に辛い思いはさせなかったのに」
言いながら、デスティナが悔しそうに顔をゆがめた。
”蝕み”
魔力を吸い取る、魔王の能力である。
全ての魔物の生命の源は、魔王から与えられた魔力。
”蝕み”の力が発揮されれば、全ての魔物と魔法は、無力と化す。
魔王の娘でありながら、その力を自由に使えないことに、デスティナは一種の負い目を感じている様子。
「そのお気持ちだけで、十分です。ティナ、今日は助けてくれて、ありがとうございます」
アンドロスが太い眉を下げ、武骨な笑みを作ってみせる。
そんなアンドロスに、デスティナも安心したように、眠たそうな目を擦りながら言葉を返す。
「うむ……明日になったら、お前の斧も洗ってやろう。埃まみれだったからな」
「そうですね、ザグゥも喜ぶと思います」
デスティナの笑顔。
胸の奥が暖められるような、言葉に出来ない感情が沸き上がる。
それは、魔王の隣で人間どもを葬っていた時には抱くことの無かった感情。
悪いモノでは無い――そんなことを考えながら、アンドロスは瞳を閉じる。
その日、アンドロスは幻聴で再び目を覚ますことは無かった。




