3. 鍵をてにいれた!
明くる朝、ぎっちりと肩に食い込むトートバッグによろめきながらの出勤。
バッグの中には莉子座右の書・骨学実習の手引きはもちろん、骨代謝学、分子遺伝学の分厚い医学書が入ってます。昨晩のうちに大理石病の項目にポストイット貼っといた。
それらの骨本を大牙さんに目撃されぬよう、莉子専用に頂いてるリビングのチェスト、タオルや着替えの下に潜り込ませました。
隠ぺい工作を終えてホッとしながらお弁当を作ってるうちに、先輩方が起床。勇者くんはまだ半分夢の中らしく、大牙さんの小脇にブランと抱えられてます。子供は小動物扱いなのですね。カイロで始まった莉子より待遇が上なのはなぜ? せ、性別? 性別なんですね?
「おいガキ、復活の呪文見せてみろ。……びくびくすんな、取りゃしねーよそんなもん」
勇者くんが怯えてるのは、寝起きの悪い大牙さんの極悪不機嫌顔ではないでしょうか。本日はオリーブ色のサングラス、どう見ても幼い子供から金品をまきあげてるチンピラさん。
『糖と酸と五種の塩、
それらから成る神殿の、
らせんを描く階段の、
10050100VⅡで、
赤子の骨が石と化す。
勇者エステル旅に発て。
カエサル曰く、
ZHVOHBの聖堂で、
VDSSKLUHを捧げ持て。
行方に待つ鍵10001AGHE5050。
勇者は伝令呼び結び、
写した鍵を持ち帰る。
銀の剣は背を貫き、
死神の腕より赤子を救わん』
「おまえさ、なんつった? こいつが勇者エステルって名乗った時」
チンピラさんに問われましたが。
「覚えてないのか。そうだったな、記憶領域の著しい偏りには痛い目みたばっかりだったな」
痛い目というか遠い目なさらないで下さい。
「ロマン輝く名前だって言ったろ。で、暗号少年。シーザー暗号を使ったカエサルはどういう人物だ?」
「ろ……ローマ帝国のえらい人」
「そうだ。ところでシーザー暗号ってのはシフト番号3の換字式暗号ってヤツなんだろ。古典的で単純なアルゴリズムだ」
た、大牙さんが暗号でしゃべってるー!
「だから復活の呪文のワケ分かんねー部分だって、実は難しくもない換字式暗号なんじゃないのか? で、『ロマン輝く名前』と『ローマ帝国のえらい人』に共通するヒントは何だ?」
「ろ……ローマ?」
「そうだ。ところでRPGゲームのシリーズもんは、シリーズの数字をどう書く? たとえば『らせんを描く階段の、10050100VIIで』、ここの『VII』はシリーズもんで言えば何番目だ」
恐喝されてるみたいに身を縮めてた勇者くん、そこでぴょんと飛び上がった。
「7!」
あっ。無意味なアルファベットの羅列ばかりと思ってましたが、『VII』はローマ数字で表せば7です。
「ところどころに出てくる数字が1と0と5ばかりっつうのは不自然だろ。そこでこいつらは換字式の鍵をローマ数字にした暗号じゃないかと考えるわけだ」
「えと、えっと、1がIで、5がVで、0は?」
「ローマ数字では0は単体じゃ使わない。時計の文字盤を見てみろ、10はXの一文字だろ。俺たちが普段目にすんのは時計盤くらいだからな、ローマ数字ってのはIとVとXばっかで成り立ってるかと思ってたが」
ごそごそ、とハーフパンツのポケットから紙片を取り出し。
「50、100、500、1000っつうでかい数字には固有のアルファベットが振られてるらしいぜ。50はL、100はC、500はD、1000はMだ」
「じゃあさ、じゃあさ、こうなるの? 『らせんを描く階段の、10050100VIIで』は『らせんを描く階段の、CLC7で』……」
期待に弾んで始まった勇者くんの声でしたが、尻すぼみに弱まった。
「い……意味通じないよう」
「俺だって知るか。ローマ数字が換字式暗号のアルゴリズムになるって可能性を提示しただけだろ」
「希望をちらつかせておいて逃げるね大牙……でもこの解読法が正解かどうかは、骨先生莉子ちゃんが答えて下さるんじゃない?」
聞き慣れない暗号話にボーッとしてた意識は名前を呼ばれて、慌てて元の位置に戻った。
「はいっ?」
「だって今の解読部分、文脈からして大理石病に関係してるもん」
悪気はない、ご存知ない、頼りにして下さってるのは承知なんですが。莉子は現在、断食ならぬ断骨中なのです、昨日はうっかり“ほねせんせ”呪文にかかってしまっただけなんです、その後大牙さんと重たーい雰囲気だったんです。
ですから申し訳ありませんが、いかに“ほねせんせ”を唱えられようと、大牙さんの面前で骨の話題は禁物なのです!
「す、すみませんが、莉子にはさっぱり想像もつきません。骨に詳しいなんて誤解です、昨日の話はたまたま耳小骨に挟んだだけで、それ以上は指節骨の先ほども知らな……」
「“ほねはかせ”! はいエステルくんもご一緒にっ」
上級呪文だー!
「わー“ほねはかせ”! “ほねはかせ”!」
うう、“負けるな莉子がんばれ莉子”……。
「それ“ほねはかせ”! “ほねはかせ”!」
「さあさあお立会い、ご用とお急ぎでない方はゆっくりと聞いておいで見ておいで。手前ここに取り出したる『骨学実習の手引き』は、これ莉子の聖書。骨と言ったってそこにもいる・ここにもいると言う骨とあなどるなかれ」
「がまの油売りかーッ!」
「よっ“ほねはかせ”!」
どなたかの突っ込むような雄叫びがしたような気がしましたが、呪文にかき消されて聞こえず。
「さてお立会い、ここに取り出したる『分子遺伝学』、医学界の家宝が暇にあかして記したと言う代物である。実によく分かる。エイッ抜けば玉散る氷の刃」
「おまえは記憶領域の使い方を間違ってるッ!」
「ハァ“ほねはかせ”!」
古くなった骨を溶かす破骨細胞、彼らが働く時に必要となる塩酸がある。ところが遺伝子変異によってこの塩酸が作れなくなってしまうと、悪性骨大理石病を発症する。
「さーてお立会い、これ程よく分かる天下の名著でも、悪性骨大理石病の完治は難しいと言う。お立会いの中には『医学が発達しているのに、治せるものをただなまくらに言ってるだけだろう』と言うお方もあるかもしれないが」
「言うかボケ」
「ソイヤー“ほねはかせ”!」
「手前、しがない学生はしているが、金看板は天下御免の骨マニア、そんなインチキはやり申さぬ。されど生後三ヶ月までの骨髄移植が有効だあ」
「あー質問。真性骨愛好病に有効な薬は」
「ソイヤッサー“ほねはかせ”!」
大牙さんが手術ではと指摘なさった『銀の剣は背を貫き、死神の腕より赤子を救わん』。これは骨髄移植が骨盤と脊椎を繋ぐ腰椎、そこへ針を刺して行われ、それによって命が救われることを示したものでしょう。
「さてお立会い、大理石骨病の発因たる遺伝子変異、これがCLC7遺伝子だと言うじゃないか。『CLC7』これ何と、ローマ数字を鍵に解読した、くだんの一行とぴたり合致。さあどうだ!」
「ついていきます“ほねはかせ”!」
「男は度胸、女は愛嬌、山で鳴くのはホーホケキョ。このように骨の効能が分かったら、遠慮は無用だ。清水の舞台からまっ逆さまに飛び降りたと思って、さあめくるめく骨ワールドへいざ」
「誰が行くかーッ!」
口上を終えてみれば。
大牙さんが。
ドン引き。
テーブルにバナナの皮で線引いて、病原体みたいに隔離されてしまいました。清水の舞台からまっ逆さまに飛び降りたのは莉子だったのでしょうか……。
「要するにローマ数字をアルファベットに変換するってのは正解だな。『行方に待つ鍵10001AGHE5050』も同じ方法で書き換えてみろ」
「うん! ありがとうお姉ちゃん、あっ違うや、骨博士!」
無邪気な善意で傷に塩を塗り込む勇者くん。
「1000はM、1はI、50はLっと……MIAGHELL?」
「意味が通らねーな。さらにシーザー暗号で直すとか……JFXDEBIIか、ダメだな。また別のアルゴリズムがあるのか」
また問題に突き当たっているようですが、莉子はバナナバリアで動けません……。
「んー、僭越ながら。僕は分かっちゃった気がすんの」
「なにっ、でかした律ちゃん!」
あー大牙さんってばー莉子を舞台から突き落としといて、リッキーさんは話もしないうちから褒めてますよー差別だー差別だー。
「エステルって、普通は女性の名前でしょ。なのにわざわざ勇者の名前にしてあるのが引っかかってたの。そこで手前ここに取り出したる莉子博士の『分子遺伝学』」
ご老公の印籠みたく、じゃーんと効果音つきで医学書登場。
「タマ袋事件といい律ちゃん、このボケをかばってんのか……?」
「引いてみたらエステル結合っていうのがあんの。例としてリボヌクレオチドがホスホジエステル結合で繋がって核酸になると」
日本語でしゃべって下さい、と“おねだり”。
「簡単に言うと、とある物質がエステル結合して出来るのがDNAとRNA。RNAっていうのは遺伝子情報をDNAからコピーするモノなの。役割によって伝令RNAとか運搬RNAとかに分けられるんだけど、さてお立会い」
「それとも俺の理解を超えたトコで意気投合してやがるのか……?」
「うらやましいでしょー、ふふふ。さてお立会い、『勇者は伝令呼び結び、写した鍵を持ち帰る』。『勇者』がエステル結合とすると、この文章ってRNAの働きに見えてこない? 伝令RNAを結んで、コピーした遺伝情報を運搬RNAが持ち帰る」
言われてみれば、そんな気も。
偽名の方の勇者エステルくんにはチンプンカンプンらしく、大量のクエスチョンマークを放出してます。
「ぼ……ボク全っ然分かんない。暗号と関係あるの?」
「RNAはね、DNAから遺伝情報をコピーする時、換字式暗号を使うの」
「ええーっ!」
遺伝情報を抱え込んでるDNAは、ヌクレオチドという塩基がエステル結合で繋がったもの。ヌクレオチドには五種類あって、アデニン、シトシン、グアニン、チミン、ウラシル。それぞれA、C、G、T、Uと略される。神殿を構成するという『五種の塩』はこれらを指してたらしい。
「この遺伝情報を伝令RNAがコピーしてDNAに受け渡す、つまり『写した鍵を持ち帰る』時、AはTに、CはGに、GはCに、TはUに変えちゃうの」
つまり、と言いながら大牙さんがメモにまとめた。ローマ数字、そして遺伝情報転写を暗号のヒントにすれば、1000→M、1→I、50→L、A→T、G→C。これに従って『行方に待つ鍵10001AGHE5050』を解読すると。
「MITCHELL……ミッチェル……水晶ドクロのミッチー!」
来たかラスボス、と大牙さんがうめいた。