十、敵を愛せって、どうやるんだ!?
トールとフレイヤは、次の村へ続く街道を歩いていた。
道は灰黒色の岩林と低い丘の間を縫うように伸びており、空気は乾き、風が唸り声のように吹き抜けていく。
普段のトールなら、胸を張り、闘牛のような迫力を漂わせながら堂々と進む。
だが今回は違った。
彼は珍しく俯き気味で、歩きながらずっと《純潔》の聖典を開いている。
ページをめくるたび、眉が寄ったり緩んだりしていた。
まるで書かれた言葉と、本気で議論しているようだった。
「“逆らう者は処刑せよ”……。
だが、あの恋人たちは最後には女神の祝福に感謝していた……」
「“働かざる者、食うべからず”……。
だが、怪我人はどうする? 働きたくても働けない者は……」
「“施される飯ほど美味いものはない”……。
うむ……これは怠惰の象徴なのか? それとも……神の恵み?」
彼はぶつぶつ呟き続けながらも、足取りだけはまっすぐで力強い。
崖の縁を歩いても絶対に踏み外さなさそうな安定感だった。
その横を歩くフレイヤは、腕を組み、ものすごく不機嫌そうな顔をしている。
「この筋肉バカ、全然わたしの話聞いてないじゃない!
ずーっと本ばっか読んでるし! 前と何も変わってないんだけど!?」
だが内心では、彼女も薄々気づいていた。
以前のトールは、ただ盲目的に信じていただけだった。
しかし今は違う。
遅くはあるが、確かに“考え始めている”。
それは間違いなく変化だった。
そんな沈黙の行軍を続けていた時――。
林の奥から、低い口笛が響いた。
次の瞬間。
革鎧をまとい、顔に泥を塗った盗賊たちが飛び出してくる。
あっという間に二人は包囲された。
「へへっ、旅人が二人か。
しかも小娘付きとはな」
「金を置いてけ。
あと、その本もだ」
「逃げようなんて思うなよ? こっちは大勢いるんだからな!」
フレイヤは即座に身構えた。
小柄な身体とは裏腹に、その声音は凛として鋭い。
「このクズども、よくも堂々と追い剥ぎなんて!
あなたたちの運もここまでよ! トール!」
呼ばれたトールは顔を上げる。
冷たい眼差し。
そして――パタン、と聖典を閉じた。
「汝らの行い……聖典に反する。
よって、裁きを下す」
盗賊たちは一瞬ぽかんとした後、腹を抱えて笑い出した。
「聖典ぃ!?」
「おいデカブツ、頭でも焼けたか?」
「裁きってなんだよ! その本で殴るのか!?」
「ぎゃはははっ! イカれてやがる!」
短剣や棍棒を振り回しながら、盗賊たちはわざとガンガン音を鳴らして威嚇してくる。
本来ならここでトールが怒号と共に突撃し、全員を吹き飛ばしていてもおかしくなかった。
だが――彼は止まった。
脳裏に、以前フレイヤから言われた言葉が浮かぶ。
『文字をそのまま信じるんじゃない。
ちゃんと“意味”を理解しなさい!』
その結果。
彼は恐るべき迷宮へ足を踏み入れた。
「“逆らう者は処刑せよ”……。
文字通りなら、この盗賊たちは全員死刑だ。だが……」
彼の脳裏に浮かぶ。
自分が盗賊たちを全員吹き飛ばし、死体が転がる光景。
それを見た村人や旅人たちが震え上がり、“女神の恩恵”ではなく“悪鬼の降臨”だと叫ぶ未来。
「……いや。
それでは神の名に泥を塗ることになる」
盗賊の一人が斬りかかってくる。
トールは自然に身体を傾け、刃を紙一重で避けた。
その動きはあまりにも滑らかで、反射でやっているようにしか見えない。
「“爆発の刑”……。
もし、この刑罰を適用するなら……」
瞬間、彼の頭に浮かんだのは、フレイヤが花火へ変えた“爆発刑”だった。
自分が高らかに宣言する。
『爆発の刑を執行する!』
次の瞬間、夜空に花火がドォン! ドォン! と咲き乱れる。
盗賊たちは最初こそ呆然とするが、その後は大喜び。
「すげぇぇぇ!」と叫びながら剣を投げ捨て、祭りみたいに飛び跳ねる。
「……これ、処刑なのか?」
トールはさらに深く悩み始めた。
「では彼らは“働かざる者”なのか?
だが、今こうして武器を振るっている。
……かなり勤勉では?」
さらに数人の盗賊が突っ込んでくる。
トールは無意識に身体を捻り、軽やかに回避した。
刃は服の裾を掠めるだけ。
「それとも……“敵を愛せ”を優先するべきか?
だが別の箇所では“処刑せよ”とも……」
彼は眉間に皺を寄せ、震える指でページをめくる。
完全に哲学的思索へ突入していた。
そのせいで反応が一瞬遅れ、危うく斬られかける。
慌てて避けながら、なおもぶつぶつ呟く。
「この状況では……どの条文が最適なのだ……?」
戦闘のど真ん中で、真顔で聖典解釈を始める筋肉神官。
しかも避けるだけ避けて、全然攻撃してこない。
盗賊たちも次第に困惑してきた。
「こいつ、まだ読書してやがる!」
「おいデカブツ! 遺言でも読んでんのか!?」
「さっさとやっちまえ!」
トールは本能だけで攻撃を回避し続ける。
動きだけは異常に鋭い。
なのに殺気は皆無。
まるで戦場ではなく、教室で難問に頭を抱えている学生だった。
そんな妙な態度に、盗賊たちの凶暴性も逆に煽られていく。
包囲はさらに狭まった。
フレイヤは横で地団駄を踏む。
「バカトール! 何を悩んでるのよ!
殴りなさい! 殴れぇぇぇ!」
「……ああ、彼らは盗賊か。
盗賊への対処法は、聖典に記されていただろうか……」
トールは苛立たしげに眉を寄せる。
盗賊たちの怒鳴り声が、蠅の羽音みたいに耳障りだった。
そしてついに。
彼は低く呟く。
「……うるさい」
次の瞬間。
彼の手に魔法棒が閃光と共に現れた。
ピンク色の軌跡が走る。
――バゴォン!!
――バゴォン!!
――バゴォン!!
三連撃。
三人の盗賊がボロ雑巾みたいに吹き飛び、茂みへ突っ込んでいく。
悲鳴が林に響いた。
残った盗賊たちの顔色が一瞬で変わる。
「な、なんだこの怪力……!?」
「こいつ今まで遊んでやがったのか!?」
「撤退だ! 正面からやるな! 小娘を攫え!」
その声と同時に。
二人の盗賊が側面から飛び出した。
ボロボロの麻袋をバサッとフレイヤへ被せる。
「きゃっ!? ちょ、放しなさ――!」
袋の中から女神の怒鳴り声と蹴る音が響く。
だが盗賊たちの手際は妙に良かった。
あっという間にフレイヤを担ぎ上げ、そのまま森の奥へ逃走する。
一方その頃。
トールはまだその場に立っていた。
聖典をめくりながら、深刻そうな顔で呟く。
「……今の一撃は、“処刑”に分類されるのか?
それとも単なる“追放”……?」
彼はさらにページをめくる。
そしてある箇所で目を見開いた。
「おお! ここに書いてある!
“無辜の者を攫う悪人は、炎にて浄化せよ”――これだ!」
トールは嬉しそうに顔を上げる。
ついに正しい裁きが見つかった。
そう確信して実行に移ろうとした――その時。
周囲には、もう誰もいなかった。
トールは静かにページを見下ろす。
「……いや。
ここは“敵を愛せ”を優先するべきなのか?」




