climb a mountain
昨日、更新をサボったので2話連続で更新します。
サイトは海沿いの道を歩くと、条一郎が描いた赤レンガ倉庫を横切り、大清水先輩がノマ部長に告白した波止場を越え、傾斜のきつい坂を
登り、合宿で訪れた宿泊施設「ひまわり」の前まで辿り着いた。3日前に訪れたばかりなのになぜか感慨深い気持ちになった。そういえば
慈雨は元気かな。いけね、今日は雨宮家に行くんじゃなくて絵のテーマを探しに来たんだ。雑念を飛ばすように頭を振ると函館山の頂上に
ある展望台をサイトは睨んだ。今日は函館山を登りに来たのだ。とっぴな考えに思えるかもしれないがサイトは今度の大会で風景画を描くことを
決めた。しかし、写真を見て絵を描くだけでは木々の美しさや風の感度、光の暖かさなど細かなニュアンスを伝えることが出来ない。
小説家の仕事の半分は取材、といったように絵を描くにも作者の実話に基づいた体験が必要だ。自然を感じるためには山登りが最適だ。昨日寝る前
にそんなことをサイトは考えていた。函館山の登山口の前に立つとサイトは意を決したように息を吸い込んだ。この暑さのなか登りきれる
だろうか。一抹の不安とともにサイトの登山はスタートした。舗装された道の上を歩きながら頂上を目指して歩みを進めるとセミの合唱が
サイトを出迎えた。彼らにとって地上での1週間は土の中で過ごした6年間と比べ、人生の絶頂というべき大切な時間だろう。海老のように
大きい瞳を見慣れないサイトに向けると、羽をこすりあげ、他のオスよりもっと大きい音を出そうと一匹のセミは腹部を膨らませた。
山の中にはたくさんの木が立っている。春に咲く花をつける桜の木、夏に生い茂るアカマツ、冬にちいさな花を咲かすライラックの木など
一見同じに思える木にも色々な種類がある。木々の間に流れる木漏れ日をみてサイトは暖かい笑みを浮かべた。
しばらく歩くとサイトの周りを薄い大気が包み込んだ。呼吸が少しだけ苦しくなる。もしかして雲に入ったのかな。いやいや、そんなわけないか。
歩を進めると次第に道は狭くなり、強い風が侵入者であるサイトを拒むように体を揺らした。崖の下に目を落すと函館の町並みがジオラマの
ようにちいさく見える。死の誘惑に負けないで。一匹の黒アゲハチョウがサイトの鼻先をすり抜けて飛ぶ。あなたが行くところはそっちじゃないわ。
こっち、こっちと言うように黒アゲハは道の先の大気の中へ消えていった。そうだ、こんなところで立ち止まっていられない。崖辺の花が
美しいと人が思うのはそこで歩みを止めてしまうから、というような文を読んだことがある。もっと上にはもっと美しい風景があると信じたい。
その思いでサイトは頂上に向け足を進めた。
スタートして2時間弱、サイトは函館山の頂上の展望台へ辿り着いた。「あんれま!?あんた、ここまで登ってやってきたのかい!?」
地元の警備員が目を白黒させる。若い登山者を見るのは珍しいそうだ。「自然を体感するため」に山登りをしたなんて説明したらこの人は
どんな顔をするだろう。展望台は観光客用の施設になっており自販機で買ったジュースを飲みながらベンチに腰掛けると一気に疲労感が
押し寄せてきた。さすがに歩いて下山は無理だ。ロープウェイを使おう。地上についたら慈雨に「函館に来ました」ってメールしようかな。
山を登り終えたことでサイトには自信が芽生えた。「うわー、すごーい!」観光客のカップルの声につられ、サイトは窓から函館の町を
見下ろした。まさに100万ドルの景色。晴天の太陽が反り返った湾岸の海をキラキラと照らし、乾燥した夏の空気が函館の町並みをニスで
塗ったように明るくはっきりと瞳のレンズに映し出していた。この景色を毎日見れるのは天使と神様くらいだろう。サイトは持ってきた
デジカメでそこから見える景色を撮影した。そして登山の途中で景色を撮影しなかったことを少し後悔した。でも大丈夫。見てきた景色は
すべて頭のHDに保存してある。案ずるより産むが易し、いや、論ずるより行うが易し、といったところか。サイトはこの登山により
写真の中の自然ではなく実際のリアルな自然を体験できた。これを今回の大会で生かそう。興奮気味にロープウェイに乗り込むとゴンドラは
ものの15分でサイトの身を地上へ送り返した。はは。苦笑いを浮かべると絵のモデルを探すため再び函館の街を探索しようと思ったが
さすがに疲れていたためこの日は大人しく家に帰り、次の日の昼間まで爆睡し、襲い掛かる激しい筋肉痛にサイトは身をゆがめた。
今回の話は作者が夏に函館に「取材」に行って感じたことを書いてみました(詳しくはブログで!なんつってね)。文章を書くにあたっていい勉強になりました。これを機に才斗の才能が覚醒するのか?作者も楽しみです^^